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タンスの番地~引き出しに書いた住所へ、家ごと行く

作者: 妙原奇天

 玄関の鍵を回すと、家の匂いが一瞬だけ他人のもので上書きされた。樟脳。乾いた木の粉。古い襟の裏に残っている、知らない家族の気配。

 今日の回収現場で、どうしても手放せなかった古タンスを、私は廊下に横倒しで運び込んだ。片付け代行の仕事をしている。孤独死現場、夜逃げした部屋、事情のある家。目につく家具に感情移入をしてはいけない、と先輩たちは言うが、これは視線を絡め取る力があった。

 四段の引き出し。欅の突板は年季で艶が消え、手前の取っ手は指の形に油が染みて黒い。だが引き出しの底板だけは不自然に白い。紙のように真っ白で、薄く方眼が印刷されている。さらに隅に、小さく「丁目・番・号」の文字。木目の上に活版みたいな細い活字。嫌な冗談だ。

 風呂を沸かしながら、私は引き出しの底を指でなぞった。方眼のインクは触っても移らない。紙ではない。木だ。なのに紙の白さだ。

 スマホが震える。恋人の智哉から「今日、来る?」の短いメッセージ。私は「明日朝一で回収ある。ごめん」と打とうとして、やめた。「仮置きで廊下が塞がった。また連絡する」に落ち着く。送信後、画面の時刻が一瞬ぶれた気がした。気のせいだと自分に言い聞かせ、タンスの前にしゃがみ込む。

 鉛筆を持つ。底板の隅の「丁目・番・号」、横に短い空欄。そこに自宅住所を書き入れたらどうなるのだろう、という考えは、きっと誰でも一度は思いつく。やってはいけないことほど、試したくなる。

 私は書いた。区、町名、丁目、番地、号。くるりと止めの点を打つ。手書きの自分の字が白い底に沈むように馴染んだ。

 風呂の沸き上がりを知らせるメロディが、遠くなった。いや、遠くなったのではなく、廊下の先にあったはずの浴室が、少しだけずれたのだと、直後に理解する。

 窓の外の景色が変わっていた。さっきまで向かいのマンションの玄関灯が見えていたはずの窓。その枠の中に、見覚えのない電柱が一本、まっすぐ立っている。スマホを開く。地図アプリは現在地を読み込み、青い点を示す。そこに表示された住所は、さっき引き出しに書いた通りの自宅住所——なのに、周囲の道路の形が違う。交差点が一つ増え、コンビニが別のチェーンに置き換わっている。

 部屋の床、壁、家具、私の着ている部屋着、湯気の音。すべてはそのまま。変わったのは、枠の外だけ。私は膝をつき、鉛筆の尻で書いた字をこすった。消えない。爪で引っかいても、木がわずかに毛羽立つばかり。底板は紙ではない。だから消しゴムは効かない。

 よく見ると、引き出しの側板の内側に、極めて小さな字で刻印があった。光の角度を変え、顔を近づけて読む。

 戻すには誰かを入れる。

 ぞくりと背中が冷える。誰か——って、誰。



 翌朝、私は遺品の混ざった段ボールの中から、一冊のノートを見つけた。昨日の現場で、私が税金関係の書類と一緒に箱に入れたものだ。方眼のノート。表紙に鉛筆で、「段割り」「丁目」と書かれている。ページを開く。升目がびっしり。ところどころに、住所が走り書きされ、矢印が引かれている。私の姉の字に似ていた。

 胸の奥が痛む。姉の琴葉が失踪したのは半年前だ。布団はきちんと畳まれたまま、洗面所のコップには歯ブラシ。机の上には、方眼紙に小さな升目が描かれ、県内のいくつもの住所が箇条書きされていた。警察は大人の家出扱いで、真剣には取り合ってくれなかった。私は仕事で出会う住所の塊に、いつでも心が揺れる。

 ノートの余白に、小さくメモがあった。

 「段ごとに街区。上段は旧地籍。下段は新開発。書き換えは上書き。戻しは“住人”を一時保管」

 私は引き出しを見た。四段。四つの底板。それぞれに方眼の印刷。「丁目・番・号」の欄。昨夜、私が自宅住所を書いたのは、一段目だった。私が住むのは再開発の進んだ地区だ。上段——旧地籍——に書いたから、古い道路形状が混ざった? スマホの地図を拡大すると、表示が跳ね、道の形が一瞬だけ昔の航空写真みたいになった。再起動がかかり、青い点が吸い込まれるように新しい道路に戻る。地図が、私の家のほうを探している。

 戻すには誰かを入れる。刻印の言葉は、命令ではなく、操作説明のような無機質さで、逆に不気味だった。誰か、とは誰のことか。私か、他人か、荷物か。姉のメモに、「住民票不可」「郵便で弱反応」とある。試したのだ。誰か——は、紙ではない。

 私は廊下の突き当たりの窓を開けた。風の匂いが違う。遠くで朝のラジオ体操が流れていた。私の町には、もうラジオ体操をする広場はないのに。

 ノートの別ページ。紅い色鉛筆で囲まれた住所に、丸が三つ。私たちが子供の頃に住んでいた団地の棟、祖母の家、そして——智哉の実家住所。

 私は鉛筆を握り直し、二段目の引き出しの底板に、祖母の家の住所を書き込んだ。次の瞬間、窓の外の電柱に貼られている町内会の掲示板のポスターが、昭和の配色に変わる。バス停の名称が古いまま。スマホは現在地を失い、ぐるぐると読み込みを続け、やがて見たことのないバス路線図を表示した。古いのだ。ここは古い祖母の町だ。

 私は玄関を開けた。外に出ようと足を一歩踏み出したところで、頭の中の地図がひどく不安定に揺れ、吐き気がこみ上げた。私の家は玄関までが私の世界で、敷居の外は、まだ私の身体に割り当てられていない。靴の先が、空気に触れるだけで浮くような感覚に、私は扉を閉めた。戻れないのではなく、私の世界が持って行かれたのだ。玄関の扉が、見知らぬ外気で冷たくなっている。

 戻すには誰かを入れる——祖母の家に結びついた誰かを、引き出しに入れれば、家は祖母の住所を経由して、また元の場所へ戻れるのだろうか。私は祖母の遺影を持ってきて、一段目の引き出しに立てかけた。何も起きない。遺影のガラスが冷たいだけ。

 郵便物はどうだろう。祖母あてに届いた古い年賀状。押し入れを探る。今は私の家なのに、私の家に祖母の年賀状があるのはおかしいが、今日この家の内部は「私の家」であり、同時に「祖母の家の中身」を含んでしまっている。私は箱から一枚選び、引き出しに置く。底板の白がわずかに透けた気がしたが、やはり反応は弱い。

 「住民票不可」「郵便で弱反応」——ノート通りだ。

 私はため息をつき、最後に祖母の家の鍵を引き出しに置いた。金属が底に触れた瞬間、家全体がミリ単位で地震のように震えた。鍵は効く。だが足りない。

 戻りたい場所と「誰か」の紐づきは、紙では足りない。物だけでも弱い。生身か、少なくとも、強い結びつきが要る。



 試しの結果を、ノートの余白に私も書き込んだ。祖母の鍵は微反応。遺影は無反応。年賀状は弱反応。私は自分で自分の字を見て、姉がこうやって実験していたのだと思うと、喉の奥が乾いた。姉はどこまで行ったのか。何を入れたのか。

 その夜、隣の部屋のチャイムが鳴る音がした。このマンションの住人は入れ替わりが激しく、隣人の顔も声も知らない。ただ、最近引っ越してきた老女が、よく廊下を掃く音がするのは知っていた。私は廊下に出た。老女と目が合う。背筋の伸びた、小柄な人。箒を止め、私の足元のタンスに視線を落とす。

 「一段、足りないからねえ」

 突然言われた言葉に、私は反射で会釈してしまう。老女は微笑んだ。歯の色が古い象牙みたいだ。

 「引き出しの段と街の段は、だいたい合うんだよ。上は古い、下は新しい。あなたが動かしたのは、たぶん上のほう。だから、外が懐かしい匂いになってる」

 声は乾いて、よく通る。私は思わず訊いた。

 「これ、前にも見たことが?」

 「昔の家でね。うちは表具屋だったから。タンスは長く見てきたよ。戻すにはね、誰かを入れるの。誰かっていっても、誰でもいいわけじゃない。住所に縫いとめる重石よ」

 「生きている人を、入れるんですか」

 老女は首をひねった。

「生きてても死んでても、縫いとまるものは縫いとまるよ。肝心なのは、その人の“住所の重さ”。生まれた場所、長くいた場所、名字を変えた場所、骨の置き場所。紙より骨。鍵より声。だけどね、重石は抜けば戻るけど、抜いたあとに色が一段、薄くなる」

 老女は私の横をすり抜け、タンスの引き出しに手を置いた。指が細い。爪は短く切ってある。木の上に置かれた指が、古い祈りの形になって見えた。

 「これ、どこから?」

 「孤独死現場の家から」

 「測量の人?」

 私は驚いた。老女は目を細めた。

 「地籍図と注連縄が一緒にある家って、だいたい測量の人よ。線引きと目印を扱う仕事。番地の重さを知ってる。紐の結び方も」

 老女は去り際に、「一段足りないなら、足さなきゃね」とだけ言った。意味がわからない。タンスは四段。足りない段など、どこにもない。



 智哉から電話が来た。「大丈夫?」の一言に、声が少し震えていた。彼は地方の出で、実家と土地への結びつきが強い。年の瀬になると必ず帰省し、祖父母の家の墓に手を合わせる。私にはその習慣が薄い。姉が消えてから、なおさら、家にまつわる行事を避けてきた。そういえば、私と智哉の写真を見返してみると、彼の実家で撮ったものは、枚数が多い。花が咲く庭、古い井戸、畳の上のちゃぶ台。私はいつも画面の端にいる。写り込み、というほど弱くないが、中心ではない。

 ノートの赤丸の中の住所に、智哉の実家。姉は、なぜ彼の実家を知っている? 彼と姉は面識がないはずだ。私が話したのか。記憶が曖昧だ。写真の中の私は、薄い。

 翌日、私は三段目の引き出しに、智哉の実家住所を書いた。窓の外の空気が濃くなり、畳の匂いが鼻をつく。風に乗って、遠くの田の焼ける匂い。地図アプリは一度だけ真っ白になり、青い点は細い農道の真ん中に落ちた。ラグのような遅れで、私の体内時計が少しズレる。その程度の違和感で済むのは、もしかすると、私がその家で何度も夜を過ごしたからかもしれない。縁は、弱くはない。私は玄関を一枚だけ開け、外の空気を吸い、すぐに閉めた。目の前の道路の端で、誰かが立ってこちらを見た気がしたのだ。見知らぬ誰か。もしくは、見知っているはずの誰かの、写真から色を抜いた輪郭。

 戻すには誰かを入れる。私は台所から、智哉の家で使われていた湯呑を持ち出した。先月の帰省の際、彼の母親が「持っていきなさいよ、東京じゃ使わないでしょ」と言って、私のバッグにこっそり入れたものだ。柄は紫陽花。湯呑を引き出しに置く。底が静かに吸い付くような感触。家全体が小さく、しかし確かに揺れた。私は息を止め、耳を澄ます。縫いとめが始まっている。

 だが足りない。重さが要る。私は智哉にメッセージを送った。「今夜、来られる?」すぐに既読がつき、「行く」と返ってきた。私は数秒迷い、三段目の引き出しを少し開け、湯呑を置いたままにしておく。戻り払底のための仮止め。糸巻きを机の端で押さえるみたいな、臨時の重石。


 夕方、彼が来た。玄関を開けると、彼は鼻をすんと鳴らし、「実家の匂いがする」と言った。やはり匂いは人の紐だ。私は「ちょっと見て」と廊下に案内し、タンスの前で説明した。彼は真面目に頷き、引き出しの底に印刷された「丁目・番・号」を見て、ほんの少し顔をしかめた。

 「これ、たぶん、俺、入れるやつだよね」

 「入れる、って言い方はやだ。錨。アンカー」

 「俺を錨にして、家を戻す?」

 「戻した先で、ちゃんと抜く。抜けるはずだよ」

 私は自分の声に、予定調和の希望が滲んでいるのがわかった。智哉は静かに「いいよ」と言った。目を見ていたら、それが嘘でも潔癖でもないことがわかった。彼は自分の家と人の家を、同じ強さで大事にできる人だ。

 私は彼に三段目の引き出しを示し、「ここに少しだけ手を入れて」と頼んだ。引き出しは人一人が座り込めるほどの深さがある。しかし入れ物ではない。そこに人の体を入れるのは、違う。だから私は、手だけ。彼は袖をまくり、肘まで引き出しに差し入れた。底に触れた瞬間、家が大きく軋んだ。すべての部屋が一度に呼吸したような、窓ガラスが一斉に鳴る音。玄関の扉が内側に押され、外の空気が波のように流れ込む。

 地図が、戻る。私は直感した。ネジが一つ、元の穴に合った音がした。だが同時に、私の頭の中の幾つかの写真が、透けた。智哉の実家での盆。流しそうめん。彼の母と私が笑っている写真。そこに写る私の輪郭が、薄い。レイヤーを一段下げたように、台所の蛍光灯が私の肌のトーンを拾い損ねている。

 重石は動いた。家は、戻った。玄関を開ける。向かいのマンションの玄関灯。元の私の町の匂い。だが、地図アプリの履歴から、祖母の町への経路が一本、消えていた。お気に入りに入れていたバス路線図が、リンク切れになっていた。私の指先の温度が、わずかに下がる。



 翌朝、鏡に映る自分の顔が、少し違って見えた。頬の一部に、日焼けの境目が見当たらない。去年の夏、智哉の実家の庭で草取りを手伝ったときに、一方の頬だけ日焼けした。私はその不均一さが好きだった。そこに暮らしの証拠がある気がしたから。今、その線が消えている。代わりに、仕事で搬入した箱の角でつけた小さな擦り傷が、やけに目立つ。片付け代行の私、だけが、濃くなった。

 引き出しは、重石を解けば元に戻る。智哉の腕は昨夜、私が「もういい」と言うと、何の抵抗もなくするりと引き出しから抜けた。彼は「変な感じがする」と笑い、風呂に入って、温まってから帰って行った。玄関で靴を履くとき、彼はいつものように「年末、帰ろうな」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。「帰ろう」は、どちらの家に属す言葉か。彼は少し戸惑い、次に「君が決めて」と言い直した。彼の舌の癖と、その一拍の時間の癖——そういう細部で、人と家は縫いとめられていく。

 私はノートを開き、昨夜のことを記した。三段目、智哉の実家、強反応、戻り成功、色の薄れ——対象は私。対象が薄れるとは、つまり、「縫いとめ」に使用された縁が一部、削がれるということだ。姉はこれを繰り返したのだろうか。誰を入れて、どの街区を戻し、何を薄くしたのだろう。

 昼、仕事に出た。回収現場は郊外の戸建て。庭の隅に、古い境界杭が二つ、倒れている。地籍図を見ると、そこにはないはずの枝道が一本、鉛筆で書き足されていた。測量の人は、何度も書き足し、何度も消したのだろう。番地とは、人の時間の座標だ。そこに精密な数字を当てはめ、街を織る。だが織り直しが続けば、布は薄くなる。私は仕事中、何度も手を止めては、携帯の地図を開いた。ルートの候補がひとつ、またひとつと減っていく。ショートカットの表示が消え、遠回りしか提示されなくなる。帰り道が減っていく。

 帰宅すると、玄関のポストに封筒が入っていた。差出人不明。中には古い白黒写真が数枚。子供二人が並んで写っている。姉と私だ。背景に、見覚えのない洋服箪笥。引き出しが三段しかない。私たちの実家のタンスは四段だったはずだ。写真の余白に、鉛筆で小さく「一段足りない」と書いてある。

 隣の老女の声が頭の中で響く。一段、足りないからねえ。私は写真を引き出しの底に置き、待った。何も起きない。写真は写真だ。だが、写っているタンスの段数は、現実のタンスの段数と一致しない。写り込む世界と、在る世界。写真は地図の裏面に近いのかもしれない。私は写真を取り出し、裏面を見る。そこに、姉の字で小さく、住所がメモされていた。私たちが子供の頃の実家の住所。四段タンスの家。もう一度、ノートを開く。姉は、どこかで三段のタンスを見た。段を減らしたのは、誰。



 夜。私は一段目の引き出しの底板に、子供の頃の実家の住所を書いた。書いた途端、家の中の空気が軽くなる。窓の外に、見覚えのある団地の白い手すり。私は玄関を少しだけ開け、息を吸う。コンクリートが夜に冷える匂い。階段の踊り場の蛍光灯が、明滅している音。私は扉を閉めた。行きたい衝動と、行ってはいけない直感が、喉のところでぶつかり、ひゅっと音を立てた。

 戻すには誰かを入れる。子供の頃の住所。そこに強く結びついた誰か。姉か、私か、両親か。両親はもう遠くに住んでいる。姉は失踪中。私自身。自分を入れれば、家は戻る。だが、私は私の子供時代の一部を、置いてくることになる。写真から、いくつかの夏が抜け、卒業アルバムから、私の顔の色が一段、浅くなる。私は鏡に映る自分の頬を触った。そこに一筋、涙の塩の跡が乾いているように見えて、実際に指が濡れた。

 私はタンスの前に座り、膝を抱えた。目を閉じる。姉がこのタンスをどこから持ってきたのか、考える。測量の人の家。街の線引き。番地と紐。注連縄。神事。結界。地図の改竄は、紙の上のことではない。家の下の地面が、盤ごと動くのだ。家ごと。家は箱だ。箱を動かすには、道のほうを紙にするしかない。紙のように薄い道。私は自分の世界の外縁が、薄紙のようにめくれ、風にばさ、と鳴るのを想像した。

 そのとき、タンスの横に立つ人影が見えた。姉だった。顔色は悪くない。少し痩せたが、目は冴えている。私は立ち上がった。「琴葉」。声が喉に引っかかり、出る前に泣きそうになる。姉は微笑んだ。いつもの、少し呆れた顔。「やっと来たね」

 私は駆け寄り、腕を掴んだ。温かい。生きている。彼女は私の手を軽く握り返し、タンスに視線を移した。

 「一段、足しておいた」

 「足して……?」

 私は引き出しを数えた。四段。変わらない。姉は、「写真の中の段数と、現物の段数を合わせないと、道が揺れるから」と言い、三段の写真を指先で弾いた。写真から、薄い音がした。そうして姉は、私のノートを取って、ぱらぱらと捲った。余白に、細い字で書き足す。「縫いとめ=いけにえではない」「抜くと“色”が落ちる」「色は、誰かの記憶の濃さ」

 「どこにいたの」

 「いろんな番地。古い街、もうない路地。戻ろうとするたび、誰かを入れた。ごめん」

 「誰を」

 姉は私を見た。「あなた」

 息が詰まった。姉は続けた。「あなたの名前を、少しずつ、いろんな住所に結んだ。縫い目に使った。あなたは軽い。私より、軽い。ごめん」

 私は怒りか悲しみか、選べなかった。軽い、という言葉が、石のように重かった。私の写真の色が薄くなったのは、姉が私を何度もアンカーにしたからだ。戻るための重石。錨。姉を戻すために、私の色が落ちた。

 「戻して」と私は言った。「今すぐ、全部」

 「全部は無理。地図が耐えられない。薄紙に、もう書けない」

 姉は静かに、私の肩に手を置いた。「最後の一段。どこに縫うか、決めないと。私たち、どこに住む?」



 最後の一段を、私たちは下段にした。新しい街に強く効く、とノートにある。ここは今の私の家。仕事、恋人、日々。これを残す。上段に書いた古い住所は、次第に見えなくなる。戻る道は減っていく。けれども、今を残す。

 「誰を入れるの」と姉が訊いた。私は考え、智哉の名を言いかけ、やめた。彼をこれ以上薄くできない。彼の家族の写真から、私の輪郭が消えるのは構わない。だが彼自身の色は、奪わない。

 私は自分の名前を言った。姉は一瞬だけ目を伏せ、頷いた。「私も、入る。半分ずつ」

 私は首を振った。姉の世界を戻すために、私はもう十分に薄くなった。これ以上、彼女の色を落としたくない。私は引き出しの前に座り、手を底板に置いた。木の白が指に冷たく、あたたかい。姉が私の肩に手を置く。その重みが、筋肉の記憶に染み込む。

 「戻すには誰かを入れる」と刻印は言う。私は誰かだ。私の住所の重さは、ここにある。生まれた場所でも、祖母の家でもない。今夜の匂い。仕事帰りの汗。玄関の埃。ここが、私の番地だ。

 底板に触れた私の手の下で、方眼が蜂の巣のように振動した。ミシンの針が一気に布を進む。家の壁がひとつ、息を吐く。窓枠がきしむ。天井の照明がぽんと鳴り、廊下の影が一段薄くなる。スマホの地図は、一瞬だけ現在地を見失い、次に、確かに、ここを指した。ここ。私の家。タンスの番地に縫いとめられた、今。

 呼吸を整える。姉の手が私の肩から離れる。静けさが戻る。遠くで救急車のサイレン。いつもの時間に、いつもの方向から。世界は、戻ったのだ。


 玄関のチャイムが鳴った。智哉だ。彼は一歩、家に入り、鼻をすんと鳴らし、「君の匂いがする」と言った。私は笑った。彼の声の響きが、この家の壁に馴染んでいる。私は彼にタンスの前まで来てもらい、「もう大丈夫」と言った。彼は私の肩に手を置き、「帰ろう」と言った。「年末、君のほうの家に」——君のほう、という言い方が、私の胸のほうにも、家の柱にも、柔らかく刺さった。

 姉は少し離れて、その光景を見ていた。彼女の輪郭は濃い。私の目が、彼女にピントを合わせられる。姉は「ごめん」をもう一度言い、笑った。「今度は、写真を撮ろう。三人で」

 私は頷いた。シャッター音が頭の中で鳴る。画面の中心に、私。いや、中心にこだわらなくてもいい。写ってさえいればいい。薄くてもいい。私の色は、ここでまた、濃くなる。薄れた層の上に、もう一段、塗り重ねることができる。

 タンスの引き出しは、静かに閉めた。底板の白は、相変わらず紙のようで、紙ではない。方眼の目は数え切れない。いくつもの住所が、いくつもの人を縫っている。私は鉛筆を持ち、底の隅に小さく書いた。自分の名字と、今の番地。書いたところで、何も起きない。起きないことが、いい。

 ふと、側板の刻印に目が止まる。戻すには誰かを入れる。その下に、さらに小さい文字があることに気づく。角度を変え、目を細める。読めた。

 抜いたあとは、名前を呼び直すこと。

 私は小さく息を吸い、姉の名を呼んだ。琴葉。彼女は「はい」と答えた。智哉、と呼ぶ。彼は「なに」と笑う。私は最後に、私自身の名を、声に出した。綾。廊下の空気が、わずかに澄んだ。

 地図は戻った。ただし、写真の綾は一段、浅い。ならば、撮り直せばいい。別の層に、もう一度、上書きすればいい。私たちは三人で、玄関の前に立ち、スマホを腕で伸ばした。フラッシュの光が一度、白を増やし、次の瞬間、色が戻る。私たちの番地は、いまここに、縫いとめられている。


 夜が深まる。窓の外の電柱に貼られた町内会のチラシが、微かに揺れる。風は冷たいが、家は温かい。私はタンスの前を通りすぎるとき、引き出しの手前の取っ手を軽く撫でた。木は、長く使われたものだけが持つ体温を返してくる。ありがとう、とは言わない。言えば、何かがまた動く気がした。ただ、歩く。台所の明かりを消し、寝室の戸を閉める。枕に頬をつけると、まぶたの裏に方眼が現れ、すぐに消えた。線は紙の上で引くほうがいい。地面で引くのは、もうやめにする。

 眠りに落ちる前、私はひとつだけ思い出した。隣の老女の言葉。「一段足りないなら、足さなきゃね」。足りない段は、写真の中にあった。人は写真で、自分の段を足すことができる。写るということは、今ここにいたということ。写真の中の段も、地図の中の道も、私たちが呼び直せば、もう一段、濃くなる。

 明日の朝、姉と市場に行こう。智哉にも連絡しよう。買ってきた果物を、紫陽花の湯呑に分けて、三人で食べよう。そう決めた途端、眠気が私を包み、家ごと静かな番地に着地する音が、遠くでひとつ、鳴った。

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