05. 姫からの贈り物
滝の水を止めた事件以降、ヨルの心は落ち着いていた。
ひかりが神出鬼没に現れることはなくなり、ヨルが声をかけた時だけ顔を出すようになった。
ひかりの中で「毎日呼ぶ」は重要なルールのようで、一度、公務が忙しかった日に呼びかけるのが夜遅くになった日は、不機嫌そうに頬を膨らませていた。
それでも、理由を説明したら納得していたし、しばらくお喋りに付き合ったら満足げに帰っていった。
「ひかり、いらっしゃいますか」
いつものように呼びかけると、すぐにぱしゃんと音がした。
「ヨル、こんにちは! 呼んでくれてありがとう」
いつものように太陽色の瞳で微笑むひかり。
その時、ひかりの手の中で何かがぴちぴちと暴れ始めた。
「わわっ……ごめんね、今、ちょうどごはんを捕っていたところだったんだ。すぐ食べちゃうから」
ひかりの手の中で暴れているのは、魚だった。
まだ生きているようで、最期の足掻きのように暴れている。
それをひかりは高く掲げ、大口を開けてそのまま口に放り込んだ。
ぎりっ、ばりっ、ばりっ。
口の中で硬い骨を砕く鈍い音が部屋に響き渡る。
ヨルはその様子を唖然として見ていた。
ひかりはその視線を気にすることなく、ごくりと喉を鳴らして、魚を飲みこんだ。
「……んっ、お待たせ、ヨル」
舌なめずりした後、上品に口を拭き終わると、ひかりはいつも通りの眩しい笑顔をヨルに向けた。
ヨルはその笑顔の、口の中にある、尖った犬歯を思わず見た。
「あっ……あなたたちは、魚を食べるのですね」
ようやく口から出たのはそんな言葉だった。
「んー、そうだねぇ……。人魚は生き物を食べて、生命力をもらってるんだ。だから、魚でも鳥でも、生きていればなんでもいいの。死んじゃったらどんどん生命力がなくなっちゃうから、すぐに食べないといけないんだ。ニンゲンみたいに料理なんてしてる暇はないね」
そう言って不敵に笑うひかりは、いつものように美しいのに、少し恐ろしく感じた。
「人魚は海に住んでるから、魚が一番捕りやすいの。だから、魚を食べることが多いかな。食べすぎて飽きちゃいそうだよ」
――生きていればなんでもいいの
ヨルの頭に、ひかりの声が響く。
(それってつまり――私、でも……?)
何故か、ヨルの頭の中にそんな考えがよぎった。
深く考え込むヨルの顔を、ひかりが心配そうに覗き込む。
「ヨル、どうかしたの? どこか痛いの?」
その、純粋な目線に、ヨルは頭を振って、頭の中によぎった疑念を追い払った。
(こんなに愛らしいひかりに限って……まさか、そんなこと、あり得ませんっ)
そしてヨルは、今日ひかりを呼び出した理由を思い出した。
「ひかり、滝壺から出てきてください」
「いいの? いつもはダメって言うのに」
「今日からは、いいのです」
「ふうん……? よくわからないけど、ヨルの近くにいられるのは嬉しいな」
ひかりはそう言いながら、滝壺に手をかけ、身を乗り出した。
尾を水から出すと同時に、魔法によって尾が人間の脚に変わった。
相変わらず下半身に何も身に着けていない状態だ。
そんなひかりに、ヨルは手に持っていた布を手渡した。
「ほら、これを腰に巻いてください」
アクアリア王国の海の色、ターコイズブルーの腰巻き。
きっとひかりに似合うと思って、城下町でヨルが購入した一品だった。
「これ……ひかりに、くれるの?」
「そうです。これからもそれを腰に巻いていれば、滝壺から出てきていいです」
ヨルがそう言うと、ひかりは太陽色の目を細めて、満面の笑みを浮かべた。
「うれしい……っ! ヨルからのプレゼントっていうことだね……とっても素敵。ありがとう、ヨル」
そう言いながらひかりは、その腰巻きを大事そうに抱きしめた。
すると腰巻きとひかりの身体が眩く発光した。
ヨルのプレゼントの腰巻きが、ひかりの身体に取り込まれていく。
光が収まると、腰巻きはひかりの腰回りの肌に吸い付くように馴染み、まるで優雅な尾ひれの一部のようにきらめいていた。
「ふふ、なくしたらいけないから、魔法でひかりの身体の一部にしたよ。どうかな、似合うかな?」
ひかりが頬を染めながら言う言葉に、ヨルは、はっと我に返った。
まさかひかりの身体の一部になってしまうとは思っても見なかったが、そのターコイズブルーの腰巻きは、想定通りひかりの真珠のような肌と月光のような髪によく似合っていた。
「とても……お似合いです、ひかり」
そう言うと、ひかりは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ヨル!」
ひかりはヨルの身体をぎゅうっと抱きしめた。
ヨルの冷えた身体が、ひかりの温かい体温に溶かされるように包まれた。
磯の香りが混じった甘い吐息が、ヨルの耳元にかかる。
「ねぇ、そろそろ……ひかりと結婚する気になったかな?」
優しく回されたひかりの手が、ヨルの項にそっと触れた。
「そ、それは……っ」
不意なその言葉と、自然と密着したひかりの身体のやわらかさに、ヨルの心臓は大きくどきりと跳ねた。
望まないガイアム王国との婚姻。
それに甘んじるぐらいなら、いっそのこと、このままひかりと生涯寄り添ってもいいのかもしれない。
そんな想いがヨルの胸のうちに生まれつつあった。
「あなたは、何故そんなに……私にこだわるのですか」
「あれ、言わなかったかな? ふふふ、だって……」
―― ヨルが美味しそうだから
(……っ!?)
それは、間違いなく、ヨルの耳にだけ響いた幻聴だった。
なのにまるで本当に聞こえたかのように、ヨルは背筋がぞくりと冷え、心臓は早鐘のように鳴り響いていた。
「……ヨルが、とっても綺麗だから。ひかり、綺麗なものに目がないんだ」
その声に、ヨルは心の底から安堵し、思わずため息をついた。
「……結婚は……人生の大切な分岐です。簡単に答えは出せません」
「そうねぇ、でも……そろそろ答えを聞かせてくれると嬉しいな? もちろん、いい答えをね」
そう不敵に笑う、何よりも美しいひかり。
そのひかりが、獣のように魚を噛み砕いていた光景が、頭から離れない。
(ひかりは……本当に、私のことを食べたり、しないのですよね……?)
――ヨルの心は、美しい愛と、言い切れない恐怖の、板挟みになっていた。
ハッピーエンドで終わりますので……!
メリバじゃなくてちゃんとしたハッピーエンドです。ご安心ください。
ヨルは心の中とはいえ、しれっと「愛らしいひかり」とか言っちゃう感じ、着実に落とされてきております!




