八月五日:墓の前で独り言
タオルケットを抱え、夢の世界を彷徨っていた時だった。
バシンッという叩きつけるような音が聞こえて僕は目を覚ました。
朝日がまぶしい。すでに活動を始めたセミたちが今日もこれでもかと鳴いている。
さっきの音はなんだったんだろう? まだ重いまぶたをこすりながら辺りを伺う。
網戸にした窓にでかいカブトムシが張り付いていた。さっきの音はこいつが網戸に体当たりした音だったんだ。大きさは十センチはあるだろう。捕まえたら高く売れそうだ。
布団を蹴飛ばして立ち上がり、窓に近寄る。こうやって近くで見ると、カブトムシの腹の方ってゴキブリみたいだ。この足の付け根辺りがなんとも言えず、ゴキブリ。
そう思ったら、なんとなく触ることを躊躇してしまう。うーん。虫ってよく考えると気持ち悪い。
そんなことを考えながらぼんやりカブトムシを見ていたら、玄関の方でガタガタと音が聞こえた。ジジイがどっかに出かけようとしているようだ。
僕はいつもはあと三十分は寝てる。だから起きるとジジイはいつもいなかった。ジジイはどこに出かけているのだろう。
湧いてきた興味は消えない。僕はその辺に転がっていたTシャツとハーパンに着替え、ジジイの後を追った。
ジジイは雑貨屋に立ち寄り、饅頭を二個買う。そのまま広い道路の脇をよたよた歩き、迷う様子なく進んでいく。
僕はジジイに気付かれないように、ある程度の距離を保って、後ろをついていく。
今日も晴れ。
大きく生えたとうもろこしが風でゆらゆらと揺れている。僕は心の中で「ざわわ〜ざわわ〜」と歌う。あ、あれはサトウキビ畑か。似たようなもんだからまあいいや。
一方ジジイはあっちへよたよたこっちへよたよた。酔っ払いのオヤジが寿司の土産を持って歩いている図に似てる。車通りが少ないとはいえ、広い道路でよたよたされるのはどうにも不安だ。
走り寄って腕を支えてやりたい衝動に駆られるが、今はジジイがどこに行くか追跡する方が大事だ。我慢我慢。
しばらく歩くと、ジジイが前に座っていた地蔵の前を通り、そのすぐそばにある脇道に入った。木が生い茂り、まるでトンネルのようになった小道の先。僕はこの場所を知っている。
ひいばあちゃんのお墓だ。
雑貨屋のおばちゃんが言っていた言葉を思い出した。
「二つ買ってくのは、おばあちゃんにお供えするためなのかもしれないわねえ」
饅頭が大好きだったひいばあちゃんのために、じじいはいつもここに来ていたのか。
小さな墓所のここにはひいばあちゃんの墓を含め、数えるほどしか墓石は無い。
ひいばあちゃんの墓は、墓場を囲む生垣のすぐそばにある。ジジイが墓場に入るのを見届けた後、僕は生垣の後ろに身を隠し、ジジイが出てくるのを待つことにした。
つけてきたことがばれたらジジイは怒りそうだから帰ろうかとも思ったが、あんなよたよた歩きしているのに一人で帰すのは危なっかしすぎる。偶然を装い、一緒に帰ろう。
生垣の隙間から見えるジジイの姿を窺う。ジジイは饅頭を一個、墓に供え、手を合わせて、しゃべりだした。声がでかいから、ここにいてもジジイの声は聞こえてきた。
「まだ迎えに来でくれないのか」
心臓がバクン、と鳴った気がした。迎え? 迎えって……
「もう五年も待っだんだ。そろそろ迎えに来い」
ひいばあちゃんがなくなったのは五年前だ。五年も待ったって、どういう意味? なんとなく答えはわかっていたが、僕は否定の感情が強くてそれを肯定することが出来ない。
「もう、待ちくたびれだ。早くお前のところに行きたい」
毎日。毎日毎日。ジジイはひいばあちゃんの墓前で、そんなことを願っていたというのか。
「……千裕は、昨日もまずい飯をこさえたぞ。あいつに料理の才能はねえな」
っておぉい! ちょっと、才能無いって。
「……去年は、お前はいないし、千裕は約束しだのに来ないし、去年ほど寂しい日は無がったなあ」
約束? 僕はジジイと何か約束をした? 胃に何か残っているような気がするが、それを吐き出すことが出来ない感覚に似てる。思い出せない。僕は、大事なことを忘れてる?
「じゃあ、まだ明日来るがらな」
ジジイが立ち上がったのがわかったから、僕はそっと場所を移動し、ジジイが通る道から見えない場所に隠れる。
ジジイは、ひいばあちゃんのいるところ……天国に行きたがってる。なんでだ。どうして。そりゃ、歳が歳だし、死が身近にあるのは仕方ない。でも、それでもそんなことを考えてほしくなんかない。
じわじわと涙が込み上げてくる。なぜだかわからないけどくやしくて、悲しくて、情けなくて。でも泣くなんて格好悪いから、必死にこらえることしか出来なかった。
入道雲がどんどんふくれあがっている。もしかしたら一雨降るんじゃないだろうか。そんなことをぼんやり考えながら歩いていた。
遠くで地鳴りのような音がする。
「ちい君」
僕の名を呼ぶ声で、僕ははっと我に帰った。雑貨屋の前にいつの間にか来ていた。雑貨屋のおばちゃんがにこにこと手を振っている。
「ねえ、おばちゃんとこに、おばあちゃんっている?」
「ん? もう死んだよ。三年前かね」
「死にたいとかって、言ったことあった?」
僕の質問に、おばちゃんは怪訝そうな顔をした。二重顎に手を当て、「そうねえ」とぼやききながら、記憶の糸をたどってくれている。
ゴロゴロとオヤジの腹の音みたいな音が空から聞こえてきた。雷が来そうだ。
「死にたいなんて言ったのは聞いたことないけど、よく言ってたよ。歳を取ると『死』は影みたいなもんになるって」
「影?」
「普段はあることには気付かないけど、毎日自分のそばにいるって。影って、そうでしょ? 怖いように感じるかもしれないけど、相棒みたいなもんで、怖くないってよく言ってたよ」
気付くと空は真っ黒な雲に覆われていた。さっきまでは晴れていたのに、あっという間に辺りは薄暗くなっている。
「こりゃ、雷雨になるね。ちい君、早く帰りな」
「うん、じゃあね、おばちゃん」
ジジイはちゃんと家に帰っているだろうか? ちゃんと家まで送ればよかった。
僕は広がる雲と同じように心を覆い尽くそうとする不安を胸に、雨が降り出した道を走り出した。
家に着いた頃には、雨は本格的に降り出していた。
雷の音。瞬く光。ざあざあと降るうるさい雨。それと対比するように、家はしんと静まり返っていた。嫌な予感を覚える。
僕は玄関を乱暴に開け、土間から見える居間に駈け寄る。居間には誰もいない。奥の部屋にも。どこにも、ジジイはいない。風呂場にも、外にあるトイレにも、どこにもジジイはいない。
ジジイは歳だ。この雨で風邪ひいたら、それだけで死ぬかもしれない。あのよたよた歩きなら車にひかれたっておかしくない。田んぼに落ちて溺れる可能性だってある。
――もう五年も待っだんだ。そろそろ迎えに来い。
ジジイがひいばあちゃんの墓前で言っていた言葉が脳内を駆けめぐる。
薄暗い奥の間にある仏壇。そこで微笑むひいばあちゃんの遺影。僕は仏壇に走り寄り、ひいばあちゃんの遺影を睨みつけた。
「まだ連れてくのは早いからな! そりゃ、ジジイはもう九一才だし、すぐ死んでもおかしくないけど、まだ早いんだよ!」
雨で濡れたTシャツが重い。ひたひたと頭から垂れる水がうざい。
濡れた足は畳で滑る。僕はこけそうになりながらも、ジジイを探しに外に行こうと決めた。
雨はいっそう激しくなり、窓を叩きつけている。庭に咲いたひまわりが、雨でゆらゆらと揺れていた。
玄関を開け、一歩外に踏み出した時だった。
「こんな雨ん中、どこ行ぐんだ? お前、バカだろ」
……ジジイがいた。
まったくもって濡れていないし。
「……どこ行ってたの」
「熊野んちだ。雨降ってきだから送ってもらっだ」
「熊野って誰」
「隣の家だ」
隣の家ってどこだよ? 歩いて五分かかる家は隣の家とは言わねえだろっ!
ああ、心配して損した。
「心配したんだからな!」
怒鳴りつけてやると、ジジイは口を梅干のようにして、さっさと部屋に入ってしまった。




