傲慢の終焉。
曇り空の下、ロザリンの家を再び訪れた朝。小鳥のさえずりが響く庭先に立つと、迎えてくれたのは、凛とした黒髪の青年。艶のある長めの前髪と丹精な顔立ち、その眼差しには柔らかい光が宿っていた。
「お待たせして申し訳ありません。ロザリンはまもなく参ります⋯⋯あの、やはり私もついてゆくことはできないのですよね」
そう言った声には、穏やかながらも一抹の緊張が滲んでいた。
彼はロザリンが真剣にお付き合いをしていると言っていた、ラウス・レーバス。王国軍の若手騎士であり、名門出身ではないが、剣技と忠誠心で知られる有望株なのだとエルンストから聞いたのはつい先ほどのこと。
「彼女が選んだ道を、支える者が不安になってどうする。君が彼女を想うなら、なおのことだ」
そう言ったエルンストに、ラウスは目を見開き、すぐに敬礼を返した。
「恐れ入ります」
だがその声音には、決して拭いきれない不安の影が残っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
淡い桃色のドレスに身を包んだロザリンは、まだ杖を手にしていたものの、確かに立ち、ゆっくりと歩いてきた。
「ロザリン無理をするな」
すぐに駆け寄ろうとする彼を、ロザリンは小さく首を振って制した。
「大丈夫よラウス。ありがとう」
ラウスは数秒、じっと彼女を見つめ、それから一歩引いて隣に立った。そして、何も言わず、そっと彼女の肘に手を添える。強くもなく、弱くもなく──彼女の歩みを邪魔しない、けれど確かにそこにある支え。
ロザリンは一度だけラウスに微笑みかけると、私たちに視線を向けた。
「⋯⋯参りましょう、リアーナ様」
私は頷き、隣に並ぶ。
ラウスはほんの僅かに顔を伏せ、エルンストの方へと視線を向けた。
「⋯⋯どうか、ロザリンを、よろしくお願いします」
その声は、胸の奥に渦巻く不安を必死に抑え込んでいるようだった。
エルンストはその言葉を真っ直ぐに受け止めるように頷き、落ち着いた声で答えた。
「君はロザリン嬢を信じていればいい」
ラウスは拳を胸に当て、深く礼を取る。
そして私たちは、緩やかな空の下、王宮へと向かう馬車へ足を進めた。
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荘厳な石造りの門が見えてきたとき、胸の奥に鈍い鼓動が走った。けれどその緊張を押し包むように、エルンストの声が静かに響く。
「怖がることはない。むしろ、恐れるべきは──嘘を塗り固めた者の方だ」
ロザリンが頷き、私も深く息を吸い込んだ。
馬車が止まると、扉の外にはすでにアルフレッド殿下の姿があった。陽光を受けて金髪がやわらかに揺れ、深い青の外套を肩に掛けたその姿は、凛としながらもどこか親しみを帯びていた。
「やあ、来てくれてありがとう。無理をさせてしまったかな」
柔らかな声音に、ロザリンの肩がわずかに揺れる。けれど彼女はしっかりと顔を上げ、殿下に向き直った。
「お招きに応えられたこと、光栄に思います」
私もそれに倣って深く頭を下げると、殿下はふっと微笑みを浮かべた。
「さて、これからグレイ公爵とラリッサが来る予定なんだけど⋯⋯まずは、君たちには別室で待っていてもらいたい」
「別室、ですか?」
ロザリンが不安げに尋ねると、殿下は頷いた。
「広間に繋がる使用人たちが出入りするための部屋なんだけれど、そこでラリッサ嬢と公爵の言葉を、扉越しに聞いていてほしい」
殿下の目が、私とロザリンに向けられた。
一拍置いてから、殿下は少し真顔になる。
「本来なら、最初から君たちにも同席してもらうべきかもしれない。でも、ラリッサは「自分は正しい」と信じている。それを語らせてあげようと思ってね」
殿下の声は淡々としていたが、その裏には計算された静かな熱があった。
「君たちには、その飾られていない本音を聞いておいてほしい。ラリッサが、どんな言葉で何を正当化しようとするのか──それこそが、もっとも雄弁な証言になるから」
静かだけれど、揺るぎない声音だった。
「エルンスト、案内してね」
その短い言葉に、エルンストは軽く頷き、私たちを王宮の奥へと導いた。
石造りの廊下は磨き上げられ、窓から差し込む光が床に幾何学模様を描いていた。格式の高さを感じさせる重厚な空気に包まれながらも、私たちは一歩ずつ、確かに前へと進んでいく。
やがて、しんと静まり返った一室の前で立ち止まった。
「ここで待っていてくれ」
「⋯⋯わかった、わ」
自分でも驚くほど小さな声だった。返事のつもりで口を開いたけれど、喉の奥にひっかかるような不安が残ったままだった。
そんな私にエルンストがそっと手を伸ばし、手を一瞬だけ取った。
ほんの数秒。けれど、その温もりは驚くほどはっきりと伝わってきた。
強くも弱くもない、確かな指先。まるで「ここにいる」と言いたげな、それだけの仕草。
私は思わず彼を見た。けれど、エルンストは私と目を合わせることなく、すぐに手を離して、何事もなかったかのようにすぐに背を向けてしまった。
扉が閉じられ、ふと、重く息を吐くと、ようやくほんの少し、肩の力が抜ける。部屋の中には小さな木のテーブルと椅子が二脚。壁には飾り気のない絵が掛けられており、窓からの風がカーテンを静かに揺らしていた。
そして、しばらくして──
扉の向こうから、かすかな足音が近づいてきた。数人の、決して軽くはない足取り。やがて、それがぴたりと止まると、重厚な扉がゆっくりと開かれる音がした。
私は息をひそめて、ロザリンと目を見合わせる。小さく頷くと、扉の向こうから聞こえる声に意識を集中させた。
「お待たせしました、ラリッサ嬢。グレイ公爵、どうぞお入りくださいませ」
王宮の使用人と思われる男性の声に続いて、聞き慣れた、張りのある女の声が響いた。
「ごきげんよう、アルフレッド殿下。お招きいただきまして、誠に光栄ですわ」
落ち着いた──けれどどこか芝居がかった声。ラリッサのものだ。
「このような場を設けてくださったということは⋯⋯ 誰がアルフレッド殿下にふさわしいのか、いよいよお考えが定まったということ。そう理解しておりますわ」
ラリッサの語り口は、自分以外にあり得ないと、そう言わんばかりだった。
そして、少し間を置いた後、ラリッサの声はさらに滑らかに、けれど内心の高揚が溢れていた。
「ああっでも嬉しいですわ。ようやく真の意味で認められる時が来たと、そう言うことですもの」
華やかに、芝居がかったように、ラリッサは言葉を続ける。
「高貴な家に生まれた者には、それ相応の役割と責任がございますでしょう? わたくしは、導く側に立つ人間として弱き者たちを導いてきましたの。彼らに手を差し伸べ、ふさわしい場所に導く。それこそが、わたくしの役目ですわ」
その声音には、はっきりとした線引きがあった。自分と、それ以外──従うべき者たちと。
扉の向こうの気配までは読み取れない。けれど、ラリッサがどれほど浮かれているかは、声の調子だけで十分すぎるほど伝わってくる。
まるで夢を見ているように。いや、彼女にとっては、もうすでに夢ではなく「現実」のつもりなのだろう。すべてが思い通りに進んでいると信じて、疑ってもいない。
「物事を整え、身分や家柄にふさわしい振る舞いをすること──それは、社会の秩序を守るためにも必要なことですもの」
言葉には棘がある。だが、彼女はそれを毒とは思っていない。正義として、当然の判断として語っている。
「殿下が──身の程知らずな噂や、心ない戯言に惑わされるような方ではなくて、本当に安心いたしましたわ。
王家のご決断には、それにふさわしい立場と品位が求められますもの。そうでなくては、国そのものの誇りに関わりますから」
扉の向こうは、しんと静まり返っていた。ラリッサの声だけが響き、王子も公爵も、それに言葉を挟むことはない。
アルフレッド殿下にもグレイ公爵にも止められることなく、そして、否定されないことが、彼女にとっては何よりの肯定だったのだろう。
言葉にますます熱がこもり、扉越しでもわかるほど、声が高まる。
「わたくしは常に、人を導く立場ですもの。そしてこれからも、それは変わりませんの。上に立つ者として、導く責任と力を持つ者として──」
ラリッサの声は、もはや陶酔に近い響きを帯びていた。ひとり、確信に満ちた世界の中で、自分の「選ばれる未来」を語り続けている。
やがて、アルフレッド殿下の落ち着いた声が、ようやくその場に割って入った。
「もう、いいかな? ラリッサ」
その一言が、空気を変えた。
私は、ロザリンと目を合わせる。
扉のすぐ外で聞いていた私は、呼吸が一瞬、止まりそうになる。心臓が跳ねるように高鳴るのを、必死で押さえた。けれど、横にいるロザリンの指先がそっと私の袖をつかんだのが伝わってきて、ほんの少しだけ、足元が安定した気がした。
「リアーナ嬢、ロザリン嬢」
アルフレッド殿下の声が控え室の扉越しに届くと、外にいたエルンストが静かに扉を開いた。
重厚な木の扉が開かれ、私はロザリンと並んで、一歩ずつ足を踏み出した。
「な⋯⋯っ!?」
ラリッサの声が、鋭く空気を裂いた。
彼女の目が、私たちを見た瞬間に大きく見開かれ、唇が震える。顔から血の気が引き、次には怒りで頬が真っ赤に染まるのが見て取れた。
「なぜ、あなたたちがここに──っ!? これはどういう、おつもりですの、アルフレッド殿下!」
視線を私たちからアルフレッド殿下へと鋭く向け、ラリッサは声を荒げた。
「ここは、わたくしと父が──将来を見据えた大切なお話をする場、なぜ、そのような者たちが、いるのですか!? お父様、こんな屈辱お許しになりますの!?」
「お父様!」と叫ぶラリッサに、公爵は首を横に振ることすらしなかった。
厳然たる姿勢を崩さず、王子に視線を向けたまま沈黙を貫いていた。
アルフレッド殿下は席からゆっくりと立ち上がった。
「ラリッサ。今日、ここに来てもらったのは、君の功績を称えるためじゃない。君がしてきた事実を明らかにするためだ」
「何の事実ですの? 殿下、そのような無根の噂話に惑わされるなど、王家の威厳に関わりますわ」
ラリッサの語る言葉には、幾重にも織り込まれた侮蔑と焦燥が混じっていた。
けれどアルフレッド殿下の声は静かだった。
「君がどれだけ言葉を尽くそうと、君の語ることよりも重いものが揃っている。事実は、それをもって語られる」
ラリッサの瞳が揺れる。私たちの存在そのものが、彼女の予想を打ち砕いているのだ。
その瞳の奥に、初めて「焦り」が混じったのを、私は確かに見た。