八月六日:悲しい夕暮れ
昨日の雨は意外とすぐに止んでしまった。通り雨ってやつだったみたいだ。
雨なんて降ってましたっけ? と言いたげなほど、今日も大盤振る舞いで太陽が照りつける。昨日の雨で顔を出したアマガエルが日光の強烈さにやられて、縁側の下で死んでいた。
僕はぼんやりとアマガエルの死体を眺めながら、縁側に座っていた。
トンボがすいすいと空を飛んでいる。アゲハチョウがふわふわと花の間を言ったり来たり。蝉はバカうるさい声をあげ続ける。ジジイは今日もよたよた出かけた。
昨日の出来事のせいで、どうも気が抜けた。年寄りのジジイを僕は心配しすぎているような気がする。あんな歳でも、ジジイは強かに生きてるし、いたって元気だ。とっさに死んでしまうんじゃないかなんて考えたけど、ありえねえ。ジジイは百二十歳まで生きるタイプだ。
なんだか、ばかばかしい。
見上げる空は筋状の雲をたなびかせ、青々と広がる。白い太陽光線は放射状に飛び、すべての生き物を生き生きと彩る。
ああ、自然界って素晴らしい。
縁側ですっかりひなたぼっこムードに入っていたが、そろそろ行かなくては。
買い物。昨日は雨のせいで買い物に行かなかったし。今日こそは。肉食べてぇ!
バスに乗って二十分。ようやく賑わいのある街に出た。賑わいがあるとはいっても廃れた感をひしひしと感じるが、街は街だ。
スーパーの店先に『花火大会、八月七日開催』と書いたポスターがいっぱい貼ってあった。中途半端な日に花火大会があるんだ。こういうのは土日にやるイベントじゃないのか? 手書きのそのポスターから、その花火大会のしょぼさがわかる。行く人なんているのかな。
さびついた看板を掲げたその小さなスーパーに入り、僕はとにかく肉を買い物籠に入れていく。昨日も一昨日も野菜まみれだった。育ち盛りの若者には肉が必要なのだ。
荷物を抱え、家に戻る頃には十五時を過ぎていた。こんな時間になっても、太陽はその光を弱める様子はない。
両手に持ったスーパーのビニール袋が手に食い込み、痛い。
強い風が青々とのびた稲をあおり、風の吹いた形跡を残してゆく。その風に乗るように鳥が飛んでいった。
スーパーに行くだけで疲れた。
僕はすっかり指定席になった縁側に腰を下ろし、重くなってきたまぶたを閉じる。風が気持ちいい。暑すぎる太陽の光も、なんだか心地いい。僕は夢の世界に落ちていった。
「おい、千裕」
カサカサした手が僕の顔を叩く。せっかく気持ちよく寝ていたのに。
うう、と一回うなり声をあげ、僕は体を起こした。いつの間にやら夕暮れの時間を迎えていたのだ。
真っ赤に染まった空。「カナカナカナカナ……」と鳴くヒグラシの声と共に「ツクツクボウシ」と名乗りをあげるツクツクボウシ。
まだ夏は始まったばかりなのに、ヒグラシとツクツクボウシの声は夏の終わりを告げているかのように感じる。物悲しい、切ない気持ちになるのはなんでだろう?
「千裕、スイカ食べるか?」
「食べる!」
いつの間にか用意されたスイカ。四つに切っただけだから、ひとつひとつがすごくでかいんですけど。
ジジイは僕の隣に腰を下ろし、でかいスイカを手に取る。シャクッと小気味良い音を立て、スイカをかじっていく。僕もスイカにかぶりつくと、スイカの甘い果肉の味が口中に広がり、果汁がひたひたと口の端からこぼれた。
「昨日は悪かっだな」
スイカの種をぺっと庭に向かって吐き出しながらジジイはそう言った。あんまり申し訳なくなさそうだが、ジジイがしょんぼりした顔で謝ってくるわけが無い。言葉に出して謝ってくるなら、一応反省しているのかなと思う。
「別にいいけどさ。……心配したんだからな。どっかで死んでんじゃないかって」
腹の中でぐるぐるとスイカの果肉が回っている気がした。言わなきゃいいのに、と思うのに、口からすべり出てくる言葉。
「死にたがるのやめろよ」
「なんでそう思う?」
シャクリ、とスイカにかじりつく音がする。滴り落ちるスイカの汁がアスファルトの地面をピンク色に染めていた。
「ひいばあちゃんの墓の前で、『早く迎えに来い』って言ってたろ」
「聞いてたのか」
「聞いてた。ごめん」
ヒグラシが鳴く。たった一週間で死んでしまう蝉は、どういう気持ちで鳴き続けているのだろう?
茜色に染まる世界。
「お前にはわからんだろうが」
ジジイの横顔は茜色で染まり、しわのひとつひとつが彫刻のように浮き出ていた。歳を重ねただけ年輪のように刻まれるしわが、その時はまるで光り輝いているように見えた。
ジジイは今にも泣き出しそうな顔をしていた。僕はそれに気付いた途端、目に涙がたまっていくのを感じた。
一日の終わりを告げる夕焼けと、夏の終わりを告げる蝉の声と、人生の終焉を迎えつつあるジジイの姿が重なって見えたんだ。
「人生なんて駆け足で過ぎていくんだ」
手に持ったスイカからポタリポタリと果汁が落ちてゆく。
「全部、俺を置いてく」
ジジイの目は、とても遠く、遠くを見据えていた。僕には見えない遠い空の向こう。
「俺を残して、皆死んで。残された俺に、何がある? いずれ歩けなくなって病にかかって、家族に迷惑をかけるくらいなら、早く死にたいんだ」
「迷惑なんて、思わないよ」
「きれいごとはやめろ。お前は、俺の横をずっと歩けるか? 俺がよろけるたびに支えられるか? 俺の排泄物の処理を出来るか? 汚ねえ食事の後始末を文句ひとつ言わずに出来るか?」
僕は反論の言葉さえ思い浮かばず、押し黙る。僕はジジイの食事を見てどう思った? 汚いと、……そう思ったんだ。
「それでいいんだ。汚ねえもんは汚ねえ。出来ないもんは出来ない。それでいい」
「でも、僕は、ジジイに死んでほしくなんかない。迷惑だと思っても、文句いっぱい垂れたくなっても、やっぱりジジイには生きていてほしい。そう思うのは、本当だ」
次第に濃くなってゆく闇の色。紫色に染まった空の下に、無くなってゆく茜色。一番星がちらりと見えた。
「お前もあっという間にジジイになる。大切な人は気付いたら横にいなぐなる。大事にしろ」
「……うん」
ジジイはにっと笑い、頬を膨らませて口の中に残っていた種を吹っ飛ばした。ひゅっと音を立てて飛んだ種は、庭に咲いたひまわりのすぐ下に落ちた。僕も真似して種を飛ばしたけれど、ジジイの半分も飛ばなかった。
ジジイは「まだまだだな」と笑い、いつの間にか食べ終わったスイカの皮を持って立ち上がった。
僕は慌ててジジイの背中に声をあげた。
「ジジイのことだって、大事にしてんだからな! 死にたいなんて言うな! いなくなったら寂しく思うやつがいることを忘れんな! 皆死んだって、ジジイの血をひいてるやつは生まれてくるんだ! 置き去りにされてばかりじゃねえよ! 追いかけてくるやつがいることを忘れんなっ!」
ジジイはわかってない。ジジイが死んだら、ジジイに置き去りにされるのは、僕なんだ。