芽吹く想い、訪れる波紋。
舞踏練習会が終わって数日。
あの日のざわめきは遠ざかりつつあるはずなのに、私の周囲には、まだ静かなざらつきが残っていた。
ラリッサと取り巻きの嫌がらせは止むことなく、些細な悪意が続いている。
けれど──何かが、確かに変わり始めていた。
私の存在に、何かしらの「印」がついたように、他の生徒たちは反応を示すようになった。
明確な理由はわからない。ただ、以前のような一方的な視線がなくなっていた。誰かが目を逸らすとき、そこにかすかな戸惑いや疑念が混じるようになった。
かすかな間。廊下ですれ違えば、小さなささやき。
あれほどの憎しみに似た感情を向けてきた生徒たちの視線が、どこか揺れるようになったのだ。
ためらい。迷い。見えない「何か」が、私の背後にあるかのように。
──私はまだ何も変わっていないのに。
私はその変化の正体を、確かめるのが怖かった。
自分が何かを得たのだと思い込むには、あまりにも浅く、あまりにも不確かすぎて。
ほんの少し顔を上げただけで。ほんの少し、声を返しただけで。
それだけで、この世界が私を見る目が変わるのだとしたらそれはまた簡単にひっくり返ってしまうものだから。
誰かの噂に浮かれたくない。だからこそ、足元を見ていたい。
本当の変化があるとすれば、それは誰かの視線ではなく、自分の心と行動に現れるものだから。
このざらつきの中で、それでもまっすぐに立ち続けること。
それこそが、私にできる、ひとつの答えだった。
ただ、今できることをしよう。
そう思って、今日も草を抜く。
家の庭にしゃがみ込み、指先で土をなぞり、根を見つけ、掴んで引き抜く。
湿った土の香りが鼻をくすぐり、風がわずかに髪を揺らす。
土の感触。風の音。遠くで聞こえる屋敷の人の足音。
それらすべてが、いまここに自分が在ることを教えてくれる。
草むしりは、私にとって祈りのようなもの。
ただ目立たないように、誰にも干渉されず、静かに過ごすだけの時間ではない。
根を張り、見えないところで増殖していく雑草。それは、まるで人の心のようだ。
嘲笑、怯え、不安、怒り、悲しみ──放っておけば、足元を覆いつくしていく。けれど、それに目を向けて、丁寧に、根元から取り除いていけば、いつかは光が届く場所になる。
以前の私は、そんなことに気づかなかった。
前世では⋯⋯それを実感したことはなかった。
あの人生では。
そう、あの人生──今とは違う名前で、違う服を着て、違う顔で生きていたとき。
私は「自分で生きている」と思えなかった。
上司の顔色をうかがい、取引先の指示に従い、会議では誰の意見にも逆らわなかった。
組織の歯車として、波風を立てずに生きる。それが、賢いやり方だと思っていた。
けれど、ある日、気づいてしまった。
ひとりの同僚が、静かに壊れていくのを。
過剰な負担、理不尽な命令、見て見ぬふりの連鎖。そのすべてを、私は知っていた。
でも──関わらなかった。
もし、声を上げていたら。
もし、誰かに相談していたら。
もし、手を伸ばしていたら。
けれど、私は目を逸らした。
「私の立場じゃどうにもできない」
「関わっても意味がない」
「面倒に巻き込まれたくない」と。
結果、彼は、静かにその場所から消えた。
二度と、戻ってくることはなかった。
それは、会社でも誰も語られなかった。
人がひとり、そこからいなくなっても、歯車は回り続けた。
私もまた、何事もなかったふりをした。
けれど──私の中では、何かが壊れた。
だから。
今、草を抜いている。
必要のないもの。見ないふりをしていたもの。そういうものを、ちゃんと見つめて、自分の手で、引き抜くために。
細く伸びた根をゆっくり引き抜きながら、土の感触を指先で確かめる。ちいさな芽がそのすぐそばにあって、それを傷つけぬよう慎重に作業を進めると、ふと背後から声がした。
「⋯⋯本当に庭にいるとはな」
聞き慣れた、落ち着いた低い声。その声を聞いた瞬間、私は心の奥底から現実へと引き戻された。
振り返ると、そこにはエルンストが立っていた。
「エルンスト様? どうしてこちらへ?」
「君に用があって。使用人に聞いたら「庭先にいる」と即答された」
微笑みを浮かべながら、彼は足元をちらりと見て、軽く首をかしげた。
「貴族の令嬢としては、相変わらず少し、珍しい過ごし方をしているな」
「貴族の「ふつう」に馴染めなくて。だから、自分なりの「ふつう」を見つけようとしているんです」
そう答えると、エルンスト様は一瞬だけ目を細めた。
「君は⋯⋯そういうふうに、自分を守ってきたんだな」
私はスカートの裾を軽く払い、土を落として立ち上がる。汗を拭いながら、彼に向き直った。
「立ち話もなんですし、中へ入りましょう」
私はエルンスト様を屋敷の中へと案内する。応接室の窓からは、さきほどまでいた庭の一部が見えた。私の世話係、アミが出した冷たい紅茶を二人の前に置いて、静かに扉が閉まる。
「⋯⋯ ああいう時間を、よく過ごしているのか?」
「ええ、そうですね。あれは、私にとって必要なことなんです」
「必要、か」
その言葉を繰り返した彼の視線は、少しだけ真剣さを帯びていた。
私は一度目を伏せ、それから静かに話し始めた。
「⋯⋯私は、後悔していることがあるんです」
ふいに、空気が張り詰める。けれど、彼は何も言わず、ただ聞く姿勢を崩さなかった。
「その人は苦しんでいて、助けを求めていた。でも、私は⋯⋯何もしなかった。怖くて、関わるのが嫌で、目を逸らしたんです。そうして、何も変わらないまま、全部終わってしまった」
指先が少しだけ震えていた。けれど、それを押さえるように、言葉を続けた。
「⋯⋯それからも、ずっと誰かの意志で動くような生き方ばかりしていました。優等生のふりをして、誰にも嫌われないように、誰にも関わらないように。静かに、目立たず、波風立てず。だけど、もう一度やり直せるなら⋯⋯そう思って決めたんです。今度は、ちゃんと自分の足で立とうって」
そこまで話してから、ふと自分の口が勝手に動いていたことに気づく。こんな話、誰にでもできるものじゃない。むしろ、誰にもしたことのない類の話だった。
なのに、どうして──話したいと思ってしまったのだ。
この人になら、聞いてほしいと思った。
私の過去を、痛みを、迷いを──そして、選び直そうとしている今を。
その気持ちの正体は、たぶんもう自分でも知っている。
知っていて、まだ確かめる勇気はなくて、それでも──隠しきれるほど、鈍くはなかった。
「心が散らかってるときって、自分の足元も見えなくなる。何が必要で、何を捨てるべきか、分からなくなる。だから土に触れて、目の前の雑草を一本一本抜いて。自分の心を整えていく。これは、そういう時間なんです」
沈黙が落ちた。
けれど、重苦しさはなかった。
むしろ、その沈黙は、まるで土壌に水が染み込んでいくように、じんわりと心に沁みていった。
やがて、エルンストが静かに口を開く。
「──君は、ずっと前から、何かを背負ってたんだな」
その声は、どこか遠くを見るようでもあり、近くに寄り添おうとするようでもあった。
「俺が君に惹かれたのは⋯⋯そういうところかもしれない」
私は目を見開いた。
けれど、彼はまっすぐ私を見て、言葉を続ける。
「強がりに見えるけど、そうじゃない。ちゃんと苦しんで、悩んで、それでも足を止めずに進もうとしてる。誰にも頼らずに、でも決して折れないで、自分のやり方で前を向いてる。そんな君を、放っておけなかったんだ」
胸の奥に、そっと火が灯るような感覚が広がっていった。
この感情を、どう受け止めればいいのか、まだうまく言葉にならない。
でも、彼の真剣な瞳が、揺るぎなくそこにある。それだけで、世界が少しだけ優しく見えた。
その言葉の余韻がまだ胸に残る中で、エルンストはふいに視線を逸らし、わずかに肩をすくめた。
「⋯⋯くそ、アルフレッドの奴⋯⋯」
低く呟いたその声は、驚くほど感情に満ちていて、私は思わず目を見張った。
「え?」
「いや、何でもない。ただ、こういうことは⋯⋯もっと落ち着いて伝えるべきだ」
彼はそう言って、私から視線を逸らしたまま、立ち上がる。
「今日は⋯⋯帰る」
「え? もうですか? 来たばかりですよ」
思わず言葉が漏れる。
今までの彼からは想像もできないほど、急いた動き。まるで何かに追われているかのように。
「予定が、狂った。いや、勝手に狂わせたのは⋯⋯俺か」
ひとりごとのように呟きながら、彼は玄関へと向かっていく。その後ろ姿を、私は呆然とし急いでその背中を追いかけた。
エントランスホールに出ると、彼は扉の前でふと立ち止まり、私を振り返った。
「リアーナ」
名前を呼ばれただけで、何故が胸が強く脈打つ。
「さっき言いかけたことは⋯⋯また、いつか話す。今度こそ、ちゃんと伝える」
真っ直ぐな視線。エルンストはそう言って、彼は私の返事を待たず、馬車に乗り込んだ。
私は呆然と、その背中を見送った。
けれど──彼の言葉。表情。声。
そのすべてが、心の奥にじんわりと染み込んでいた。
私は──わかってしまった。彼が、何を言おうとしていたのかを。
そして、自分がそれをどう受け止めたのかを。
胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。
けれど、その熱をまだ名前で呼ぶことはできなかった。
そのとき──邸の門の外から、重厚な馬車の音が響いた。
私は思わず扉の外へと出る。
エルンストの馬車が角を曲がって消えた直後、入れ替わるようにして、深い瑠璃色の塗装が施された、格式高い馬車が屋敷前に停まった。
「──あれは?」
私が眉を寄せて馬車を見つめていると、扉が開き、先に降りてきたのは父だった。
「お父様?」
私が驚いて声をかけると、父は軽くうなずいてから、それから後部の扉に手を添える。
馬車の中から、ゆっくりともう一人の人物が姿を現した。
品格ある立ち居振る舞い。深い灰色の髪に、鋭さと温かさが同居した眼差し。洗練された装いからもわかる、生まれながらの貴族の風格。
「紹介しよう。こちらは、グレイ公爵閣下だ。リアーナ、お前に会いに来てくださった」
私の背筋に、冷たい緊張が走る。
グレイ公爵──ラリッサの父であり、この王国の重鎮。
どうして、私に?
状況が飲み込めず戸惑いながらも、私は息を整え、一歩前へ進み出た。
「初めまして、グレイ公爵閣下。リアーナと申します。お越しいただき、光栄に存じます」
できるかぎり丁寧に頭を下げると、公爵は小さくうなずきながら微笑んだ。
公爵はゆっくりと私に歩み寄り、静かに口を開いた。
「君に、話したいことがある。いいかな、リアーナ嬢」
その声は、意外なほど柔らかかった。
けれど、胸の奥には一つの確信が芽生え始めていた。
いま、この瞬間から──何かが、確かに動き出す。
私は深く息を吸い、まっすぐに頷いた。