見守ることの終わり。
グレイ公爵を案内した応接室はエルンストがいた時より、重く静かな空気だった。
アミが一礼して退室すると扉が閉じられ、室内には茶器から立ち上る湯気と、張り詰めた沈黙だけが残された。
父とグレイ公爵は、対等な立場の友人のように向かい合って座り、私は父の隣に控えるように、椅子の端に腰を下ろす。手を膝の上に置き、指先に余計な力が入らないよう気を配った。慎ましくも、卑屈になりすぎず──それが、この場にふさわしい姿勢だと思った。
「⋯⋯子爵家に伺うのは、ずいぶん久しぶりだな。以前訪れたときと、印象は変わらない。君の家は、いつも静かで整っている」
グレイ公爵がそう述べたときの口調には、記憶をなぞるような柔らかさがあったが、内に秘めた意図までは見せていなかった。
「光栄に存じます。こうしてお運びいただき、恐縮しております」
父は落ち着いた声で応じる。互いに敬意を持ちながらも、その言葉の奥には探り合うような緊張が張りつめていた。あくまで丁寧に、しかし本題へ向かう構えが、二人のやり取りから伝わってくる。
「⋯⋯無理を聞いてもらったのは私のほうだ。君だから、頼れるのだよエドワード」
その言葉の意味を、父は静かに受け止めた。やがてグレイ公爵は視線を茶器に落とし、ぽつりと話題を変える。
「そう言えば、子爵家から一台の馬車が出て行ったようだが、あれは⋯⋯ハイベルグ家の紋章だったな」
私の肩が、わずかに強張る。
「⋯⋯はい。つい先ほどまで、エルンスト様がいらしていました」
努めて穏やかな声で答えたが、内心では心拍がわずかに速くなっていた。エルンストとは何を話したわけではないけれどなんとなく気恥ずかしい。
グレイ公爵は私を見つめたまま、問いかけではない言葉を発する。
「ハイベルグ家といえば、王子の側近を務めている家だな」
疑念を含ませた言い方ではなかったが、応答を求める響きはあった。
「⋯⋯ご縁がありまして、お話しする機会をいただいております。ただ、公的なことではありません」
どこまでを話すべきか、線引きには慎重さが求められる。偽るつもりはなかったが、必要以上に注目を引くような物言いも避けたかった。
グレイ公爵は、深く詮索する様子を見せなかった。けれど、その代わりに、次に続いた言葉は鋭さを含んでいた。
「ふむ⋯⋯リアーナ嬢、ラリッサが、舞踏練習会の件について、いろいろと語っていた。君が「身分不相応に王子に取り入っている」と。さらに──アルフレッド殿下が、ラリッサのドレスの色を一切取り入れなかったのは、君のせいだとも」
その言葉に、私は目を伏せた。
あの場面の記憶が鮮明に蘇る。王子の衣装に、ラリッサの色が用いられていなかったという事実。それは、この国の婚礼文化や貴族の慣習において、極めて大きな意味を持つ。
夫婦、婚約者、それに準ずる立場にある者は、社交の場で互いの色を衣装に用いることで、関係を明示するのが通例。それがなされなかったということ──そして、その原因を私に求められているということ。
「⋯⋯アルフレッド殿下の衣装にラリッサ様の色がなかったのは、確かに事実です。でも、それが私のせいだと仰られるのは⋯⋯とても心外です」
私は慎重に言葉を紡いだ。
「アルフレッド殿下がどのようなお考えでそうしたのか、私には分かりませんが──私が関与した事実は、決してありません」
グレイ公爵はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「ああ⋯⋯本当に、そうなのだろう。アルフレッド殿下には私も確認した。殿下もリアーナ嬢の関与は見当違いだと呆られておられた⋯⋯しかし、ラリッサは殿下を惑わせているのはリアーナ嬢だと言う」
静かな言葉だったが、その中には、父としての複雑な思いが滲んでいた。
「私は、父として娘を信じたいと思っている。だが、君の父、エドワードを知る者として、彼が娘の不誠実な行為を容認するとは考え難い。だから、君の話を直接聞く必要があった」
私は静かに頷いた。
「⋯⋯学園の雰囲気は、表向きはとても優雅で、秩序立って見えます。けれど、その秩序がどこから生まれているかといえば、必ずしも教師の手によるものではありません」
私は少しだけ、言葉を選びながら続けることに注視する。
「生徒たちの間には、無言の了解のようなものがあるのです。たとえば、誰の隣に座るべきか、誰の言葉には笑顔を返すべきか⋯⋯そういった空気です。間違えてはいけない、見誤ってはいけない。そんな無言の緊張が、漂っています」
それは風景のように、誰の目にも映っているはず。
「誰かが一言、名前を口にするだけで、話題が止まることがあります。廊下で偶然目が合えば、それだけで立ち位置が問われる。そして、その「名前」を口にすること自体が、軽率と見なされるような。そんな雰囲気です」
それが誰であるか、名は出さない。けれどもグレイ公爵に伝わるように。
「ですから、誰も声を上げません。ただ静かに、それに従うだけです。まるで、そうすることが最も正しい判断であるかのように」
言葉にすれば、どこか薄っぺらく感じてしまう。これまで他の誰かが、私が受けた痛みは、口にするほど軽くなるものではなかった。
私は顔を上げ、公爵をまっすぐに見た。
「だからこそ、他人の言葉ではなく、公爵閣下ご自身の目で確かめていただきたいのです。どんなふうに過ごし、どのように振る舞っているのかを」
再び、応接室に静寂が満ちる。
やがて、グレイ公爵は茶器をそっと置き、深く息を吐いた。
「⋯⋯私は、王家に娘を嫁がせることが「名誉」であると、長らく信じて疑わなかった。またもっとも相応しいのは娘だと。だが最近、その名誉にばかり目を奪われ、肝心なものを見失っていたのではないかと思い始めている」
言葉は低く、けれど明確だった。
「ラリッサは、高潔であろうとする娘だ。だが、その気高さが、傲慢となり、ときに誰かを踏みにじるのなら、それは間違いだ。父として見守るつもりが、結果として見逃してきたのかもしれない」
私は息を呑む。グレイ公爵が、自らの言葉で、そう語っている。
「だからこそ、一度、学園をこの目で見ておくべきだと思った。娘がどのような振る舞いで、どのように人を扱ってきたのか──確かめねばならないと思ったのだ」
言葉の端には、迷いではなく確かな判断が滲んでいた。
「もしも、立場や名を盾に、他者を軽んじるような真似をしていたのだとすれば⋯⋯それは、高潔ではなく、ただの傲慢だ。どれほど家柄に恵まれようと、人としての礼を欠けば、相応の座に立つ資格などない」
そこまで語った彼の声音は、静かだが鋭く、冷気を帯びていた。
「──私は父であると同時に、公爵でもある。娘の過ちを、家の誇りとして見過ごす気はない」
立ち上がった彼は、父と視線を交わし、短く握手を交わした。
私は椅子を引き、立ち上がって深く一礼する。グレイ公爵の目には、敵意も侮蔑もなかった。だが、そこにあったのは、確かに「判断する者の目」だった。
その背を見送りながら、私は胸の奥で、何かが静かに変わったことを感じていた。
──そして数日後、ひとつの事件が起きた。
ロザリンが、階段から落ちて怪我を負った──と。
その知らせを聞いた瞬間、胸に差したのは、ただの動揺ではなかった。
ずっと静かに沈んでいたものが、音もなく崩れ落ちていく気配。
予感はあった。だからこそ、もう目を逸らすことはできなかった。
いままでは、「言わせておけばいい」とやり過ごしてきた。それで済むと思っていた。
けれど──今回ばかりは、そうはいかない。
このまま何もせずにいれば、私はきっと、自分自身を裏切ることになる。それが何よりも重いと思った。
たとえ何を失うとしても、もう黙って背を向けるわけにはいかなかった。
進むべき道は、すでに目の前にある。
その先に何が待っているかは分からない。けれど、それでも。
私は、自分の足で、その先へ向かわなくてはならないから。