09. 人魚の罪の告白
ヨルが重い瞼をこじ開けると、そこは見慣れた自室の天蓋付きベッドだった。
見慣れた太陽色の瞳が、大粒の涙を零しながら、ヨルの顔を覗き込んでいた。
「ヨル……っ! ヨル、よかった……! ごめんね、やっぱり、おまじない、効かなかったっ……! 間に合ってよかった、ヨル……」
「ひかり……」
縋り付くように抱きつくひかりの髪を、ヨルは生を感じるように、優しく梳いた。
「ヨル……ヨル、もうどこにも行かないで……っ。じゃないと、ヨルを、守れないの……ずっとここにいて、ヨル……っ」
ひかりはヨルを抱きしめながら、切実に叫んだ。
いつもの部屋に、いつものひかり。
この偽りのような日常を守りたい気持ちと、ヨル自身の命に関わる真実を知りたい気持ちで、ヨルの心は揺れていた。
(もう……誤魔化すことはできません、ね……)
愛を妄信して、ひかりを信じて、ここまできた。
だが、馬車の中で倒れたことで、ヨルはこの甘い幻惑に限界を感じていた。
ヨルはベッドの上で上半身を起こし、逃れられない運命と向き合うように、ひかりの瞳をまっすぐに見つめながら、禁断の問いかけをした。
「ひかり……私、貴女のことを信じたい……もう、貴女の愛に、疑念を抱きたくないのです……っ。どんな事実だって受け入れます……だから、そろそろ、教えていただけますか……? 私の身体は、どうなってしまったのですかっ。ひかりは、何を隠しているのですかっ。ひかりは……何者なんですか……っ」
「……っ」
ひかりの瞳が大きく揺れる。言葉を詰まらせ、部屋の中を沈黙が支配する。
聞いてはいけないことを聞いてしまった。
ヨルの胸に一瞬の後悔が宿る。
しかし、先に進まないと、ひかりの愛にすら疑問を感じてしまう。
今、ここですべてを知らなければ、一生この愛を信じられない。
ヨルは、ただ黙って、ひたすらにひかりの言葉を待ち続けた。
「……何から、話そうかなぁ」
ひかりは、ゆっくりと語り始めた。
「……ひかりは、最初、ヨルを、初めて見た時……ヨルを、食べようとしたの……っ」
(ああ、やっぱり……そうだったの、ですね……)
ひかりが、罪を吐き出すように言ったその言葉を、ヨルはただ、納得するように受け止めた。
「ひかりはね、ニンゲンを食べるのが……好きだったの。人魚は魚でも鳥でも、生きてる物ならなんだって食べられるけど……ニンゲンが、美味しいから……」
そう、何よりも恐ろしく、おぞましいことを告白するひかりは、月光を浴びて、まるで深海の宝石のように輝いていた。
その神秘的な輝きは、ヨルが知るいかなるものよりも、何よりも美しく見えた。
「あの日も……ニンゲンの船を見つけたから、適当に、いつもみたいに歌を歌って……食べられれば、誰でもよかった。それで、たまたま落ちてきたのが、ヨルだったんだ」
(あの時の歌は……ひかりの歌……)
ヨルは、家出の末に船から落ちてしまった船旅の最後の記憶、船のデッキの上で聞いた美しい歌声を思い出す。
あれは、ひかりによる、人間を惑わせて水底に誘うための、呪いの歌だったのだ。
「最初は何も考えずに食べようとしたんだ。でも、食べようとして……っ、ヨルが、綺麗なことに気づいた。夜空を閉じ込めたような長い髪、真珠のような肌、整った顔……これは、食べちゃいけない、大切にしないといけない物だって、気づいた……でも、遅かった……っ」
ひかりは、その時のことを思い出すように、悲痛な声を出した。
「ヨルの心臓はもう止まっちゃってた……ただ、食べるのをやめるだけってわけにはいかなかったんだ。深海にその身体を閉じ込めて、大切にしようかとも思ったんだけど、瞳の色は何色なんだろうとか、笑ったら素敵なんだろうなとか、そう考えると、できなかった……」
ひかりは、声を詰まらせ、ヨルの身体をぎゅっと抱きしめた。
「……っ、ひかりは、ヨルに、生きていてほしかった……だからっ」
自分が殺したヨルに、生きてほしい。
その矛盾しながらも正直な言葉は、ただひたすらに純粋なひかりの愛だった。
「ひかりは、魔法で、ヨルの新しい心臓を作ったんだ。でも、やったことない、初めての魔法で、とっても難しくて……できた心臓は、不完全なものだった……ひかりが側にいて、ずっと魔力をあげないと、ヨルの新しい心臓は、うまく動いてくれないの……っ」
―― ヨルは、絶対にひかりじゃないとダメなんだよ……っ
ヨルはひかりに言われた言葉を思い出した。
「ヨルはひかりじゃないとダメ」……それは、ヨルがひかりから離れると、心臓が止まってしまうという、ひかりの悲痛な警告だったのだ。
「だから、ひかりは、ヨルとケッコンして、ずっとずっとヨルと一緒にいようと思ったんだ……そうしたら、ヨルはずっと生きていられるから……」
ひかりは結婚にずっと拘っていたのに、ヨルが国のために定められた結婚をしないといけないと言うと、「結婚しなくていいからずっと一緒にいたい」とすぐに切り替えたのを思い出す。
ひかりの望みは、結婚ではなく、ずっと一緒にいること、ただそれだけだったのだ。
「『おまじない』の魔法は……ヨルがひかりから離れても、心臓がちゃんと動くように、かけてみたんだけど、効果が弱かったみたいで……全然、効かなかった……ヨルがすぐにひかりのところに戻ってきてくれたから、運よく助かったの……っ」
夜には、ガイアム王国に向かう途中に、心臓が痛くなってからの記憶がなかった。
おそらく、ヨルが倒れたから、馬車はすぐに引き返したのだろう。
それにより、ひかりの近くに戻ってきて、ヨルは助かったのだ。
「ひかりは、ヨルのことが、こんなに好きなのにっ……ヨルにとっていいこと、なにも、できないよぉっ……」
ひかりはヨルを抱きしめたまま、悲痛な声で泣き始めた。
ヨルはひかりが語った恐ろしい事実を、それが自分に定められていた運命であるかのように、受け止めていた。
ひかりがヨルを食べようとしていたことよりも、ひかりがヨルに生きていて欲しいと願った、その純粋な愛の方が、何より重かった。
ヨルは自分を抱きしめている身体をそっと引き離す
「ひかりは……私に愛をくれます……私にはそれで十分です。私、この命をかけて、貴女と結婚いたします」
ヨルの言葉にひかりは心底安堵し、そして喜びの表情を浮かべた。
「本当……? ヨル、ひかりのこと、赦してくれる……? ひかりとケッコンしてくれるの……?」
救いを求めるように、ひかりがヨルの頬にそっと手を伸ばした。
―― ニンゲンが、美味しいから
(違う、ひかりは私を食べたりしません。ひかりの愛は、本物なんです……っ)
頭では、そう理解しているのに。
心はひかりを赦して、何より求めているのに。
頬に伸ばされる白い指先が、あの時滝壺で見た、獲物の魚を口へ運ぶ指と重なって、身体が勝手に、ほんのわずかに強張ってぴくりと跳ねた。
それは、ヨルの意思ではない、純粋な生存本能による「恐怖」の反応だった。
ひかりは、そのわずかな反応を見逃さなかった。
「……っ、ごめんねっ、やっぱり、怖いよね、ひかりは……ヨルを食べようとした、カイブツだもん……っ。ごめんね、もう……」
ひかりがヨルに拒否されたと誤解していることに気づいたヨルは、焦ったような声を出す。
「ちっ、違うんです、ひかりっ、私は……っ」
ひかりはヨルの身体をぎゅっと抱きしめた。
「ヨルは優しいから、本当は怖くても、そう言ってくれるんでしょう……? ごめんね、もう、ヨルの前には二度と姿を現さないよ。……側にはいさせてね、じゃないと心臓が動かなくなっちゃうから……私が勝手に側にいるよ……っ。海から離れなかったら、ヨル好きにしていい。他のニンゲンとケッコンしてもいいから……だから、もう、ひかりのことは忘れて……っ」
ひかりはヨルの耳元で、切実に囁いた。
「愛してたよ……今までたくさん愛をくれて……ひかりとケッコンするって言ってくれてありがとう。それだけで、もう、十分だから……終わりにしよう。……じゃあね、ひかりの大好きな、愛しいヨル……っ」
ひかりはヨルの身体を抱きしめる身体に、一瞬だけ力を込め直した。
もう二度と触れることができない愛しいヨルの存在を確かめるように抱きしめた後、迷いを断ち切るように、ヨルの身体を勢いよく押しやった。
そして、部屋の隅の滝壺に走っていった。
「だめ……だめです、行かないで、ひかり……っ」
ヨルが命綱を掴もうとするように伸ばした、その手がひかりに届くことはなかった。
一瞬だけ、ひかりが名残惜しそうに太陽色の目をヨルに向けた。
涙で溢れた、何より愛しい人の悲しそうな瞳。
それがヨルが最後に見たひかりの顔だった。
ひかりはそのまま、一筋の光のように滝壺に身を投げ、水飛沫とともにあっけなく消えてしまった。
ハッピーエンドですので……!
あと2話、安心してお読みいただけたらと思います。
10話も同時更新してます!
ここで終わると切なすぎると思うので、ぜひそのままお読みください。




