婚約者の欠点を探して三年、帳面が一冊埋まりました。教会の検死官いわく『その方、中身が空です』
婚約者のエルヴィン様が完璧すぎる件について、私は三年間、帳面をつけている。
・褒め言葉は週に二度、火曜と金曜。文言は三種の輪番
・雨の日は、瞬きが四割減る
・お義母様が三歩以上離れると、話が「そして」で止まる
・去年の秋、蜂が肩に止まったのに、瞬きひとつしなかった
・食事は完璧な所作で口に運ぶが、皿の減りがいつも同じ形
社交界一の貴公子と名高いフェルン侯爵家のエルヴィン様は、美しく、聡明で、礼儀正しく、三年間で一度も失礼がなかった。
一度も、だ。
人間に、そんなことができるだろうか。
「コルネリア、贅沢を言うものじゃありません」と母は言う。「殿方の欠点を帳面につける令嬢がどこにいますか」
ここにいる。
欠点が見つからないから、つけているのだ。
◇
弁解のために言っておくと、疑う理由は帳面のほかにもうひとつある。
手紙だ。
エルヴィン様からは月に一度、完璧な手紙が届く。季節の挨拶、詩の引用、非の打ちどころのない筆跡。読むと、上等な白湯を飲んだ気持ちになる。
ところが年に数回、変な手紙が混ざるのだ。
筆跡は同じ。なのに端にインクの染みがあって、文面はこうだ。
『今度の夜会で出る青い菓子はまずい。食べるな』
『あんたが先週笑っていた噴水の彫刻、あれを彫った職人は左利きだ』
『薔薇園の薔薇は、西から三本目だけが、ちゃんと薔薇の顔をしている』
なんなのだ。
なんなのだが――白湯の手紙は棚に仕舞い、変な手紙だけ、私はリボンで束ねている。
あれだけは、紙からインクの匂いがするのだ。
◇
その夜、窓辺に黒衣の女が立っていた。
「夜分に、御免」
女は胸に手を当てて腰を折った。袖の奥で、ちりん、と真鍮の音がする。
「灯の検死官です。……登録のない『空』が、社交界を歩いていると聞きまして」
「空」
「灯の入っていない器が、口を利いて、茶会に出ている、という意味です」
私は、無言で帳面を差し出した。
女の袖から真鍮の小鳥が覗き、頁の上をぴょこぴょこと歩きながら囀った。
『こうもく、さんじゅういち。……きょくの、しらべと、にじゅうはち、いっち』
「三年間の観察としては、局の調書より三項目多い」女は帳面を返しながら言った。「優秀です」
「……初めて褒められたわ、それで」
生きてきて、初めてだった。
「明後日の茶会で、婚約の日取りが諮られると聞きました」女は言った。「同席しても?」
「ぜひ」
即答した私を、誰が責められよう。
◇
茶会は、フェルン侯爵夫人の完璧な采配で進んでいた。
「式は春がよろしいわ。ねえ、エルヴィン」
「はい、母上。春は良い。コルネリア嬢の瞳の色に、春の空はよく似合う」
火曜の文言だった。今日は木曜なのに。緊張しているのかもしれない。人形なりに。
庭園の門が、開いた。
黒衣の女が、薔薇のあいだを、まっすぐに歩いてきた。
「なんですの、あなた」夫人が扇を閉じた。
女は答えず、茶会の中央で、すっと背を伸ばした。
「――偽りの灯は夜に灯り、まことの灯は胸に灯る」
昼日中だというのに、庭の光が、一段沈んだ。
「魂の贋作、天が赦しても――私が、赦さない。
聖務第九局、執行官。
皆さまの灯、検めさせていただきます」
黒衣の袖が、鳴った。
女の首筋から頬へ、朱の紋様が這い上がる。
女の背後で――夜が、立ち上がった。真昼の庭に、夜が。
女の指が、エルヴィン様の胸の前で、糸を手繰るしぐさをした。
何も、出てこなかった。
「……空です」
女は宣告した。
「灯がない。記憶がない。中身が、ない。――あるのは」
指が、つと動いた。エルヴィン様の背から、細い細い銀の糸が一条、光って伸びていた。
糸の先は、侯爵夫人の袖の中にあった。
「操りの糸が、一本」
茶会が、静まり返った。
「ち、違……これは」
「無認可の傀儡による公役詐称。器の等級偽装。ならびに――縁組詐欺の未遂」
小鳥が、事務的に囀った。
『こうもく、さんじゅういち。ぜんぶ、せつめい、つく』
私の三年の帳面が、罪状の目録になった瞬間だった。
女が、一歩踏み込んだ。
一太刀は、見えなかった。
銀の糸が、音もなく断たれ――エルヴィン様だったものは、精巧な木と蝋と、香を焚き込めた布の束になって、椅子の上に崩れた。
三年間、私が観察し続けた完璧は、最初から、よくできた空だった。
「……あの子が」
夫人が、崩れた布を見て、掠れた声を落とした。
「あの子が、家を継がぬと言ったとき。わたくしには、あの子の顔を捨てることが、どうしても」
夫人は、崩れた布の束を見た。
「人形は……人形だけは、わたくしの育てたとおりに、育ってくれましたから」
それ以上は、言葉にならなかった。
沙汰は淡々と進んだ。器と紋は教会預かり。夫人には司教区の呼び出し。うちの両親は真っ白になって、茶だけが冷めていった。
「ひとつ、うかがっても」
私は執行官に訊いた。
「本物のエルヴィン様は、どこに?」
女は、屋敷の屋根を、目だけで示した。
◇
屋根裏は、絵の具の匂いがした。
画架が十ばかり。窓の光の中に、絵の具まみれの男の人が立っていて、私を見るなり、露骨に気まずい顔をした。
社交界一の貴公子と、同じ顔で。
「……ああ」彼は言った。「帳面の人か」
「帳面のことを、なぜ」
「あんた、茶会のたびに人形を睨んでは何か書きつけてただろう。ここから見えるんだ、庭が」
彼は窓を顎で示した。それから、ぼそりと付け足した。
「青い菓子は、食べなかったな」
息が、止まった。
「……あの手紙。変なほうの手紙。あれ、あなた」
「母の白湯みたいな手紙に、年に何度か、こっそり混ぜた」彼は絵筆を置いた。「三年も人形に騙されてる人が、気の毒だったから。……いや、違うな」
彼は、初めて私をまっすぐ見た。絵描きの目だった。薔薇園の、西から三本目を見つける目だった。
「帳面をつけてるあんたが、いつか必ず見破ると思って――見破ったら、言おうと決めてた」
「……何を」
「求婚なら、自分の口でする。人形の台詞じゃなく」
私は、リボンで束ねた手紙のことを考えていた。
白湯の手紙は、一通も取っておかなかった。インクの匂いのする手紙だけ、捨てられなかった。
帳面に、最後の項目を書き足すべきだと思った。
・本物は、屋根裏にいた
◇
門の外で、小鳥が囀った。
『そうりのもん、かいせき、かんりょう。……ふるいいと、いっぽん。よんほんめ』
「……傀儡の紋の中に、か」
女は、摘まみ出した糸を月に――まだ昼の名残の白い月に、透かした。とても古い言葉の祈りが、微かに零れた。
「製作者は」
『ふめい。しょめい、なし』
「署名のない人形師……」
女は糸を袖に納めた。その足は、もう次の夜へ向いていた。
今夜も、霊網は静かに脈打っている。
【了】
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