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(序)〜第一部「scene1 <劇場内・発見>」

——「それにまた」エラリー・クイーン君は、ぼんやりと考えた。「アリスという名の人物もいる」——

(“The Lamp of God” Ellery Queen)



(序)



 ともすれば、街灯やネオンの灯りは、三月のもやのかかるような雨に滲んで燃えているようだった。

 冬の終わりを告げる激しい風が吹いた後でも、雨は空気から熱を奪っていく。冷え冷えとした夜気に逆らって炎を揺らす人工の灯りは、温もりとはほど遠いまでも、それとなく人の懐に熱を置いていくだろう。それは憧憬か、あるいは郷愁か、それとも名付けがたい何かなのか。

 そういった感傷を一切宿さない灰色の瞳が、やや微睡みがちに街灯を見上げていた。

 長い睫毛、筆で引いたように太い眉、肌は白く、鼻はやや低い。西洋に由来していると思わせる豊かな金色の長髪を、複雑に編み込んで房にして、顔の両脇から垂らしていた。左耳に、アルファベットを打ち込まれた鈍い銀色のピアスをいくつかつけている。

 口から吐き出す息に、異なる色の煙が混じった。グロスを塗った厚めの唇の端に、細いタバコをくわえているせいだった。無骨な黒のトレンチコートで全身を覆っているが、細身なことが窺える。足元の編み上げブーツはかなり高いハイヒール、女性にしては上背がある。

 そんな女性のすぐ後ろに控えるのは、日本人離れした巨漢だった。

 二メートルを超えようかという長身、壁のような肩幅。頑強さを感じさせる肉体で灰色のミリタリーコートがはち切れそうになっているが、 不思議と威圧感がない。灰色の中折れ帽の下には銀色の髪が好き勝手に伸び、同じ色の髭があごを覆う。表情は窺えない。

 男は熊の手のような手袋をして、右手に傘を持っていた。小さな傘で雨から守るのは目の前の女性で、自分はその恩恵に与っていない。それに不平を漏らす素振りもなく、ただただ壁のように立ち尽くしていた。

 新宿から離れ、靖国通を曙橋駅へと至る途中。日付が変わろうかという時間帯では、いかに東京とはいえ人通りは少ない。オフィスビルとマンションとが建ち並ぶ中、取り残された背の低いテナントビルがあった。店のネオンは光ることなく、時代に置いていかれたことを恥じて息を潜めているように見えた。ビルの前の街灯だけが、光量不足のスポットライトだった。

 離れたところからそのビルと街灯を見つめていた女性は、眉根を寄せて、タバコを吐き捨てた。いつの間にか背後の巨漢が、左手を女性の前に差し出していた。ビニール製らしい携帯灰皿がその手に握られており、タバコはその中に吸い込まれる。巨漢はやや身を屈めると、豊かなバリトンで囁いた。

「投げ捨てはいけません。『灰は光に』、です」

「……つまらない」

 コートに両手を突っ込んだまま、女性は右足を軽く上げた。表情を揺らさず、ブーツの踵で巨漢の右足を踏みつける。巨漢もまた無表情に、灰皿を握った左手を引っ込める。

「申し訳ありません」

 巨漢は謝罪しながら、確かにそれほどの洒落ではなかったなと反省した。「灰は光に(ash to ray)」と「灰皿(ashtray)」を引っ掛けたのだが。

「デューセンバーグ」

「はい、ユア・ハイネス」

「……そろそろ、行ってくる。『……to begin it』、だ」

 女性の声には、猛禽類の力強さがあった。しかし、どこか装って大人びているようでもあった。

「お気をつけて。ジェフティのご加護を」

「……」

 巨漢の言葉に、女性は何かを言い返そうと振り返ったが、目を細めて巨漢を睨んだだけだった。薄く撒くように降る驟雨の中、傘を使うこともなく、アスファルトを小気味よく鳴らしてビルに近づいていった。一階のテナントはもちろん閉まっている。その脇に扉があり、どうやら地下に続いているようだった。女性は、扉の脇にある、光の入っていない店のアクリル看板に触れ、躊躇うことなく扉を開いた。

 ぽっかりと口をあけた闇に足を踏み入れた瞬間、女性の姿は掻き消えた。

 巨漢の立つ場所からは、看板に何が書かれているか見えなかった。しかし、何が書かれているのかは知っていた。扉の向こうに続く闇が、地下への階段なのも知っていたが、ひょっとすると地下世界への果てしないトンネルかも知れなかった。

 どちらにしろ巨漢にできるのは、女性が出てくるまで待つことだけだった。ゆっくりとした動作で傘を——コンビニエンスストアで買えるような透明なビニール傘を閉じ、自らは相変わらず雨に身をさらしながら、待つことだけ。

「……『There will be nonsense in it.』、ですな」

 そうつぶやいた巨漢の声は、少しだけ楽しげだった。





——……「書いてるんですよ」レイヴン氏は声を潜めた。「書いてるんです」思いも寄らない返事だった。「あの忌々しい百科事典の全ページをね」——

(“Appleby’s End” Michael Innes)



(第一部)



 見えるものはいずれも、寂しげだった。

 左右に、そして背後に並んでいるのは、何とか椅子と呼べるものばかりだった。自分が座っているものも含めて、クッション性は低く、背もたれもなく、箱馬をひっくり返して板を置いただけのものもあった。後ろにいくにつれ、階段状に高くなっているが、窮屈さは解消されない。50人も詰め込んだら隣の人とぶつかってしまうのではないだろうか。

 僕の視線の先には、少しだけ高くなった、黒で塗られた舞台がある。最前列の客席からでは、役者の動きの全ては把握できなそうだ。それほど客席と舞台が近い。今は客電が灯っているだけで、 複雑な陰翳がそこかしこに立ち上っているのが不気味だ。物陰から今にも、奇妙な衣装のピエロや黒衣の殺人鬼、けたたましく笑い声を上げるマリオネットなどに扮した役者が飛び出してくるんじゃないかと思えた。

 袖幕や舞台後方の黒幕、いくつかの照明がぶら下がるバトンは傷みが窺えた。大道具が何一つない舞台は思いのほか広く、闇の中に現れた沈鬱な洞窟のようだった。鍾乳石でも垂れ下がり、ひたひたと水滴の滴り落ちる音が聞こえてきても不思議じゃない。

 しかし、音らしい音はなかった。

 演じる者のいない舞台は、生物の気配のない荒野に似ていた。今にも砂埃を立てる乾いた風が、旅の途中で力つき朽ち果てた髑髏の眼窩に滑り込んで、ひょうひょうと泣きバンシィめいた声を立てるのではないかとさえ思えた。

 しかし、音らしい音はなかった。

 いや、かすかに音はしている。

 それは、春に近づく夜気を洗う驟雨の立てる音なのかもしれなかった。

 あるいは、衛生状態のあまりよくないこの地下を支配する、蜚蠊や鼠が領地を巡回する足音かもしれなかった。

 それとも、自分の呼吸音か。

 僕が安い上質紙のページをめくる音か。

 いずれにせよ、客も役者もいない小劇場がひどく寂しげなのは間違いなかった。

 天井がずいぶん低く、息苦しくさえあった。4メートルあるかどうか。むき出しになった配管やダクトの無秩序な軌道、コンクリートの梁に無理矢理塗りこめた黒のペンキ、小劇場というよりは、アングラ劇場という言葉がしっくりくるような空気感。テナントビルの地下にあり、以前は水商売に使われていたこのスペースを、どこかの酔狂な御仁が劇場めいたものに作り替えたらしい。かなり急角度の階段を降りて、左手に楽屋への黒いドア。右を向けば手の届く距離に舞台があり、そして客席。

 規則も法則もなく、ただ感性にだけ訴えかけて感情の淡いさざ波を期待する、愚かな驚きで満ちた部屋。

 必要最小限にまとめられた、小さな小さな異世界。

 視線を上げると、舞台の上に乗っているものが目に入る。 ノート型のPCと、著名なメーカーの真新しいインクジェット型プリンタ。残念ながら芝居の小道具ではなく、僕が持ち込んだものだった。

 液晶画面ではカオス理論を装って動き回る無機質なスクリーンセーバーが鈍い光を放っている。ひょっとすると何か意味のある模様を描いているのかもしれず、暗号が含まれているのかもしれない、と妄想を誘引する動きだった。ただディスプレイを保護する機能でしかないのだとわかっていても、人間はそこに理由を見いださずにはいられない。限りない意味を込めたはずの能の所作が、現代の人間には何の意図も見出せない古めかしいだけのものでしかないのとはあまりにも対照的だ。

 意味のあるものから意味が失われ、意味のないものに意味を見出す、その皮肉を表現する哲学用語があっただろうか。

 しばらく頭の中を検索して、僕は首を振った。視線をページに戻す。

 どこででも手に入る上質紙を二つ折りにし、三十枚程度を簡単にステイプラで綴じただけの、本と呼ぶにはあまりにも簡素すぎる本。和綴じにでもなっていれば風情があるだろうか。表紙には友人が描いてくれた簡単なイラストとタイトルが印刷されている。この本の印刷は全て、舞台の上のプリンタで行った。そんな、同人誌の仲間入りすらさせてもらえないような自家製本を、先ほどからめくっては閉じ、めくっては閉じている。

 内容は全て覚えている。何故なら僕が書いたのだから。

 それでも何度も読み返す。何故なら疑っていたから。

 これは、本当に、僕が書いたのだろうか。

 アイデアはあった。

 文体も僕のものに違いない。

 だが、自信がなかった。

 ひょっとすると、働き者の小人が夜中、自分が寝ているときに勝手に書いたんじゃないか。著名な漫画家がそんな都市伝説をよく語っているのを聞いたことがある。

 それとも、ペットが勝手にPCのキーボードを叩いて出来上がったのではないか。残念なことに、僕はペットを飼っていなかったが。

 とにかく、僕には自信がなかった。

 だから何度も読み返している。

 僕の書いたものはもちろん、傑作でも、快作でも、怪作でもない。

 個人的な自信作ですらない。

 つまり、趣味以上の何物でもない。

 そんなものにこだわっている理由が自分でもわからない。

 それでも、何か居心地が悪い。これが、僕が取り込んだ全てから醸造され、自分の中から出力されたものなのかどうか自信がない、ということがひどく気持ち悪い。

 確信がほしいわけじゃない。

 自信を取り戻したいだけなのかも知れない。これが、紛れもなく僕の内側で生まれたものなのだ、と言えるだけの自信を。

 だから何度も読み返している。

 そして、もう一度、最初からページをめくる。

 タイトルは。





×××××××××××



『タイニィ・アリスと不機嫌な密室』





——「劇団魔法九」に感謝を込めて——





——それは一つの暗合であり、暗号であった。あるいはまた、一つの暗示であり予言であったのかも知れない——

(『霧越邸殺人事件』綾辻行人)



scene 1 <劇場内・発見>



「何か、このドア昨日よりがたついてないか?」

 ドアを手前に引き開けながら、反筆はんぴつが言った。彼の後ろからドアを潜るときに、試しに触ってみた。かなり頑丈に取り付けられた、電車のドアの脇についているような金属のバーは、確かにがたついていて、形も少しいびつに思えた。だから何なんだろう。昨日の、いや日付を越えてからも飲んでいたから今日の深夜か、とにかく酒が残っているのか頭がはっきりしなかった。

 朝の光にしては足が遅く、開けたドアから忍び込むのはわずかな量だった。曇りがちだからしかたないけど、けっこう急な階段は、そうでなくても転がり落ちそうで危ない。おむすびを追いかけていたら地の底までまっしぐら、なんて羽目にならないように僕は手すりをしっかり掴んだ。

「な〜んで、鍵が開いてるんだろうな」

 反筆の言葉に、僕の後ろからついてくる番田ばんださんが答えた。

「俺が出るときに締め忘れたかもだな」

 番田さんは陸上部出身で、背も高く手足も長い。そして、何より、喋るのが早い。

「でもよそんなの酒入ってたからしょうがねぇだろ反筆さん」

「いや、お前に文句を言ってるわけじゃないんだ」

「もうすぐ歴史を終えてしまう小さな劇場、盗られて困るものもないやろ?」

 関西弁で答えたのは窓輪まどわさん。番田さんの後ろからやってくる、ロンドンの衛兵めいた帽子を被った、背の低い女性だ。

「その歴史にとどめを刺す千秋楽が今日なんだぞ。小道具の一つでも盗られてみろ、アリスに申し訳が立たないじゃないか」

「気にせん気にせん」

 けらけらと笑う窓輪さんに、反筆がため息を返した。

「それにな、飲み会がお開きになったあと、俺達がここで続きをやろうかと思ったときは、確かにしまってたんだ」

「反筆さんも酒入るとわけわかんなくなるからしょうがねぇだな誰も責めやしないぜ」

「だから、そうじゃなくてな……」

「苦労が多そうだね」

 僕が苦笑混じりに言うと、後ろから番田さんが酒臭い息を吐きかけてきた。

「役者なんてどいつもこいつも頭のネジが何本か取れてブレーキの壊れたダンプカーみたいなもんだからしょうがねぇんだけどよ、うちの主宰にゃ最初からブレーキついてねぇからどっちが厄介かわからねぇだな」

 芸事に関わる人の脳内構造は、一般人といくらか違っているらしい。ブレーキが壊れていてもいつか直すことができるけど、最初からついていなければそれは設計ミスだ。できれば友達にはなりたくない。しかし、既に友達だったらどうしたらいいものやら。

 入り口からの光が及ばない中、何とか階段を下りきった。その僕の足元を、何かが走り抜けていった気がした。

「おわっ」

 目の前のごつい肩に両手を置いて飛び上がると、忌々しそうに金髪の反筆が太い首をねじって振り返った。

「お前にしがみつかれても嬉しくもなんともないぞ」

「いや、そうじゃなくて。何か走っていったんだよ」

「あ〜出てしまったか」

 番田さんと並ぶと一層小さい窓輪さんが、両手を組んで神妙にうなずいている。

「出た、といいますと?」

「知らんのか自分?この劇場にはな、舞台を打っても打っても客が入らないあげくに借金だけがもみ上げられた可哀想な劇団の役者の生き霊が夜な夜なチケットの枚数を数えるっちゅう怪談が伝わってんねん。『一枚〜、二枚〜、三枚〜……あと十枚売らなきゃ〜!!』ってな」

「……」

「しかも生き霊やから、今もどこかで借金をもみ上げてんねん」

「……」

「ま、嘘やけどな」

「はぁ」

 怪談は苦手だ。関西風ボケは、もっと苦手だ。どこに突っ込んだらいいかがわからない……「借金がもみ上げられた」って、ひょっとして突っ込みどころだったんだろうか。

「まぁ気にするな」

 窓輪さんの後ろから現れた、白髪まじりのダンディな堂戸どうとさんが、ちょっと甲高いが苦味のある声で言った。

「マド姉さんの冗談はわかりづらいから」

「そうですか」

「堂戸ちゃん、私より年上なんやから、姉さんって呼ぶのやめてや」

「まぁ、貫禄がね」

「誰が完熟マンゴーやねん!」

 堂戸さんは窓輪さんの裏拳突っ込みを、達人めいた動きで躱した。明らかに本気の舌打ちの音がしたけど、堂戸さんは気にせず渋く微笑んでいた。。

「まぁ多分、君の足に触れたのは鼠だと思うね」

「鼠ですか」

「まぁ場所柄なのか、建物のせいなのか、鼠や蜚蠊が多くてね。それでも、まぁ楽屋には出るがこっちには出てこない、奥ゆかしい連中だったんだが」

 堂戸さんは首を傾げて、パーカーのフードの紐をいじっている。鼠はともかく、奥ゆかしい蜚蠊というのには出会ったことがないな。

「反筆さん、千秋楽だからって演者だけガン首そろえてスタッフが来てねぇってのはどうなんだろうな。それこそアリスに申し訳ないんじゃねえかだな」

「二日酔いでも朝はバカに早いお前が鍵持ってったから、それに合わせて集合時間急に早めたんじゃないか。スタッフは悪くないぞ、この若年寄」

 番田さんに言い返し、反筆は舞台に近づこうとして足を止めた。

「……どうしたね、主宰」

 堂戸さんが渋い声で訊ねる。反筆の筋肉質な背中が異様に緊張してるように見えた。

「誰か、客電つけてくれ」

「あ、わわ、私が」

 一番最後から入ってきた宮園みやぞのさんが答えて、落ち着かないぱたぱたとした足音を立てた。声が震えて聴こえたのは、ここが劇場だからだろうか。

 辺りはかすかな朝の光を受けても、まだ暗いままだった。

「……?」

 何か違和感を感じて、辺りを見渡した。小劇場を経験したのが昨日が初めてで、しかももうすぐ閉鎖になるここしか知らないのだから、記憶の中に比べるものがない。それでも感覚に引っかかるものがあった。

 その一つが、ぼんやりした暗がりに見つかった。

 客席を見ていた僕は、首を傾げた。異様とまでは言えないが、奇妙な情景だった。客席には当然、椅子が並んでいるのだけれど、元々この劇場の椅子は様々な大きさをしていた。パイプ椅子、背もたれのないベンチ椅子、箱馬をひっくり返しただけのような椅子

。客席は後方にいくに従って階段状に上っていき、一番後ろには音響や照明を操作する機材が置かれている。

 その客席の椅子の中で、作り付けでない、動かせる椅子が、全て天地を逆さまにしておかれていた。パイプ椅子は奇妙な角度で逆立ちし、ベンチ椅子は脚の裏を見せ、箱馬は空っぽの体内をさらけ出していた。不機嫌な巨人が気の向くまま、手当たり次第ひっくり返したかのようだった。

 逆さま……そんな小劇場を見た記憶はもちろんなかったけれど、別の記憶が反応した。映像ではなく活字のそれは、一笑に付されて当然の馬鹿げた符合で、自分でもにわかに信じられない暗合だった。

 しかし、もしも現実にそんなことが起こったというのなら。

 それは、間違いなく不吉の前兆だった。

 突然、客席の電灯が灯った。

 決して明るいとはいえない光量でも、今までの闇を瞬間的に吹き飛ばすだけの眩さがあった。刺すような刺激に思わず目を細めた。僕たちが入ってきたせいで立ちこめたほこりが、きらきらと幻想的に輝いていた。

「———!!!」

 甲高い、言葉にならない絶叫が耳に刺さった。

 振り返ると、窓輪さんが、自慢の帽子を取り落として、床に尻餅をついていた。たれ目の猫のような顔がゆがんでいる。その視線を追うことで、間違いなく不吉な何かに行き当たるのがわかった。わかっているのに、人間はなぜか、その視線を追ってしまうのだ。

 それでも意気地のない僕は、咄嗟にでも素早くでもなく、恐る恐る、窓輪さんの視線の先にある透明な矢印を辿っていった。

 堂戸さんは、あごに手を当てたまま固まっていた。怖くてその表情を見ることができない。

 番田さんが、一塁からリードをするランナーのような格好をしていた。怖くてその表情を見ることができない。

 呆然とした反筆は、ラグビー部出身のごつい体を震わせているようだった。背中を向けているから表情を見ることができない。

 舞台の上には、倒れたビールの缶が一つと、黒い塊がいくつか並んでいた。よく見るとそれが、舞台の上に吊り下げられている照明だと気づいた。本来、天井近くから舞台を照らしているはずの照明が、今は舞台に晒し首のように並べられ、天井を向いていた。もちろん光は発していないけれど、もしかすると逆さまに天井を照らしたいのかもしれなかった。

 逆さま。

 見えざる光に照らされているものが何なのか、確かめないわけにはいかなかった。

 まず、だらりと垂れ下がった腕が見えた。右の手首に数珠をはめている。裾のめくれ上がったジャケットに見覚えがあった。濃い藍色のシャツ、濃い色のジーンズ、オニツカタイガーのスニーカー。両足首には細めだが頑丈そうなロープが巻きつき、照明や美術を吊り下げる鉄の棒からぶら下がっていた。

 一人の男が、逆さまに吊り下げられていた。

 逆さま。

 一瞬、タロットカードの「吊された男」が脳裏に浮かんだ。あの図柄は確か、片足を縛られて吊るされているので、脚が逆「4」の字を描いた形をしているはずだが、目の前の男は両脚とも縛られていて、それほど奇妙ではない。見方によっては、まっすぐに落下しているようにも思えた。

 ここが劇場だからといって、何かアクロバティックな演技の練習をしているわけじゃない。何かの事故で、鉄の棒に巻き付けたロープが足に絡まってとれなくなってしまったわけでもなさそうだ。

 じゃあ、あの男はあんなところで何をしているのだろう。

 そうして必死で想像することで、直視したくないものから目をそらしているのが自覚できた。

 しかし、良かろうと悪かろうと、力あるものは凡人の視線を引きつけずにはおけないのだ、とすぐに気づかされた。

 僕の視線は意思に背いて、男の足の辺りからゆっくりと降りてきてしまった。

 筋トレをしているわけではない。まして、役者やスタッフをおどかそうといたずらを仕込んだわけでもない。

 そんなはずはないのだ。

 何故なら、その男の頭があるべき場所には、何もなかったからだ。

 繊維質な何かが覗く醜い切り口は、赤とも黒とも言えないおぞましい色に染まっていた。もし今、機能的な美しさで全てを切断するギロチンの刃が自分の首に落ちてきたら、と僕の頭が勝手に想像する。痛いのか、痛いのだろう。どんな音がするのだろう。野菜を切るような音か、豚肉を断つような音か、重く鈍い打撃音だけなのか。その瞬間に、声は出るのだろうか。自分の頭が落ちる音が聞こえるのだろうか。それすら気づかず、余韻すらなく暗黒が全てを閉ざすのだろうか。

 自分のイマジネーションのおぞましさに叫び声を上げそうになった。

「……根居部ねいべ……お前……」

 反筆の口から絞り出された名前。

 確かにそうだ。昨晩出会ったばかりの、知り合いとさえ言えない顔見知りの役者。吊された男は、この劇団の顔である根居部さんと同じ格好をしている。

 そして文字通り、劇団は顔を失くした、とでも言いたいのか。

 どこかで大きな音がして、誰かが倒れた。多分、おっちょこちょいで、僕と同じように気の小さそうな宮園さんだろう。どうして僕は倒れずにいられるのか不思議だった。客席の椅子が逆さまにされていたときに浮かんだ不吉な予感が、何らかの免疫を与えているからかも知れなかった。

 僕はわかっていた。不吉な予感が告げていた。この劇場には何かあるだろう、そして何かあるのであれば、それは死体なのだろう。

 いや、死体でなければおかしいのだ、と。

 こうして、アリスに別れを告げる最後の舞台は、その幕を開くことなく終わりを迎えたのだった。


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