もうすぐ見知らぬ人と婚約が決まるというのに、私は湖畔の幽霊に恋をしてしまった
木漏れ日が霧に触れ、それは小さく砕けた。
水鳥の羽音。
水面に浮かぶ細い葉。
風が吹くと鉛色の湖面が揺れ、それは陽の光をキラキラと弾いた。
アリス・グレイフィールドは湿った湖岸にしゃがみ、その光景を眺めていた。
「ロッテ。きれいね」
「お嬢様……。裾が汚れてしまいます。むしろ、汚れています」
アリスは立ち上がると、スカートの裾を払う。侍女であるロッテを見上げ、へらっと笑った。
「ねぇ、歩いてきてもいい?」
ロッテは草地に淡々と布を敷き、そこに持ってきた籠を置く。
「いいですよ。ロッテはここで待っています。
私の見える範囲にいてくださいね。
――あ、そうそう。このあたりにはミントの群生地もあるそうですよ」
「この湖の近く?」
「はい。旦那様がそう仰ってました」
「へぇ……そうなの。
探してみようかな」
アリスはこの日、グレイフィールド家の領地内にある別荘地に来ていた。
ここへ来るのは、幼少期以来。
彼女にとっては、この地の何もかもが珍しい。
アリスは草を踏んで歩き出す。
湿った土と草は、踏んでも音がしない。
編み上げブーツの底が、しっとりと沈み込んだ。
湖沿いに歩きながら、立ち並ぶ白樺を見上げた。
白い幹にそっと指先で触れ、ゆったりと辺りを見回す。
少し奥には、オークやブナの古い森が広がっているのが見えた。
森の間を流れる霧。
それを辿るように、湿った土を踏んだ。
少し歩くと木が途切れ、小さく開けた場所に出る。
足元には野生のミントが群生し、白や薄紫の小さな花が揺れていた。アリスが手を伸ばして触れると、澄んだ香りが立つ。
やがてアリスは顔をあげる。
そして――
ハッとして息を呑んだ。
木々の隙間から、初夏の陽射しが差し込んでいた。
まるで、そこだけを照らしているように。
横たわる、倒れた古い木。
一人の少年が、その上に腰掛けていた。
花よりも真っ白な澄んだ肌。
陽に透ける淡い金髪。
ミントの花を見つめる瞳は、琥珀色だった。
彼の膝の上にはスケッチブックがのせられている。
少年はミントを写生しているようだった。
鉛筆を持った白い繊細な手が、軽やかに花を描き出していく。
アリスは一歩、下がった。
その時、落ちていた小枝を踏んだ。
パチッ――小さな音が鳴る。
少年は、振り返った。
その美しい琥珀の瞳がわずかに見開かれる。
アリスは震える手で自分の口を覆った。
アリスの青い瞳と琥珀がまっすぐに交わる。
やがて、少年は嬉しそうに微笑んだ。
まるで、花が綻ぶように。
少年は腰掛けていた倒木から跳ねるようにして降りると、アリスに向かって一歩、歩き出した。
アリスは慌てて踵を返した。
背を向け、口を手で覆ったまま、走り出す。
ミントを踏み、木の隙間を抜け、霧の中を駆けた。
土を踏むたび、湿った土の匂いが立ち上る。
どこかで水鳥が飛び立つ音。
霧が、引き裂かれる。
「ロッテ!!」
湖畔で待っていた侍女は、呑気にアリスに手を振った。
アリスが勢いのままに彼女に抱きつくと、ロッテはふらふらとよろけかける。
「……お嬢様、どうされたのです」
ロッテはアリスのキャラメル色の髪をそっと撫でた。
「大変よ! ロッテ!!
すごく綺麗な男の子がいたの!」
「えぇ……?」
アリスが指差す方をロッテも見るが、あるのは白樺だけ。
「……この辺りは幽霊が出るとよく聞きますから、お嬢様が見たのは幽霊だったのでは?」
「……え!」
顔を青ざめさせるアリスの背をトントンと叩くと、ロッテは地面に敷いていた布を手で示した。
「おやつ、召し上がります?」
「……そんな呑気な!」
「ふふ。お嬢様、ロッテがいるから大丈夫ですよ」
アリスはもう一度、ミントの群生地の方を振り返った。
並ぶ細い白い幹の向こう。
鼻の奥には、鮮やかにあの香りが蘇る。
だというのに――
ここから見えるのは、奥にある古い森だけ。
「……幽霊なの?」
その呟きは、湖畔の霧に溶けていった。
別の日。
アリスはまた、湖に散歩に来ていた。
湖沿いに歩き、白樺を抜け、ミントの群生地へ。
淡い霧の光の中。
その日も彼は倒木に座り、絵を描いていた。
アリスは胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。
一度大きく頷き、湿った土を踏んだ。
立ち上る、ミントの香り。
倒木に手を触れると、少し湿っていた。
意を決し、少年の隣に座る。
木の隙間から流れてきた風が、二人の髪をそっと撫でた。
聞こえてくる、小鳥のさえずり。
少年は、スケッチブックに視線を落としたまま、小さく笑った。
「やぁ。この間も会ったね。来てくれて嬉しいな」
白い紙の上の花。
彼の手は止まることなく、絵を描き続けている。
アリスはその整った横顔を見つめ、大きく息を吸った。
「……あの……あなたって幽霊なの?」
少年は手を止め、ゆっくりと顔をあげる。
そして、アリスの方を見た。
「……そうかも。
僕は自分が死んだことに気づいてはいないけど」
「……え」
彼は目を細め、ふわりと笑う。
アリスはそれを見て、つい、頬を染めた。
「まぁ、でも……僕は絵を描いているだけの善良な幽霊だよ」
アリスは小さく息を吐く。
「……そうよね。
――ここに来たら、またあなたに会える?」
「そうとも限らない」
少年はスケッチブックを閉じた。
アリスは眉を下げて、彼の指先を見つめる。
「……そうなの」
「君はまた明日も来るの?」
「あなたがいるなら、来ようと思って……」
「そう。
君が来るなら僕も出てこようかな」
アリスは顔を上げる。
「自由自在なのね」
「……幽霊だからね」
彼は口角を上げて、いたずらっぽく笑った。
翌日。
ミントの群生地で、彼はこの日も絵を描いていた。
アリスが隣に座ると、ちらと視線だけを向ける。
「絵が上手ね」
「……ありがとう」
彼は手を止めて、スケッチブックを閉じた。
自分の膝に肘をつき、頬を支えてアリスを見る。
「どうしたの?
落ち込んでるの?」
アリスは瞳をわずかに伏せて、小さく首を振った。
「私、まだ会ったことも無い方と、婚約が決まりそうなの。父様が仰っていたわ」
「ふぅん」
「貴族令嬢なら、当たり前よね」
「そうだろうね」
アリスは俯き、スカートの布地を握りしめる。
「私、お話を読むのが好きなの」
「うん?」
「恋をしてみたいのよ」
少年は少しだけ視線を彷徨わせてから、またアリスを見た。
「……知らない人と結婚するのが嫌ってこと?」
「……そう。本みたいな素敵な恋がしたいの」
「その人と恋ができるかもしれないよ」
アリスは小さく唇を噛む。
「……わからないじゃない。
それに、勝手に人生が決められるのは、怖いわ」
「……まぁ、そうだね」
ミントの花が揃って揺れている。
群生地を囲うように立つオークの葉も揺れ、小さく葉ずれの音がした。
「元気出してよ。
歌ってあげようか。下手だけど」
「……下手なのに歌うの?」
アリスが顔をあげると、少年は真面目な顔で頷いた。
「下手な歌だと気が抜けるだろう?」
彼の琥珀の瞳に光が差し込み、それは星のように瞬いていた。
アリスはそれに、一瞬視線が吸い込まれる。
やがて、ふっと笑った。
「うふふ、なぁにそれ」
「ほら、笑ってくれた。正解だろう?」
少年が声を上げて笑うと、アリスもつられるようにして声を出して笑った。
ひとしきり笑いあい、ふと、目が合う。
彼は、優しく目を細め、穏やかに微笑んでいた。
アリスの頬が染まる。
耳まで赤くなった。
「あなたは……素敵ね」
「そりゃどうも。僕は幽霊だけどね」
彼はおどけるようにして、胸に手を当てた。
「うふふ」
アリスが笑うと、少年は目元をふわりとやわらげて、アリスをまっすぐに見つめる。
「……君も、とても素敵だよ」
彼女は肩を震わせた。
耐えられず、顔を手で覆う。
少年はそれを見て、また声を上げて笑った。
またある日も、アリスはミントの群生地に来ていた。
彼女は毎日この場所に通っていた。
倒木に腰掛けて写生をしている彼の隣に座り、そのスケッチブックを覗き込む。
「いつもミントの絵を描いているの?」
「それしかないからね」
アリスが顔をあげると、少年は真面目にそう答えた。
「飽きないの?」
「それはどうかな」
彼はアリスを真っ直ぐ見たまま、小さく首を傾げる。
「地縛霊なのかしら」
少年はスケッチブックを閉じて、ふっと笑った。
「……そうかもね」
アリスは空を見上げた。
木の隙間の空は、霧でぼやけて白い。
少し黙ってから、アリスはぽつりと言った。
「婚約者が……あなたみたいな人ならいいのに」
「……どうして?」
ちらと、隣の少年を見る。
出会った日から変わらず白い肌に、透けるような金髪。
琥珀の瞳は、アリスを見るとき、すごく優しい気がしてしまう。
「あなたは……きれいだし、一緒にいて楽しいわ」
「僕も君と話すのはなかなか楽しいよ」
少年は、嬉しそうに笑った。
アリスはそれを見て、痛みを堪えるように目を細める。
「……どうして死んでしまったの?」
風が吹いた。
澄んだ香りが舞う。
彼は、そっと、アリスから顔をそらした。
「……さぁね」
ミントの花が足元で揺れる。
「生きてるあなたに逢いたかったわ」
少年は遠くの木を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、顔を手で覆う。
「……僕、なんか悪いことしてる気分だな」
「どういうこと?」
手を外すと、彼はアリスに向き合い、いつもの顔で笑う。
「さぁね。今日はもう帰りなよ」
「どうして?」
彼はちらと空を見た。
「雨が降る。
それに、これ以上ここにいたら、君は僕に魅入られてしまうよ」
アリスは眉を寄せる。
「……魅入られる?」
「僕が君を大好きになりすぎて、さらってしまうかもしれない」
彼女は、息を呑んだ。
「……あの世に?」
少年は、その美しい顔で、にっこりと笑むだけだった。
夜。
別荘のアリスの部屋。
その窓枠にもたれるようにして、アリスは雨上がりの空を見上げた。
白く塗られた木枠は、触れると少しだけ冷たい。
「婚約かぁ……。嫌だなぁ……」
ぼんやりと霞む白い月。
目を閉じても、開けても、彼の姿や声ばかり思い出してしまう。
「あぁ……最悪ね。
私、彼のこと……」
――好きになっちゃったなぁ……。
月が滲む。
少しずつ形が歪んで、ついに見えなくなってしまった。
アリスは顔を伏せて、泣いた。
叶わない初恋に、どうしようもないほど胸が締め付けられる。
――また明日も、彼はあの場所にいるのかしら……
翌日。
「あぁ、アリス。お前の婚約相手が来た。会いなさい」
父に呼ばれたアリスが玄関ホールまで降りてくると、父は気楽そうにそう言った。
アリスは眉を寄せる。
「今……ですか?」
「そうだ。庭のティーテーブルで待ってもらってる」
後ろにいたロッテを振り返ると、彼女は淡く笑んで頷いた。
アリスは俯き、小さくため息をつく。
「……わかりました」
ひどく胸が痛む。
足取りは、とても重い。
昨夜泣いたせいで、目の下も腫れぼったかった。
外へ出て、庭園へ続く石畳を踏む。
まだ残っている雨粒が、庭の低木の葉に付き、キラキラと光を弾いていた。
庭の中央に植えられた大きなオーク。
その下に置かれたティーテーブルには、オークの葉の木漏れ日がちらちらと揺れていた。
アリスに気づいた婚約相手の少年が静かに席を立つ。
「……え」
そこにいたのは――
ミントの群生地の、あの少年だった。
「やぁ」
彼の白い肌を、金の木漏れ日が撫でている。
風に、淡い金髪が揺れた。
「………………え?」
彼はにこっと笑うと、自分の胸に手を当てる。
「……僕ね、まだ生きてるみたいなんだ」
口角を上げ、いたずらっぽく笑った。
アリスは目を見開き、ロッテを振り返る。
ロッテは、満面の笑みを浮かべていた。
「……もしかして、知ってたの?」
「えぇ……まぁ……」
侍女は笑いをこらえ、口元に手を当てる。
「僕の家と君の家は昔から仲が良かったらしいよ。
それで、僕は君の領地に、顔合わせのために来てたんだよね」
アリスは眉を寄せたまま、まじまじと少年を見つめる。
「おじ様にお願いして、自然に出会えるようにしてもらったのに……。
君がいきなり“幽霊”だとか言い出すから驚いたよ」
少年はロッテをじとっと見た。
ロッテは笑みを浮かべたまま、はっきりと顔をそらす。
少年はふっと息を吐くと、また真っ直ぐにアリスを見た。
そして、「おいで」と手招きする。
アリスがゆっくり近づいていくと、少年は彼女の指先にそっと触れ、持ち上げた。
その手は、ちゃんと、温かかった。
「君は僕を幽霊だと思ってたみたいだけど……。
僕はね、ずっと君に会いに行ってたんだ。
君がまた来るかもしれないと思って、大して興味もないミントの絵を、ずいぶん描いてしまったよ」
「そ……そうなの?」
少年はゆっくりと頷く。
「僕は、君となら恋ができそうだと思ってるんだけど、君はどうかな?
君の返答次第では、僕は君を全力で口説かなくちゃいけないんだけど」
アリスの顔が真っ赤に染まる。
少年の手から指を引き抜こうとしたが、思いのほか強く握られ、逃げられなかった。
「改めまして、僕はノエル・アークリン。
君と同じ十二歳。
正真正銘、生きている人間だよ」
琥珀の瞳に、しっかりと顔を覗き込まれる。
「お嬢さん、僕と恋をしてくれますか?」
風が吹いた。
ここにはないのに、澄んだ香りが舞う。
「…………はい」
アリスが小さな声でそう言うと、ノエルは嬉しそうに笑った。
霧の湖畔の幽霊は、ちょっぴり意地悪で優しい、普通の少年だった。
霧の向こうには、今日も、湖が静かに光っている。
きっと、彼となら――
本みたいな素敵な恋ができる。
アリスはそう思った。




