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9/25

じわじわと⋯⋯沈む日々。


 学園の一日は、優雅なはずだった。


 陽の光は変わらず窓から差し込み、教師たちの講義は整然と続き、廊下に響く笑い声も穏やかだった。けれど、私にとってそれは、静かに進行する陰湿な舞台に変わりつつあった。


 今日も、教室の自席に向かおうとした私は、ほんの僅かに足を止めた。


「⋯⋯濡れてる?」


 スカートの裾が椅子に触れる寸前で気づいた。昨夜は雨だったけれど、他の席にそんな様子はない。椅子の座面には、濁った泥水の染みができていた。白いハンカチでそっと押さえると、ぬるりとした感触と、かすかな泥の匂い。


──泥水。


 偶然じゃない。こんな不自然な濡れ方をするはずがない。


 教室の隅で、数人の女生徒たちが口元を押さえて笑っていた。彼女たちの輪の中心にいるのは、ラリッサ。まるで舞台の主役のように涼しい顔で佇んでいるけれど、その瞳は鋭く、私の一挙一動を監視していた。


──本当に、くだらないわ。


 私は何も言わず、静かにハンカチを畳み、椅子を拭いた。笑い声が背後から刺すように届いたけれど、耳に入ってこない。入ってこないことにした。


 別の日には、講義の合間、教科書を取り出そうとして机に手をかけた瞬間、何かがざらりと指先に触れた。


 机の内側には、白く細かな粉がまぶされていた。スカートの膝が触れた箇所は白く汚れており、恐らく細かく砕かれた石膏のようだった。触るとざらざらとして、爪の間に入り込む。


──手が込んでるわね。誰かの彫像を壊したのかしら。それとも、わざわざ石材室から持ち出した?


 嫌悪よりも、呆れの方が勝っていた。手間をかけてまで私に構う執着心が、むしろ哀れに思える。


 私は無言でハンカチを取り出し、膝と机を拭きながら深く息を吐いた。だがその吐息に、かすかに重さがあることに、自分でも気づいていた。


 さらに別の日、配られた教材の束の中から、一枚の紙が落ちた。それは模写用の白紙だったが、私の名前をもじったあだ名と稚拙な風刺画が描かれていた。髪をぼさぼさにされた女の子が、泥だらけでスカートを引きずっている。


──笑いのセンスもお粗末ね。


 それでも、笑い声とささやきが教室中に広がっていくのを感じた。視線の波が、私にぶつかってくる。痛みはない。けれど冷たい。まるで水の中に沈められているような息苦しさが、喉元を締めつけた。


 それでも私は、何も言わない。誰も見ていないところで、それをそっと鞄に押し込んだ。抗議することは、彼女たちに「効いた」と思わせること。私の感情は、彼女たちの勝利の証にされてしまう。


──前世の会社員だった頃も、こんな風に、何もない顔をしてやり過ごしていたわね。


 違うのは、ここが学園であり、貴族社会の縮図であり、そして何より、私はこの世界では「子爵令嬢」に過ぎないということ。力の差は歴然としている。


 心の奥底に、沈殿するように溜まっていく澱。それが、ふとした瞬間に胸の奥で泡立つ。悔しさ? 悲しさ? いや、きっと、もっと複雑で、名もない感情。


 だけど、泣かない。怒らない。

 だって、ここで私が取り乱したら、それは彼女たちの「思うつぼ」だもの。


──────────────────


 そんなことが続く日々の中で私は裏庭にいた。


 垣根の向こう側、誰も近づかない垣根を越えた茂みの中。ここだけが、今の私の心を守ってくれる場所だった。


「カヤツリグサが沢山。煎じればお腹の薬にもなるのよね」


 手袋をはめ、しゃがみこんで、指先でそっと草の根をたどる。土の匂い、草の感触、虫の羽音──静寂が、私を包み込んでくれる。無心でいると、何もかもを忘れられた。


 けれど、その静けさが破られたのは、不意に聞こえた茂みをかき分ける音だった。


「君は、本当に変わっているな」


 声の主に顔を上げると、そこにはエルンストがいた。


 相変わらず感情を読ませない表情。でも、どこか安堵を含んだ声が、妙に心地よかった。


「ええ、よく言われます」

「──少しは気が晴れたか?」

「ふふ、ありがとうございます、エルンスト様。気にしていただいて」


 皮肉にも感謝の言葉が自然に出るほど、私は彼の存在に救われていた。


「無理をしなくていい」


 まったくこの人は。ぶっきらぼうで、言葉は不器用。でも、ちゃんと見ている。その「目」がある限り、私は立っていられる。


「そうですね。草を抜いていると、嫌なことを忘れられるんです」

「嫌がらせのことか⋯⋯」


 エルンストの目が僅かに鋭さを帯びる。その視線に痛みを感じて、私は土を握ったまま手を止めた。


「少し、だけです。少しだけ、傷ついてるんでしょうね。でも、大丈夫です」

「無理をするなと言っただろう」


 その声音が、やさしかった。ああ、私はやっぱり、この人のその不器用なやさしさに、甘えているんだ。


 そこへ──また茂みがかき分けられる音。息を切らして現れたのは、なんとロザリンだった。


「リアーナ様!」

「⋯⋯ロザリン、様?」


 土埃まみれ、髪も乱れ、目元は赤い。彼女がここまで取り乱している姿を見るのは初めてだった。


「やっと、やっと見つけた⋯⋯校舎も、図書室も、正門も探して⋯⋯!」


 その姿に、私は思わず立ち上がった。何が彼女をここまで突き動かしたのか。


「何かあったの?」

「ごめんなさい、リアーナ様。私の、せいで──」

「違うわ」


 強く、はっきりと否定する。ロザリンのせいではない。これは私が選んだ道。誰かに媚びて、保身に走ることを拒んだ。その代償を払っているだけ。


「でも、それでもリアーナ様が傷ついているなら──」


 ロザリンの肩が震える。私のためにこんなにも泣いてくれる人がいる。それが、どれほど尊いことか。


「私⋯⋯リアーナ様のように、自分の意志で動ける人になりたいです。だから、もし⋯⋯」


 彼女は俯いたまま、けれどしっかりとした声で言った。


「もしよければ⋯⋯ふつつかな私ですが、と、友達に、なってください!」


 私は、思わず笑ってしまった。


「ふつつかって。ロザリン、友達っていうのは、なんでも肯定する関係じゃないと思ってるの。私が間違っていたら、ちゃんと叱ってくれる?」


「私も叱ってくださいっ、沢山、いっぱい!」


 二人で笑い合ったとき、背後で小さく吹き出す音がした。


「エルンスト様、今、笑いましたね?」

「リアーナがそうやって笑うのは、悪くないと思っただけだ」

「今の顔、珍しく微笑みました? もう一回見せてください」

「俺は見せ物ではない。君は俺を誤解しているだろう⋯⋯」


 その照れ隠しの言葉に、私もロザリンも吹き出した。


 けれどその直後、エルンストの顔が引き締まる。


「リアーナ、ロザリン嬢。二人に話しておくことがある」

「何かあったのですか?」

「殿下──アルフレッド殿下は、近く決断を迫られるだろう。だが、それには根拠が要る。だからこそ、俺は『今』を見届ける必要がある」


 その言葉には、王子の側近としての覚悟と、私たちを守る意志が込められていた。


「俺はリアーナを守ると誓う」


 言葉にして、口に出すというのは、なんと重いことだろう。


「⋯⋯ありがとうございます。心強いです」


 ロザリンが何故か頬を染めて、私とエルンストを交互に見ていた。


「まぁっ、それって⋯⋯」


 その可愛らしい反応に笑いそうになりながら、私は少しだけ目元を熱くした。


 ロザリンと笑い合ったあとの余韻の中、私たちはそのまま裏庭の木陰に腰を下ろした。穏やかな時間だった。けれど、エルンストは何かを考えるように遠くを見つめ、しばし沈黙していた。


「エルンスト様?」


 私が呼びかけると、彼はふと我に返ったようにこちらを見た。


「──実は、もう一つ、伝えておくべきことがある。殿下の意志も含めて、君たちに隠しておくわけにはいかないと判断した」


 重たい空気がその場に降りる。私は自然と背筋を正した。


「ここ数日、舞踏練習会に向けて不穏な動きが出ている⋯⋯君に関することだ」


 言葉を選んだその言い回しに、私は息をのんだ。


「不穏、というのは⋯⋯?」

「舞踏会用のドレスに細工をしようとしている動きがあった。仕立て屋に不審な依頼を持ちかけた者がいた。それは⋯⋯ラリッサ嬢と接点のある者だったそうだ」


 その一言で、背中に冷たいものが走った。まさか、そこまで。


「そこまでする理由が、私にあるのかしら。私は何も、彼女から奪ってなど⋯⋯」


 思わず言葉を呟いた私に、エルンストははっきりと首を振った。


「理由などない。ただ、彼女がそう『思った』というだけで、十分に行動する。それが彼女だ。そして殿下が、君を気にしているように見えることも、彼女にとっては侮辱に等しいのだろう」

「でも、殿下はただ、私に起きていることを知ろうとしているだけでしょう?」

「それでも、彼女はそうは受け取らない」


 私の脳裏に、ラリッサの整った笑顔と、その裏に潜む冷たい視線がよぎった。あの目は、最初から、私を値踏みするように見ていた。


「ラリッサ嬢の動きは、すでに殿下も把握している。最近の彼は、あえて彼女に関わる場面を避けている。正面から対決せず、波風を立てずに牽制する手法を取っているようだ」


 するとエルンストは、珍しく口元をわずかに歪めた。皮肉を含んだような表情。


「礼法の時間、ラリッサ嬢が殿下の隣の席に向かおうとした時、殿下は先に机の上に数冊の資料を広げて『既に他の生徒と共有する予定だ』と告げた。誰と共有するのかは明言せず、結局その席には誰も座らなかった」

「それってわざと⋯⋯ですか」

「ああ。席を空けておいて、曖昧な理由で彼女を遠ざけた。不自然には映らない形で、本人だけが『拒まれた』とわかるやり方だ。貴族社会では、ああいった沈黙が最も響く。直接否定しない。けれど、近づくことを許さない。それが王族のやり方でもある。怒りを表に出さず、周囲に『違和感』として残す。貴族社会では、それが一番の圧力になる」


 確かに、彼が真っ向から拒絶してしまえば、それは彼の立場を危うくする。婚約候補の貴族の娘を公に拒否すれば、政略の構図に傷がつく。それを避けるために、曖昧な態度を保ちつつ、少しずつ距離を置く。それがアルフレッド王子の選んだやり方なのだろう。


「殿下は、ラリッサ嬢との関係を自然に薄めようとしている。けれど、貴族社会はそう簡単に割り切れるものではない。だからこそ、君が狙われる」

「巻き込まれたくないのに、巻き込まれてしまうんですね⋯⋯」


 自嘲混じりの呟きが、唇からこぼれた。

 それでも、エルンストは言った。


「──守ると言っただろう。殿下もまた、君にこれ以上の理不尽が及ぶなら、友人として、動くつもりでいる」

「それは、殿下の本音ですか?」

「殿下は感情を表に出さないが、信頼している人間には本心を伝える。少なくとも、俺にはそうだった」


 それは、揺るぎない信頼関係があっての言葉だと思った。ならば私は、そこに甘えるべきなのかもしれない。


「ありがとう、エルンスト様」


 自然と口をついた言葉だった。


「⋯⋯リアーナ様は、どうしますか?」


 隣でロザリンが小さく尋ねてくる。私は少し考えてから、答えた。


「草むしりでもして、心を整えてから、考えるわ」


 ロザリンが笑った。エルンストも少しだけ頷いた。

 私はきっと、これからもっと試されるのだろう。


 陰湿な敵意は、これから本格的な「策略」へと姿を変えていく。


 私はそれに、立ち向かえるだろうか。

 それとも、傷ついて、壊れてしまうのだろうか。


 それでも、ひとりじゃないと思えることが、何よりの力になる。


 泥水をかけられても、粉を仕込まれても、教科書に落書きをされても。

 私は、自分を失わないでいられる。


──自分の足で、立つ。


 その強さを、少しだけ取り戻せた気がした。

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― 新着の感想 ―
関わらないでって言ったのに近づいてくるロザリンはいまいち。 助けられたと思うなら、お礼を言いたい謝りたい更には友達になりたい?とかいう自分の望み一辺倒じゃなくて相手の望みを優先した方がいいんじゃないか…
いやまあエルンストが関わって来てるのも原因の一つなんだろうけどな
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