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3/25

静寂の裏庭にて。(エルンスト)

 午前の講義が終わると同時に、教室を出た。

 講義そのものに不満はなかった。だが、教室に満ちていた空気が、今日はどうにも重たく感じる。王子の側近という立場がもたらす注目は、黙っていても視線を呼ぶ。

 誰かがこちらを見ている──そう思えば思うほど、視界の端で人の目が動いた気がして、妙な煩わしさを覚えた。


 このままでは、余計な思考に引きずられそうだ。

 そう感じた瞬間、風の通る場所がふと脳裏をよぎる。


 静かで、広くて、誰もいない場所。


 気がつけば、廊下を抜け、校舎の裏手へと足が向いていた。

 目指すのは、あの裏庭。空がわずかに開け、かつてアルフレッドが読書に使っていた一角。今ではほとんど人が来ることもない。騒がしさから逃れたいとき、自然とここを思い出すようになっていた。


 草の匂いが微かに漂い、淡い風が頬を撫でる。

 芝生の上で深く息を吐いた。ようやく肺の奥まで空気が届いたような、そんな気がした。


 だが、その静けさは長くは続かなかった。


 軽やかな足音が近づいてくる。気配を消すように歩いているのに、不思議とその音だけが耳に届く。


「誰だっ」


 反射的に声を荒らげていた。警戒というよりも、思考を中断された苛立ちが先に立ったのだろう。


 振り返ると、そこに立っていたのは栗色の髪を編み込んだ少女。


 それは今朝、ラリッサに呼び止められていた子爵令嬢だった。

 地味な制服の着こなし、控えめな身のこなし。だがその所作一つひとつが、目立たぬために整えられているのが分かる。

 目立たないことに、どこまでも徹している。


──意識的に、空気になろうとしている。


 リアーナ・メイフィルドは足を止め、丁寧に頭を下げた。


「⋯⋯失礼いたしました。こちらの場所、使っていらしたのですね」


 落ち着いた声。その調子にもまた、作為的な波立ちのなさがあった。

 言葉を選ぶというより、存在そのものを調えている。そんな印象を受けた。


 けれど何かが、引っかかる。


──あのラリッサが、どうして彼女に関わったのか。


 リアーナのような存在に、ラリッサが興味を持つのは不自然だ。

 彼女が好むのは目立つ者、もしくは利用価値のある者。だが、この令嬢からは、どちらの要素も感じ取れなかった。


「⋯⋯待て」


 自分でも、なぜ引き留めたのか分からない。


「君は、メイフィルド子爵令嬢だな。今朝、ラリッサ嬢と話していただろう」


 リアーナは、わずかに目を見開き、静かに頷く。


「はい。少しだけ⋯⋯ご挨拶をいただいただけです」


 挨拶、か。それで済むのなら話は早い。

 だが、ラリッサがただの挨拶で引き下がるとは思えなかった。

 言葉の裏に、見えない意図を潜ませるのが、ラリッサだ。


 リアーナはそれに気づかなかったのか。それとも、気づいたうえで、あえて平然と振る舞っているのか──。


「君は、あれに取り込まれるな」


 注意でも、忠告でもない。ただの一言だった。

 けれど、自分の声には余計な感情が滲んでいたことを、自覚していた。


 俺の視界から逃げるよう、彼女は芝生の端に腰を下ろし、昼食の包みを広げる。控えめな動作で、スープを幸せそうに口元へ運んだ。

 その様子は、誰にも気づかれないことを優先しているかのようだった。


 ふと、彼女の視線が垣根の裏へと向かう。

 草が伸び放題になった一角。人目の届かないその場所を、じっと見つめていた。


 何かを探しているわけでもない。ただ、見ている。

 やがて、彼女はゆっくりと手を伸ばした。


──何を⋯⋯。


 思わず息を止めた。

 令嬢が草に触れる理由など、あるはずがない。

 だが、その手は確かに草に近づき──寸前で止まり、こちらを見た。


 目が合う。

 彼女は「しまった」と言いたげに、すぐに目を伏せた。

 そして、草には触れず、何も言わずに食事を片付けて、その場を後にした。


 残されたのは、風に揺れる草の葉と、わずかに動いたその痕跡。

 それだけが、彼女の動作の痕を残していた。


──彼女は、一体何を見ていたのか。


 理由を知る必要はない。

 ただ、あの仕草の中にあった何かが、ずっと整えられていた彼女の輪郭を、かすかに浮かび上がらせたように思えた。

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― 新着の感想 ―
王侯貴族が下位の貴族令嬢に関わるのは関わられた側が真面目に迷惑だよなあ
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