決意
私はコーヒーテーブルにだらしなく投げ出された両足を、ただ見つめていた。
〝怖い〟
顔を上げれば審丹和人と顔を合わせなければいけない。
〝早く、戻ってきて結君〟
この不気味なマンションのなかで唯一の味方である結君は、保護者に命じられ台所でお茶を作ってる。
私は遠慮したのだが、審丹が「俺もコーヒー飲みてぇから」と言われたら、それ以上何もいえなかった。
「ねぇ、お嬢ちゃん。俯いてないでさぁ。おじちゃんとお話しようよ。なんか頼みたいことあるでしょう、おじさんにさぁ」
そう、私はこの人に頼みたいことがある。
――死者を。
死者を呼び出してもらわなければ。
私は顔をあげ、審丹の顔を見返した。
「そうそう、人と話するときは顔を見ないとね」
審丹はヤニで汚れた歯を見せつけるように大きく口を開けて笑った。
〝この人は、私を怖がらせようとしている〟
私は唐突に悟った。
〝なぜ私を怖がらせようとしてるのだろう?〟
元とはいえ、相手はヤクザをやってたような人間だ。
私を怖がらせて、お金をふんだくろうとしてるのかもしれない。
〝それなら構わない〟
お金の問題じゃない。お金の問題じゃないだ。
私は意を決し、審丹に話しかけようとしたが、その前に彼の方が先に口を開いた。
「失礼、目が痒いや」
そう言うと、審丹は右目の眼帯を取った。
グチュグチュに崩れた肉。空っぽの眼窩。
暗い空虚な穴。
見てはいけない。
これは人が見てはいけないものだ。
目を逸らさなければ。
そう思うのに――。
彼の暗い空虚な眼窩は、私を掴んで離さなかった。
――寒いよ。
えっ、なにこれ。声が。
声が聞こえてくる。
あの穴だ。
あの暗い空虚な眼窩から。
虚ろな声が。
――ねぇ寒いよ。こっちに来て暖めてよ。
ダメだ。この声に耳を貸してはいけない。
私が耳を塞ごうとしたその時、声がやんだ。
見ると、審丹は眼帯をいつのまにか下ろしていた。
「――お嬢ちゃん。なんか怖いものでも見たのかい?」
――すげえ汗だぜ。
審丹は、私の目を覗き込みながら言った。
恐怖に震えて、咄嗟に返事が出来ない。
「怖いなら回れ右して帰ったっていいだぜ」
審丹は玄関を指さした。
帰りたい。
彼の忠告に従って帰りたい。
――どこへ。
どこに帰るというの?
帰る場所が壊れてしまったから。
私はここに来たのに。
「――帰りません。まだ依頼の件、お話ししてませんから」
「見た目より、強いんだな。お嬢ちゃん」
「――姉川柚です」
「こりゃあ失礼。柚ちゃんね」
審丹は欠損した手で頭をボリボリとかいた。
結君がコーヒーとお茶をお盆に載せて、台所から出てきた。
「和人、俺のいない間、柚にちょっかい出したのか?」
結君は、コーヒーテーブルにお茶を置きながら言った。
「ちょっかい? テストと言ってくれよ結」
「――あれはテストだったんですか?」
「うん。元ヤクザ程度でビビってたんじゃ、口寄せの現場なんか耐えられないからな」
審丹はコーヒーに口をつけた。
「ヤクザは所詮人間だが、俺達が相手するのは死者だ。人間じゃねえ」
「あんまり脅すなよ、和人」
結君は審丹の隣に腰掛けた。
「おうおう、今日はやけに優しいじゃねえか、結」
審丹は横目で柚君の顔を覗う。
「フン、ゲスな勘ぐりはよせ」
「まあいいけど、おじさんは」
審丹は、顔を戻した。
「それはそうと、柚ちゃん。依頼の話をする前に言っておくが、おれ達は警察でも探偵でもないから事件の解決なんか出来ない。あくまで口寄せだけだ。だから死者が、自分を殺した相手の名を喚いても、俺等は犯人を逮捕することも、復讐に手を貸すこともない。あくまで口寄せだけだ」
「わかりました」
「それと口寄せってのは、科学的裏付けなんてない。ある意味シャブ中の戯言と変わらない。だから口寄せした後、こんなのインチキだ。金を返してくれ、と言われても困る」
「返金は出来ないということですね。それも了解しました」
「物わかりが良い依頼者で助かるぜ。最期に一番肝心なことなんだが、俺達が口寄せできるのは、殺人の被害者か、自殺者だけだ。事故死や寿命でおっ死んだ奴は呼べない」
「大丈夫です、私が口寄せして欲しいのは、自殺した弟です」
「――自殺か。なら結。お前の仕事だ。お前が話を聞いてやれ」
審丹は結君に目をやる。
「まだ受けるとは言ってないぜ」
「ガキみたいなこというな。このお嬢ちゃんは、たとえウチを断られても、違うところ探すぜ。あんだけ威しても、逃げなかっただから」
――ある意味、死者に憑かれてるようなもんだ。
審丹は呟く。
そう。その通りなのだ。
私の背中には、弟が。
自殺した弟がへばりついてる。
「・・・・・・話せよ柚」結君は呟く。
「――自殺した弟の碧を口寄せしてほしいの。なんで自殺したのか、どうしても知りたいの」
「止めとけよ。何も残さなかったってことは、誰にも知られたくなかったのかもしれないだろう」
それはそうかも知れない。
でもお父さんは壊れてしまった。
そしてお父さんは、なにか隠している。
家族の中で、私だけが何も知らないのは厭だった。
耐えられなかった。
「結君、私はどうしても知りたいの」
結君は私の言葉を聞くと心底厭そうな顔をして、私の顔から目を逸らした。
「――弟ね。結とは逆だね。こいつの場合姉ちゃんが自殺しちまってね」
審丹は重い言葉を軽く言った。
えっ!?
知らなかった。
何も知らないで、私一人ではしゃいでいた。
彼の顔から弟の面影を見つけて、一人で喜んでいた。
なんか最低だ私。
「――ごめんなさい、私知らなくて・・・・・・」
言い訳にもならない言葉を吐く。
「いいよ。気にしてないから」
彼は強がる。
「そうそう気にしなくていいよ。傷の痛みに気を取られてたら、生きていけないから」
審丹が口を挟んだ。
「ちなみに何処で自殺したの? 柚ちゃんの弟君は?」
「自分の部屋です。ドアノブを使って首を吊りました」
言葉にして口にすると、あの時の情景が頭の中に浮かんでくる。
ドアノブに垂れたロープ。真っ青な肌。唇から伸びた青白い舌。
気持ち悪い。
蹲って吐きそうになるが堪えた。
「首つりか。結の姉ちゃんも首つりだよな。因果だね、こりゃあ」
「煩いよ、少し黙れ」
結君は横目で保護者を睨んだ。
「大こわ。そんな目で睨むなよ」
審丹は首をすぼめ怖がるフリをした。
「私の依頼受けてくれる、結君?」
「――返事する前に一つだけ忠告するが、この事務所に依頼してきた人間で幸せな結末を得ることができた人間なんていない」
「――おいおいそれは企業秘密だぞ」
審丹はチャチャを入れるが、結君は無視した。
「ある依頼人は精神が病んだり、ある依頼人は復讐を実行し殺人を犯したり、ある依頼人は自殺をしこの世を去った。ろくでもない結末ばかりだ」
――それでもお前は依頼をするのか?
結君は私の目を見据えて問う。
「――お父さんが壊れてしまったんです」
「それは実の子供が自殺すれば――」
「結君の言いたいことはわかります。でもそういうじゃないです。上手く言えないけど、何か違うです」
父は悲しんでるじゃない。
何かに怯え、何か壊れてしまった。
――そして嘘をついてる。
父は、碧の自殺した件で何かを知ってる。
何かを嘘をついてる。
私なりに調べたり、父に説明を求めても、真相はわからない。
真実は死者しか知らない。
「――お話中悪いだけど、おじさん一つ質問していい?」
審丹は口を挟んだ。
「はい、構いませんが」
私は心の中で身構える。審丹という男は結君の保護者とはいえ信用できない。
「お父さんのこと壊れたって表現してるけど、ひょっとして精神病院の閉鎖病棟かなにかに放り込まれたの?」
「――はい」
知的で頼れる男であった父は、碧の自殺以後少しづつ壊れていった。
そして半年前、父は完全に壊れてしまった。
一日中意味のわからない言葉を呟いたり、突然わめき出したり泣き出したりするようになった。
親戚や私の手じゃ面倒みきれず、父を精神病院に強制入院させた。
閉鎖病棟で、拘禁処置をされた父を見て泣き出したくなった。
なにか父が動物以下の何者かなったようで、
悲しいやら情けないやら、もう色々な感情が吹き出して――。
そして疲れて死にたくなった。
はじめて碧を憎らしく思い。
そして、羨ましく思った。
死んだら、終わりなんだ。
この苦しみも、悲しみも終わりなんだ。
解放されたい。
すべてを放り捨てたい。
「ひょっとして、その精神病院って愛沢精神病院で、担当は角田先生?」
「そうです、ここの事を教えてくれたのも――」
「角田先生でしょう」
審丹は、私が言う前に言葉を継いだ。
「――なにか問題でもありますか?」
私は不安になりながら問うた。
角田先生には、事前に名前を出しても構わないと許可を貰ってるいるが、審丹や結君が属してるのは、私には想像もつかない世界なのだ。
私にはわからない事情や掟のようなものが存在しているのかもしれない。
無知が、私を不安にさせる。
「全然問題ないよ。いやさあ、うちホームページも出してないし、宣伝もまったくしてないから、口コミ専門なのよ。だから誰がウチを紹介してくれたのかなって、純粋に気になってね」
――そうだ。あとで角田先生にお礼の電話しとかないと。
審丹はポンと手を叩いた。
どうやら私の取り越し苦労だったようだ。
「――柚」
黙ってやりとりを見ていた結君が口を開いた。
「なに、結君?」
「一度家に帰って、ウチに依頼するかどうかよく考えてみたらどうだ?」
「ありがとう結君。私のこと心配してくれて。でも、時間を貰ったところで考えは変わらないわ」
「――そうか」
結君は深いため息をつくと、「わかった依頼を受けるよ」と言った。