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夕刻の誘い。

 ラリッサ・グレイ公爵令嬢と、その取り巻きたちの姿が、学園から忽然と消えた。


 誰も声に出して語らない。けれど、彼女たちの席がそのまま空いているのを見て、生徒たちは一様に目を伏せる。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように──あえて、そう振る舞っているのが見え透いていた。

 談話室でその話題がささやかれるときでさえ、皆が慎重に言葉を選び、決して核心には触れようとしない。


「グレイ公爵家では、なにか内々のご事情がおありだそうよ」

「王都を離れられるらしいですわね」


 どの言葉にも、妙に整った敬意がこもっていた。あくまで礼儀正しく、節度ある噂話。

 けれど、それはどこか、ひどく白々しい。


 そしてなにより、その話しぶりの中に混じる、安堵にも似た開放感。まるで重しが取れたのだと、誰もが心の奥でほっと息を吐いているような。


「ご友人の方々もご実家に戻られたそうね」

「ええ、地方領に住まいを移されたという話ですわ」

「偶然が重なったのかしら。少しできすぎているような気もしますけれど」


 笑みをたたえて交わされる言葉の裏に、皮肉が滲む。それが、この学園という場所の「秩序」だから。


 私は、少しだけ背筋を震わせながら、静かに教室を抜け出した。


 先日までは、見て見ぬふりをしていた人々が、今日は丁寧に挨拶をしてくる。すれ違いざまに笑みを向け、まるで初めから私を好意的に見ていたかのように。


 彼らはただ傍観し、時に同調すらしていた。だからこそ、今になって態度を変えられると、胸の奥がざわつく。それが「仕方のないこと」だと理解していても。


 裏庭へ足を運ぶと、ようやくわずかに息が楽になる。草の香りが微かに漂うこの場所だけは、変わらない。


 私は腰を下ろし、陽の差す空を仰いだ。どこか現実感のないまま、ぼんやりと、何も考えずに時を流す。


 ──その静けさを破ったのは、落ち着いた、けれど確かな声だった。


「やはり、ここに来ていたんだな」


 声の方に顔を向けると、そこには銀灰の髪を風に揺らしながら、エルンストが立っていた。

 探した素ぶりなく、ただ当たり前のようにそこに現れる姿に、私は安堵と少しの驚きを覚えた。


「エルンスト様はアルフレッド殿下の側にいなくて、大丈夫なのですか?」


 エルンストは、私を見ずに小さく頷き、息をついた。


「⋯⋯アルフレッドの奴「君が行かないなら、僕がいこうか」だと」

「え?」


 そう言って、エルンストは額に手を当てる仕草を見せた。


「以前も似たようなことを言ってた。リアーナを「婚約者候補に選んだらどうする?」と」

「ええ!? なんですかそれ⋯⋯」


 驚きと照れが混ざったような声音になってしまい、自分でも慌てて口元を押さえる。

 エルンストはわずかに肩を揺らして笑った。


「⋯⋯あまりにも突拍子もない⋯⋯」

「俺も驚いたよ。まさか、そんなふうに君の名前が出てくるとは思ってなかった。殿下のいつもの言い方じゃ、本気とも冗談ともつかないからな」


 そう言いながら、エルンストは肩をすくめた。

 真面目な顔のままで淡々としているけれど、その言葉には、戸惑った当時の気配が色濃く残っていた。


「あの時は焦ってリアーナの家まで押しかけてしまった⋯⋯ まったく⋯⋯あいつは、俺をからかうのが趣味なんだ」


 彼の静かな口調の中に混じるほんのわずかな熱に、私の胸が再び波打つ。


「⋯⋯殿下はそういうの、よくおっしゃいますよね。軽い調子で、まるで何でもないように」

「ああ。冗談の顔をしながら本音を突いてくる。あいつ、ほんと悪趣味だ」


 それを聞いて、私はエルンストと同じ方向を見て笑えた気がして、胸の奥が少しあたたかくなった。


 どこか遠くの出来事のように眺めていた自分の感情が、今、目の前の事実として浮かび上がる。

 私は、エルンストの好意に気づいていた。ほんの小さな仕草や、ふとした視線の温度で、気づいていた。

 そして、自分自身もまた──エルンストに惹かれていることを、もう否定できなかった。


 それでも、私はすぐには言葉にできなかった。

 声にしてしまえば、何かが決定的になってしまう気がして。

 けれど、目を逸らすことだけはしたくなくて、そっと彼の横顔を見つめる。


「殿下が、けしかけたくなる気持ちも、わかる気がします」


 ようやく絞り出した声は、少しだけ震えていた。

 私の言葉に、エルンストがわずかに目を見開いた。


 その瞬間、私の胸の奥で、長く凪いでいた感情が、静かに波打った気がした。

 言葉にしてしまったことで、すべてが変わってしまいそうで怖かったのに、彼の静かな反応が、不思議な安心を与えてくれる。


 ふと、風が吹き抜ける。蔦棚を揺らした葉のざわめきが、緊張の糸をやんわりとほどいてくれた。


 笑みのあとの沈黙のなか、心はどこか、まだ遠くに引っかかっている。

 エルンストは、それを感じ取ったのか、ほんのわずかに声の調子を変えた。


「⋯⋯気になっているんだろ? ラリッサ嬢たちのこと」


 ふいに、核心を突くような言葉が落ちてくる。

 驚きはなかった。ただ、胸の奥をそっと撫でられたような感覚だけが残った。


 私は小さく、けれどはっきりと頷く。


「学園の空気が、変わりました。確かに、静かになって⋯⋯ほっとしている自分もいます。でも⋯⋯」


 言葉を一度切って、私は蔦棚越しに揺れる陽を見上げた。


「あれほど、学園を支配していたラリッサ様と取り巻きの方々が誰一人戻ってこなくて。それなのに、誰も何も言わない。まるで、最初からいなかったみたいに」


 自分の声が、少しだけ震えていた。

 それが恐怖なのか、虚しさなのか、私にもまだ、よくわからなかった。


「⋯⋯ラリッサ嬢は──ノルデン男爵家に嫁ぐことが決まった」

「ノルデン⋯⋯」


 どこかで耳にしたことがある。王都から遠く離れた高地にある家だ。


「北の山間に領地を持つ、旧家だ。グレイ公爵家の遠縁にあたる。信仰と規律を重んじる家風で知られ、贅沢や華美とは無縁の、静かで厳しい土地だ」


 私はゆっくりと息を吸う。

 ラリッサにとって、それは最も縁遠い場所だ。


「これは王家の指示ではない。公爵家自身の決断だ。今回の件について、グレイ公爵は「家の名を保つためのけじめ」として、自ら縁談を取りまとめた。王家はそれを受け入れたに過ぎない」


 縁談。

 その一言に、私は思わず息を呑んだ。


 罰でも追放でもなく、婚姻というかたちで処遇する。

 貴族社会における「整え方」でよく使われる。


「それが、グレイ公爵家のけじめなんですね」


 自分でも気づかぬほど小さな声だった。

 言いながら、心の奥でざわめきが広がっていく。


 あれほどの権勢を誇っていたラリッサ。

 自信に満ち、周囲を従え、私たちを見下ろしていたラリッサが縁談という形で遠ざけられる。


 「名門の娘」という肩書が、どんなに重く、そして脆いものだったのか──その現実を突きつけられたようで、胸がきゅっと縮んだ。


「公爵家としては、名を守ることが最優先。それには、静かに全てを終わらせることが求められた──そして、ノルデン家がそれを引き受けた」


 その家のことを思う。信仰に篤く、規律を守り、誤った者には正道を教えるような──静かで、逃げ場のない空気。


「彼女にとっては、きっと⋯⋯厳しい環境ですね」

「自由も、社交もない。沈黙と秩序の中で、正しさが空気のように染みついている。過ちを責められはしないが、許されることもない。ただ、正しくあることだけを求められる」


 私の背筋が、ひやりと冷えた。


「沈黙のなかで己を律する──それが、あの家のやり方だ。他者に厳しいのではなく、ノルデン家は、何よりも自身にこそ、緩みを許さない」


 エルンストの声音には、冷ややかさではなく、どこか深い理解が滲んでいた。


 それは、罰よりも残酷だった。

 咎めも、赦しも与えられず、ただ正しさの中に閉じ込められる日々。


「取り巻きだった者たちにも、それぞれの家が処遇を下した。表向きは静養や家の都合としているが、実際には、社交の場から遠ざける措置だ。誰もが、これ以上、家名を汚すわけにはいかないと判断したのだろう」


 その言葉の裏にある、貴族社会の冷徹さが、静かに胸に刺さった。


 私は静かに頷いた。


「──整った形に見えても、厳しいものなのですね」

「整っているからこそ、逃げ場がない。処分ではなく決断として静かに終わらせる──それが貴族のやり方だからな」


 風が蔦棚をゆるく揺らし、陽の光が地面に編み目のように落ちる。

 静かで、変わらない午後の光景のなかで少しずつ、けれど確かに、過ぎていったのだと感じていた。


 誰も口にしない。誰も触れようとしない。

 けれど確かに、ひとつの終わりが訪れた。

 ラリッサのことも、その取り巻きたちも、もうこの場所にはいない。


 私の中で、それはようやく「過去」となり始めていた。


「少し、寂しいですね」


 思わずこぼれた言葉に、自分で驚いた。

 それでも、嘘ではなかった。

 長い緊張のあとに訪れた静けさは、思っていたよりも、空白に近くて。


 エルンストは、黙って私の横顔を見ていた。

 その視線がどこか穏やかで、でも、どこか迷いを含んでいるようにも感じた。


「──もう、前を向いてもいい頃合いかもしれないな」


 低く、けれど優しい声だった。

 私が顔を向けると、彼は少しだけ口元に笑みを浮かべていた。


「今夜、街の広場で音楽会がある。市の楽団が季節ごとに開いているもので、あまり格式ばった催しじゃないが──雰囲気は、悪くない」


 一拍の間のあと、エルンストはふと視線をこちらに戻して、言った。


「一緒に行かないか?」


 その声には、過剰な期待も、遠慮もなかった。

 ただ、ごく自然に──まるで夕暮れ時の散歩に誘うような、穏やかな響きだった。


 唐突に思えたその誘いも、なぜかすっと胸に沁みた。

 私を連れ出そうとしている──そんな優しさが、言葉の奥に滲んでいた。


「私を誘ってエルンスト様に迷惑ではありませんか?」


 問いながら、どこか自分自身を試すような気持ちだった。


「迷惑なら、最初から誘わない」


 すぐに返ってきたその一言が、ひどくまっすぐで、私は思わず目を見開いた。

 けれど、それ以上に、嬉しかった。


「行きたいです。ご一緒できたら、嬉しいです」


 気づけば、そう口にしていた。


 誰かの影に怯えるのではなく、自分の意志で。ようやく、そんな風に言えたことが、少し誇らしく思えた。


 エルンストの瞳が細まり、ほんのわずかに頷く。


「夕刻に迎えに行く」

「はい」


 私は小さく頷いた。


 蔦棚の影は、少しだけ伸びていた。

 けれどその陰に、もう不安は宿っていなかった。


 ──今日を、静かに終わらせるだけじゃない。

 これから先を、少しだけ見つめてみよう。


 そんな気持ちが、胸の奥で、そっと灯るように静かにあたたまっていくのを感じていた。

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