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八月八日:ジジイとバイバイ

 今日は帰る日だ。我が家は遠いから夕方にはここを出ないといけない。いつもより早く起きて、雑貨屋のおばちゃんに借りた自転車に乗る。

 軋んだ音をあげる自転車でも、爽快に風を切る。太陽の光は相変わらずくそ暑いけど、風は気持ちいい。だが、だんだんペダルが重くなってきた。上り坂だ。

 緩やかな傾斜とはいえ、この暑さの中、力の限り自転車をこぐのはなかなかの重労働だ。体中から溢れ出る汗と口からこぼれる吐息。犬のように舌を出しながら上り坂を登り切ると、雑貨屋が見えてきた。


「おばちゃーん」


 ガラス戸を開け、おばちゃんを呼ぶ。おばちゃんはカキ氷片手に店の奥にある部屋から顔を出した。

「ちい君、ちょうどいいところに来たわね。カキ氷食べる?」

 待ってました! 僕は首をぶんぶん縦に振って、遠慮なく部屋に上がらせてもらった。



 イグサの香りがなんとも心地良い。薄暗い和室の軒先で、涼しげな風鈴の音が響く。

 おばちゃんはイチゴシロップがたっぷりかかったカキ氷を持って来てくれた。喉が渇いていたから、すごい勢いでがっついてしまった。眉間がキーンと痛くなる。


「おばちゃん、僕、今日で帰るんだ」

「あら、そうなの。寂しいわねえ」

 本当に残念そうに言ってくれるから、なんだか照れくさくもあり、嬉しくもあり。


「おばちゃんはさ、約束を破った時ってどうする? 破ったことに気付いてなくて、埋め合わせする機会もなくて、謝ればいいやって問題でもない時」

 なんとなく、僕はおばちゃんに昨日の出来事を話してしまった。ジジイを知っている人に相談したかったんだ。

 おばちゃんはもう溶けてただの水になってしまったカキ氷をスプーンで混ぜながら、少しあ考えた後、いたずらっ子みたいな笑みを浮かべた。


「私だったらねえ……」






 日陰に隠れていた白い猫がのそりと起き上がり、僕に体をすり寄せる。野良猫にしてはずいぶん人懐っこい。

 僕は荷物を抱え、ジジイと向き合っていた。

 もうすぐ日が暮れる。それでも太陽は高い位置から熱線を注ぐ。陽が落ちる前の悪あがきみたいだ。

「じゃあ、帰るから。一週間、ありがとな」

 ジジイはモゴモゴと口を動かし、僕の背中の向こうに広がる田んぼを見つめている。

 人の話聞いてんのかよ?

「また来るから」

「またっていつだ」

 怒っているような口調。ジジイ、実は寂しがってる?

「わかんねえけど、また来るって」

「わかんねえなら、今決めろ」

 どういう理屈だよ。僕は苦笑するしかない。


「早ぐ帰れ。電車に乗り遅れるぞ」

 僕を追い出すようにシッシッと邪険に手を振ってくる。けれど、ジジイの目がほんの少し潤んでいることに僕は気付いてしまった。

「ほんとに、また来るから」

「約束か」

「約束するよ」

「どうせ忘れるだろ」

「今度は忘れないよ」

「信じられねえ」

 早口の掛け合い。

 だんだん寂しさが募る。

 ヒグラシが鳴いている。たった一週間の命の火を燃やす彼らの鳴き声。僕がここに来た日に生まれた蝉は、僕が帰る日に死んでいくんだ。


「じゃあ、行くよ。またな、ジジイ」

「早く行け」


 別れの時まで強がるジジイに手を振り、僕は大荷物を抱え直して歩き始める。後ろを振り返らずに歩き、T字路に差し掛かってやっと振り返った。豆粒みたいに小さく、ジジイの姿が見えた。どんな表情をしているかなんてわからない。でも身動きひとつ取らず、ジジイはこっちを見ている。

 たった一週間だ。あっという間に過ぎてしまった。だけど、僕はジジイと初めて面と向かって会話した気がする。ジジイの心の破片を僕は垣間見たんだ。


 生きれば生きるほどに、置いていかれる。周りの人間はどんどん死んでいき、ただ独りになる。それは、どんな気持ちなのだろう。寂しい? 悲しい? 苦しい?

 でも、忘れてほしくなんかない。置いていかれるだけじゃない。人生は一期一会だって言うじゃないか。誰かと出会って、別れて。その度に何かが心に残って。

 終わりはあっても始まりがある。別れがあっても出会いがあるんだ。それは何歳になろうが変わらないはずだ。

 ずっと一緒にいた人が死んで寂しいってのがあるのだとしても、それでも。

 ジジイのことを心配したり、考えたりしたりする人間がいることを忘れてほしくなんかない。

 何百歳になろうが、独りじゃないことを忘れんな。


 そうだ。約束を忘れても、取り返す術はある。見てろよ、ジジイ。腰を抜かさせてやる。







 遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。カエルが合唱を歌う。虫がジイジイと鳴きわめく。

 おばちゃんのところで買った百円ライターをつけると、そこだけほんのりと明るくなった。こうも真っ暗だと、唯一の明かりが逆に怖い。めらっと燃え上がったライターの光の先に、知らない人の顔とかが浮かび上がりそうでぞっとする。時刻はもうすっかり夜。

 プラネタリウムみたいな夜空。明日もきっと晴れるだろう。


「よし。見てろよ、ジジイ」


 じりじりと火種がくすぶる。導火線はみるみる短くなり、真っ黒な夜空に向かって低い音が轟く。瞬間、ソーダ水が弾けるような音。白い光が爆ぜる。息をつく間もなく次の光が空に向かって飛んでゆく。白い光がススキの穂みたいな形を作る。


「じーーーーじーーーいーーーー!」


 ジジイの家の前に広がるあぜ道で、僕はこれでもかと声を張り上げる。隣近所にも聞こえてるかもな。どうせ隣近所は熊野だし。迷惑かけても知ったこっちゃない。

 隣近所に聞こえても、耳の遠いジジイに僕の声がちゃんと届くだろうか。


 ヒュンヒュンと風を切っては空に模様をつけていく光。

 それを背にして、僕は叫ぶ。


「じーーーーじーーーーいーーーーー!」


 田舎のあぜ道でジジイと叫ぶ。ほんの少し前に流行った映画の題名みたいだ。こっちは色気もへったくれもないが。


 自分のどうでもいい考えに苦笑いをしていたら、ガラリと玄関が開いたことに気付いた。


「うるっせい!」

 こっちに向かってジジイは愛を叫ぶ。……じゃなかった。怒鳴り声をあげる。

「ジジイ、花火!」

 両手を上げた瞬間、ナイスなタイミングで打ちあがる花火が、空を明るく染める。

 おばちゃんは僕に「サプライズしてやれ」って、アドバイスしてくれた。粋だね、おばちゃん。


「うるせーんだよっ! 何時だと思ってやがるっ」


 そう言いながらも、ジジイは楽しそうに笑って僕の方に近付いてきた。


「九一才の夏を祝って、九十一連発の花火を用意してきたんだ! 十連発花火が九本に、最後はこれ!」


 花火がつまったビニール袋から僕は締めの花火を取り出した。僕の腕くらいの太さがある打ち上げ花火。パッケージには『ひっさつ! ツバメ返し!』と書いてある。


「去年は悪かったよ。だから、今年は僕たちだけの花火大会だ!」


 ジジイはモゴモゴと口を動かし、舞い散る光を見つめる。ジジイのたるんだ皮膚のその下の目に、花火の光がきらきらと映っていた。それはまるで、少年の目のような輝き。


 僕は気付いたんだ。

 ジジイがモゴモゴ口を動かしている時は、何か言おうとしている時か、照れている時。

 ジジイは少年の目でずっと空を見上げ、モゴモゴと口を動かし続ける。


「*@$¥>U」


 やっと何か言ったと思ったら宇宙語だし。ジジイの言語ってなんなんだよ。

 でも、僕にはなんとなく「ありがとう」って言ったような気がした。

 いや、ほんとはよくわかんないけどね。







 



最後までお付き合いいただきありがとうございました。


今回のお話は私の祖父がモデルだったりします。

モデルなだけでこんなジジイではないですが。

「いつ迎えが来てもいい」というようなことをたまに言う祖父。

でもやっぱり長生きしてほしいですよね。

なんとなく胸に残るような話を目指してみましたが、いかがでしたでしょうか?

ご意見ご感想お待ちしています。


読者の皆様のおじいちゃんおばあちゃんの健康と長生きを祈っています。

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