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最強の引退勇者、合理性を極めすぎて自分を重力で縛り上げてしまう〜隠居先を探す旅なのに、歩くだけで魔王軍が平伏する件〜  作者: 寝不足魔王


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第22話:終焉の冠、あるいは断絶の頂

 断絶の門を背にし、凍土の平原へと足を踏み入れた瞬間、世界はその色を失った。

 そこに広がっていたのは、生命の鼓動を完全に拒絶する、絶対零度の静寂に支配された永久凍土の荒野である。

 大気は魔王の残滓が放つ絶大な魔圧によって物理的な重さを帯び、吸い込むだけで肺腑を焼くような、鋭利な痛みを伴う冷気が三人の喉を灼く。空は淀んだ紫黒の雲に塗り潰され、時折奔る雷鳴が、これから踏み込む場所が世界の終着点であることを、無慈悲に告げていた。


「……若いの。呼吸を整えろ。ここから先は瞬き一回、吐息一つさえも贅沢だと思え。……俺の重圧の圏内から一寸でも外れれば、その脆弱な肺は内側から凍りつき、魂ごと地表に釘打たれることになる」


 ガウェインは三倍の枷を維持したまま、一歩一歩、大地の底に眠る岩盤を穿つような重厚な足取りで進んでいた。

 彼は自身の周囲の重力を精密に制御し、三人を包み込むような不可視の「生存圏」を形成している。外側から押し寄せる魔王城の圧倒的な圧力を、ガウェインという巨大な質量の柱が真っ向から受け止め、霧散させているのだ。彼の歩みが刻むわだちは、凍てついた大地に、もはや消えることのない「王者の証明」として刻印されていた。


「あぅ……っ。……空気が、壁みたいです。……師匠の背中がなかったら、一歩も前に進めない。……自分の魔力が、指先から吸い取られていくみたいだ……」


 セレスは聖印を真っ白になるまで握りしめ、自身の魔力を一点へ集中させていた。

 彼女はガウェインが作る保護圏の境界を、空間ごと『固定』して補強している。外側から牙を剥く不浄な魔圧が、二人の弟子の元へ漏れ出さぬよう、事象の膜を繋ぎ止める。それは、かつて彼女が聖女として求めていた「奇跡」などではなく、ただ一歩を明日へと繋ぐための、泥臭くも崇高な絶技であった。


「……おじさん、見て。……前方の魔力密度が、異常に跳ね上がってる。……まるで、平原そのものが一つの巨大な捕食回路として機能してるみたいだ。……地脈のねじれが、僕たちの存在そのものを喰らおうと、足元を狙ってる……ッ!」


 リュカが眼鏡の奥の瞳を蒼く輝かせ、凍てついた大地の深淵を覗き込んだ。

 彼の『構造視』には、地表を走る不可視の亀裂が、巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされているのが見えていた。一歩踏み外せば、そこから溢れ出す瘴気に呑み込まれ、存在ごと消滅させられる。リュカは、最も歪みの少ない、針の穴を通すような細い進路を、ガウェインに示し続けた。


「……ふん。いいぞ、若いの。……お前たちのその『不自由な執念』が、この死の世界に確かな生の轍を刻んでいる。……行くぞ。この不合理な重圧に抗い、明日を掴み取るための唯一の支柱に、しっかりとしがみついていろ」


 ガウェインの低い声が、重苦しい大気を物理的に震わせる。

 その視線の先。

 雲海を突き抜け、星々を食い潰すかのように聳え立つ魔王城の影が、巨大な牙となって一行を待ち構えていた。


 平原の中程に差し掛かったとき、視界を塞いでいた灰色の霧を暴力的に引き裂き、地平線の端から端までを塗り潰す「絶望」が姿を現した。

 それは単一の魔物の咆哮ではない。魔王城の再起動という不条理な鼓動に呼応し、北の各地から這い出してきた魔王軍の残党――数多の魔物たちが成す、地響きを伴った漆黒の軍勢であった。


 蠢くのは、かつての戦役でガウェインがその首を撥ねたはずの、上位種たる魔導兵や重装鬼の成れの果てだ。それらが意思を欠いた肉塊の波となり、数万という暴力の層を成して平原を埋め尽くしている。彼らが放つ憎悪は物理的な熱量となって大気を焼き、ガウェインが作る生存圏の境界をミシリ、ミシリと削り取っていく。


「……あ。……あぁ……っ。な、なに、これ……。解析しきれない。……個の形が、軍勢という一つの巨大な質量になって……僕の頭の中に流れ込んでくる……っ。……おじさん、正面突破なんて無理だ。この数は、もう生命いのちの集まりじゃない。……ただの滅びの奔流だよ……っ!」


 リュカが眼鏡の奥を血走らせ、激しい嘔吐感に耐えながら絶叫した。

 彼の『構造視』が捉えたのは、数万という個体の羅列ではなかった。魔物同士の魔力が複雑に絡み合い、一つの巨大な「捕食する壁」と化して平原を呑み込もうとする、異形の構造体。

 地面を叩く蹄の音、鎧の擦れる不快な金属音、そして、言葉にならぬ怨嗟の叫びが、北の地の静寂を木っ端微塵に粉砕していた。


「……若いの。数に惑わされるなと言ったはずだ。……どれほど巨大な壁であろうと、それを繋ぎ止めるくさびと、魔力を運ぶ血管は必ず存在する。……お前がその綻びを見抜き、セレスがその一点を世界から切り離す。……道がないなら、俺がこの軍勢の心臓ごと、力ずくで踏み抜いてやる」


 ガウェインは三倍の枷を維持したまま、重力鎖を短く、握り拳が白くなるほど強く引き込んだ。

 かつての彼は、この圧倒的な物量を前にしたならば、自身の内臓が弾けるのも厭わずに全重力を解放し、周囲を更地へと変えていただろう。だが、今の彼は、隣で肩を震わせる二つの未熟な命を、自分を支える「新しい軸」として、静かに、しかし深く信頼していた。


「了解です、師匠! ……私、もう目は逸らしません。……あなたの背中が、この絶望の中で一番頼もしいって、知っていますから!」


 セレスが叫び、聖印から溢れ出す蒼い魔力を自身の周囲に固定し、突撃の衝撃に耐えるための防壁を幾重にも編み上げる。


「……わかった。……やってやるよ。……あそこの、ひときわ高い魔圧を放つ重装歩兵の影……。そこが、軍勢全体の魔力供給を安定させている『ふし』だ。……あそこを叩けば、この巨大な構造は、自分の重さに耐えきれずに自壊する!」


 リュカが、溢れる涙を拭い去り、軍勢という名の怪物の急所を指し示した。

 ガウェインは抜刀せず、ただ深く、地の底に眠る巨龍を揺り起こすような呼吸を一つ。

 引退勇者の旅路。

 数万の死を纏う軍勢に対し、たった三人の師弟が、世界で最も合理的で、最も重厚な「反撃」の火蓋を切ろうとしていた。


 ガウェインは、自身の腰にある剣の柄にさえ触れなかった。

 彼はただ、呼吸を深く、地底のマグマを鎮めるように沈めると、三倍の枷を維持したまま、黒い波の只中へと悠然と足を踏み入れた。


 ドォォォォォン……!


 一歩。彼が凍てついた土を踏みしめるたび、周囲の大気が物理的な「質量」となって円状に爆ぜた。

 殺到する魔物たちは、ガウェインの肉体に触れるどころか、その周囲数歩の領域に踏み込んだ瞬間、天から巨大な不可視の槌で打たれたかのように、一瞬で地面へと埋め込まれていく。

 それはかつての彼が見せた、周囲を無差別に消滅させる破壊ではない。

 自身の歩みに伴う質量の移動を極限まで制御し、敵の密度が最も高い地点へ、重圧の芯を一点に転移させる――熟練の重力使いのみが成せる、静かなる蹂躙。


「……若いの、目を逸らすな。これが、重力を『歩法』に変えるということだ。一グラムの無駄もなく、ただ真っ直ぐに、己の往くべきわだちを刻め」


 ガウェインの背中は、数万の殺意が吹き荒れる嵐の中でも、微塵も揺らがない。

 突き出される槍も、振り下ろされる斧も、彼が踏み出す重厚なリズムが放つ重圧の圏内に入った瞬間、持ち主の腕ごと歪にへし折られ、泥の中に沈んでいく。

 地平線を埋め尽くしていた軍勢は、このたった一人の老兵が作り出す「絶対的な質量の断層」によって左右へと割られ、三人の通り道だけが、死の平原に現れた唯一の静寂な聖域となった。


「……あ。……あぁ……っ。おじさん、すごいや。ただ歩いているだけなのに、軍勢の連携そのものが、足元から瓦解していく……っ」


 リュカが眼鏡の奥を血走らせ、その『構造視』で戦場を支配する「重みの理」を捉えて叫んだ。

 かつての孤独な勇者には成し得なかった、三つの軸が織りなす重厚な進撃。

 魔物たちの咆哮も、刃の音も、ガウェインの刻む一歩の下に平伏し、ただ大地と肉塊が一体化する鈍い音だけが、葬送曲のように響き渡っていた。


 軍勢の中央を「重みの轍」で強引に切り裂き、天を突く魔王城の威容がいよいよ眼前に迫る。だが、城の正門を目前にして、軍勢の残滓たちは、これまでの無秩序な狂奔を捨て、一斉に陣形を立て直した。

 上空を覆うのは、黒い霧を纏い、呪詛の言葉を紡ぎ続ける魔導兵の群れ。地上からは、鋼鉄の装甲と生物的な肉塊が癒着した異形の巨獣たちが、一糸乱れぬ動きで一行を包囲し、その巨大なあぎとを開く。


「……ふん。ようやく少しは歯応えのある抵抗を見せるか。……リュカ、敵の集団を繋いでいる『魔力の糸』を抉り出せ。……セレス、その糸の結び目を一歩も動かさぬよう繋ぎ止めろ」


 ガウェインの声が、数万の咆哮を真っ向から圧し潰し、弟子たちの耳に届く。

 リュカは眼鏡の奥の瞳を限界まで見開き、溢れ出す鼻血を拭う暇もなく、明滅する戦場の深淵を覗き込んだ。彼の『構造視』には、もはや個々の魔物の姿など映っていない。見えているのは、上空の魔導兵が中継し、地上の巨獣たちへと供給されている、不気味に脈動する巨大な「魔力の循環回路」だ。


「了解……! 今、見えた! あそこの浮遊している上位個体、あいつが全体の魔圧を統制してる! その影の端、そこがすべての力の合流点だ!」


 リュカが指し示したのは、猛攻の真っ只中にある、わずかな「無」の空間。

 セレスは一瞬の迷いもなく、己の魂を削るような集中力で、全魔力をその一点へと解き放った。


「――固定ホールドッ!!」


 パキリ、と。

 世界の骨組みが軋むような音が響き、事象が凍りついた。

 リュカが看破した供給の要衝。そこをセレスの魔力が事象ごと空間に繋ぎ止めた瞬間、軍勢を繋いでいた魔力の奔流が逃げ場を失い、魔物たちの内部で逆流を始めた。爆発的な負荷に耐えきれず、精鋭たちの陣形が内側から崩壊し、絶叫が平原を震わせる。


 その混乱の渦中へ、ガウェインが最後の一押しを叩き込んだ。

 彼は拳を振るわず、ただ自身の周囲に展開された重圧の障壁を、前方の一点へと指向性を持たせて収束させた。

 ドォォォォォォンッ!!

 圧縮された空気が不可視の衝角となり、包囲網を正面から粉砕した。

 一人は解析し、一人は繋ぎ止め、一人はそのすべての綻びを重圧で押し通る。


「……いいぞ。この連携こそが、個の力を超えた『合理』の極致だ。お前たちのその不自由な執念が、この絶対的な軍勢をただの案山子に変えたぞ」


 ガウェインの低い声が、混乱する戦場に重々しく響く。

 三つの軸が完璧に噛み合い、数万の軍勢が成す壁は、もはや三人の歩みを止める盾にはなり得なかった。目前には、ついにすべての元凶を封じる漆黒の門扉が、その禍々しい全容を現していた。


 守護者であった漆黒の巨躯が、ガウェインの放った絶対的な重圧に耐えかねて内側から爆ぜ、砂利じゃりとなって凍土に崩れ落ちると、平原を支配していた咆哮は、不気味なほど急激にその熱を失っていった。

 後に残されたのは、天を突き、星々さえも食い潰さんばかりに聳え立つ、魔王城の巨大な正門のみである。


 その門扉が、長い眠りから覚めた巨獣が呻きを漏らすような、あるいは世界の骨組みが軋むような、低く重厚な排気音を立てて、ゆっくりとその口を開き始めた。

 数十年という歳月、一筋の陽光さえも許さず、ただかつての英雄への怨念と魔王の残滓を煮詰めてきたその深淵。開かれた隙間から溢れ出してきたのは、二十年前、ガウェインが自らの全盛期の輝きをすべて薪にして封印した、あの「地獄の冷気」そのものであった。


 それは単なる低温ではない。生命ある者の魂から熱を奪い、明日への希望を物理的に凍結させる、腐敗した魔力の毒霧。門から這い出してきた暗赤色の瘴気が雪原に触れた瞬間、周囲の雪は溶けることさえ許されず、黒い結晶となって砕け散った。


「……あ、あぅ……っ。……中から、言葉にならない、すごい魔圧が……来ます。……これ、本当に、一人の人間が立ち向かっていい場所じゃない。……世界そのものが、ここで終わっているみたいだ……」


 セレスは聖印を、掌が真っ白になるまで、爪が食い込むほど強く握りしめた。彼女の『固定』の魔力でさえ、この門の奥から漂う「不変の絶望」に晒されただけで、まるで硝子細工のように脆く強張り、一呼吸ごとにひび割れていく。

 かつて彼女が聖女として、人々の救済を信じていた頃に見た光。それがここでは、一グラムの価値も持たない無力な灯火に過ぎないことを、突きつけられるような恐怖。彼女の白い吐息さえも、門から溢れる暗黒に吸い込まれ、霧散することさえ許されない。


 リュカもまた、眼鏡の奥で激しく明滅する、構造さえもが不規則に歪み、自己崩壊を繰り返す世界の在り様に圧倒されていた。

 彼の『構造視』が捉えた城内は、もはや石造りの建築物としての理を完全に逸脱していた。壁は脈打ち、床は底なしの虚無へと繋がり、魔力の循環は円を描くことなく、ただ破壊と再生を不規則に繰り返すカオス。

「……だめだ、見ちゃいけない。……あそこは、理屈が通じない場所だ。……骨組みが、生きた肉みたいに捩れて、僕の頭の中に直接、泥を流し込んでくる……っ」

 リュカは激しい耳鳴りに耐えかねて頭を抱え、それでもなお、隣に立つ老兵の「不動」の背中を、命綱を求めるようにして見つめ続けた。


「……若いの。恐怖を、その魔力の芯に馴染ませろ。……ここから先は、俺の引退を邪魔する本当の不合理しかいない場所だ。……お前たちのその『目』と『手』がなければ、俺は今度こそ、自分自身の過去という名の重みに、物理的に押し潰されることになるだろう」


 ガウェインは、三倍の枷をさらに重厚な、不動の重みとして自身の肉体に定着させた。

 鎧の下では、五倍、六倍へと跳ね上がろうとする内圧に耐えかねた血管が浮き上がり、筋肉が悲鳴のような軋みを上げている。だが、彼はその苦痛を「生きている証」であるかのように静かに受け入れていた。

 彼は重力鎖を短く、そして二人をこの世に繋ぎ止めるための、唯一の救いの綱として、掌から血が滲むほど強く引き込んだ。


 ガウェインは一度も振り返ることなく、開かれた暗黒の深淵へと、大地の骨を揺らし、凍土の記憶を呼び覚ますような、重厚な一歩を刻んだ。


「……行くぞ。……俺が、俺として、この世界の物語から身を引くために。……最後の一グラムまで、この手で、かつての自分ごと整理してやる」


 三人の影が、開かれた門の奥、絶対的な静寂と、光さえも吸い込む超重圧が支配する魔王城の胎内へと吸い込まれていく。その背後で、重厚な扉が「……ゴ、ォン」と、この世のあらゆる温もりを断絶する、逃げ場のない音を立てて再び閉ざされた。


 引退勇者の旅路は、ついに最終局面――その深淵の入り口へと辿り着いた。

 不機嫌な老兵が背負い続けてきた「枷」の真価が問われる、本当の終焉へと、その歩みは一切の迷いなく加速していった。



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