【短編小説】珈琲プラスmilkマイナス砂糖
ヒトシはずっと探していた旧車バイクを買った日に、一軍のシャツを着て食事に行った。
そして醤油ジミを作った。
「何してんの?」
友人にそう訊かれたが、ヒトシは涼しい顔で「ワザとだよ」と答えて食事を続けた。
「ダメージコントロールなんだよ。これが有効なのかは知らないけど」
不思議な顔をする友人に、ヒトシは説明をした。
御呪いのようなものだが、そうする事で精神的な安寧が得られる。ヒトシはそう考えていた。
「買ったばかりのバイクを立ちゴケで傷つけたくないから、こうやって予めダメージを作っておくんだ」
ヒトシは餃子を小皿に落として醤油を跳ねさせた。
また新しいシミが、ヒトシお気に入りのシャツに滲んだ。
ヒトシは人生に於けるプラスとマイナスの総量が基本的に等しいと言う考えに基づいた生き方をしていた。
勿論、どこまで強く信じるかは個人に依るとヒトシ自身もわかっている。
良い事が続くと不安になる人は多い。
それは自分と近い考えを持っていると思って良い、ヒトシは怪訝な顔をする人にそう説明していた。
ただヒトシみたいな事前のダメージコントロールが有効かどうかはまた別の話だ。
それはヒトシも分かっている。
例えば醤油ジミを作ったってバイクで立ちゴケするかも知れない。
それはそれだ。
ヒトシはそう思っていた。
「本当にそう信じてるの?」
女が両手でカップを持ちながら訊いた。
ヒトシは女の部屋で向き合ってコーヒーを飲んでいるのだ。
女が大切に持っているのはウエストウッドだかノリアキだかと言うブランドらしい。
このカップが持つ幸福のエネルギーとはどれほどなのかヒトシは考えながら
「あぁ、少なくとも今はそう思う」
と言って、半分以下に減った自分のコーヒーにミルクと砂糖を入れてカサを増やした。
女はコーヒーをひと口すすると、少し考えてから口を開いたを
「それって、味と同じで受け取るひと次第だから幸不幸のバランスなんてアテにならないじゃない」
「絶対的な基準があるとは思わないよ。自分の中にいる、閻魔様とか神様みたいなのが決めるのさ」
「善も悪も環境で決まるのに?」
ヒトシは女の質問が良くわからなかったが、
「それぞれの人生に於けるプラマイゼロなんだよ」
と答えて甘くなったコーヒーを飲んだ。
女は「ふーん」と鼻を鳴らすと、コーヒーを飲み干して、空になったカップを置いた。
ヒトシはかちゃんと鳴ったその音を、小さな幸福と呼べる気がした。
女の質問は続いた。
「じゃあ例えばだけど、慶応でアメフトやってた不動産屋なんてのは割とハッピーじゃない?それってのはどんなマイナスがあるの?」
「それは簡単だろ、他人が遊んでる間に努力してたんだから」
フィジカルエリートだとかのアドバンテージまでに幸不幸の平等さは与えられない。
大体、それに気付けるか活かせるかなんてのは本人次第だ。
女は首を傾げながら
「それなら虐められて引きこもりみたいなのは?」
と訊いた。
「分からないけど、働かないで生きていけるからな。現代社会ではそれなりに恵まれてるんだろ」
またはそのうち宝くじが当たるとか?
でもそいつは自分じゃない。それはおれの生き方だからな、とヒトシは笑った。
結局のところ幸福の絶頂で人は死なない。
たぶん不幸の底でも死なない。
きっと幸不幸を折り返して浮上し始めた瞬間の苦痛が酷いのだ。
だからそのダメージをコントロールしてるんだよとヒトシが言うと、女は納得したようなしていないような顔になった。
「そんなものかしら」
女は空になったカップにミルクと砂糖を入れた。
ヒトシはミルクで薄くなったコーヒーを飲んだ。
「そんなものだよ」
このカップの価値はどれくらいの価値なんだろうか。
彼女にとって俺との出会いはどんなエネルギー量だろうか。
ヒトシはカップの底で揺れる薄茶色の液体を弄んだ。
飲み干した時に何かが終わるのなら、この女との時間が永遠になるように、いま上着にこぼしてしまうのもありかも知れないなと思った。




