03. 人魚からの愛の誘惑
改めて現状把握を済ませたヨルを待っていたのは、相変わらず絶望的な状況だった。
ヨルは父と兄に用意された縁談に納得がいかず、城下町の貴族の友人と競合して船旅に出た。
友人の家族だけが乗ったクルーズ船。
伝書カモメの運んでくる号外で、父と兄が焦って自分を探しているのを把握して、友人と笑い合っていた。
その船旅の途中でヨルは海に落ちたらしい。
目撃証言によると、ヨルは導かれるかのように、自分から海に身を投げたそうだ。
もちろん、ヨルには身に覚えがない。
確かに縁談には納得がいっていなかったが、命を投げ出すほど思い詰めていたわけではなかった。
(私が覚えているのは、船のデッキで水平線を眺めながら聞いた、美しい歌声だけ……。あの歌が私を、海に誘ったのでしょうか……?)
友人一家は懸命に捜索したが、ヨルの身体は見つからなかった。
数日間の捜索の末に皆が諦めかけていたその時、伝書カモメの号外が船に届けられ、意識不明のヨルが浜辺に打ち上げられていたことを伝えたそうだ。
ヨルは以前ひかりが「ひかりが助けたんだよ」と言っていたこと思い出す。
(ひかりが私を浜辺まで運んでくれたのでしょうか……一体、何のために……?)
そして、この一連の奇妙な事件の発端の、ヨルが家出をしてまで拒否の意を示した、ガイアム王国との縁談。
残念ながら、それは変わらず進行していた。
それに加えて、ここ数日、毎日のように人魚のひかりがヨルを誘惑しに来る。
そのことを考えると、寧ろ状況は悪化しているとも言えた。
(確かに命の恩人なのかもしれませんが、あの人魚のせいで、私の日常はめちゃくちゃです……っ)
例えば一昨日は、ヨルがソファに座ってレモンティーを飲んでいたら、いつの間にかひかりが背後にいた。
『ニンゲンは、わざわざ熱い液体を飲むんだね? 舌を火傷するかもしれないのに、変なの』
耳元で突然囁かれた声に、ヨルの心臓は跳ねた。
『ひ、ひかりっ……。いつの間に……っ』
『ひかりはいつもヨルの側にいるよ。いつだってヨルを見てる』
そう言いながら、ひかりはソファの背もたれをひょいと乗り越え、ヨルの隣に座った。
先日のようにひかりの下半身は魔法で人間の脚になっていた。
相変わらず下半身には衣服を何も身につけておらず、目のやり場に困ったヨルは頬を赤く染めながら目を背けた。
『ねぇ、なんで冷ましてから飲まないの? 火傷をするのが怖くないの?』
『……さ、冷めた紅茶なんておいしくありませんっ……』
避けるように反対側を向くヨルに、ひかりは寄り添うように身体を密着させてきた。
ヨルの火照った太腿に乗せられたひかりの冷たい手が、ヨルの胸の奥に不思議な熱を広げていく。
ひかりの柔らかい胸がヨルの腕に当たり、ヨルの鼓動は激しく鳴り響いた。
『ふうん、美味しいんだ。ひかりも飲んでみていい?』
ひかりは、ティーカップの向こう側からヨルの顔を覗き込むように、ゆっくりと身体を倒してきた。
そして、ヨルの持っているティーカップの縁に、唇を乗せるようにそっと寄せた。
顔の真横に迫る太陽色の瞳と、甘い吐息に耐えられず、反射的にヨルはひかりからティーカップを遠ざけた。
『の、飲みたいなら新しいレモンティーを淹れますから……っ! 私のティーカップから直接飲むのはおやめくださいっ……』
そう言うとひかりはまるでそれを想定していたかのように、悪戯そうな笑みを浮かべた。
『ふふっ、冗談だよ。ドキドキした? 火傷しちゃうから別に要らないよ。お顔を真っ赤にしたヨルも可愛くって、好きだよ』
そうして、ひかりはくすくす笑いながら、部屋の隅の滝壺に消えていった。
昨日は、ヨルが目覚めた時に最初に見えたのがひかりの太陽色の瞳だった。
朝の心地よい微睡みの中で、ふと、何かが巻き付くような不自然な重みを感じて、目を覚ました。
目を開けた時に最初に見えたのが、吐息がかかりそうなほど近い、ひかりの微笑みだった。
『おはよう、ヨル』
『……っ!』
あまりの近さに、ヨルの心臓は喉まで跳ね上がった。
勢いよく起きようとするが、下半身が動かない。
ヨルは混乱しながら、毛布の下で自分の脚に絡みついているひかりの脚に気がついた。
『ひっ、ひかり、何をしていらっしゃるのですか……っ!』
『何って、添い寝だよ。ケッコンしたら毎晩一緒に寝るんでしょう? それなら、練習しておかないといけないじゃない?』
ひかりは絡めた脚をさらに密着させるように、ふわりと微笑んだ。
『ヨルは寝顔もとっても可愛いね。でもひかりは、ヨルの綺麗な瞳が見たいから、起きてるヨルの顔の方が好きかな』
ひかりの髪が朝日を浴びてきらめくのに目を囚われたあと、乱れた毛布から覗く、やはり何も身につけていない下半身が目に入る。
あまりの衝撃に動けないでいると、ひかりがゆっくりと手を伸ばし、細くて白い指でヨルの唇にそっと触れながら悪戯そうに目を細めた。
『ふふっ、ねぇ……ヨルの唇はレモンティーの味なんだね?』
ひかりのその発言は、ヨルが寝ている間に唇の味を確かめた……キスをしたという意味に他ならなかった。
『なっ、あなた、私が寝ている間に、何を……っ!』
ヨルが思わず唇を手で抑えて顔を真っ赤にして言うと、ひかりは悪戯そうな微笑みを崩さない。
そしてヨルの唇を抑えた手に、そっと自分の冷たい手を重ねた。
『何を……したんだと思うのかな?』
『あっ、あなた……寝ている私に……き、キスを……っ』
焦るヨルの顔を太陽色の瞳で覗き込みながら、ひかりは楽しそうに微笑んだ。
『ふふっ、焦った? 冗談だよ。前にキスしようとして怒られたから、ひかりはちゃーんと我慢したんだよ』
ひかりは「えらいでしょう?」とでも言いたげに、ふふんと自慢げな顔をした。
『キスはケッコンしてからのお楽しみだもんね。楽しみにしてるね』
そう言って、ひかりは絡めていた脚をゆっくりとほどき、くすくす笑いながら、ゆっくりベッドから降りて、部屋の隅の滝壺に消えていった。
そのような感じで、ここ数日、ヨルは毎日のように人魚のひかりに振り回されていた。
(山の上のガイアム王国へ嫁ぐのも嫌ですが……あんな、常識知らずの人魚を娶るなんて、もっと嫌です!)
窓辺に立って窓の外を眺めながら、水平線を見つめる。
この海の近くで、ただ安寧に暮らしたい。
そんなに贅沢な望みではないはずなのに、今のヨルにとっては悲しいほどに遠い夢だ。
そういえば、今日はひかりの姿をまだ見ていない。
でもどうせ、すぐに来るに決まっている。
(また、私の心を乱すのでしょう……っ)
その予感は、すぐに確信に変わった。
ヨルの耳元で、甘い吐息とともに磯の香りがした。
「ねぇ、ヨル? 今日は何をしてるの?」
背中に密着するひかりの温かい体温に、心臓が跳ねる。
――その日も、ヨルの心は、ひかりを前に平穏ではいられなかった。
露出狂の人魚さん……小節で書いても、何のサービスにもならないのですけれど。
ぜひ心の目で見てください。




