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物語の中心に巻き込まれたくない令嬢は、今日も庭の草を抜いています。  作者: 京泉
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元公爵令嬢の癇癪(ラリッサ)

 目を覚ました瞬間、わたくしを包んだのは不快なほどの静寂だった。

 使用人たちの慌ただしい足音も、侍女長の小言も、カーテンを開ける音も、ここには何一つとして存在しない。


 ここは──ノルデン男爵家。

 わたくしが押し込められた地方貴族の館。グレイ公爵家の「縁者」だけれどわたくしには檻のような場所でしかない。


 目に入る調度品は昨日と何ら変わらず、質素で、華麗さなど影も形もない。公爵家の煌びやかさと比べるのもおこがましい。

 それでも、一つ一つは手入れが行き届いているらしく、粗末という言葉は当てはまらないようだけど。

 だからこそ、それがまた癪に障るのよ。格の違いをわきまえぬ者どもが、必死に気品を装っているのだもの。


「着替えをする者はいないの!」


 わたくしは声を荒げたけれど反応はなかった。

 男爵家の者とはいえ貴族だ。朝の支度は使用人の仕事。私の髪を整え、ドレスを着せ、化粧水を用意するのが礼儀というもの。


 ふと、昨夜の男爵の言葉が、頭の中で反響する。


「我が家では、貴族の自律を重んじている」


 ⋯⋯なるほど、だからわたくしを「公爵令嬢」とは扱わず、「男爵夫人」として接しているのね。

 初日から思い知らされたその事実に、顔が熱くなる。屈辱以外の何物でもない。


「わたくしが⋯⋯自分で着替える、というの?」


 冗談ではないわっ。わたくしは王太子の婚約候補として、公爵家の華やかな世界にいたのよ? 指一本動かさずとも、すべてが用意されていたのよ?


 わたくしはクローゼットの中から地味なデイドレスを掴み、紐をほどく。苛立ちのあまりボタンを弾き飛ばしてしまった。舌打ちを禁じ得ない。こんな辱め、受け入れられるはずがないわ。


 やっとの思いで着替えを終えたその時、控えめなノックが響いた。


「失礼いたします、奥様。朝食のご用意が整いました」


 女使用人の声だ。丁寧だけれど恐れも媚びも感じられない。


「遅いわよ! わたくしはひとりで支度をしていたのよ? 貴族の着替えは使用人がするのが当然でしょう!」

「申し訳ありません。ノルデン男爵家では、お支度は基本的にご自身で──」

「お黙りなさい! 主人に口答えするつもり?」


 叱責したのに、その女は微動だにせず、ただ一礼した。


「男爵家に仕える者として当然の説明をしたまでです。何か他にご不満がございますか?」


 言葉に込められた冷静さが、逆にわたくしを激怒させる。

 公爵家なら、この態度だけで即刻解雇されるはず。なのに、ここの者たちはわたくしをまるで恐れてなどいなかった。


 階下の食堂へ向かうと、朝食の準備が整っていた。

 白いクロスに簡素な食器、湯気の立つスープに焼きたてのパン、野菜のサラダ。

悪くはないが、これが貴族の朝食だなんて、笑わせる。


「これだけ?」

「本日は市場が休みのため、新鮮な果実はありませんが、地元産の食材で丁寧に作っております」

「丁寧? 随分と都合のいい言葉ね」


 嫌味を言っても、配膳の女は微笑みもせず、恭しく頭を下げるだけ。


 わたくしはスープを口にした。味は確かに悪くない。素朴でありながら塩加減も絶妙で、舌に温もりが広がる。

 けれど、それがまた腹立たしい。


 この家の者たちはわたくしを「お嬢様扱い」をしない。理不尽な命令も、苛立ちも、まるで取るに足らないことのように無視する。


──そう、あの男も。


「ラリッサ夫人」


 聞き慣れぬ呼び方に驚き、顔を上げると、いつの間にかノルデン男爵が食堂の扉の前に立っていた。


 髪は後ろに撫でつけられ、端整な顔立ちに無駄のない動作。年の離れた夫だが、わたくしは認めない。


「この家の者たちの態度について異議があれば、私が伺います」

「当然、異議はあるわ。わたくしは貴族。身の回りの世話も、食事も、もっと相応しい扱いがされて当然」

「貴族であればこそ、自律と節度が求められます。公爵家の娘としての誇りをお持ちでしょうが、我が家では『誇り』と『節度』は違います」

「なにを──」

「使用人は我が家の一員です」


 その声は冷静で感情を含まない。それが逆にわたくしを深く突き刺す。


「あなたは『夫人』です。公爵家の令嬢ではない。敬意は振る舞いに対して払われ、血筋には与えられません」


 理路整然とした言葉に、わたくしは息を詰めた。

 踏みにじられた誇りに、顔が熱を帯びる。怒鳴り返そうとしても無駄だと直感した。


 ノルデン男爵──理でしか動かぬ男。情に訴えても動かぬなら、どうやってこの状況を変えればいいの。


 食後、部屋に戻り、鏡の前で小さく舌打ちした。


 こんな暮らし、我慢できるはずがない。


──あの二人。リアーナとロザリン。


 思い出すたびに、胸の奥が疼く。恨み、悔しさ、苛立ち。名づけ難い感情が喉を焼く。

 どうして、あの令嬢たちの顔が今も脳裏から離れないのか。


 リアーナ。ロザリン。


 身の程知らずの愚か者たち。下位貴族のくせにわたくしに逆らった。あり得ない、あってはならないこと。


 貴族社会で、階級はすべて。上に立つ者に従うのは、下の義務で道理で常識。

 守れぬ者は滅びればいい。わたくしが彼女たちを厳しく扱ったのは当然。


 なのに──あの二人は、ひれ伏さず頭も下げず、目を伏せもしなかった。わたくしに逆らった。

 黙って従っていれば丸く収まったのに、取り入って機嫌を取れば済んだのに。

 彼女たちはそれをしなかった。


 まるでわたくしと同じ場所に立てるかのように。

 まるで自分たちの方が正しいとでも言うように。


 恥を知るべきはあの二人。

 なのに、なぜ──なぜわたくしがこんな目に遭うの?


 あのままなら、王太子の婚約候補筆頭の座を守っていたはず。いずれ正式に婚約者として名を連ねていたのよ。

 けれど今は、男爵家の夫人。遠く離れた地方で、誰にも見られず、淡々と「正しさ」を説かれるだけ。


 屈辱以外の何物でもない。


 すべて、あの二人のせい。


 あの二人がわたくしを男爵夫人に落とし、貴族社会の末端に追いやった。


「身の程知らずが咎められるのは当然。この国の秩序そのものが腐っているのよ」


 そう自分に言い聞かせる。けれど心の澱は消えない。

 それを振り払うように、わたくしは紐をぎゅっと引いた。


──わたくしは、公爵令嬢。王太子の婚約候補だったのよ。


 こんな場所で終わるわけにはいかない。

 自分にそう言い聞かせ、唇をきゅっと結んだ。

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