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最強の引退勇者、合理性を極めすぎて自分を重力で縛り上げてしまう〜隠居先を探す旅なのに、歩くだけで魔王軍が平伏する件〜  作者: 寝不足魔王


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第14話:英雄の忘れ物、あるいは琥珀色の午後

 花の村『アニマ』の村役場を兼ねた石造りの館は、夕陽の琥珀色を吸い込んで、静かに佇んでいた。

 ガウェインは、三倍の加圧を維持したまま、重厚な扉をゆっくりと押し開いた。ギィ、という蝶番の鳴る音が、静まり返った館内に響き渡る。


「……若いの、立ち止まるな。中に入るぞ。……お前のその、落ち着きのない顔は、ここでは目立ちすぎる」

「あぅ……っ、分かってますけど! でも師匠、見てください。この建物の柱、全部手彫りのアネモネですよ……。どれだけこの村の人が、ここを大切にしてるか分かります」


 セレスは、門を潜った時から感じていた。この村には、誰かが守り抜き、誰かが育み続けた「祈り」に似た温かさがある。

 エントランスの奥、二階へと続く階段の踊り場で、一人の女性が立ち尽くしていた。

 琥珀色の髪を後ろで緩く束ねた彼女――マリアは、手に持っていた書類の束を、音もなく床に滑り落とした。

 

 彼女の視界に映ったのは、幻影ではない。

 二十年前。燃え盛る村の中で、返り血を浴びながらも、自分を抱きしめる腕だけは震えるほど温かかったあの「恩人」。

 その男が、当時よりも少しだけ肩を丸め、しかし相変わらずの、岩石のような威圧感を纏ってそこに立っている。


「……ガウェイン、様。……本当に、ガウェイン様、なのですか……?」


 彼女の声は、長い年月をかけて磨かれた水晶のように、透明で、震えていた。

 セレスは、マリアの瞳に瞬時に溢れ出した涙を見て、自分の胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。それは、外部の人間が決して踏み込んではいけない、あまりにも濃密な時間の断層だった。


「……マリア。……書類を散らすな。拾うのが大変だぞ。……それと、様を付けるな。俺はただの、旅の途中に立ち寄っただけの通りすがりだ」


 ガウェインの第一声は、再会を喜ぶ言葉でも、懐かしむ響きでもなかった。

 ぶっきらぼうで、素っ気ない、いつもの拒絶。

 だが、マリアは泣き笑いのような表情を浮かべ、裾を汚すのも厭わずにその場に膝をつき、ひらひらと舞う書類をかき集めた。


「……ふふっ。相変わらずですね。……最初の言葉が、小言だなんて。……でも、その声です。……二十年間、忘れたことはありませんでした。……少しだけ怒っているような、でも、本当は誰よりも優しい声……」


 マリアは立ち上がり、書類を胸に抱いたまま、ゆっくりと階段を下りてきた。

 一歩ごとに、彼女の瞳からは琥珀色の涙が零れ落ちる。

 彼女はガウェインの目の前まで来ると、その傷だらけの、分厚い鉄の籠手に包まれた右手に、そっと自分の指先を重ねた。


「……おかえりなさい、ガウェイン。……私……。……待っていました。あなたがこうして、またここへ足を向けてくれるのを、ずっと、ずっと……」


「……立ち寄っただけだ。一晩休めば、すぐに出る。……あまり構うな」


 ガウェインは視線を逸らし、短く鼻を鳴らした。

 だが、彼が自分にかけている『不動の枷』の波形が、彼女の温もりに触れた瞬間に、湖面に落ちた一滴の雫のように、静かに凪いだのをセレスは見逃さなかった。


 散らばった書類をまとめ終えたマリアは、どこか弾んだような足取りで、二人を村の案内へと連れ出した。

 夕陽がアネモネの花畑をさらに赤く染め上げ、家々の窓からは夕食の支度をする煙が立ち上っている。ガウェインは三倍の加圧を維持したまま、マリアの半歩後ろを、一歩ごとに土を深く踏みしめて歩く。セレスはその後ろを、村全体に流れる穏やかな空気に戸惑いながら付いていった。


「見てください、ガウェイン。あそこにある広場……あそこは、あなたがあの日、私を守って最後に立っていた場所です。あの日、あなたの力で深く裂けた大地から、翌春に一番最初に芽吹いたのが、あのアネモネだったんですよ」


 マリアが指差した先には、燃え上がるような真紅の花が群生していた。そこはかつて、ガウェインが魔王軍を食い止めるために地を割り、死闘を繰り広げた場所だ。村人たちはその跡を埋めるのではなく、平和を勝ち取った証として、大切に育て続けていた。


「……ただの草だろう。一度耕された土地は芽吹きやすい。それだけの話だ。……若いの、そんなに珍しそうに眺めるな。足元が疎かになっているぞ」


 ガウェインはぶっきらぼうに言い捨てたが、その視線は広場の中央で無邪気に駆け回る子供たちの姿を、静かに、そして慈しむように追っていた。セレスはマリアの隣に並び、声を潜めて問いかける。


「マリアさん……。師匠はあんな風に言ってますけど、あの日、本当に一人でこの村を守り抜いたんですね」


 マリアは立ち止まり、琥珀色の瞳を優しく細めた。

「ええ。凄まじい、なんて言葉では足りませんでした。空が落ちてきたかと思うほどの衝撃と、地響き。でも、私の記憶に強く残っているのは、その恐怖じゃないんです。……血を流しながら、私の小さな手をぎゅっと握りしめてくれた、あの人の指先の震え。そして、戦いが終わった後に見せた、あの寂しそうな背中……」


 マリアの話すガウェインは、セレスが知る「最強の引退勇者」でも、かつての戦場を蹂躙した「破壊の化身」でもなかった。

 それは、誰かを守るために、自分自身の限界を超えてボロボロになった、一人の不器用な青年の姿だった。


「ガウェインは、この村に来たことを『ただの寄り道だ』と言います。……でも、彼はあの日、自分のすべてを投げ出して、私たちの明日を繋いでくれたんです。だから私たちは、二十年間、彼がいつ帰ってきてもいいように、この村を大切に守ってきました。彼が守ってくれたこの景色を、彼自身にもう一度見てほしくて……」


 村の家々の壁には、今も戦火の傷跡が僅かに残されているが、その周囲を色鮮やかな蔦と花々が優しく包んでいる。

 セレスは、ガウェインがなぜこの村を「唯一の救い」のように思っているのかを理解した。彼はここで、初めて自分の力が、暴力ではなく「誰かの笑顔」として結実した結果を目にしたのだ。


「……おい、いつまでそこで立ち止まっている。……若いの、日が暮れるぞ。宿に荷物を置くのが遅れれば、晩飯の時間が削られる。……さっさと歩け」


 前方から飛んでくる、容赦のない催促。

 セレスは「あぅ、すみません!」と慌てて姿勢を正したが、マリアはクスクスと楽しげに笑い、ガウェインの背中に寄り添うように歩き出した。

 平和を守り抜いた男と、それを育み続けた女。

 二人の歩む轍は、琥珀色の夕闇の中で、静かに重なり合っていた。


 村を一望できる小高い丘へと続く小道。そこは夕陽が最後の一片を地平線に隠そうとし、世界が最も濃厚な琥珀色に染まる場所だった。

 ガウェインはセレスを村の宿に残し、マリアに誘われるまま、二人きりで草の匂い立つ道を歩いていた。


 三倍の加圧を維持したままの彼の足音は、柔らかい土を「グ、グ」と確かな手応えで踏みしめる。横を歩くマリアの足取りは、あの日、彼が抱き上げた少女の頃のように軽やかで、時折いたずらっぽくガウェインの顔を覗き込んだ。


「……マリア。何も喋らんと、目的地を言え。俺の脚は、無駄な散歩のためにあるわけじゃない」

「ふふ、目的地ならもう着いていますよ。……ここは、あなたがあの日、私に『泣くな』と言って、自分の護り刀を預けてくれた場所です」


 マリアが立ち止まった。

 彼女は胸元に手を伸ばすと、服の襟の奥から、紐で吊るされた一本の小さなナイフをゆっくりと取り出した。

 それは、もはや武器としての体を成していなかった。

 刃はガウェインが全盛期に放った絶大な魔力の余波に曝され、熱で捻じ切れたように大きく歪んでいる。柄の部分も、強力な握圧によって指の形に凹んでおり、それは鉄の塊というより、壮絶な戦いの記憶を封じ込めた彫像のようだった。


「……捨てていなかったのか。そんな歪んだ鉄屑、持っていても荷物になるだけだろうに」

「私にとっては、どんな聖剣よりも心強いお守りでした。……あの日、あなたがこれを私の手に握らせてくれたとき、伝わってきたんです。……世界中の敵を押し潰すその大きな掌が、私のような小さな存在を傷つけないように、必死に震えて、力を抑えてくれていたことが」


 マリアは歪んだナイフを愛おしそうに両手で包み、残照にかざした。

 ガウェインは無言で、その歪みを見つめた。

 それは、彼が「最強の勇者」として完成されていた頃の、自分でも持て余していたはずの「優しさ」が、形となって残ってしまったものだった。


「二十年です、ガウェイン。……あなたがこの村を去ってから、私はこのナイフの重さを、あなたの手のひらの温かさだと思って生きてきました。……他の方からお話をいただくこともありましたけれど、この歪みを見るたびに思い出すんです。……私のためにボロボロになって戦ってくれた、あの人の不器用な背中を。そう思うと、他の誰の言葉も、私には届きませんでした」


 マリアの独白は、静かに、しかし動かしがたい重みを持ってガウェインの耳に届く。

 ガウェインは、自身の『不動の枷』の出力を、無意識のうちにさらに強めていた。そうしなければ、彼女が真っ直ぐにぶつけてくる想いに、足元が揺らいでしまいそうだったからだ。


「……馬鹿な女だ。俺は、ただ目の前の敵を片付けたに過ぎない。他意はなかった」

「嘘ですね。……そうじゃなきゃ、二十年経ってから、わざわざこんな辺境の村に食料を買いに来たりしません」


 マリアが一歩、ガウェインに近づいた。

 彼女の髪から、アネモネの甘い香りが風に乗って立ち上る。

 二十年前、血まみれの鎧にしがみついていた小さな手は、今は温かな温もりを持つ大人の女性の手となり、ガウェインの分厚い胸当てにそっと添えられた。


「……白髪が増えましたね。……でも、その少しだけ悲しそうな目は、あの日のまま。……私、もう一度だけ、わがままを言ってもいいですか?」


 陽が沈み、世界の輪郭が曖昧な薄闇に溶けていく。

 ガウェインは答えなかった。

 だが、彼が背負う三倍の重圧は、彼女の柔らかな体温を拒絶するように弾くことはなく、ただ琥珀色の静寂の中に、吸い込まれるように沈み込んでいった。


 晩餐の熱気が引き、心地よい満腹感と静寂が館を包み込む頃。ガウェインは独り、月明かりが青白く降り注ぐバルコニーへと出ていた。

 三倍の重力を維持する彼の身体が手摺りに預けられると、石造りの土台が「ミシリ」と低い音を立てる。夜風に乗って届くアネモネの香りは、昼間よりもずっと冷ややかで、どこか懐かしい匂いがした。


「……身体が鈍っているな。……酒のせいか、それとも、この場所の空気がそうさせるのか」


 ガウェインは自身の指先を見つめた。いつもなら微塵の震えも許さない鉄の規律が、今は夜風に惑わされるように、僅かに揺らいでいる。

 背後で、軽い衣擦れの音が響いた。振り返らずとも、それが誰であるかはその気配で理解できた。マリアが、薄手のショールを肩に羽織り、彼の隣へと歩み寄る。


「……寝ていろと言ったはずだ。……マリア、お前の明日の公務に障るぞ」


「ふふ、そんなに怒らないでください。あなたが来てくれたのが嬉しくて、目が冴えてしまっただけですから」


 マリアが隣に立ち、ガウェインと同じように月を見上げた。

 二人の距離は、拳一つ分。だが、ガウェインが展開する常時加圧の障壁が、そこには目に見えない境界を作り出している。マリアはそんな彼を責めるようなことはせず、ただ穏やかに言葉を継いだ。


「さっきの食事、口に合いましたか? 味付け、忘れていなくて良かったです」


「……ああ。……お前、さっきの給仕のタイミング、あの日と全く同じだったな。……二十年も経っているというのに」


 ガウェインの問いに、マリアは小さく首を振って笑った。


「覚えているものですよ。……二十年前、あなたが私の隣で、ボロボロになりながらパンを食べていた時のこと。……あなたは、本当に美味しいと感じているときは、眉間の皺がほんの少しだけ動くんです。……あぁ、今は美味しいと思ってくれているんだな、って。それを見ているだけで、私は幸せでした」


 ガウェインは、かつての感覚を思い出したかのように指を曲げ、深い溜息をついた。

 彼女の言葉には、二十年という歳月を特別なものとして飾り立てるような重苦しさはない。ただ、あの日から今日まで、彼女の中でガウェインという存在が、日常の一部として息づき続けていたことを示していた。


「……マリア。……お前は、俺の腕がどれほど重いか、まだ分かっていない。……俺の隣にいれば、お前までこの重苦しい世界に引きずり込むことになる」


「ええ、分かりません。あなたがどれほど過酷な場所にいて、どれだけ重いものを背負っているのか、私には想像もつきません。……でも、ガウェイン。……もし、その重荷を下ろしたくなったときは、いつでもここに戻ってきてください。この村も、私も、ずっとここにいますから」


 マリアの声は、月夜に溶けるほどに穏やかだった。

 ガウェインは、彼女の顔を見ることができなかった。ただ、拳を強く握り締め、月明かりの中に自分の長い影を落とすことしかできなかった。

 大人同士の、触れ合うことの叶わない距離。

 ガウェインの『不動の枷』は、今、彼自身の心臓を、過去のどの戦場よりも深く、静かに締め付けていた。


 月光が青白くバルコニーを照らし、マリアの琥珀色の瞳を透き通った宝石のように輝かせていた。

 彼女の指先がガウェインの腕に触れたまま、その小さな温もりが、冷え切った彼の鉄の鎧を通じて、心の最深部へと染み渡っていく。二十年間、一度も緩むことのなかった彼の自制心が、夜風にさらされた砂の城のように、足元から静かに崩れ始めていた。


「ガウェイン……もう、いいんですよ。これ以上、自分をいじめなくても」


 マリアの声は、どこまでも澄んでいた。

 彼女は、ガウェインが自分自身にかけている『不動の枷』の重圧を、その肌で直接感じ取っていた。彼が自分を律するために背負い続けている苦痛を、彼女はあの日からずっと、自分の痛みのように案じ続けてきたのだ。


「この村は、あなたが守ってくれた場所。ここにあるすべてが、あなたの帰りを待っていたんです。……お願いです。この重荷を、もう下ろしてください。ここで私と一緒に、穏やかな時間を過ごしましょう。あなたがもう戦わなくていいように、私が、あなたの心を支えますから」


 それは、引退を望み、安らぎを求めて旅を続けてきたガウェインにとって、至高の救いのはずだった。

 この手を取れば、明日からの過酷な行軍も、三倍の加圧に耐え続ける日々も、すべてが終わる。愛する女性の側で、朝陽を浴びて土を耕し、穏やかに老いていく――。彼が二十年間の地獄の中で、一度たりとも夢見ることさえ許さなかった、黄金色の未来がすぐそこにあった。


「……マリア。お前は、本当に……優しいな」


 ガウェインは、ゆっくりと自分の右手を持ち上げた。

 彼女の柔らかな頬に触れ、その温もりを独り占めしたいという衝動が、彼の理性を塗り潰そうとする。

 だが、その指先が彼女に触れる直前、ガウェインの耳に、かつての戦場での絶叫が木霊した。

 力の余波で死んでいった仲間。畏怖の眼差しを向けてきた生存者たち。そして、今も世界のどこかで蠢いている、自分が片付けるべき「魔王の残滓」。


 彼が今、この手を取れば、彼は「勇者」であることを完全に辞めることになる。それは同時に、この村の平和という名の均衡を、自身の「重み」で破壊してしまうことを意味していた。

 自分のような怪物が、安らぎの中に居着くことは、いつか必ずこの村に、自分が背負う「因縁」を引き寄せることになる。


「……できん。マリア、お前のその願いは……俺にとって、何よりも重い『枷』だ」


 ガウェインは、自身の『不動の枷』を、かつてないほど強固に、冷徹に発動させた。

 ドォン、と。

 バルコニーの空気が激しく震え、マリアの手が弾かれるように離れた。

 ガウェインの周囲には、再び誰も寄せ付けない、絶対的な質量の断絶が生まれていた。


「……俺の腕は、お前を抱くにはあまりにも汚れすぎている。お前の平和を汚してまで、俺だけが救われるわけにはいかんのだ」


「……ガウェイン、様……」


「……様を付けるなと言っただろう。……俺は、引退する場所を探しているだけの、不機嫌な老いぼれだ。……お前のその、琥珀色の時間の中に、俺を混ぜるな」


 ガウェインは背を向け、夜の闇が支配する村の情景を睨みつけた。

 マリアを拒絶したのではない。自分自身に、これ以上の幸福を許容することを、彼の合理性が……いや、彼の不器用すぎる誠実さが許さなかったのだ。

 

 大人同士の、触れ合うことのできない距離。

 ガウェインの『枷』は、今、彼自身の心臓を、過去のどの地獄よりも深く、残酷に締め付けていた。


 翌朝、アネモネの花びらを揺らす風は、夜の湿り気を帯びたまま、村の入り口へと吹き抜けていた。

 ガウェインは宿の前に立ち、背嚢のベルトを一際強く締め直した。三倍の加圧を維持する彼の足が土を踏みしめるたび、夜の間に降りた朝露が弾け、周囲の砂埃を静かに沈めていく。


「……若いの。いつまでその焼き立てのパンの袋を抱えている。早くしろ、移動の計算が狂う」

「あぅ……。だって師匠、これ、マリアさんが『道中で食べてね』って、わざわざ早起きして焼いてくれたんですよ。……まだ、こんなに温かいのに……」


 セレスは、丁寧に包まれた麻袋を抱え、何度も後ろの館を振り返りながら歩いていた。

 昨夜のバルコニーで、二人の間にどのような対話があったのか、彼女は知らない。だが、今朝のガウェインの背中が、昨日よりも一段と大きく、そしてどこか近寄りがたいほどの「重み」を纏っていることは、言葉を交わさずとも理解できた。


 村の境界にある石門。そこには、村長としての凛とした装いに戻ったマリアが、一人で立っていた。

 彼女の瞳には、昨夜の涙の跡は微塵もなかった。ただ、朝陽を反射して琥珀色に輝くその双眸は、旅立つ男のすべてを包み込むような、穏やかな慈愛に満ちている。


「……マリア。食料の補給は済んだ。……この村の物価は、旅人に優しすぎる。……次はもう少し、適正な価格で商売をすることを勧めるぞ」

「ふふっ。ありがとうございます、ガウェイン。……でも、あなたにだけは、どんなに対価を積まれても足りないくらいなんです。……これは、私たちの『気持ち』ですから」


 マリアは、ガウェインの足元まで歩み寄り、その分厚い籠手に最後の手を添えた。

 ガウェインは拒まなかった。三倍の枷は、今この瞬間だけは、彼女の柔らかな体温を静かに受け入れていた。


「……行ってしまうのですね。……あなたの『引退』は、まだ先にあるのですね」

「……ああ。……俺にはまだ、片付けるべきゴミが残っている。……それが終わらぬ限り、俺の重力は止まらん」

「分かりました。……なら、私はここで、あなたの帰りをずっと守っています。……あなたがいつか、本当にすべての重荷を下ろして、ただの『ガウェイン』として笑える日が来るまで。……二十年待てたのですもの、あと十年や二十年、大したことありませんわ」


 マリアは満面の笑みを浮かべ、ガウェインの手をポンと叩いて離した。

 それは、別れの悲しみではなく、愛する男の生き様を肯定し、背中を押すための、あまりにも潔い門出の儀式だった。


「……行くぞ、セレス。……加速する。……遅れるなよ」

「っ、はい! 師匠! ……マリアさん、ありがとうございました! また、絶対に来ますから!」


 ガウェインは一度も振り返らなかった。

 一歩、また一歩。

 彼の足音が、花の村の静寂を揺らし、再び荒野の乾いた響きへと変わっていく。

 その背中にかかる重圧は、昨日よりも少しだけ重く、そして誇らしげに見えた。


 引退勇者の旅路。

 一人は、最愛の女性の願いを胸に、世界の不条理をすための孤独な道を往く。

 一人は、師匠の「合理」の裏にある優しさを噛み締め、その重い足跡を必死に辿っていく。


 琥珀色の朝陽に照らされた二人の影が、地平線の先にある「断絶の門」へと、力強く伸びていった。


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