噛まない距離の、その先で
朝の教室は、昨日までと何も変わらないはずだった。
窓から差し込む光も、ざわついた声も、黒板の前で準備をする先生も。
全部、見慣れた光景のまま。
なのに……
紅月さんが席に座る音だけが、やけに大きく聞こえた。
僕の隣。
それは今までと同じ場所なのに、昨日までとは違う。
視線を向ける勇気が出なくて、ノートを開いたまま動けずにいると、
肘が、ほんの少しだけ触れた。
ぴくりと、互いに肩が跳ねる。
紅月さんは何も言わず、すぐに肘を引っ込めた。
でも、そのあと。
机の下で、指先がそっと近づいてきた。
触れるか、触れないか。
噛まない距離より、ずっと繊細な間隔。
小さく息を吸う音が聞こえて、紅月さんが囁く。
「……昨日のこと」
「夢じゃ、ないよね?」
僕は答える代わりに、逃げそうになるその指を、そっと掴んだ。
血じゃない。
首でもない。
ただ、手のひらの温度だけが、確かにそこにあった。
♦︎♦︎♦︎
昼休み
昨日のことがあって、今日は人のいない教室を選んだ。
肘、そして制服が触れる。
二人の距離は昨日の昼よりも明らかに近い。
嬉しそうにお弁当を食べる紅月さんを横目にふとつぶやく。
「今日は吸う?」
紅月さんは戸惑いながらも、
「え、いいの?」
少し躊躇うように言った。
「いいよ、ここなら人に見られないし」
……ゴクッ
紅月さんが唾をのむ音が聞こえた。
僕の顔をまっすぐ見つめる。
紅月さんは一度だけ、息を整えるように唇を噛んだ。
「……じゃあ」
「少しだけ、ね」
僕は何も言わず、首元を差し出す。
背後から、体温が重なった。
そのまま、静かに抱き寄せられる。
首筋に触れた気配と、
ほんの一瞬遅れて伝わる、柔らかな痛み。
♦︎♦︎♦︎
⦅紅月蓮視点⦆
朝から、いつもと違う感覚だった。
翔君との距離が、まだつかめない。
肘が触れては離れて、そのたびに彼が小さく反応するのが、どうしようもなく愛しかった。
今も、こうして隣にいる。
――あぁ、幸せなのね。
彼の息遣いも、体温も、視線も。
感じるたびに、胸の奥が静かに満たされていく。
「今日は、吸う?」
その一言で、心臓が跳ねた。
血のことなんて、考えていなかったはずなのに。
なのに、喉の奥がきゅっと鳴る。
「えっ……いいの?」
自分でも驚くくらい、声が揺れた。
「いいよ、ここなら人に見られないし」
その言葉を聞いた瞬間、
迷っていた気持ちが、すとんと落ちた。
「……じゃあ、少しだけ」
背中に腕を回して、そっと抱き寄せる。
首筋に唇が触れた瞬間、
胸の奥が、甘く締めつけられた。
――美味しい。
でも、それだけじゃない。
彼がここにいる。
逃げないで、受け入れてくれている。
その事実の方が、
血よりずっと、私を満たしていた。
♦︎♦︎♦︎
⦅白銀翔視点⦆
強く抱きしめられたまま、逃げ場のない距離で血を吸われている。
首筋には甘噛みとは少し違うが不思議と心地よい感覚がする。
気持ちがいい。
それ以上に、安心してしまっている自分がいた。
この温度を、もう失くしたくない。
そう思った瞬間、
僕はきっと、もう戻れない場所まで来ていた。




