04. 側にいるための約束
「やっ……やりました、私、やりました……っ! ふふふ、もっと早くに思いつけばよかったです」
ヨルは部屋の隅で興奮気味に、誰に聞かせるでもない独り言を喋っていた。
その目の前には、絶えず水が流れていた滝の水が止まり、空っぽになった滝壺があった。
ここ数日、ヨルの心を惑わせていた人魚のひかり。
いつも、いつの間にか背後にいるが、最後は必ず滝壺に消えていく。
この人工滝は海を愛するヨルがこだわった特注品で、海と繋がっている。
ひかりが消えたあとの滝壺に呼びかけても、ひかりが返事をすることはない。
つまりひかりは常にこの部屋にいるわけではない。
この人工滝を通じて海とこの部屋を行き来しているのだろうと、ヨルは考えた。
そうであれば、この人工滝の水を止めれば、ひかりはこの部屋に来ることはできない筈。
そう考えたヨルは、掃除の際に使う止水弁を使い、滝の水を止めた。
(もうこれで、あの神出鬼没のひかりに心を惑わされなくてすむのですね……!)
ヨルはせいせいした気持ちで、空っぽになった滝壺を見ていた。
ヨルはソファに座って月光を浴びながら、寝る前のレモンティーを楽しんでいた。
今日は一日、ひかりの姿を見ていない。
滝の水を止める作戦は大成功を収めていた。
(こんなに心穏やかなのは久しぶりです……)
そう、その時までは思っていた。
「あつっ、熱いよー! こんなの飲むなんて、やっぱりニンゲンは変だよー!」
その声は、もう最近聞き慣れてしまった人魚の声だった。
思わず後ろを見たが、その姿はない。
「ひ、ひかり!? どこに……っ!?」
「どこって、ヨルの目の前にいるじゃないっ。もう、結界魔法で守ってるのに、熱すぎてお肌が火傷しそうだよぉ……」
その声に、ヨルは、声が聞こえる、ティーカップの口元を、おそるおそる覗いた。
ひかりは、そこにいた。
正確には、ひかりを小さくした、小人のような大きさのひかりがいた。
「な、なんで、そんなところに……」
「なんでって、だって滝が止まっちゃったんだもん……。人魚は水のあるところならどこでも来られるんだから。ねぇ、あの滝、ヨルが止めたんでしょう? ひどい、なんであんなことしたの?」
ひかりの切実な声が、涙に濡れる太陽色の瞳が、ヨルの心を抉る。
ヨルは戸惑いを断ち切るように、首を振りながら、言い訳の言葉を口にした。
「だ、だって、いつもひかりが突然背後に現れるから……っ」
「いきなり後ろにいるのがイヤなの? じゃあ、ちゃんと声をかけるようにすればいいってこと?」
ひかりの瞳はヨルをまっすぐに貫く。
「ねぇひかり、ヨルが好きなのっ。ヨルがイヤなことは全部やめるから……っ、側にいさせてよ、ねぇっ」
ひかりはティーカップの中から、いつもの余裕がある雰囲気ではなく、ただひたすらに切実に、愛を叫んだ。
その様子に、ヨルはいつものひかりの様子を思い起こした。
確かにひかりは、ヨルの嫌がることは決してしなかった。
ヨルが「結婚していないのにキスなんて」と言ったら、そこからはキスを求めることはしなくなった。
いつも悪戯そうに笑いながらヨルを惑わしてくるが、そのすべては間違いなくヨルへの深い愛だった。
「わ、私が声をかけますから……それまで、勝手に出てこないで、滝の中で待っていていただいたり……できますか?」
おずおずとヨルがそう問いかけると、ひかりはうっとりした表情を浮かべた。
「ヨルがひかりのことを呼んでくれるの? それ、とっても素敵。いつでもヨルの近くにいるから、呼ばれたらすぐに会いに来るよ。これからはそうするね」
ここ数日の悩みの種が一瞬で解決したのに、ヨルは拍子抜けした。
素直になればよかった。
必要なのは、ただそれだけだったのだ。
「でも、この熱い水はもうダメだよ。ちゃんと、滝の水を元に戻してくれる?」
「え、ええ……約束いたします」
ヨルがそう言うと、ひかりは安堵したような表情を浮かべた。
「良かったぁ……。じゃあ、熱いから今日はもう帰るよ。ねぇ、必ず呼んでね? それに、毎日呼んでくれないとイヤだからね?」
そう確かめるように言って、ひかりはレモンティーに溶けるように消えた。
ひかりが入っていたレモンティーを飲むのは、まるでひかりの身体をそのまま口にするような、何とも言えない背徳感により憚られた。
ヨルはそのティーカップをそっとメイドに下げてもらった。
次の日、ヨルは滝の水を元に戻した。
滝壺にたっぷり水が溜まったのを確認して、深く深呼吸してから、少し震える声でその名を呼んだ。
「……ひ、ひかり。いらっしゃいますか?」
ぱしゃんと音がして、すぐに見慣れた太陽色の瞳が顔を出した。
「ふふっ、ヨル、呼んでくれてありがとう」
そして滝壺の縁に手をかけて出てこようとするのを、ヨルは慌てて止めた。
「ああっ、出てきちゃダメです、ひかり。そこにいてください」
ひかりが滝壺から出てきたら、いつものように魔法で人間の脚に変身することだろう。
そして、その下半身には何も身につけていなくて、目のやり場に困るのが目に見えていた。
「ダメなの……? ヨルともっと触れ合いたいんだけど。でも、ヨルがダメって言うなら、仕方ないね。ねぇ、ひかり、いい子でしょう?」
そんなことを上目遣いで言うひかりに、胸の中に熱い熱が灯るのを感じた。
(さすがに何も身につけていない状態で滝の外に出ていただくわけにはいきません。何か……腰巻きを用意してあげましょうか)
ヨルの胸には、思わずそんなことが思い浮かんだ。
――ゆっくりと、しかし確実に。ヨルは、その切実で、人間の常識の枠に収まらない人魚の愛に惹かれていた。
ちょっとずつ陥落されつつあるヨルさんをお楽しみください……




