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もうすぐ見知らぬ人と婚約が決まるというのに、私は湖畔の幽霊に恋をしてしまった

作者: かも ねぎ
掲載日:2026/06/12


 木漏れ日が霧に触れ、それは小さく砕けた。


 水鳥の羽音。

 水面に浮かぶ細い葉。

 風が吹くと鉛色の湖面が揺れ、それは陽の光をキラキラと弾いた。

 

 アリス・グレイフィールドは湿った湖岸にしゃがみ、その光景を眺めていた。


「ロッテ。きれいね」

「お嬢様……。裾が汚れてしまいます。むしろ、汚れています」


 アリスは立ち上がると、スカートの裾を払う。侍女であるロッテを見上げ、へらっと笑った。


「ねぇ、歩いてきてもいい?」


 ロッテは草地に淡々と布を敷き、そこに持ってきた籠を置く。


「いいですよ。ロッテはここで待っています。

 私の見える範囲にいてくださいね。

 ――あ、そうそう。このあたりにはミントの群生地もあるそうですよ」

「この湖の近く?」

「はい。旦那様がそう仰ってました」

「へぇ……そうなの。

 探してみようかな」


 アリスはこの日、グレイフィールド家の領地内にある別荘地に来ていた。

 ここへ来るのは、幼少期以来。

 彼女にとっては、この地の何もかもが珍しい。


 アリスは草を踏んで歩き出す。


 湿った土と草は、踏んでも音がしない。

 編み上げブーツの底が、しっとりと沈み込んだ。


 湖沿いに歩きながら、立ち並ぶ白樺を見上げた。

 白い幹にそっと指先で触れ、ゆったりと辺りを見回す。

 少し奥には、オークやブナの古い森が広がっているのが見えた。


 森の間を流れる霧。

 それを辿るように、湿った土を踏んだ。


 少し歩くと木が途切れ、小さく開けた場所に出る。

 足元には野生のミントが群生し、白や薄紫の小さな花が揺れていた。アリスが手を伸ばして触れると、澄んだ香りが立つ。


 やがてアリスは顔をあげる。


 そして――

 ハッとして息を呑んだ。


 木々の隙間から、初夏の陽射しが差し込んでいた。

 まるで、そこだけを照らしているように。


 横たわる、倒れた古い木。

 一人の少年が、その上に腰掛けていた。


 花よりも真っ白な澄んだ肌。

 陽に透ける淡い金髪。

 ミントの花を見つめる瞳は、琥珀色だった。


 彼の膝の上にはスケッチブックがのせられている。

 少年はミントを写生しているようだった。

 鉛筆を持った白い繊細な手が、軽やかに花を描き出していく。


 アリスは一歩、下がった。

 その時、落ちていた小枝を踏んだ。


 パチッ――小さな音が鳴る。


 少年は、振り返った。

 その美しい琥珀の瞳がわずかに見開かれる。


 アリスは震える手で自分の口を覆った。


 アリスの青い瞳と琥珀がまっすぐに交わる。


 やがて、少年は嬉しそうに微笑んだ。

 まるで、花が綻ぶように。


 少年は腰掛けていた倒木から跳ねるようにして降りると、アリスに向かって一歩、歩き出した。


 アリスは慌てて踵を返した。

 背を向け、口を手で覆ったまま、走り出す。

 ミントを踏み、木の隙間を抜け、霧の中を駆けた。


 土を踏むたび、湿った土の匂いが立ち上る。

 どこかで水鳥が飛び立つ音。


 霧が、引き裂かれる。


「ロッテ!!」


 湖畔で待っていた侍女は、呑気にアリスに手を振った。

 アリスが勢いのままに彼女に抱きつくと、ロッテはふらふらとよろけかける。


「……お嬢様、どうされたのです」

 

 ロッテはアリスのキャラメル色の髪をそっと撫でた。


「大変よ! ロッテ!!

 すごく綺麗な男の子がいたの!」

「えぇ……?」


 アリスが指差す方をロッテも見るが、あるのは白樺だけ。


「……この辺りは幽霊が出るとよく聞きますから、お嬢様が見たのは幽霊だったのでは?」

「……え!」


 顔を青ざめさせるアリスの背をトントンと叩くと、ロッテは地面に敷いていた布を手で示した。


「おやつ、召し上がります?」

「……そんな呑気な!」

「ふふ。お嬢様、ロッテがいるから大丈夫ですよ」


 アリスはもう一度、ミントの群生地の方を振り返った。


 並ぶ細い白い幹の向こう。

 鼻の奥には、鮮やかにあの香りが蘇る。


 だというのに――

 ここから見えるのは、奥にある古い森だけ。


「……幽霊なの?」


 その呟きは、湖畔の霧に溶けていった。




 別の日。

 アリスはまた、湖に散歩に来ていた。

 湖沿いに歩き、白樺を抜け、ミントの群生地へ。

 

 淡い霧の光の中。

 その日も彼は倒木に座り、絵を描いていた。


 アリスは胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。


 一度大きく頷き、湿った土を踏んだ。

 立ち上る、ミントの香り。


 倒木に手を触れると、少し湿っていた。

 意を決し、少年の隣に座る。


 木の隙間から流れてきた風が、二人の髪をそっと撫でた。


 聞こえてくる、小鳥のさえずり。


 少年は、スケッチブックに視線を落としたまま、小さく笑った。


「やぁ。この間も会ったね。来てくれて嬉しいな」


 白い紙の上の花。

 彼の手は止まることなく、絵を描き続けている。


 アリスはその整った横顔を見つめ、大きく息を吸った。


「……あの……あなたって幽霊なの?」


 少年は手を止め、ゆっくりと顔をあげる。

 そして、アリスの方を見た。


「……そうかも。

 僕は自分が死んだことに気づいてはいないけど」

「……え」


 彼は目を細め、ふわりと笑う。

 アリスはそれを見て、つい、頬を染めた。


「まぁ、でも……僕は絵を描いているだけの善良な幽霊だよ」


 アリスは小さく息を吐く。


「……そうよね。

 ――ここに来たら、またあなたに会える?」

「そうとも限らない」


 少年はスケッチブックを閉じた。

 アリスは眉を下げて、彼の指先を見つめる。


「……そうなの」

「君はまた明日も来るの?」

「あなたがいるなら、来ようと思って……」

「そう。

 君が来るなら僕も出てこようかな」


 アリスは顔を上げる。


「自由自在なのね」

「……幽霊だからね」


 彼は口角を上げて、いたずらっぽく笑った。




 翌日。


 ミントの群生地で、彼はこの日も絵を描いていた。

 アリスが隣に座ると、ちらと視線だけを向ける。

 

「絵が上手ね」

「……ありがとう」


 彼は手を止めて、スケッチブックを閉じた。

 自分の膝に肘をつき、頬を支えてアリスを見る。


「どうしたの?

 落ち込んでるの?」


 アリスは瞳をわずかに伏せて、小さく首を振った。


「私、まだ会ったことも無い方と、婚約が決まりそうなの。父様が仰っていたわ」

「ふぅん」

「貴族令嬢なら、当たり前よね」

「そうだろうね」


 アリスは俯き、スカートの布地を握りしめる。

 

「私、お話を読むのが好きなの」

「うん?」

「恋をしてみたいのよ」


 少年は少しだけ視線を彷徨わせてから、またアリスを見た。


「……知らない人と結婚するのが嫌ってこと?」

「……そう。本みたいな素敵な恋がしたいの」

「その人と恋ができるかもしれないよ」


 アリスは小さく唇を噛む。


「……わからないじゃない。

 それに、勝手に人生が決められるのは、怖いわ」

「……まぁ、そうだね」


 ミントの花が揃って揺れている。

 群生地を囲うように立つオークの葉も揺れ、小さく葉ずれの音がした。

 

「元気出してよ。

 歌ってあげようか。下手だけど」

「……下手なのに歌うの?」


 アリスが顔をあげると、少年は真面目な顔で頷いた。


「下手な歌だと気が抜けるだろう?」


 彼の琥珀の瞳に光が差し込み、それは星のように瞬いていた。

 アリスはそれに、一瞬視線が吸い込まれる。


 やがて、ふっと笑った。


「うふふ、なぁにそれ」

「ほら、笑ってくれた。正解だろう?」


 少年が声を上げて笑うと、アリスもつられるようにして声を出して笑った。


 ひとしきり笑いあい、ふと、目が合う。


 彼は、優しく目を細め、穏やかに微笑んでいた。

 アリスの頬が染まる。

 耳まで赤くなった。


「あなたは……素敵ね」

「そりゃどうも。僕は幽霊だけどね」


 彼はおどけるようにして、胸に手を当てた。

 

「うふふ」


 アリスが笑うと、少年は目元をふわりとやわらげて、アリスをまっすぐに見つめる。


「……君も、とても素敵だよ」


 彼女は肩を震わせた。

 耐えられず、顔を手で覆う。


 少年はそれを見て、また声を上げて笑った。




 またある日も、アリスはミントの群生地に来ていた。

 彼女は毎日この場所に通っていた。


 倒木に腰掛けて写生をしている彼の隣に座り、そのスケッチブックを覗き込む。


「いつもミントの絵を描いているの?」

「それしかないからね」


 アリスが顔をあげると、少年は真面目にそう答えた。


「飽きないの?」

「それはどうかな」


 彼はアリスを真っ直ぐ見たまま、小さく首を傾げる。


「地縛霊なのかしら」


 少年はスケッチブックを閉じて、ふっと笑った。


「……そうかもね」


 アリスは空を見上げた。

 木の隙間の空は、霧でぼやけて白い。


 少し黙ってから、アリスはぽつりと言った。


「婚約者が……あなたみたいな人ならいいのに」

「……どうして?」


 ちらと、隣の少年を見る。

 出会った日から変わらず白い肌に、透けるような金髪。

 琥珀の瞳は、アリスを見るとき、すごく優しい気がしてしまう。


「あなたは……きれいだし、一緒にいて楽しいわ」

「僕も君と話すのはなかなか楽しいよ」


 少年は、嬉しそうに笑った。


 アリスはそれを見て、痛みを堪えるように目を細める。


「……どうして死んでしまったの?」


 風が吹いた。

 澄んだ香りが舞う。


 彼は、そっと、アリスから顔をそらした。


「……さぁね」


 ミントの花が足元で揺れる。


「生きてるあなたに逢いたかったわ」


 少年は遠くの木を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

 やがて、顔を手で覆う。


「……僕、なんか悪いことしてる気分だな」

「どういうこと?」


 手を外すと、彼はアリスに向き合い、いつもの顔で笑う。


「さぁね。今日はもう帰りなよ」

「どうして?」


 彼はちらと空を見た。


「雨が降る。

 それに、これ以上ここにいたら、君は僕に魅入られてしまうよ」


 アリスは眉を寄せる。


「……魅入られる?」


「僕が君を大好きになりすぎて、さらってしまうかもしれない」


 彼女は、息を呑んだ。


「……あの世に?」


 少年は、その美しい顔で、にっこりと笑むだけだった。




 夜。

 別荘のアリスの部屋。


 その窓枠にもたれるようにして、アリスは雨上がりの空を見上げた。

 白く塗られた木枠は、触れると少しだけ冷たい。


「婚約かぁ……。嫌だなぁ……」


 ぼんやりと霞む白い月。

 目を閉じても、開けても、彼の姿や声ばかり思い出してしまう。


「あぁ……最悪ね。

 私、彼のこと……」


 ――好きになっちゃったなぁ……。


 月が滲む。

 少しずつ形が歪んで、ついに見えなくなってしまった。


 アリスは顔を伏せて、泣いた。

 叶わない初恋に、どうしようもないほど胸が締め付けられる。


 ――また明日も、彼はあの場所にいるのかしら……




 翌日。

 

「あぁ、アリス。お前の婚約相手が来た。会いなさい」


 父に呼ばれたアリスが玄関ホールまで降りてくると、父は気楽そうにそう言った。

 

 アリスは眉を寄せる。


「今……ですか?」

「そうだ。庭のティーテーブルで待ってもらってる」


 後ろにいたロッテを振り返ると、彼女は淡く笑んで頷いた。

 アリスは俯き、小さくため息をつく。


「……わかりました」


 ひどく胸が痛む。


 足取りは、とても重い。

 昨夜泣いたせいで、目の下も腫れぼったかった。

 

 外へ出て、庭園へ続く石畳を踏む。

 

 まだ残っている雨粒が、庭の低木の葉に付き、キラキラと光を弾いていた。


 庭の中央に植えられた大きなオーク。


 その下に置かれたティーテーブルには、オークの葉の木漏れ日がちらちらと揺れていた。

 

 アリスに気づいた婚約相手の少年が静かに席を立つ。


「……え」


 そこにいたのは――

 ミントの群生地の、あの少年だった。


「やぁ」


 彼の白い肌を、金の木漏れ日が撫でている。

 風に、淡い金髪が揺れた。


「………………え?」


 彼はにこっと笑うと、自分の胸に手を当てる。


「……僕ね、まだ生きてるみたいなんだ」


 口角を上げ、いたずらっぽく笑った。


 アリスは目を見開き、ロッテを振り返る。

 ロッテは、満面の笑みを浮かべていた。


「……もしかして、知ってたの?」

「えぇ……まぁ……」


 侍女は笑いをこらえ、口元に手を当てる。


「僕の家と君の家は昔から仲が良かったらしいよ。

 それで、僕は君の領地に、顔合わせのために来てたんだよね」


 アリスは眉を寄せたまま、まじまじと少年を見つめる。


「おじ様にお願いして、自然に出会えるようにしてもらったのに……。

 君がいきなり“幽霊”だとか言い出すから驚いたよ」


 少年はロッテをじとっと見た。

 ロッテは笑みを浮かべたまま、はっきりと顔をそらす。


 少年はふっと息を吐くと、また真っ直ぐにアリスを見た。

 そして、「おいで」と手招きする。


 アリスがゆっくり近づいていくと、少年は彼女の指先にそっと触れ、持ち上げた。


 その手は、ちゃんと、温かかった。


「君は僕を幽霊だと思ってたみたいだけど……。

 僕はね、ずっと君に会いに行ってたんだ。

 君がまた来るかもしれないと思って、大して興味もないミントの絵を、ずいぶん描いてしまったよ」


「そ……そうなの?」


 少年はゆっくりと頷く。


「僕は、君となら恋ができそうだと思ってるんだけど、君はどうかな?

 君の返答次第では、僕は君を全力で口説かなくちゃいけないんだけど」


 アリスの顔が真っ赤に染まる。


 少年の手から指を引き抜こうとしたが、思いのほか強く握られ、逃げられなかった。


「改めまして、僕はノエル・アークリン。

 君と同じ十二歳。

 正真正銘、生きている人間だよ」


 琥珀の瞳に、しっかりと顔を覗き込まれる。


「お嬢さん、僕と恋をしてくれますか?」


 風が吹いた。

 ここにはないのに、澄んだ香りが舞う。


「…………はい」


 アリスが小さな声でそう言うと、ノエルは嬉しそうに笑った。




 霧の湖畔の幽霊は、ちょっぴり意地悪で優しい、普通の少年だった。


 霧の向こうには、今日も、湖が静かに光っている。


 きっと、彼となら――

 本みたいな素敵な恋ができる。


 アリスはそう思った。


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