表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最強の引退勇者、合理性を極めすぎて自分を重力で縛り上げてしまう〜隠居先を探す旅なのに、歩くだけで魔王軍が平伏する件〜  作者: 寝不足魔王


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/24

第12話:孤高の轍、あるいは愛弟子の意地

 バザールの堅牢な城壁が地平線の彼方へと沈み、視界を遮るもののない、赤茶けた荒野が再び二人を迎え入れた。

 朝の冷気を含んだ風が、乾いた大地の匂いを運んでくる。ガウェインは、自身の肉体に課し続けている三倍の加圧を微塵も緩めることなく、一定のリズムで大地を踏みしめていた。彼が通った後には、岩盤さえも僅かに沈み込ませる、深く重い「轍」が刻まれていく。


「……若いの。昨日までの成功という名の贅肉ぜいにくは、この門を潜った瞬間に捨ててきたな? バザールで人々に拝まれた程度で、自分の実力が上がったと錯覚しているなら、今すぐその足を切り落として置いていけ。……移動の邪魔だ」


 ガウェインの声は、朝日を浴びてもなお、凍てつくような冷徹さを保っていた。

 彼は歩きながら、自身の左手首から伸びる不可視の『重力鎖』を、クイと短く引き寄せた。


「ひゃぅっ!? ち、ちょっと、師匠! いきなり引っ張らないでください! せっかく、お爺さんにもらったお菓子を大事に食べようと思ってたのに……っ」


 連結された重力鎖が短くなったことで、セレスにかかる負荷は、以前よりもダイレクトで暴力的なものへと変化していた。

 これまでは鎖にある程度の「遊び」があった。だが今、ガウェインが設定した長さは、彼と彼女の距離を常に二メートル以内に固定するものだ。ガウェインが踏み出す一歩の衝撃が、減衰されることなく直接セレスの腰へと伝わり、彼女の華奢な身体を前方へと叩きつける。


「……鎖を短くした。……遊び(余裕)は、判断を鈍らせるノイズでしかない。……これからは、俺が受けている重圧、俺が踏み出す振動、そのすべてをリアルタイムでお前の魔力に叩き込む。……一瞬でも『固定』が遅れれば、お前の関節は俺の重力に耐えきれず、内側から弾けるぞ」


 ガウェインの言葉は、単なる脅しではない。

 三倍の重力を背負い、音速に近い脚の運びで地を穿つガウェイン。その動きに完全に同期することを強いるこの特訓は、セレスにとって、心臓を針で刺され続けるような極限の緊張を要求するものだった。


「……あ。……あ、あがががっ……! 重、い……っ。おじさん、これ、昨日よりずっと……密度が、高いです……っ!」


 セレスは必死に魔力を練り上げた。

 足裏が地面に触れる瞬間、ガウェインから伝わる凄まじい牽引力と、自身の体重が岩を叩く反動。その二つが交差する一点を、彼女は正確に『固定』の魔力で塗り潰さなければならない。

 一歩。パキリと空間が凍る。

 二歩。次の一歩を踏み出すための足場を、空中に固定して作り出す。

 

 それは、もはや「歩行」という概念を超えた、物理法則との格闘だった。

 ガウェインの背中は、相変わらず無機質な鉄の塊のように、彼女の前に立ち塞がっている。だが、短くなった鎖を通じて伝わってくる彼の「重み」は、冷酷なだけではない、ある種の厳格な規律を伴っていた。


「……集中しろ。……景色を見る暇があるなら、俺の筋肉の収縮を、鎖を通じた振動で読み取れ。……俺が次に右へ踏み出すか、左へ跳ぶか。……それを予見して固定を先回りさせなければ、お前の身体は置いていかれる」


 ガウェインの歩速が、さらに一段階上がった。

 荒野の岩肌を削る、重厚な走行音。

 セレスはもはや言葉を返すこともできず、ただ血の滲むような集中力で、師が生み出す「重力の轍」に必死に食らいついていった。

 

 朝陽が昇り、二人の影が荒野を長く、速く走り抜ける。

 引退勇者の冷徹な背中と、それを追う愛弟子の意地。

 新たな旅路の第一歩は、過去のどの戦場よりも激しく、密度の高い修行の場と化していた。


「……あ、あぐっ、あがぁぁぁっ! し、師匠! わざと、今、わざと揺らしましたよねっ!?」


 剥き出しの岩肌が牙のように突き出す難所に差し掛かった瞬間、ガウェインの歩法が不規則な乱数へと変貌した。

 一定だった重厚なリズムが突如として霧散し、一歩ごとに急加速と急停止を繰り返す、悪意に満ちた緩急の嵐。連結された短すぎる重力鎖を通じて、セレスの細い腰には、巨大な鉄槌で打ち据えられるような慣性エネルギーが容赦なく叩きつけられる。


「……若いの、慣性の法則すらお前の味方はしてくれんぞ。……敵は常に、お前の想定の『外』からやってくる。……等速直線運動で守れるほど、この世界のことわりは甘くない」


 ガウェインは跳んだ。

 三倍の加圧を背負ったまま、垂直に近い岩壁を一蹴し、重力に逆らうように斜め上方へと滑走する。鎖で繋がれたセレスは、悲鳴を上げる暇もなく宙へと引きずり出された。

 視界が激しく回転し、上下の感覚が泥のように混ざり合う。足元には、数メートル下の鋭い岩角が手ぐすねを引いて待っている。


「……ひぃっ、いやぁぁっ! 止まれ、止まってぇぇぇッ!」


 絶体絶命の空中。セレスは半狂乱になりながら、自身の魔力を四散させた。

 これまでの彼女なら、空中で闇雲に手足をバタつかせ、ガウェインの背中にしがみつこうとするだけだっただろう。だが、幾度もの死線を潜り抜けた経験が、彼女の脳内に新しい「解」を弾き出した。


 ――固定ポイント


 パキ、と。

 セレスの左肘から先の空間が、瞬間的に凍りついた。

 ガウェインの牽引によって前方へ投げ出されようとする慣性の力。彼女はそのエネルギーの一部を、空中に作り出した「透明な支点」に無理やり預けたのだ。

 

 重力鎖によって前方へ引かれる力と、固定された肘によってその場に留まろうとする力。

 相反する二つのベクトルが彼女の身体を軸に均衡し、セレスは振り子のような軌道を描いて、見事に次の岩の足場へと着地した。


「……はぁ、っ、はぁ……。で、できた。……身体の一部だけを止めて、ブレーキにする。……これなら、どんなに振り回されても、倒れない……!」

「……ふん。ようやく身体以外の『脳』を使い始めたか。……だが、その程度では移動の効率化には程遠い。……固定した箇所を即座に解放し、次の踏み込みのバネに変えろ。……一ミリの魔力も、一瞬の時間も、お前の慢心で捨てるな」


 ガウェインは足を止めず、さらに険しい断崖へと身を投じる。

 一歩ごとに火花を散らすような、精密な魔力の攻防。

 セレスは、自分が放つ『固定』の術式が、ガウェインの『重力』という荒波の中で、折れないくさびへと形を変えていくのを感じていた。

 

 苦悶の表情の裏に、確かな熱が宿る。

 他者に与えられた教本の一節ではない。

 重圧に喘ぎ、死の恐怖に震えながら、自らの指先でもぎ取った「自分だけの技術」。

 その確かな手応えが、セレスを、そして彼女を導くガウェインの歩みを、さらなる高みへと押し上げていた。


「……いいぞ、若いの。……その意地、安売りするなよ。……俺の重力に負ける前に、お前自身の限界を、その手で叩き潰してこい」


 荒野の岩壁に、二人の重厚な足音と、空間が凍るような乾いた音が、絶え間なく木霊していた。


 急峻な岩壁地帯を抜け、視界が開けた盆地状の荒野に差し掛かったところで、ガウェインが唐突に足を止めた。

 三倍の加圧を背負う彼の脚が停止した瞬間、連結された重力鎖が「ジャリッ」と音を立てて緊張し、背後を追っていたセレスが前のめりにたたらを踏んだ。


「……っ、ふぅ、ふぅ……。ど、どうしたんですか、師匠。休憩……にしては、まだ予定の半分も歩いてないですけど」


 セレスは額の汗を拭い、荒い呼吸を整えながら問いかけた。しかし、ガウェインの視線は彼女を見てはいなかった。彼は鋭い鷹のような目で、風化した岩の陰に残された、乾いた土の表面をじっと凝視していた。


「……若いの。お前のその目は、魔物の牙を探すためだけに付いているのか? ……周囲を見ろ。不自然な『空白』があるだろう」

「不自然な……? あ、足跡……ですか? でも、ここら辺はさっきの魔犬たちの通り道だって……」

「……節穴か。よく見ろ。この足跡の『深さ』と『歩幅』をな」


 ガウェインは腰を下ろし、指先で土の表面をなぞった。彼の三倍の重みが加わった指先は、まるで岩を穿つ杭のように土を押し広げる。

 そこには、三つの歪な足跡が残されていた。

 一見すれば魔獣の爪痕に見えるが、ガウェインが指摘した通り、その歩幅は妙に等間隔であり、かつ右側の踏み込みだけが異常に深い。


「……いいか。魔物は本能で歩く。怪我をしていれば引きずるし、獲物を探していれば不規則になる。……だがこれは違う。……これは、右足の靴底に『重い荷』を隠した人間が、魔物の足取りを模倣しようとして失敗した跡だ。……それも、三人分な」


 セレスは息を呑み、ガウェインが見つめる足跡を覗き込んだ。言われてみれば、爪の跡は不自然に鋭利で、まるで刃物で刻んだような作為的な鋭さがある。


「……人、間? でも、こんな荒野のど真ん中で、どうして魔物のふりなんて……」

「……理由は一つだ。……自分たちの存在を、通りがかる獲物……あるいは『追手』に悟らせないため。……そして、この先にある有利な地点で、獲物が油断して背を向けるのを待っている。……合理的だが、足運びが素人だ。俺の重力計算を騙せると思っているのが、何よりも非合理的だな」


 ガウェインは立ち上がり、背嚢を背負い直した。彼の瞳には、これまでの特訓で見せていた「教育者」としての厳格さとは別の、獲物を追い詰める「老練な狩人」の光が宿っていた。


「……セレス。これはお前にとって、魔物と戦うより遥かに重要な修行だ。……いいか。敵は牙を持っているとは限らん。……むしろ、牙を隠し、景色に溶け込み、お前が『安全だ』と信じ込んだ瞬間に、背後から無音の一撃を叩き込んでくる。……それが人間の、そして魔王軍の残党どものやり方だ」

「……隠れている、人間……。私たちを、狙っているんですね」

「狙われているのではない。……俺たちが、狙う側になるんだ。……若いの、隠密用の『固定』の準備をしろ。……一分以内に気配を消せ。……遅れれば、お前の喉をおとりとして差し出すぞ」


 ガウェインの冷徹な宣告に、セレスは震えながらも、自身の魔力を静かに、深く練り上げた。

 音を固定し、存在を固定し、自身の「死の予感」さえも重圧の下に封じ込める。

 ベテランが持つ、生き残るための「野生の嗅覚」。

 それは、どんな魔法の教本にも記されていない、引退勇者が数多の死線を潜り抜けて手に入れた、血塗られた叡智そのものだった。


「……行くぞ。……わだちを辿るな。……奴らの予測の、さらにその外側を歩くんだ」


 二人の影が、音もなく荒野の岩陰へと溶けていく。

 ただの移動だった旅路は、この瞬間、静寂に満ちた「狩り」の場へと変貌を遂げていた。


 伏兵の気配を殺しながら進んだ先、かつては旅人の喉を潤したであろう小さなオアシスがあった。

 しかし、そこに広がる光景は、生命の潤いとは無縁の地獄だった。

 岩の隙間から湧き出していたはずの泉は、どす黒いよどみに変わり、周囲に群生していた植物は不自然な紫色に変色して、奇妙な角度で捻じ曲がったまま枯死している。大気には、鼻を突くような硫黄と、腐った魔力の混じった悪臭が立ち込めていた。


「……ひどい。魔力汚染、ですか……? これじゃ、この辺りの生き物はみんな……」


 セレスは聖印を握りしめ、愕然とその場に膝をつこうとした。聖女として慈愛の教えを説かれてきた彼女にとって、大地そのものが悲鳴を上げているようなこの光景は、耐え難い苦痛を伴うものだ。

 だが、その膝が地面に着く前に、ガウェインの冷徹な一喝が飛んだ。


「……膝を折る暇があるなら、魔力の波形を読めと言ったはずだ。……若いの、嘆くことでこの泉が浄化されるなら、俺が今すぐお前を一日中泣かせておいてやる。……だが、現実はそうではないだろう」


 ガウェインは三倍の加圧を維持したまま、毒々しい変色を遂げた水面の淵に立った。

 彼の展開する重力障壁が、大気中の汚染物質を物理的に撥ね退け、足元の泥濘を「ギュッ」と凝縮させて沈み込みを防いでいる。


「……いいか。これは自然発生した汚染ではない。……見てみろ、汚染の広がり方が一点を中心にした円状だ。……何者かが、ここに汚染の『コア』を意図的に投げ込んだ跡がある。……おそらくは、先ほどの足跡の主たちが、追手を阻むために仕掛けた卑劣な罠だな」


「罠……? この泉を、こんな風にするなんて……! 許せません、師匠! 私、すぐに浄化を……っ」


「……待て。その乏しい魔力を無駄にするな。……お前の『浄化』が通用する濃度ではない。……セレス、今すぐ感情を実務に変換しろ。……悲しむエネルギーを、汚染源の特定と『固定』に回すんだ。……それが、お前の信じる慈愛を形にする唯一の合理的な手段だ」


 ガウェインはセレスを強引に汚染された水辺まで引き寄せた。

 重力鎖を通じて、彼が周囲の不穏な揺らぎを検知している振動がセレスに伝わる。

 セレスは涙を拭い、唇を噛んで魔力を練った。


「……わかりました。……核は、あの岩の下ですね。……一番、魔力が淀んでいる場所……!」


「……そうだ。そこを狙え。……浄化しなくていい、ただその『腐敗の拡散』をその場に繋ぎ止めろ。……一ミリも外へ漏らすなよ」


 セレスは両手を突き出し、全神経を泉の中央へと集中させた。

 これまで学んできた『衝撃の固定』や『音の固定』よりも遥かに繊細な、事象そのものの遷移を止める試み。

 

 ――固定ホールド

 

 パキリ、と。

 毒々しい紫色の波紋が、水面でピタリと動きを止めた。

 汚染の核から放たれていた瘴気が、セレスの魔力によって不可視の膜の中に封じ込められ、それ以上の浸食を拒絶する。

 セレスの額からは大粒の汗が流れ、激しい魔力の摩耗に意識が遠のきそうになる。


「……よし。そのまま維持しろ。……お前が止めている間に、俺が物理的にこの『核』を圧砕して無力化する」


 ガウェインが右手を振り上げた。

 掌に凝縮された重力圧。

 彼はセレスが固定した「領域」の外側から、汚染源のみを標的として、空間ごとそれを押し潰すための術式を編み始めた。

 

 聖女の祈りを、合理的な技術として昇華させる。

 死にゆく大地を前にしてなお、二人の師弟は絶望に屈することなく、最善の「処置」を冷徹に、そして確実に遂行しようとしていた。


 汚染の核を粉砕し、澱んだ空気を重力で地底へと押し流した後、二人はオアシスから少し離れた岩棚の下に腰を下ろした。

 空には、都会の喧騒では決して見ることのできない、暴力的なまでの星々が瞬いている。ガウェインは三倍の加圧を維持したまま、手慣れた手つきで小さな焚き火を熾し、市場で買った乾燥肉を小鍋で煮込み始めた。


「……あぅ、あがががっ……。師匠、指が……指が固定の形のまま固まって動きません……っ」


 セレスは焚き火の傍らで、岩に背中を預けてぐったりとしていた。

 汚染源という、形のない「概念」を固定し続けた代償は重い。彼女の魔力回路は熱を持ち、指先は微かに震え、視界には未だに紫色の残像がちらついている。

 ガウェインは無言で、煮え立ったスープを木椀に注ぎ、セレスの前に置いた。


「……五十分の働きだ。……魔力の使い過ぎで脳が焼けているなら、そのスープの熱さで正気に戻れ。……糖分と塩分が足りん。……若いの、食わねば明日の重力鎖に耐えられず、本当に魂が抜けるぞ」


「……厳しいなぁ、相変わらず。……でも、師匠。あの泉を穢した人たち、絶対に許せません。……どうしてあんなことができるんでしょう。……勇者様たちが守ってきた世界なのに」


 セレスがスープを啜りながら、ふと夜空を見上げて呟いた。

 彼女にとって「勇者」とは、絶対的な正義であり、悪を打ち砕き、世界に平和をもたらす輝かしい象徴だった。だが、この旅で見る現実は、泥と、嘘と、理不尽な悪意に満ちている。


「……勇者の定義か。……お前が信じる絵本の中の英雄なら、今頃白馬に乗って、汚染された大地に花を咲かせて回っているだろうよ。……だが現実は違う。……勇者とは、ただの『損得勘定』の成れの果てだ」


「損得勘定……? そんな、夢のないこと言わないでくださいよ」


 ガウェインは、自身のスープを静かに啜り、爆ぜる焚き火の火粉をじっと見つめた。

 三倍の重力を背負う彼の輪郭は、炎に照らされて、岩のように堅固で、同時にどこか壊れそうな脆さを孕んでいるようにセレスには見えた。


「……勇気だの希望だのと口にするのは容易いが、その実態は、何かを守るために何かを切り捨てる、冷徹な取捨選択の連続だ。……百人を救うために、目の前の一人を、あるいは自分自身の人間性を殺す。……その計算を誰よりも速く、誰よりも残酷に遂行できる奴が、周囲から勇者と呼ばれる。……それだけの話だ」


「……でも、師匠は……あの泉を助けました。……合理的に言えば、無視して進むのが一番コスパが良かったはずなのに」


 ガウェインは答えなかった。

 彼はただ、スープの入った椀を置き、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 セレスは、ガウェインの横顔を見つめた。

 彼が口にする「合理」や「コスパ」という言葉。それは、若き日にあまりにも多くのものを背負い、守れなかった者への後悔に押し潰されそうになった彼が、自分を保つために編み出した『心の枷』なのではないか。

 

 重すぎる愛ゆえに、彼は「重力」という名の痛みを自分に課し続けている。

 セレスは、初めてその「重み」の正体に触れた気がして、胸の奥がツンと熱くなった。


「……師匠。……私、師匠のその不器用な損得勘定、嫌いじゃないです。……だから、いつか師匠が引退して、何も背負わなくて良くなった時は……私が、師匠の分まで、その美味しいスープを作ってあげますから」


「……ふん。……塩加減も分からん落ちこぼれに、俺の食事を任せるわけがないだろう。……さっさと寝ろ、若いの。……明日の朝は、四倍から始めるぞ」


 ガウェインはそう言い捨てて背を向けたが、その背中が僅かに震えたのを、セレスは見逃さなかった。

 星降る荒野の静寂の中、二人の師弟は、言葉にならない「重み」を分け合いながら、静かに眠りへと落ちていった。


 荒野を支配していた鉄と砂の匂いが、夜明けと共に一変した。

 地平線の彼方、琥珀色に染まり始めた空から吹き抜ける風が、湿り気を帯びた圧倒的な花の香りを運んでくる。それは、過酷な重力修行に心身を削られていたセレスにとって、天界からの福音のように瑞々しく、甘やかな香りだった。


「……あ、あぁ。……師匠、この匂い……。もしかして、もうすぐなんですか?」


 セレスは、重力鎖を通じて伝わるガウェインの歩みの「微かな揺れ」を敏感に感じ取った。

 これまでのガウェインの足音は、岩盤を貫く杭のように無機質で、迷いのないものだった。だが今、三倍の加圧を維持したまま進む彼の背中は、どこか特定の記憶をなぞるような、形容しがたい重みを帯びていた。


「……ふん。……不快なほど鼻を突く匂いだな。……若いの、浮かれるな。……香りが届くということは、それだけ地形が閉鎖的だということだ。……風が淀み、音が響きにくい。……不意打ちには絶好の環境だぞ」


 ガウェインは相変わらず不機嫌そうに毒づいたが、その瞳は、荒野の終わりにある深い緑の境界線をじっと見据えていた。

 彼が目指しているのは、単なる食料の補給地点ではない。

 二十年前、彼が全盛期の暴威を振るい、当時の自分にとっての『合理』をかなぐり捨ててまで守り抜いた、生きた爪痕――花の村『アニマ』。


「……師匠。……あなた、あのオアシスで言いましたよね。勇者は何かを切り捨てて何かを守るって。……でも、この先の村は、あなたが『何も切り捨てずに』守った場所なんじゃないですか?」


 セレスの問いかけに、ガウェインは一瞬だけ、自身の重力魔法が僅かに乱れるのを許した。

 

「……馬鹿を言うな。……あの日の俺は、守るために自身の未来を切り捨てた。……再起不能に近い損傷を負い、その後の数年間、戦線を空転させた。……合理的に言えば、あの日の俺は、世界に対して最大の背信を犯したのだ」


 ガウェインは、背嚢のベルトをきつく締め直した。

 その言葉とは裏腹に、彼の足取りは、まるで自分の中に残された唯一の「正解」を確認しに行くかのように、確かな力強さを増していく。

 

 やがて、赤茶けた岩場が途切れ、眼下に琥珀色の夕陽に照らされたアネモネの花畑が広がった。

 村の入り口に立つ石門。

 そこには、かつての戦友たちが魔力汚染を防ぐために封印したという『断絶の門』の、不吉で重厚な影が、遠く北の連峰の上にうっすらと浮かび上がっていた。

 

「……門は、まだ遠いな。……だが、その前に片付けるべき『未払い』がある」


 ガウェインは、三倍の枷を背負ったまま、村へと続く坂道をゆっくりと下り始めた。

 花の香りが強くなる。

 その香りの向こう側で、二十年前、彼の腕の中で泣きじゃくっていた少女が、今は一人の女性となって、彼が置き忘れていった「重み」を守り続けている。


「……行きましょう、師匠。……あなたの損得勘定の、答え合わせに」


 セレスは、ガウェインの背中を、かつてないほど誇らしげに見つめた。

 引退勇者の轍は、孤独な荒野を抜け、ようやく一時の安らぎへとたどり着こうとしていた。

 だが、ガウェインは知っている。

 この安らぎを通り抜けた先には、かつての仲間たちが立ち塞がる、人生で最も不合理な「因縁」が待っていることを。


 重厚な足音が、花の村の静寂を揺らし始める。

 それは、失われた全盛期の輝きを、現在の合理性が静かに受け入れようとする、鎮魂の響きでもあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ