実験室の二人 【前編】 <恋愛・現代>
勢いで書いたものですので、色々とスルーして下されば嬉しいです。
オランダにある本社への二週間の出張を終えて、今朝早くにやっと日本に着いたばかりだと言うのに、俺が家にも寄らず出社したのには訳がある。
九月八日が期限の電子回路基板の部品が六日の夕方まで納品されないという恐ろしい事態に陥った為、七日午前九時現在の今から急いで実装しないといけないのだ。
もう二度とあの業者は使わねえ。
そう心に誓って、疲れた体に鞭打ってロジに届いた部品を受け取り実験室に来たのはいいのだが……。
「――ない! 俺のルーペがない!!」
出張に行く前に片付けといた実験机の上や引き出しの中を漁っても見つからない。
俺と十年以上も苦楽を共にした拡大鏡が行方不明なのだ。
いや、ちょっと大げさだけど。
「俺のルーペはどこへ行った!?」
とにかく、あれがないと明日までの基板二十枚ができねえ。いちいち誰かに借りるのも面倒だし……って、待てよ?
「なあ、秋山。お前、俺のルーペ知らないよな?」
実験机が隣にある後輩エンジニアの秋山真帆にまさかとは思いつつ、俺は尋ねた。
フレックスのこの会社はコアタイムが十時~十五時で朝礼は十時からになるので、普段の俺はだいたい九時半に出社してその日の予定とメールをチェックし、朝礼を終わらせてから実験室に籠る。
籠ると言っても、俺の所属する課全体の実験室なんで広い。
他のエンジニアもそんな感じで遅めの出社なのだが、秋山だけはいつも早く出社して早く帰るので、午前九時過ぎのこの時間にはいつもいる。
そして、まさかと思った俺の勘は残念ながら当たった。
「おっと、ごめん。借りてました。はい」
「おお、そうか。良かった、見つかって…ってなるか!!」
「何? 幸田さん、朝からうるさい」
「うるさいじゃねえよ。お前、さっきから俺がルーペ探してたの分かってたろうが! そもそも、勝手に人のもん使っといて元の場所に返さないとかってねえだろう!?」
「ああ……幸田さん、ルーペ借りました。はい、返しました。ありがとうございました。おしまい」
「信じられねえ……この女、サイアク」
「よく言われます。幸田さんに」
「……」
開き直りやがった。
一年前の部署移動でやって来たこいつが隣になってからは苛々させられっぱなしだ。
それまでは割と美人でさっぱりした性格に見えたから少しはいいなと思っていたが、とんでもなかった。
まあ、そんな無駄な事考えてないでテスト用の基板実装に取りかかろう。枚数は大した事ないが、0402サイズの抵抗器とコンデンサが所狭しとたくさん並ぶんだよ。誰だよ、こんなの設計したやつは。……俺だよ。
「……ない」
基板とチビッコ部品達、それに半田と半田ごても用意して準備万端。さあ、やるぞって所で気付いた。アレがない。
「……なあ、秋山。俺のセラピン知らないか?」
「……ん?」
「お・れ・の、セラミック・ピンセット!」
「……ん」
秋山が俺と目を合わせないようにして、ゆっくりと差し出したのは俺の……セラミックピンセット……。
「って、先が折れてるじゃねえか!! お前か!? お前が折ったのか!?」
「……ごめんなさい。金曜日に借りて、月曜日に折れました」
「折れました、じゃねえよ!! だから、お前も早く備品購入しろって言ったんだろうが!!」
「あ、昨日ちゃんとリクエストしたよ。幸田さんの分も」
「当たり前だ!! って、昨日のリクエストだったら早くても届くのは来週じゃねえか!! 俺は今日、明日でこの基板二十枚作んなきゃいけないんだよ!! 正確には明日の夕方までの便に乗せなきゃ海外工場でサンプルテストができねえんだよ!!」
「……じゃあ、直接お届けするとか?」
「アホか!! 間に合うようにお前が手伝え!!」
「無理だって!! その図面この前ちょっと見たけど、それ作るの職人技だよね? 私がしたらガッタガタの部品浮きまくりになるって!!」
「それでも手伝え」
「私にも私の仕事がありまして」
「残業代はちゃんと出る」
「今夜は友達と約束がありまして」
「次回、乞うご期待」
「無理! この前のコミケの戦利品を届けてくれるんだから! 次にお互いの都合つく日がわかんないから平日の今日なのに!!」
「我慢しろ、おたく。お前は腐ってても、それは腐るもんじゃねえだろうが。今、図面送ったからチェックしろ。0402のとこは飛ばしていいから他をやれ」
「メール受信拒否!」
「すんなボケ! さっさとやれ、おたく!」
「おたく、おたく、うるさい! 幸田さんだっておたくじゃん!!」
「俺はアニキャラのマグカップなんて使わねえ」
「私は入社面接で志望動機に『ガ○ダムが作りたいからです』なんて言わない」
「受かったって事は、その志を受け入れてくれたって事だよ、この会社が」
「どう考えても無理でしょ、この会社じゃ方向性が違うもん。重工を目指すべきだったよ」
「バカか、全てのパーツが一つの会社で出来ると思うな」
「……じゃあ、この会社でどのパーツを作るつもりなの?」
「それは極秘事項だ」
「はい、消えたー」
「消えるか! 支社長だって『是非、頑張りましょう』って言ってくれたんだよ!」
「……たまにスティーブとこそこそ話してるとこ見かけるけど……まさか、ガ○ダムについて語ってるとか……英語で」
「俺はガ○ダムの事ならフランス語でも語れる!」
「うわー、カッコよくなーい」
「うっせえ! いいからさっさと半田ごて用意して――」
「幸田さーん、今日は十時からプロジェクトミーティングだけど覚えてる? もうすぐだよ?」
「え? あっ!!」
扉を少しだけ開けて室内に顔を覗かしたPMの藤原さんが声をかけてくれて、今日がミーティングの日だったと言う事をようやく思い出した。
やべ、すっかり忘れてた。出社しててよかった。
「ありがとう、すぐ行く!」
「は~い、それじゃ後で」
やっぱ藤原さんはいいな。俺の癒しだよ。
美人だけどそれを鼻にかけてないし、男にも媚びない。だからと言って男を馬鹿にしてるわけでもない。仕事でもちゃんと俺達エンジニアを立てながら、それでもしっかり主導権は握っている。日程調整や関係会社との調整まで細やかにしてくれて……いいよなあ。
なんて思いながら急いでノーパソと筆記用具を準備する。
「……幸田さん」
「なんだよ?」
急に暗い声で秋山が俺を呼ぶからなんかビビる。
まさか、ステンレス製のピンセットまで折ったなんて言うんじゃねえだろうな。
「ドンマイ!」
「……は?」
「酸いも甘いもあってこそ人生!」
「秋山……お前、今度はTOEICより日本語検定受けろ。その為の勉強しろ。あと、課長に俺はミーティングだから朝礼はパスだって言っといてくれ」
そう言い残して俺は実験室を出た。
が――。
なるほど。そう言うことか。
秋山の言いたかった事はミーティングの後にわかった。
大した問題もなく、進捗状況の確認だけだったミーティングは思ったよりも早く終わり、解散後に藤原さんから結婚式二次会の招待状を渡されたのだ。
他のみんなには俺が出張中の間に知らせてあったらしい。
失恋した俺を慰めてたつもりか、あいつは。
まあ、失恋って程じゃないけど、ちょっとショックだな、やっぱ。
だがそれ以上に、あいつに気を使われたのが……いや、それよりも憧れめいたものを抱いていた事に気付かれていたのがなんだか居心地悪くて、実験室に戻る足取りが重くなる。
「本宮さん、いいじゃないですか、貸して下さいよ~」
「だってさあ、秋山ちゃんにセラピン貸したら折られるからなあ。幸田君の折って通算何本目だよ?」
「ええ?……数えてませんよ、そんなの。でも今回は私が使うんじゃなくて、幸田さんに貸して欲しいんです」
「ああ、そう言う事ね。なら、どうぞ」
「ちょっ!……ありがとうございます。ですけど! あまりに酷すぎません!?」
実験室に戻って、扉に手をかけた所で聞こえて来た話し声。
ああ、そういや、本宮さんはベンチマーク取ってんだったか。じゃあ、セラピンは必要ないだろうけど、それなら俺、自分で借りるし。
なんだ? なんか、もやもやするな。やっぱ、時差ぼけか。飛行機の中では割と寝れたんだけど、やっぱウーロン茶飲もう。
自販機に向かおうとして抱えた荷物に気付き、結局それらを置くために実験室に入る。
「あ! 幸田さん、セラピンゲットしましたよ!」
「いや、秋山ちゃん、それ俺のだからね。ゲットしてないからね、貸したんだから」
「本宮さん、ありがとうございます。助かります」
「いいよ、幸田君なら安心だから」
「さっきから本宮さん酷いですよ! 私を何だと思ってるんですかね?」
「――クラッシャーだろ?」
秋山の拗ねた問いかけには俺と本宮さんだけでなく、実験室にいた全員が声を合わせて答えた。
クラッシャー秋山は有名だ。
以前、電子顕微鏡を壊した時には全米が泣いた。いや、設計部全員が泣いた。
もちろんあれは秋山のせいではなく、たまたまだと分かっている。分かっているが……うん。修理代は部の予算ではきつく、経理に泣きつく羽目になり、修理期間中は別棟の他部署に借りに行かなければならず苦労したんだよ。
そんなこんなでもう夕方だ。
たかがピンセット。されどピンセット。
こんな単純な物でも、持ち主のクセが付くので意外と人の物は使いにくかったりする。それでもステンレス製のピンセットにまとわりつく極小部品に苛々しなくてすむので順調に実装は進んでいった。
自分の仕事の合間にとか言いながら、なんだかんだで基板の方を優先させて手伝ってくれる秋山の手も、猫よりはかなりマシだ。いや、正直に言えば……。
「――秋山、友達との約束は何時にどこだ?」
「……駅前のスタバに七時だけど? こ、これから断りのメールを――」
「いい。お前が手伝ってくれたおかげで、予定以上に早く終わりそうだからもういいぞ。ありがとうな」
「え? それはダメだって。ちゃんと最後まで手伝うよ」
「……じゃあ、六時まで手伝ってくれ」
「六時半までは大丈夫だよ」
「いいよ。最近は暗くなるのも早いからあんまり遅くならない方がいい。駅までの道は人通りが多いとはいえ、この前も変な奴が出たらしいし気をつけた方がいいからな。一応お前も女だし……認めたくないが」
「一応じゃなくてちゃんと女だから! いつかはっきり認めさせてやるんだから!」
「おお、楽しみに待ってるわ」
怒りながらも秋山の手は動いている。
結局、こいつはがさつで人の物を勝手に使うが(そして壊すが)、きっちり仕事はこなすし、女であることには甘えない。だから嫌いではない。
だがしかし――。
「お前……それだけ小さいコンデンサをどうやったら割る事が出来るんだよ。逆にすげえよ……」
「ちがっ! 半田が上手くいかなかったからやり直そうと思ったらピンセットが刺さったんだって!」
「だから、普通は刺さらねえって!」
秋山といると退屈はしないが頭が痛くなる。
それでもまあ、今日は泊まりも覚悟してたけど無事に家に帰れそうだし、セラピンの恨みは忘れてやる事にした。
だからどうか、明日は平穏に過ごせますように、と祈りながら。