scene11 <稽古場・当日4>
—……凡そ世界が愚劣さに硬ばった時には、それを解毒すべく「逆立ちした世界」のトポスが民衆的想像力の中からたち現れてきたのである……——
(「アデュナタの狂熱」高山宏)
scene11 <稽古場・当日4>
「自殺……そうか、自殺なのか」反筆はうめくように言った。「あいつは自分で……死んだのか」
「恐らく。そして、だからこそ宮園さんは、こんなことをしなければならなかった。自分の中では何よりも強いもの、壁、崇拝すべきものである根居部さんが、いくら愛着があるとはいえ、『古びた小劇場が取り壊される』なんて理由で自殺をする、そんなことを認めるわけにはいかず、世に知らしめるわけにはいかなかった。そして、偽装をすることにしたんだ。あれは全て、自殺を他殺に見せかけるための偽装なんだ」
「わからへん、わからへんうちにはわからへん」窓輪さんは首を振っていた。「そんな理由で、なんで、根居部ちゃんの、く、首を切るなんてことを……」
「『憂鬱の国のアリス』の冒頭で、根居部さん扮するチャールズは、何をしようとしていましたか?」
「……まぁ首吊り自殺だな」堂戸さんが答えた。
「そう、首吊りです。根居部さんは恐らく、首吊り自殺をしたのです。そして、首を吊った場合に、その縄の跡は、専門家が見ればすぐそれとわかるような付き方になるそうです。少なくとも、ミステリーの世界では、そういうことになっています。だから、宮園さんは、首を切らなくてはならなかったのです。第一の疑問『頭部を切り取った』目的の第一の答えは、『首吊り自殺をした、ということを知られないため』です。
死体から首を切り取る、という行為は、何を意味するのでしょう。
思い浮かぶのが、被害者の身元を隠蔽する、ということです。しかし、今の科学技術から考えれば、首だけ持ち去ったところで、他にも照合するべきものはたくさんあります。手首足首も切って指紋を持ち去る努力くらいしなければ、身元を隠蔽しようとしたのだろう、と思わせることはできないでしょう。
次に、被害者の身元がわかってもいい、しかし、頭部に犯人を示すような何らかの痕跡が残ってしまったために、持ち去らなければならなかった、ということもあり得ます。どんな方法でもいいから、その痕跡を取り除きたい。一番早いのが、頭部を持ち去ることです。
また、残された遺体には死因と目される傷などがない、ということは持ち去られた頭部に死因が刻まれているのだろう、と思い込ませることができます。
それから、何の意味もない、あるいはシリアルキラーにつきものの何かの痕跡、執着している行動、そういったものではないか、と思い込ませることができるかも知れません。
『頭部を切り取った』目的、第二の答えは、『頭部を持ち去ることで、複数の偽の可能性をばらまき、あたかも殺人が行われたのではないか、と思い込ませること』です。第二の答えは、第一の答えをより強固にします。
さらに、第二の疑問『逆さに吊した』目的もやはり、第一の疑問の第一の答えを強固にするために働いています。情報が氾濫し、猟奇的な事件も現実に起こる現代、首の切られた遺体が逆さまに吊されていたら、誰もがその猟奇性に目を奪われるでしょう。これは快楽殺人者か、偏執的殺人者か、とにかく何らかの邪悪な意思で持って自ら殺害し、遺体を損傷したに違いない、と思い込んでも不思議ではないです。
同時に、『いやそうではない、こんなことをするのに狂人の論理だけが働くはずがない。恐らく、何らかの合理的な目的があったに違いない』と考え、その目的を探ろうとする人物が出てくるでしょう。それは、どちらかといえば世の中を斜に見た、例えば本格ミステリーファンが適任なのかもしれません。
そして、ナンセンスを好み、ミステリーに耽溺し、劇団員にも勧めている人物が身近に存在していたことで、犯人は、劇場の椅子を逆さまにする、という行為に及びます。こうすることで、その人物は、凡そあり得ないことだと思いながらも、取り憑いた妄想を頭から払拭することができなくなるでしょう。
すなわち、第二の疑問『逆さに吊した』目的は、椅子を逆さまにしたことも含めて、『劇団魔法九主宰・断筆亭反筆の思考を誘導すること』に他ならない」
「……俺、か」
反筆は何故か自らが断罪されているかのように憔悴していた。虚ろな視線を僕に向け、宮園さんに向け、震える手で新しいタバコを取り出し、取り落とし、拾い上げ、口にくわえて天井を見上げた。
「あの状況を見て、僕は『チャイナ・オレンジの秘密』というミステリーを思い浮かべた。反筆も、まさかとは思いながら、『チャイナ・オレンジの秘密』になぞらえているのではないか、と感じたでしょう。『チャイナ・オレンジの秘密』では、動かせるあらゆるものがあべこべにされた部屋の中で他殺体が見つかる、という事件が起こります。そのことを知っていれば、椅子が逆さまになり、吊られているはずの照明が舞台に置かれて天井を照らしている逆さまな中に、逆さまに吊られた遺体が存在するあの状況を見て、『その遺体は他殺体だ』と思わないはずがない。
そして、主宰の反筆にそう思わせることができれば、他の劇団員もそのことは疑わないだろう。もし警察の捜査が進めば、誰かが、反筆の妄想を警察に話すかもしれない。その説自体は一蹴されるとしても、遺体が他殺体だという印象はより強固になる。持ち去られた頭部が発見されない限り、根居部さんが自殺したという事実は果てしなく遠くなる」
いつの間にか、窓から差し込む光は力を失っていた。夜が来たのだ。僕は一体、どのくらい喋り続けているのだろう。こんな馬鹿馬鹿しい役割を、どうして僕は反筆と代わってしまったのだろう。いや、反筆がやっていたら、こんな展開にはならなかったはずだ。第三者の僕が、異物の僕が入り込んでしまったために、こんなことになってしまったのだ。本当に申し訳ない。根居部さんにも、宮園さんにも、劇団魔法九のみなさんに申し訳なくてたまらなかった。
「でもよあんたの考えたさっきのトリックをミャーがあんな短時間で思いついたとはとても思えねぇ」
番田さんは仮面のような表情をしていた。僕の目ではその変化が早すぎて見分けられないだけなのかも知れない。
「お手本があったら?」
「……お手本?」
「恐らく根居部さんは、こうして首を吊ったのではないかと思います。
まず、照明バトンを舞台まで下ろし、首を吊るためのロープを結びつけます。そして、照明を外します。
次に、脚立を準備して、カウンターウェイトを置く場所の下に置きます。どんどんカウンターウェイトを積んでいき、ある程度まで積んだら、脚立にロープを結びつけて、その端を持って、自分はバトンに結びつけたロープの輪に首を通します。
最後に、脚立に結んだロープを勢いよく引っ張ると、ストッパーになっていた脚立が外れ、バトンは勢いよく天井に向かって上昇し、そして、絶命する」
「あんたそりゃだなさっきあんたが話した密室トリックと半分くらい一緒じゃねぇか?」
「そう、お手本ですから」
「はぁ?」
「宮園さんは、劇場に入って根居部さんの遺体を発見する。脚立に結ばれたロープ、天井まで上がったバトン、本来積まれる以上のカウンターウェイト。それらを見れば、どうやって根居部さんが首を吊ったのかがわかったでしょう。それを応用することで、あの密室を作り上げたのです。
どうでしょう、宮園さん。何か間違っていますか?」
「大いに、間違っています」
宮園さんの言葉が、劇団の面々にさらなる衝撃を与えた。毒気のない笑みを浮かべた宮園さんは、しっかりと顔を上げて僕を見つめた。僕は視線を反らさなかった。ようやく、僕の役割は終わる。
「まず、一つ目の間違いです」宮園さんはスカートのポケットから何かを取り出した。「私は、劇場の合鍵を持っています」
「何だって?」反筆の声が間抜けに響いた。
「すみません、主宰。以前、根居部さんがこっそり教えてくれたことがあるんです。『僕は合鍵を持っていて、ときどきこっそり夜中にアリスと会ってるんだ』って。だから私も、それに習って、合鍵を作りました」
「そんなとこまで真似んでもええねん」窓輪さんは正しく怒っていた。
「合鍵を持っていますので、先ほどのあなたの推理の半分は間違っていることになります。あの夜、私はスタッフの子達を駅まで送る前に、劇場に入っていく根居部さんを見かけました。二人きりになるチャンスだ、と思って、みんなを駅まで送ったあと、こっそり劇場に忍び込んだのです。劇場には鍵がかかっていました。当然ですよね、これから自殺をしようという人が、それを邪魔されるようなことがあってはたまりませんから。
中に入ると、根居部さんが亡くなっているのがわかりました。飲みかけのビールが舞台の上にありました。劇場に別れを告げるために、一人で乾杯したのでしょう。
そこから先は、おおよそあなたのおっしゃった通りです。私は根居部さんが自殺したということを隠すために、首を切断することにしました。しかし、その間に、主宰達が劇場にやってくるというメールを受け取りました。ここでアリバイを確保しておけば、自分が容疑圏外に出られるかもしれない、そう思って、劇場に鍵をかけて、主宰達を待ちました。ひょっとして、主宰か窓輪さんが、私と同じように合鍵を持っていたら、この計画は諦めよう、と考えていました。でも、お二人ともお持ちではなかった。
別れたあと、劇場に戻って、首を切断しました。のこぎりを使おうと思ったのですが、あの感触に耐えられませんでした。遺体をバラバラにする、というのは、その遺体を自ら殺害した場合にしか不可能ではないか、と思いました。一つのタブーを超えているからこそ、精神のたがが外れて、あの感触に耐えられるのではないか。ですから私は、少しだけ切ってしまった根居部さんの首の、その切り口にロープを結びつけ、引っ張ることで首を切断したのです。
それから、鍵をかけずに劇場を後にしたのは、外部犯の可能性を残しておくためです。合鍵がないことになっている以上、鍵がかかっていれば、劇場関係者に疑いの目が向くのは明らかです。捜査を攪乱させるためには、鍵がかかっていてはまずいんです」
「劇場にあった鍵は?」僕は訊ねた。
「さぁ。根居部さんの合鍵かもしれません。でも、もういらないから、投げ捨てたんでしょう。そうしたらたまたま、舞台の奥の隙間に落ちてしまった。そんなことだと思いますよ」
「それではあなたは、僕が言ったようなあんな、根居部さんの遺体を弄ぶようなトリックは使わなかった、ということですね?」
「ええ、もちろん」
よかった。
妄想した甲斐があった。あんなトリックが、実現可能なわけがない。
「それから、二つ目の間違い」宮園さんは長い指を二本立てた。「根居部さんの自殺の方法です。ウェイトに脚立をストッパーとしてかませる、というのは慧眼だったと思います」
褒められた。何故か、少しだけ嬉しい。
「ですが、死に様がまるで異なっています」
「……と、言いますと?」
「根居部さんは、最初から、逆さまに吊されて亡くなっていたのですから」
すっと、辺りが暗くなった気がした。
全員が宮園さんに注目している。その目にはそれぞれ、異なる輝きが宿っている。
最初から、逆さまに吊されていた。
「私は亡くなっているところしか見ていませんから、細かい部分では異なっているかもしれません。それでも、妄想をたくましくして、説明してみましょう。
先ほどあなたがおっしゃったような準備をします。ただし違うのは、自分の両足をバトンに結んだロープに結びつけること。そして、舞台の上に、いくつかのカウンターウェイトを置いて、それらにロープを結びつけて、端を輪にしておくこと。その輪に首を通して、ストッパーになっている脚立を引っ張ると、バトンが天井まで持ち上がる。逆さ吊りになる。しかし、首を通したロープはウェイトに結びつけられているので、首が絞まる。
私が見た根居部さんは、バトンから逆さ吊りにされた状態でした。首のロープからは、ウェイトが半ばぶら下がっていました。」
異様な死に様。
逆さ吊りの首吊り死体。
まさにそれは、タロットカードの「吊された男」のようだ。
「そして、私が劇場に入ったときには、すでに椅子は逆さまにされており、舞台に置かれた照明は天井を照らしているかのようでした。しかし、それは恐らく、『チャイナ・オレンジの秘密』を示唆したのではなく、そうすることで、『自分が逆さまなのではない、この世界こそが逆さまなのだ』ということを表現したかったのではないでしょうか」
逆さまの世界。
憂鬱の国。
この世界に、正しく立っているのは、自分だけ。
そして、その逆さまの世界に人々が生きているというのなら。
正しく立っている自分は……生きていてはいけない。
他殺と思われた遺体が実は自殺だった、という逆さま。
何者かが逆さまに吊したと思われた遺体が実は最初から逆さまに吊されていた、という逆さま。
犯人が逆さまにしたと思われていた工作が実は自殺した本人によってなされていた、という逆さま。
<アリスもの>を得意とした俳優と、その信奉者が作り出した、最後のナンセンス。
「……あなたは、根居部さんの自殺を隠蔽し、他殺だと思わせることに成功した、ということになるでしょう。しかし、もし僕が妄想している通りだとしたら、あなたはまずい状況に陥ったのではないですか?」
「あなたの妄想をお聞かせ願えますか?」
「根居部さんの自殺をなかったことにしてしまったがために、あなたが待ちに待ったあることが延期になってしまう、という矛盾した状況です」
「素晴らしい妄想です」
「それはまぁどういうことかね?」堂戸さんが訊ねた。
「根居部さんに心酔する宮園さんにとって、最大の敵は何か。それは、彼が何よりも大切に思っていたあの劇場です。そして、あの劇場が三月で取り壊されることになったとき、根居部さんは絶望しましたが、宮園さんは狂喜したんでしょう。しかし、彼は劇場で自殺してしまい、宮園さんはその自殺をなかったことにしようとした。もし、ただの自殺であれば、警察が事件性なしと判断すれば、劇場の取り壊しは予定通りに行われたと思います。
では、根居部さんの死が他殺だと判断されれば、どうなるでしょう?少なくとも鑑識による徹底的な捜査が行われるまでは現場保存がされるはずです。取り壊しは延期になるでしょう。宮園さんは、劇場が取り壊されるところを自分で見たかったはずです」
「そうですね」宮園さんは微笑んだ。
「自分の崇拝する偉大なる根居部さんは自殺などしないことを世間に証明したことで、もう一つの願い、劇場が取り壊されるところを見ることができるかどうかわからなくなってしまった。だから、彼女は自分のアリバイを確保し、容疑から外れ、劇場が取り壊されるのをその目で見るまでは逃げ切るつもりなのです」
「それほど……それほどか」
反筆は、何か恐ろしいものを見るような目で宮園さんを見た。恐らく彼は、宮園さんの中に眠っている激しい感情に気づかなかった自分を恥じているだろう。根居部さんが彼女を買っていた理由、それは演技力だけではなく、自分と同じように一つのものに執着することができる、その才能故だったのかもしれない。それを見抜き、自分が作り出す舞台に引きずり込むことができなかった後悔が、反筆を震わせているのかもしれない。
「……遺書があった、と言いましたね?」
「ええ。あの人の頭部と一緒に、自宅の冷凍庫に入れてあります」
怖いことをさらりと言った。
「遺書には、何と書いてあったのでしょうか?」
僕が訊ねると、宮園さんは突然立ち上がって、右手を中空に掲げた。目に見えない花束を持っているようだった。目に見えない首を捧げているようでもあった。それが見えるような気がした。ただ立って、腕を上げただけなのに。
肉体を使った表現。
不可視を可視化する表現。
存在しないものさえも、存在させる表現。
スポットライトも音楽もない舞台で、一人の女優が、僕の妄想を積み重ねたお芝居のクライマックスを演じようとしている。
何故か、僕は、とても興奮していた。
I gave her one, they gave him two,
You gave us three or more;
They all returned from him to you,
Though they were mine before.
芯の通った冷たい声で宮園さんはその一節を歌い上げた。
「……それだけですか?」僕は訊ねた。
「ええ、これだけです」
蠱惑的に微笑んだ宮園さんは、スカートを膨らませながら座った。本当だろうか。もっと何か、大切なメッセージが書かれていたのではないだろうか。しかし彼女はそれを表に出すことはないだろう。誰にも読ませるつもりもないだろう。根居部さんの死に最初に立ち会った彼女の特権、誰にそれを剥奪することができるだろうか。
根居部さんは、その死も含めて、彼女のものになったのだ。
劇団の面々を見渡す。
窓輪さんは、顔を引きつらせて、帽子を目深に被った。何も見たくないのかも知れない。
番田さんは相変わらず無表情だった。表情だけがどこかへ素早く走り去ったのだろう。
堂戸さんは、一人納得したように満足して見えた。何かプレゼントでも出すのではないか、というご機嫌さだ。
そして反筆は、この一連の、ほとんど意味のないだろう妄想の羅列に、何らかの詩情を見出して説明しようと試みているようだった。
僕の妄想にはほとんど意味がなかった。あれは、首を切断した犯人であろう宮園さんから、告白を引き出すためにでっち上げた、まさしく作り話だからだ。そして、宮園さんの告白に意味があるのかはわからなかった。どこまでが真実なのかは、彼女の部屋の冷凍庫にあるという根居部さんの頭部を見つけるまでは、誰にもわからない。
意味がない言葉が唯一持つ価値が、詩情だというのなら、なるほど僕らの言葉には価値はあっても意味がない。
無意味な、一幕のから騒ぎ。
「それでは、最初の約束通り、この妄想はここだけのお話にしていただきたいと思います。宮園さんがこれからどうされるのか、あの劇場がどうなるのか、僕にはわかりません。これから先のことは、劇団魔法九のみなさんでお考えになることでしょう。部外者の探偵の仕事は、ここまでにして、幕引きと参りましょうか。Q.E.D.……quickly, endroll, down」