08. おまじないと心臓
ヨルは馬車に乗りながら、緊張の面持ちをしていた。
姉の協力もあり、ガイアム王国との縁談は無事に破棄された。
姉には「心に決めた人がいるから嫁ぐことはできない」と告げると、多くは聞かず、すぐに協力を申し出てくれた。
しかし、その心に決めた相手が人魚の娘だなんて、そんなことは言えなかった。
それに、まさか戦争になれば人魚が助けてくれるなんて、そんなことを言っても信じてくれるはずがないので、それも言えなかった。
そしてヨルは、父と兄に、ガイアム王国に直接出向き、婚約はできないまでも、今後の良き関係をどうにか繋いで来いと命令されたのだった。
そしてすぐに馬車が手配され、ヨルはガイアム王国に挨拶に行くことになっていた。
―― ねぇ、本当に山にはいかないでね
馬車に乗り込もうと足をかけたところで、ひかりの声が脳内でこだました。
(嫁ぎに行くわけでは、ありませんから。挨拶をしたら、すぐに……今日の夜には、帰ってこられます)
あの時、どさくさに紛れて、ヨルはひかりに愛の告白をしてしまった。
でも「結婚しましょう」という、ひかりが何より求めている言葉を伝えていない。
(帰ってきたら、私、ひかりに……ちゃんと、その言葉を伝えます)
そう決意して、ヨルは馬車に乗り込んだ。
「ヨル様、大丈夫ですか? 顔色が……」
「問題、ありません。用事は、すぐ、終わりますから……」
ガイアム王国に向かう道中、ヨルは明らかな身体の異変を感じていた。
それは他から見ても明らかなようで、メイドが心配そうに顔を覗き込んでくる。
(心臓が……)
最初は胸を締め付けられるような、ほんのわずかな違和感でしかなかった。
それからじわりじわりと、ちくりと刺すような痛みが心臓を蝕んでいった。
その痛みは、ガイアム王国に近づくにつれ、アクアリア王国――海を離れるほど、激しさを増していった。
心臓の鼓動がだんだんと弱まり、代わりに氷塊に置き換わってしまうような激痛がヨルを襲っていた。
ガイアム王国は、もうすぐそこだ。
山の麓まではやってこられた。
あとは、この山を登って、挨拶さえすれば、解放される。
そうしたら、ひかりとの愛を、誰にも邪魔されずに貫ける。
この愛を守るという強い想いだけが、ヨルの意識を保っていた。
―― ごめんね、おまじないだけ……させて
脂汗が浮かぶヨルの脳裏に、ひかりが告げた言葉が思い浮かぶ。
思えば、心臓が冷えていくような痛みの中で、昨日のひかりの「おまじない」が守ってくれているような感覚が、ヨルを包んでいた。
(おまじない……この痛みと何の、関係が……)
あの「おまじない」は、明らかに心臓に何かの魔法をかけたものだった。
この痛みと何か関係があるのだと、ヨルは確信していた。
―― これは、おまじない……でしかないから
ヨルは「おまじない」をかけたあとの、ひかりの不安そうな顔を思い出す。
まるで、その効果を不安視するような、そんな表情だった。
馬車が、いよいよ山道に差し掛かった、その瞬間だった。
これまでずっと、氷のような痛みからヨルの心臓を守ってくれていた、あの温かい感覚が、ふっと溶けるように消えていった。
それはまるで、ひかりの力が、もうこれ以上、この山の上までは届かないとでも言うかのようだった。
―― ねぇ、本当に山にはいかないでね
ひかりの切実な警告が、脳内でこだまする。
(あぁ……ひかり、貴女は、こうなることがわかって……)
護りを失ったヨルの心臓を、激痛が直接鷲掴みにする。
ヨルの意識は、そこで途切れた。
とても綺麗な死亡フラグを立ててしまうヨルさん……かわいいね。
ハッピーエンドなんで! ちゃんと生きてます、ご安心ください。




