沈黙の支配、意志の舞。
会場の扉をくぐった瞬間、内側から流れ出る音と光に、思わずまばたきをした。
舞踏練習会の会場となるホールは、学園内でも最も格式の高い講堂。普段は特別講義や式典に使われる場所だが、今日だけはまるで王都の夜会のように、華やかに装いを変えていた。高い天井に吊るされたシャンデリアには、無数の灯がともり、床には磨き込まれた寄木細工。壁に沿って飾られた花々は、格式を保ちながらもどこか初夏のやわらかさをまとっている。
「エルンスト様が、あの二人を伴って?」
「ロザリン嬢とリアーナ嬢って⋯⋯あの噂の?」
耳を澄まさなくても届く、ざわめき。
けれどエルンストは一切を問題とせず堂々としていた。
真っ直ぐに立つその背中には、誰の目も意に介さぬ存在感があった。私とロザリンは、その背中に守られているようだった。
やがてホールの奥、舞台のように設けられた一段高い区画に、アルフレッド王子とラリッサ嬢の姿が現れた。
さすがに、というべきか──その瞬間、空気が変わる。
「ラリッサ公爵令嬢⋯⋯やっぱり王子の隣にいるのは彼女ね」
「最有力候補どころか、もう確定だろ」
「だって他にいないでしょ、公爵令嬢だもの」
確かに、そう見えるだろうと思う。彼女は完璧に仕上げた笑みで王子の隣に立ち、その動きも姿勢も、どこにも隙がない。
けれど、私の目が彼女のドレスに向いた瞬間、違和感が喉の奥でひっかった。
ラリッサ嬢のドレスは、深い紫に金糸の装飾を添えたもの。たしかに高貴で、格式ある色。
一方で、王子の装いは──濃紺。
「ねえ、あれ⋯⋯」と、すぐに他の生徒たちもざわつき始めた。
「アルフレッド王子にラリッサ様の色がないように見えるのだけれど」
「でも、ラリッサ様のドレスにはちゃんと濃紺が入ってるわ」
この国では、婚約者、婚約予定、夫婦が同じ場に出る際、その装いに互いの色を取り入れる慣習がある。それは形式的なものというより、互いの結びつきを象徴するものとされていた。
一見、完璧な合わせのように見えるラリッサとアルフレッド王子。ラリッサは紫のドレスに、王子のコートと同じ濃紺のリボンを腰にあしらっていた。
けれどアルフレッド王子のコートに、ラリッサの色はどこにもなかった。
ラリッサは、それに気づいているのか、いないのか。表情に曇りはなく、いつも通りの堂々たる微笑を浮かべている。
彼女の表情はあいかわらず完璧に整えられていて、感情を読み取る隙を与えない。
けれど、ラリッサが私たちの姿を捉えたとき──彼女の目が、確かに一瞬、見開かれた。
さざ波を立てるざわめきの中、開会の鐘が鳴り、教師のひとりが中央へと進み出た。
「これより、王立マルフェス学園主催の舞踏練習会を開催いたします。各生徒は、あらかじめ指定されたグループ順に実演します」
開会が宣言され、会場に拍手が広がる。
舞踏練習会のダンスは、踊ることを学園に申請し、あらかじめ割り振られたグループごとに曲が提示され、順番に踊る。
第一グループが呼ばれ、演奏が始まる。次に第二グループと、交代するごとに会場の雰囲気は少しずつ変わっていく。緊張を押し隠すように笑う者、楽しげに踊る者──それぞれの想いが、音楽に溶けていく。
そして第三グループ。
「がんばってください、リアーナ様」
ロザリンがそっと声をかけてくれる。私は差し出されたエルンストの手を取ると、ホールの中央へと導かれた。
そして──音楽が始まった。
その旋律を耳にした瞬間、私の中に、淡く沈殿するような違和感が広がった。
曲が違う。
知らされていた曲とは別のものだった。テンポもステップも、提示され、練習したものではない。
思わず隣を見上げると、エルンストも微かに眉をひそめていたが、その目に動揺はなかった。
「想定内だろ」
「ええ、でもまさかエルンスト様にまで影響する嫌がらせを律儀にするなんて」
「君の相手が誰か、なんて気にも留めなかったのだろう。ラリッサ嬢にとってどうせ取るに足らない相手と組むだろうと思い込んでいたのではないか。ほら、このステップの曲なら練習しただろう?」
エルンスト様の手が、導くように私の腰を軽く支え、もう一方の手で私の手を包み込む。
そのまま、音楽に合わせて一歩、また一歩と踊り始める。
少しだけ早いテンポ。けれど、何度も繰り返した練習が、私の足に確かな軌道を教えてくれる。
この練習会のために、私は多くの時間を費やしてきた。
ただ「上手く踊る」ためではない。
誰が何を仕掛けてきても、それを乗り越えられるだけの強さを、自分に与えるために。
周囲のペアも、私たちをちらりと見ている。彼らは正しい曲を教えられていたのだろう。私たちに教えなかった。
教えなかったと言うより、「教えられなかった」。
ラリッサに目をつけられることが、どれほど恐ろしいことか。それを、誰よりも知っていたのは、他でもないこの学園の生徒たち自身。
彼女の機嫌一つで、突然に孤立させられ、些細な失敗が嘲笑の種になる。冷ややかな視線と、見えない網のような噂話。言葉ではなく空気で追い詰められる、皆それを間近で見てきた。
──前世も同じ構図だったわね。誰もが次は自分になってしまうと、見ぬふりをしてしまう。
だからこそ、彼らは口を閉ざした。「知らなかった」ふりを通し続けた。
それは悪意ではない。防衛本能だ。
次の標的にされるくらいなら、見て見ぬふりをするほうが、ずっと楽で、ずっと安全だった。
そうして沈黙が連鎖し、誰も手を差し伸べなかった。
それが、この場所の優雅さと平穏の形だから。
エルンストのリードは正確で、丁寧だった。彼の動きに身を委ねるだけで、自然と体が音楽に馴染んでいく。
やがて曲が終わり、私たちは最後の一歩を揃え、静かに頭を下げた。
拍手が起こる。
最初はまばらだったが、やがてそれは徐々に広がる。
ふと、視線の先に目をやると──ラリッサがいた。
その瞳には、はっきりとした怒りが宿っていた。
眉がわずかに吊り上がり、唇をわずかに固く結ばれていた。
一瞬、視線がぶつかる。
その瞬間、彼女の表情が僅かに崩れた。睨むような視線。けれど、それもまた、ほんの一瞬で、すぐに彼女は表情を整え、他の方向へと視線を移した。
「どうかしたか?」
「なんでもないわ」
場の視線を真正面から受けながらも、エルンストの背は一糸の乱れもなかった。その堂々とした後ろ姿に、私もまた、自然と背を伸ばす。
控えめな拍手がまだ余韻を残すなか、ホールの端に控えていたロザリンが、私たちに気づいて小さく手を振った。
「おかえりなさい。曲が、違っていましたね」
ロザリンは呆れたように肩をすくめた。
少しほっとした空気が三人の間に流れた。けれど、ロザリンはふと表情を曇らせて、小さく呟いた。
「でも、ラリッサ様は、私たちがドレスを切り裂かれて参加しなかったらとは考えなかったのでしょうか」
その問いに、私も思わず目を向けた。けれど、答えたのはエルンストだった。
「曲目はグループごとにあらかじめ指定されている。他の生徒たちは、正しい曲を知らされていた。つまり、出なかったとしても、練習会は何事もなかったように進行する」
そこで一拍置いて、彼は言葉を強めた。
「ラリッサ嬢にとって最も大事なのは「自分が主役であること」だ。他の生徒たちは正しい演目をこなし、自分は王子と共に舞台に立つ。それだけで十分だからな。君たちが排除されても、練習会そのものに支障は出ないと、そう踏んでいたはずだ」
「なんと言いますか⋯⋯嫌がらせに真摯に向かいすぎですね」
ロザリンの表情に、思わず笑いそうになる。嫌がらせに真摯って、向き合うものが幼稚よね。
「ラリッサ嬢の影響力は、思ったより根深いようだな」
「目を付けられたくない、その気持ちは、よく分かるもの。誰だって、無視されたり、囁かれたり、理不尽な噂を立てられたりしたくない。そういう空気の中で、少しでも自分が標的にならないように、って…」
ロザリンは俯き、かすかに唇を噛んだ。
「それにしたって⋯⋯エルンスト様にまで影響を及ぼすなんて」
「それも、無自覚だった可能性が高い。リアーナのダンスの相手が俺だと知らなかった、あるいは関心を持っていなかったのだろう」
エルンストは、淡々と言う。
そこに怒りはなかった。ただ、確信をもって状況を分析しているだけ。
「ラリッサ嬢にとって、自分以外は「下」だ。それが王子であれ、側近であれ、関係ない。彼女の目に価値があるのは、「彼女に従う者」だけ。自分に従わない者、気に入らない者はすべて敵なのだろう」
「でも、それって⋯⋯」
ロザリンが、苦しげに小さく漏らす。
私はそっと彼女の手を取った。
「だから、私たちは自分のやり方で立ち向かうしかないわ。嫌がらせがあっても、それを見越して準備して。自分の足で立っていく。ラリッサのやり方を受け入れないという姿勢を、行動で示していくしかないと思うから」
沈黙が数秒だけ続いた。
けれどその静寂の中で、ロザリンの表情は少しずつ晴れ、やがて穏やかに微笑んだ。
「⋯⋯ええ。私もそう思います」
いくら目立たないようにしていても、たったひとつの敵意、ひとつの視線があれば、それだけで静かだった日常は終わりを告げる。
知らぬ間に舞台の上へと引きずり出される。そこは、沈黙と服従が支配する場所。立ち続ける者には、冷たい視線と理不尽な重圧が降りかかる。
けれど、だからこそ。
見過ごさない。見逃さない。けれど、感情に飲まれず、自分の意志で動く。
誰かの言葉や仕掛けに振り回されるのではなく、自分の選んだ立場で、自分の足で歩き続ける。
それは、痛みを伴う選択かもしれない。
孤独を抱える日もあるかもしれない。
それでも、誰かが「立ち続ける」姿を見せなければ、この空気は、変わらない。
どんなに些細な嫌がらせも、巧妙に隠された悪意も──受けて、受け流して、飲み込まずに返していく。
そのために今日、私はこの舞台に立ったのだから。
私の一歩は、誰かにとっての希望になると信じて。