10. 姫の愛の告白
ひかりが姿を消してから、数日が経過していた。
ヨルはそのただひたすらに虚しい時間を、永遠のように感じながら過ごしていた
魂が抜けたように日々を暮らすヨルを、家族やメイドは心配したが、それはガイアム王国に訪問する途中で奇病に倒れたショックによるものと思われていた。
たった一人の愛しい人魚の不在が理由であろうとは、誰も思いもよらなかった。
ソファに座っても、ひかりが甘えた声を出しながら膝に頭を乗せてこない。
ベッドに転がっても、ひかりが悪戯そうに微笑みながら脚を絡めてこない。
ソファのクッションも、シーツも、ただひたすらに冷たい。
――ひかりが、いない。
ヨルは失って初めて、自分の生活がひかりに染まっていたのを実感した。
幾度も滝壺に声をかけた。
いつもならすぐにぱしゃんと太陽色の瞳で微笑む愛しい顔が見えていたのに、今はただ、滝から流れる水が跳ねるばかりだった。
「ひかり……いらっしゃいますか」
今日も、祈るような気持ちで滝壺に声をかけた。
やはり望んでいる愛らしい人魚が姿を現すことはない。
力なく滝壺から離れ、ベッドの上にうつ伏せに倒れる。
あの時、もっと強く否定していたら。
あの時、ひかりが逃げないようにちゃんと抱きしめていたら。
頭に浮かぶのは後悔の念ばかりだった。
「ひかり……私の、愛しい、ひかり……っ」
窓の外に広がる、広大な海。
そこに身を投げたら、ひかりに会えるのだろうか。
そんなことを思った時、幻聴のような声が聞こえた。
「たくさん呼んでくれてありがとう、ヨル……」
耳に響いたその声に、ヨルは勢いよく身体を起こして振り返った。
困ったように笑う太陽色の瞳。
朝日を浴びて輝く月光色の髪。
ヨルが贈ったターコイズブルーの腰巻。
「ひかり……ひかり……っ」
それは、間違いなく、ヨルが何より愛するひかりだった。
ヨルはすぐにその身体を力強く抱きしめた。
「もう、離しません、ひかり……っ」
ひかりは抵抗することなく、その抱擁をなされるがままに受け止めた。
「本当は……もう、ヨルの前には出てこないつもりだったんだけど……あんまりヨルがうるさいから、出てきちゃった……ごめんね、ひかりは……っ」
そんなひかりの贖罪の言葉を黙らせるように、ヨルはひかりを抱きしめる腕に力を込めて、ただ一つの望みを口にした。
「もうずっと私の側にいてください、ひかり……」
そのひたむきな言葉に、ひかりは涙を流した。
「だ、ダメだよっ、ひかりはカイブツなんだよ……いつかヨルを食べちゃうよぉ……」
「ひかりになら、食べられてもいいんです……っ」
ひかりはその太陽色の瞳から大粒の涙を零しながら、首を振って、震える声で叫んだ。
「ひかりが本気じゃないって、そう思ってるんでしょうっ。今も、ずっとっ。ヨルの匂いを嗅ぐたびに、ヨルの柔らかい肌に触れるたびに、ヨルが美味しそう、食べちゃいたいって気持ちと、ずっと戦ってるんだよ……っ。だめ、ひかり、いつかヨルを、本当に食べちゃう……っ」
ヨルはひかりのその華奢な身体を強く抱きしめ、その想いの丈を伝えた。
「ひかりは、私に、心臓を……命をくれました。私の命はひかりのものです。それに、私はひかりのすべてを愛しています。悪戯っぽいところも、甘えん坊なところも、優しいところも、常識知らずなところも……っ、そして、私を殺しかけた、その罪も……すべて、全部、愛しています……っ」
その身体を離さないように、しっかりと抱きしめて、ひかりの耳に囁いた。
「私と結婚してください、ひかり」
その言葉に、ひかりはヨルのすべてを受け取った。
嗚咽が止まらないまま、ひかりはヨルの背中に手を回し、震える身体で抱きしめ返した。
その瞳からは止めどない涙が溢れ続けていた。
「うぅっ……あ、あぁっ……ヨル、ヨルっ……ひかり、ヨルとケッコンする……一生、ずっとずっと、大事にするから……絶対食べないよ、ヨルっ……」
震える腕でヨルをしっかりと抱きしめ、震える声で心のうちをすべて吐き出した。
「好き、大好き……愛してるよ、ヨルっ。もうどこにも行かないっ、ヨルもどこにも行かないで、ヨルっ……」
「どこにも行きません……ずっと一緒にいましょう、ひかり」
ヨルとひかりは、お互いの体温を確かめ合うかのように、抱きしめ合った。
ひかりの嗚咽が部屋に響く。
ヨルはその肩を震わせるひかりの身体を、愛おしむように、そっと撫でた。
やがてひかりの嗚咽が吐息に変わり、震えがおさまった頃、ヨルは抱きしめている腕をそっと緩めた。
指先で、ひかりの涙の痕を辿り、その頬にそっと掌を添える。
ヨルの顔がゆっくりと近づくのを察すると、ひかりはわずかに、驚きに目を見開いた。
「キスは……ケッコンしてからじゃ、なかったの……?」
遠慮するように尋ねたその言葉には、かすかな喜びの色が滲んでいた。
ヨルは愛おしそうに微笑みながら、優しい声で囁いた。
「もう、結婚すると決めたのだから……愛を確かめあったのだから、いいのです」
そして、ヨルは瞳を閉じると、戸惑うひかりの唇に、自分の唇を重ねた。
それは、命と運命を分かち合うように、もう離れないことを誓い合うように、長く、深く、交わされた。
互いの口の中の甘さが混ざり合い、二人の命の境界線が溶け合うような、熱く確かな口づけだった。
9話と10話は涙腺崩壊しながら書きました。
皆様の心に響けば幸いです……。
あと1話で完結です。甘々な最終話をお楽しみください!




