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灯の下で交わすもの。

 日が沈む頃、迎えに来てくれたエルンストの馬車に乗り込み、私は街の広場へと向かった。窓の外、ゆっくりと流れる風景は、どこか別の世界のもののように思える。


 馬車の中でエルンストは多くを語らなかったが、その沈黙は心地よかった。ただ隣に座っているだけで、言葉以上のものが伝わってくる。彼の穏やかな気配に包まれて、私も自然と肩の力が抜けていく。


 やがて、馬車が広場の一角で止まり、扉を開けて差し出された手に触れた瞬間──外の空気が一気に熱を帯びた。


 広場は、まるで別世界だった。


 無数のランタンが空に灯り、木製の小さなステージには弦楽器と管楽器が並び、ステージのその周囲には、屋台が立ち並び、香ばしい焼き菓子の香りや、甘く煮詰められた果実の匂いが漂っていた。子どもたちの笑い声、軽やかな掛け声──そこには、日常とは少し違った、けれど確かに人々の暮らしの熱があった。


「⋯⋯素敵ですね」


 思わず漏れた言葉に、隣のエルンストがふっと笑った。


「人々の暮らしの糸が、この街の景色を織り上げているんだ」


 私たちはゆっくりと広場を歩きながら、屋台をひとつひとつ眺めてまわる。


 焼きたてのパイを二つ買って半分こにし、小さな陶器のカップに注がれた果実酒を一口だけ試す。手にした湯気が指先を温めるたびに、心までほぐれていくようだった。


 どこまでも自由で、どこまでも優しい空間。──私はその中で、心から楽しいと思えた。


 ふと、路地裏にひっそりと並んだ小さな露店の一つが目に入った。


 布張りの簡素な屋根の下、ひとつひとつ違う模様の紐が並んでいる。木の玉や小さな銀の飾りが結ばれたそれらは、どれも手作りのブレスレットだった。


 私が足を止めると、エルンストも立ち止まり、静かに棚を見つめる。


「気になるものはあるか?」

「可愛らしいな、と思って」


 そう言いながら視線を巡らせていると、ふいにエルンストがひとつ、紐を手に取った。


 それは深い青に銀糸が編み込まれた、月の光のような静けさを纏ったブレスレットだった。


「これが、リアーナに似合いそうだ」


 そう言って、もうひとつ、エルンストは同じ色のブレスレットを手に取る。けれどよく見ると、ほんの少し、結び目の飾りが違って、控えめながら、きちんと対になっているのが分かる。


「あっこれ、お揃いなんですね」

「⋯⋯買ってもいいか?」


 私は一瞬だけためらったが、すぐに頷いた。


「はい」


 店主に渡された二つのブレスレットは、麻布に丁寧に包まれていた。そのうちのひとつを、エルンストが私の手首にそっと巻いてくれる。


 肌にふれた彼の指先が、思ったよりも温かくて、私は息を呑む。


「似合ってる」


 短く、それだけ言って、彼も自分の手首にもうひとつを巻いた。


 ほんの小さな輪だけれど、それは確かに、私と彼を結ぶしるしのように思えた。


 手首に巻かれたブレスレットを見つめながら、私はふと、隣にいるエルンストの横顔を見上げた。ランタンの灯りが彼の銀灰の髪に柔らかく反射し、静かな表情を照らし出している。


──エルンストの隣にいると、世界が穏やかに見える。


 そんなふうに思いながら、もう少しこの時間が続けばいいのに、と思った、そのときだった。


「リアーナ様?」


 聞き慣れた、けれど久しぶりに感じられる柔らかな声に、私はぱっと顔を上げた。


 人だかりの向こうから、ゆったりと歩いてくるのは──ロザリンだった。

 淡い桃色のワンピースに身を包み、頬をうっすらと染めたその顔は、以前よりもさらに柔らかく、しあわせそうに見えた。


 そのすぐ隣には、引き締まった体格と丹精な顔立ちの青年──ラウスの姿。


 騎士の制服を着崩すことなくきちんと着こなした彼は、周囲の賑やかさに気を緩めることもなく、けれどロザリンにぴたりと合わせて寄り添っている。


「エルンスト様も。おふたりで、いらしていたのですね」


 彼女の瞳が、そっと私とエルンストの間に注がれる。そのまなざしに、なぜだか背筋がすっと伸びるような感覚が走った。


「誘っていただいたの」

「おふたりが並んでいらっしゃるのを見ると⋯⋯なんだか、幸せそうだな、と嬉しくなります」


 ロザリンが少しだけ意地悪く微笑む。けれど、その声音にはどこか祝福のような温かさがあった。

 その視線を受けたエルンストは、軽く顎を引いて応える。


「⋯⋯ロザリン嬢も人のことを言えないだろう」

「ええ、本当にそうですね。リアーナ様がいてくれたからです。ふふ、今とても幸せなんです」


 ラウスがその言葉に静かに頷き、ロザリンの手にそっと手を添える。彼の目が、私たちを見て微かに細められた。


「ロザリン、せっかくのおふたりの時間だ。⋯⋯お邪魔してはいけない」

「あら、そうよね。リアーナ様、エルンスト様。良い時間を。ふふ、良いお話が聞けること期待してます」

「エルンスト様、リアーナ様良い時間を」


 ロザリンは再び微笑み、軽くスカートの裾をつまんで一礼した。ラウスも礼儀正しく頭を下げ、ふたりは肩を並べて、灯りの向こうへと歩き出していく。


 後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなるまで、私はしばらく、視線をそちらに留めていた。


「ロザリン、強くなりましたね」


 ぽつりとこぼした私の言葉に、隣のエルンストが頷く。


「自分を否定しないでいられるようになったのだろう。自分の存在を肯定できるようになった──だから、前を向ける。強さとは、そういうものなんだと思う」


 そう言ったエルンストの横顔は、月明かりに照らされてどこか柔らかく見えた。


「俺たちもそろそろ行こうか」


 そう穏やかに言って、エルンストはゆっくりと歩き出す。

 私は小さく頷き、自然とその隣に並んだ。


 街灯がぽつりぽつりと灯る石畳の道を抜けていくと、通りの先から楽しげな音が流れてきた。弦の響き、笛の音、そして人々のざわめき──それらが少しずつ重なって、耳に届いてくる。


 そして、ランタンの灯りの下──先ほどよりも少しだけ近い距離で、私たちもまた歩き出した。


 広場の中央、ランタンで飾られた舞台に灯りが灯ると、街の喧騒がひととき静まった。


 楽団の奏者たちがそれぞれの席につき、観客たちが立ち止まって目を向ける。祭りのように賑やかだった通りも、まるで潮が引くように静まり返っていく。


 最初の一音が、夜の空気に溶けるように響いた。


 木管と弦が柔らかく調和しながら、舞台から音楽が流れ出す。どこか懐かしく、けれど華やかで──街そのものが、音の色彩に包まれていくようだった。


 私はその場に立ち尽くし、ただその音に耳を傾けた。


 エルンストが静かに「こちらへ」と促し、舞台の見える位置に連れて行ってくれた。人だかりの端、少し高くなった石段のそば。視界を遮らず、けれど人波にも押されない──とても居心地のいい場所だった。


 目の前に広がる光と音の世界に、心が自然とほどけていく。


──ああ、こういう時間が、欲しかったのかもしれない。


 何かを守るために、誰かに巻き込まれないようにと緊張していた日々。けれど今、音楽のなかで、私は初めて、心のままに立っていられる気がした。


 風に乗って、花の香りがほんのりと漂う。ふと、手首のブレスレットに目を落とすと、同じ色の編み紐が隣のエルンストの手にも巻かれているのが目に入った。


 ささやかなもの。でも、その小さなひと揃いが、今の私にとってはとても大きな意味を持っていた。


 エルンストのほうを見上げると、彼も私の方に視線を向けていた。


 目が合う。


 ──何かを言わなきゃと思った。でも、うまく言葉が浮かばなかった。


 ただ、胸の奥がぽっとあたたかくなって、私はそのまま微笑んでいた。


「ありがとう、エルンスト様」


 ようやく出てきたのは、それだけの言葉だった。


 けれど、彼はそれで十分だと言わんばかりに、小さく頷いた。


「君が少しでも笑えるなら、それでいい」


 その言葉に、私はまた胸を締めつけられるような気持ちになる。


 ずっと一人なのだと思っていた。誰にも頼らず、誰にも寄りかからず。けれど、そうじゃなかった。気づかないうちに、こうして隣にいてくれる人がいたのだ。


 ──この人となら、もう少しだけ前を向いて歩けるかもしれない。


 音楽はやがて、次の楽章へと進んでいく。緩やかで、どこか切ない旋律が、夏の夜の空に重なっていく。


 私はそっと目を閉じた。


 これまでのこと。過ぎていった日々。傷ついた時間。悔しかった出来事。そして、誰にも言えなかった痛み。


 そのすべてを、音楽が優しく包み込んでくれるようだった。


 ──もう、大丈夫。


 心の奥で、何かがすうっと溶けていく。


 目を開けると、エルンストが変わらぬ眼差しで私を見ていた。


 私は笑って、ゆっくりと手を差し出す。


 言葉はいらなかった。ただその手を、彼がそっと取ってくれたことが、何よりの答えだった。



 夜の風が、ゆるやかにランタンの灯を揺らした頃、音楽会は、終わりに近づいていた。

 最後の楽章が、静かに広場に満ちていく。遠くでランタンの灯りが揺れ、祭りのざわめきも少しずつ落ち着きを見せはじめている。


 私は、まだエルンストと手を繋いだまま、その空気の中に立っていた。


 もう、心は不思議なほど静かだった。


「少し、歩こうか」


 エルンストの言葉にうなずいて、私は並んで通りを歩く。昼間とは違い、人通りもまばらになった石畳の道は、ランタンの灯りが反射して金の粒を散らしたように輝いていた。


 どちらからともなく、自然と足を止める。広場の外れ、小さな噴水のそば。


 静かな水音が響く中で、エルンストがぽつりと口を開いた。


「⋯⋯リアーナ」


 名前を呼ばれて、私はゆっくりと顔を上げる。

 エルンストは迷いのない目で、まっすぐに私を見ていた。


「最初に君のことを意識したのは、あのラリッサ嬢がどうして君に興味を持ったのか、ただそれだけが理由だった」


 私の胸が、少しだけ疼いた。


 それはきっと、私自身が一番よく知っていることだったから。


「君がラリッサ嬢の取り巻きの中にいるのを見たとき、どこか⋯⋯腹立たしかった」


 あの頃の自分を、否定されたような気がして、私は少しだけ目を伏せる。


「けれど──ロザリン嬢を見捨てないと言った君の言葉が、俺の中に残った。あれは、偽りじゃなかった。あの瞬間⋯⋯君のことを知りたいと思ったんだ」


 そっと胸元に手を当てる。あの時の自分の震えた声が、確かに彼に届いていたのだと知って、胸が熱くなる。


 私の視線に気づいてか、エルンストは、ふっと目を細めた。


「気づけば、君を目で追っていた。どんな思いで立っているのか、何を怖れているのか──そんなことばかり考えるようになった俺は、君に惹かれていたんだ」


 その言葉は、ゆっくりと、けれど確かに私の中に届いた。

 

 私は、胸の奥からこみ上げるものを押さえきれずに、言葉を探す。


「私、エルンスト様のような方に、見てもらえるなんて、思っていませんでした」


 声が震える。けれど、もう逃げたくなかった。


「取り巻きの中にいたのも、見ないふりをしていたのも、全部、情けない私です。ラリッサ様を怖がって、無難にやり過ごそうとして⋯⋯本当は、私も、誰かを助ける強さなんてなかった」


 エルンストは、黙って聞いていた。


「けれど、あのとき⋯⋯ロザリンを見捨てられないって思った時に、初めて、ほんの少しだけ、自分を嫌いにならずにすんだ気がして」


 そんな私を、エルンストが見ていてくれたことが、どれほど救いだったか。


「私も、エルンスト様に惹かれていました。でも、釣り合わないって、何度も思ってしまって⋯⋯」

「関係ない」


 エルンストが、そっと私の手を取る。


 その手は、強くも優しくもなく、ただ自然に、私の指に触れた。


「ただ、君がここにいてくれること──それが、俺にとっては十分、幸せなことだ。俺はリアーナが好きだ──」


 私は、まっすぐに彼を見た。


「私はエルンスト様が、好きです」


 言葉にしたとたん、胸の奥に宿っていた不安が、ゆっくりとほどけていく。


 ただ彼と向かい合って、同じ空の下で、同じ時間を過ごしている。


 それだけで、もう十分だった。


 遠く、音楽会の余韻が風に溶けていく。


 手を重ねたまま、私たちはしばらく黙っていた。けれど、その静けさは不思議と心地よくて。


 夜空の下で、小さな光がひとつ、確かに灯った気がした。

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