点検
その赤い非常装置は、廊下の壁に取り付けられていた。
人の胸の高さより、わずかに低い位置である。
子どもが手を伸ばせば、自然に触れてしまう高さだ。
作業着姿の男が、その前に立っていた。
いかにも点検中といった態度で、装置を見つめている。
名札はない。
しかし、それに気づく者はいなかった。
男は少年を振り返り、
「押してみるか」
と、低い声で言った。
少年はためらいなく押した。
装置は短く音を立てた。
男はうなずいた。
まるで装置ではなく、少年の反応を確かめるように。
そこへ、別の男が現れた。
こちらは怒気を帯びた表情で、作業着の男に詰め寄った。
「君は何者だ」
その声には、根拠のない自信があった。
そして、その自信こそが、周囲に彼を「正しい側」に見せていた。
二人の男は言葉を交わし、やがて事務所へ行くことになった。
誰が決めたのかは分からない。
決定は、空気のようにその場に満ちただけである。
事務所の前に差しかかったとき、
最初の男が突然走り出した。
理由は不明だった。
だが、理由がない逃走ほど、周囲を納得させるものはない。
次の瞬間、男は車道に飛び出し、
鈍い音とともに地面に崩れ落ちた。
注意していた男は、驚かなかった。
少なくとも、驚いているようには見えなかった。
彼は救急車を呼ばなかった。
警察も呼ばなかった。
代わりに、軽トラックを呼び寄せた。
「このままにしておけない」
そう言って、倒れた男を荷台に載せた。
生死の確認は行われなかった。
あるいは、行われたが無意味だったのかもしれない。
後日、事実が判明した。
作業着の男は業者ではなかった。
注意していた男も施設関係者ではなかった。
逃げた男は即死。
運んだ男は、死体遺棄で逮捕された。
結果として、その場に
正当な権限を持つ人間は一人も存在しなかった。
非常装置は今も、どこかの壁に取り付けられている。
赤く、清潔で、
正しい者が押すことを、疑いもせずに待ちながら。




