白い結婚を台無しにすることにした令嬢のお話
※女性が乱暴される場面があります。
苦手な方はご注意ください。
「私には他に愛する者がいる。君を抱くことはできない。悪いが、この結婚は白い結婚とさせてもらう」
月が煌々と輝く頃。グードハルス伯爵家の第二子の部屋。新しい夫婦が初めて迎える夜のために設えられた豪奢なベッドの前。部屋の主は固い声でそう告げた。
彼の名は伯爵子息ソルイード・グードハルス。18歳となる青年だ。上背が高くがっしりとした体つきをしている。短く切りそろえた金髪に緑の瞳。顔つきは精悍で、鍛え上げた大剣を思わせるたくましい青年だ。その勇壮ないでたちは、戦果を上げ叙勲のために王の前に立つ騎士と言っても通用するだろう。
その太い指でかざすのは一枚の紙。白い結婚の契約書だ。
この王国における白い結婚とは、子供を作らない前提で、形式上の夫婦関係となるという契約だ。通常は3年の期間の契約となる。死別以外の離婚は原則として認められないが、貴族間の仲を取り持つには複数回の婚姻を要することがある。そうした貴族間の複雑な調整のために必要な契約だった。
だが本来、白い結婚とは結婚するより前に取り交わされるものだ。初夜の場において宣言するなど型破りもいいところだ。
つまりこの白い結婚の宣言は、愛のために生きるという宣言に他ならない。
そんな不躾な宣言を受け、しかし、花嫁は静かだった。
元・子爵令嬢リーシェンス。年はソルイードと同じ18。肩まで届く絹のように滑らかなプラチナブロンドの髪に、清水を思わせる蒼の瞳。その整った顔に表情と呼べるものはない。冷たく清廉なその在り方は、冬の朝の湖を想起させる。
抜けるような白い肌にまとうのは白いネグリジェ。レースで彩られたその衣装はかわいらしく、初夜を前にした可憐な乙女と言った風情だ。
しかし、ベッドの中央で足を崩して座す彼女は可憐と言う言葉だけでは言い表せない。薄手のネグリジェは、なめらかな身体のラインを露わにする。普段は決して人に見せることのない足が、膝まで露わになっている。穢れを知らない柔肌もこの場にあってはなまめかしい。「抱かない」と宣言したばかりのソルイードが思わずごくりと生唾を呑み込んでしまうほどの色香を漂わせていた。
リーシェンスは自分に注がれる視線に気を悪くした様子も見せず小さなため息を吐くと、落ち着いた声で語り始めた。
「残念ですが、その白い結婚は成立しません」
「成立しない? それはどういうことだ?」
「あなたもご存知かと思いますが、わたしは女性の健康を支える研究をしています」
「ああ、それは知っている。だがそれが白い結婚とどう関係があるんだ?」
突然関係が無さそうな話が始まり、ソルイードは首をひねった。
彼女は「女性の健康を支える」という研究をしている。具体的には女性の生理の症状を緩和する薬剤や出産時のリスクを軽減する魔法といったものを開発している。18の若さでありながら既にいくつかの功績をあげている才媛だ。
学生時代の一番大きな功績は、母体と胎児に負担をかけることなく出産時に逆子になることを防ぐ念動魔法を開発したことだ。それで魔法省から賞状を授与したことは、ソルイードもよく知っていた。
「女性の生理用品に関する実験の過程で事故がありました。わたしはその時、純潔を失っているのです」
「な、なんだと……!?」
「あなたには事前に知らせるべきとは思いましたが、機会がありませんでした。初夜の前に告げることになって申し訳ありません」
「いや……それはその、何て言うか、気の毒だったな……」
ソルイードはしどろもどろになった。
男と不義をかわして純潔を失ったのなら激怒すべきだろうが、事故ならば労わるべきことだ。そもそもソルイードは白い結婚を宣言したばかりだ。離縁を言い渡した令嬢から純潔を失ったと聞かされて、どう返せばいいのか。
それに後ろめたさもあった。ソルイードは恋人と付き合うことに時間を割いていた。リーシェンスとは婚約者の義務として定期的にお茶の席を共にするだけで、会話も最低限だった。彼女は事前報告の不備を認めていた。だが信頼関係のできてない状態で、こんなことを話せるはずもない。
「それで……それが白い結婚とどう関係があるのだ?」
混乱しながらも、とにかく聞くべきことを口に出した。
もしこれが通常の結婚で、予定通り初夜を迎えるならば、彼女の純潔が失われていることは何らかのわだかまりとなったかもしれない。
だがソルイードは白い結婚をするつもりなのだ。彼女の純潔の有無は影響しないはずだった。
訝しがるソルイードに対し、リーシェンスは淡々と告げた。
「明日の朝になれば、わたしは泣きながら周囲にこう訴えるでしょう。『わたしの夫ソルイードは、白い結婚を宣言しながら純潔を奪った外道です。誰かしかるべき罰を与えてください』、と。そうすれば白い結婚の成立など不可能となります」
「なっ!?」
恐るべき内容にソルイードは総毛だった。リーシェンスは嘘を言って彼を陥れ、白い結婚を不成立にするつもりなのだ。しかも自分が失った純潔すらも利用すると言っているのだ。
リーシェンスはまるで実験動物を眺める研究者のように鋭く冷たい目をしていた。ソルイードはその目が大嫌いだった。
彼はこれまで剣のために体を鍛えてきた。体格に恵まれ力はついたが、剣術そのものは並程度だった。勉学においてもさほど優れたところはなく平凡だった。
対して、リーシェンスは学園におけるほとんどの教科で優秀な成績を修め、その功績で魔法省から正式に賞状を授与されるほどの才媛だ。
ソルイードは伯爵子息で、リーシェンスは子爵令嬢。爵位は上なのに能力面では敵わない。愛情など感じたことがない。彼女はきっと自分を見下しているに違いない。だから癒しを求めて他の令嬢との恋にのめり込んだ。
その視線を跳ねのけるように、ソルイードは手を振ると叫んだ。
「そ、そんなデタラメを誰が信じるものか!」
「いいえ、信じるでしょう。わたしはこれまでずっと研究に打ち込んできました。あなた以外の男の影をちらつかせたことすらありません。初夜の翌日、純潔を失ったわたしの訴えを誰が疑うことでしょう?」
「わたしは潔白だ! 誠心誠意話せば、信じてもらえるはずだ!」
「潔白、ですって……?」
リーシェンスは初めて感情を見せた。わずかに眉を寄せ、視線が鋭くなった。変わったのはそれだけだったが、ソルイードは戦慄した。
冬の湖を思わせる令嬢。しかしその瞳の奥には、ぞっとするほど熱い炎が燃え盛っていた。
「正式な婚約相手がいるというのに、他の女に浮気して白い結婚を宣言した……そんなあなたが潔白という言葉を使うのですか?」
瞳の奥に炎を揺らしながら、しかし氷のような冷たい声でリーシェンスはソルイードの罪をあげつらった。
「た、確かにそれで白い結婚は不成立となるだろう。私の名誉も著しく傷つけられることになる。だが君も無傷では済まない。白い結婚を結んだ上に凌辱された女ということになる。君ほどの才媛が、そんな恥を自ら晒すと言うのか?」
「ええ、わたしはきっと破滅するでしょう。でもそれは泣き寝入りするよりずっとマシなことです。あなた一人を幸せにすることなど許しません。一緒に不幸になってください」
リーシェンスはまるで引く気を見せなかった。その迷いのなさには並々ならぬ覚悟が感じられた。彼女は本当にやるのだろう。白い結婚の契約書にサインをし、そして明日の朝になれば周囲に窮状を訴えるつもりだ。
それはソルイードにとって絶望だった。この白い結婚は想い人に操を立てるための契約だ。婚約相手とは閨を共にしない。君への一途な想いを守り続ける。そして白い結婚の終わる3年後には結婚しよう……そう約束をとりつけたのだ。
だがリーシェンスの行動によってそれは崩れる。白い結婚を宣言しながら性欲を抑えられず女を襲う……そんな醜聞を耳にして、想い人はそれでも自分から離れずにいられるだろうか。
「バカなことを言わないでくれ。君が白い結婚を承諾し、大人しくしていれば3年後には自由になれるんだ。私の事を愛してなどいないのだろう? 可能な限り便宜は図る。どうか受け入れてはくれないか?」
「本当に白い結婚を成立させたいのなら、なぜもっと早く伯爵様に相談しなかったのですか?」
懇願には答えず、リーシェンスは逆に質問を返した。
それに対し、ソルイードは言葉に詰まる。二人の婚約は両家の利害の一致で結ばれたものだ。当事者の、それも他に好きな女ができたなどという理由で解約できるものではない。
だから初夜直前での白い結婚の宣言だった。不意打ちで宣言し、リーシェンスにサインさせる。契約書は正式なものだ。ソルイードの父が伯爵であろうと、法に基づく契約書を反古にはできない。既成事実を盾に無理矢理押し通すつもりだった。
白い結婚の契約を結ばせ、リーシェンスには大人しくしてもらうようにしなくてはならない。しかし自分の身の破滅すら覚悟した彼女を説得できる条件は、いくら頭を捻っても出てきそうにない。ソルイードは苦悩に顔をゆがめた。
ソルイードが思い悩む中、氷のように冷たい声が投げかけられた。
「諦めてください。初夜の直前に白い結婚を宣言した――その時点であなたの恋は終わっていたのです」
ここで初めてリーシェンスは笑みを見せた。嘲笑の笑みだ。勝ち誇った顔だ。
その笑みを見た瞬間、ソルイードの中で何かが切れた。
リーシェンスの両手をつかむとベッドに押し倒した。
「……ずいぶんと乱暴ですね。何をなさるおつもりですか?」
「純潔を散らされたと周囲に訴えると言っていたな……ああいいだろう、お望み通り抱いてやる! その余裕の顔を崩してやる!」
初夜のベッド。ネグリジェを纏い新郎を待つうら若い花嫁。若い男がその誘惑に耐えるのはたやすいことではない。
白い結婚がなくなったなら、これはごくありふれた初夜と言うことになる。新郎が花嫁を抱くことに、なんの問題があるだろうか。
まして相手は自分を陥れようとする女狐だ。既に純潔を失ってもいる。遠慮する理由などどこにもなかった。
「その……純潔を散らしたとは言っても、殿方とこういうことをするのは初めてなんです。お手柔らかにお願いします」
「どの口が言うか、この悪女め! 今夜は眠れると思うなよ! どれだけ泣き叫んでもやめてやらない! 穢してやる! 辱めてやる! 貶めてやる! 絶対に、絶対に、絶対に! 後悔させてやる!」
あくまで冷静な口調を崩さないリーシェンスに対し、ソルイードはもう自分を抑えることなどできなかった。ネグリジェを力任せにはぎとると、獣のように襲い掛かった。
数時間後。夜も白み始めたころ。
ソルイードはベッドの中で眠っていた。よほど深い眠りのようで、起きる気配はまるでなかった。
リーシェンスはベッドの縁に腰かけ、乱れた髪を整えていた。丁寧にゆっくりと穏やかに、櫛を梳いていた。
彼女の脇にはタオルが何枚も置かれている。薄汚れたタオルは、汗やそれ以外の体液をふき取ったもののようだ。
彼女の身体にはあちこちにあざがある。特に手首と足首のあざが濃い。よほど強く握られたのだろう。
それらはこの一晩で彼女がどれだけ男の欲望のはけ口されたかを物語っていた。痛々しく無残な姿だった。
だが。
「……よかった。全て思い通りになりました」
リーシェンスは、穏やかに微笑んでいた。
学園に入学したばかりの頃。子爵令嬢リーシェンス・ヴィオテナルトは、既に「女性の健康を支える」研究で名を馳せていた。実際にその分野でいくつか功績も上げてもいた。だが彼女の研究のメインテーマは「生命の探求」である。
この世界は女神が作ったものと伝えられている。生み出される命は全て女神の祝福を受けるとされている。
その教えに異を唱えるつもりはない。彼女が興味を持っているのはもっと生物的な仕組みだ。生命はどこから来てどこへ行くのか。その普遍的な問いを突き詰めることこそが彼女の望みだった。
女性は自らの身体で新たな命を生み出す。リーシェンスの研究にとって最も重要な研究対象の一つだ。
研究を続けるためには功績をあげることが必要だ。比較的結果を出しやすく、支持を得られるのは「女性の健康を支える」ことだった。その過程で女性の声も集められることも有意義なことだった。そうして研究を続けるうち、「女性の健康を支える」ことが彼女の研究のメインテーマだと認識されるようになった。
名声を得たリーシェンスは多くの縁談が持ちかけられた。しかし彼女はなかなか婚約相手を選ぼうとしなかった。
リーシェンスは自分の出産も研究の対象とするつもりだった。様々な女性からデータは集めていたが、その身で体験することでまた新たな知見を得ることを期待していた。研究を次代に継がせたいという思いもあった。
そのためには丈夫な子をたくさん産みたい。だが才媛である彼女に送られてくる釣り書きは、大半が学問に秀でた貴族子息だった。学力が優秀なのはいいことだが、肉体的には頼りない者たちばかりだった。研究に明け暮れる彼女は華奢で、肉体的には脆弱だった。だから結婚相手は健康で頑健な相手が望ましかった。
貴族令嬢としてそんな願望を表に出すわけにはいかず、適当な理由をつけて縁談を断っていた。そのせいで周囲からは「色恋よりも研究を優先する貞淑な令嬢」と認識されていた。
そんな時に出会ったのが伯爵子息ソルイード・グードハルスだった。
その出会いは実にありふれたものだった。
「あの、ハンカチを落としましたよ」
学園に入学して一年目のある日の事。廊下を歩いているとそんな言葉に呼び止められた。
それが伯爵子息ソルイードだった。彼は太い腕を慎重に動かし、そっとハンカチを手渡してくれた。その様はまるで料理に不慣れな者が、最後の味を決める一つまみの塩を鍋に入れる姿のようだった。妙に真剣で、どこか滑稽で、でも確かな温かさがあった。その姿が印象に残った。
なにより目を引いたのはその肉体だ。貴族子息はスマートな体形の者が多いが、彼は実にがっしりした身体の持ち主だった。
このことをきっかけに彼について調べた。すると実に都合のいい人物であることが分かった。
幼いころから剣を学び、鍛え続けた身体は見せかけだけのものではないようだ。調べた限りでは彼の家系に遺伝病の類はなく、健康面でも問題はない。
剣の技術自体はさほど秀でたものはない。学力も並程度だ。ソルイード当人はそのことについて思い悩んでいるようだが、リーシェンスにとっては関係のないことだった。
家の相性もよかった。ソルイードのグードハルス伯爵家はここ数年、紡績業に力を入れている。リーシェンスのヴィオテナルト子爵家は良質な綿花の生産地を有している。婚約で結びつけば両家に利益が見込める。
また、ソルイードが伯爵家の第二子であることもいいことだった。伯爵家の当主の妻となれば、どうしても社交関係のために時間を割かなければならない。第二子の立場なら多少は自由が利きそうだった。結婚後も研究を続けるつもりのリーシェンスにとって実に都合がよかった。
ソルイードはリーシェンスの結婚相手として理想的な相手だった。調査結果をもとにリーシェンスが相談すると、父は喜んで手配してくれた。父はなかなか婚約相手を選ぼうとしない娘に気をもんでいたようだった。
グードハルス伯爵家も喜んで受け入れた。伯爵家は、際立った才覚を持たないソルイードの結婚相手を探すのに少々難儀していたようだ。それが優秀と名高い子爵令嬢を娶り家名が上がるとなれば、断る理由などなかった。
縁談は順調に進み、リーシェンスとソルイードの婚約は結ばれたのだった。
婚約者としての付き合いが始まったが、二人の生活に大きな変化はなかった。相変わらずリーシェンスは研究に励み、ソルイードは剣の修行に打ち込んでいた。
変わったことと言えば、婚約者の義務として行う週に一度のお茶会くらいだった。当たり障りのない会話をして、二人でお茶を楽しむ。ただそれだけの時間だった。
特に仲を深めようとは思わなかった。リーシェンスは研究の都合上、女性に話を聞く機会が多いため、恋愛に関することはそれなりに知識がある。だが恋愛で物を言うのは経験であり、彼女にはそれが著しく欠けていた。
男というものは、女が下手になれなれしくするとつけあがると聞いていた。ソルイードとの婚約の目的は子作りだ。下手なことをして結婚前に関係がこじれては困る。だから彼女は、義務通りの付き合いさえ続けていればいいと思っていた。
順調と思われた婚約者関係だったが、ある日、ほころびが生じた。
放課後、学園の中庭。そこで談笑するソルイードと令嬢の姿を見かけた。
男爵令嬢ウォルミーサ。栗色の髪に茶色の瞳のおっとりしたかわいらしい令嬢だ。性格は穏やかで大人しく、学園でも癒しの令嬢として噂になっていた。
ソルイードは、これまで見せたことのない笑顔をウォルミーサに向けていた。二人の距離は近く、その穏やかな空気はひどく親密なものに感じられた。
その光景を目にした時、信じられないほど胸が苦しくなった。胸の奥底からじりじりと焼き尽くされるような熱が湧き上がった。
他の追随を許さず一人研究に打ち込んできたリーシェンスにとって初めての感情。それは「嫉妬」だった。
ソルイードが肉体的に優秀なことも、家の利害関係が一致したことも、全て後付けの理由に過ぎない。お茶会の席で余計なことをしなかったのも、義務を外れた行いをして彼に嫌われることが怖かったからだ。
リーシェンスは、ハンカチを拾ってもらっていたあの時に、一目ぼれしていた。
ありふれたくだらないきっかけ。それでもそれが、恋の始まりだった。自分にはそんなことは無縁と思い、意識すらしなかった。この時になって初めて、リーシェンスは自分の中で密やかに育つ恋心を自覚した。
それでもリーシェンスは自分を抑えた。いかに親密に見えようと、結局のところ二人は談笑しているだけだ。その程度で目くじらを立てれば疎まれるだけだということぐらい、リーシェンスにもわかっていた。
しかし放課後になると毎日のように二人でいるのを見かけるようになった。ソルイードとウォルミーサの距離は徐々に縮まっていくのが感じられた。それに反比例するようにお茶会でのソルイードの態度は少しずつよそよそしいものとなっていった。
リーシェンスはどうしてこんなことになったのかわからなかった。だがこれは無理のないことだった。
爵位が下で優秀と名高い令嬢から申し込まれた縁談に、家の都合で従わされる。縁談を申し込んできたはずの令嬢はお茶の席で愛想の一つも見せない。ソルイードからすれば家の都合で駒として使われたとしか思えない。もともと彼は体格以外に秀でたところが無く、常に劣等感を抱えていた。
彼がどれほどみじめな気持ちにだったか。リーシェンスはその優秀さゆえに、持たざる者の苦悩をうまく理解できなかった。
恋した男が他の女に取られてしまう。その恐怖は背筋を凍らせ、それに対する憤怒は身を焼くほど激しかった。これほどの激情を抱いたのは初めての事だった。
それでもリーシェンスは理性で感情を無理やり抑えつけた。
現段階でソルイードはただ他の令嬢と歓談しているだけのことだ。それを糾弾したところで、ただの独占欲の強い女の嫉妬と疎まれるだけだろう。この胸の苦しさは男性にはわかってもらえないものなのだ。研究の都合上、女性へのヒアリングの機会が多い。男女の関係に関して耳年増なリーシェンスは、そういう知識だけはあった。
リーシェンスは努めて理性的に考えた。ソルイードとは今後の一生ともに過ごすつもりだ。常に浮気の心配をしながら夫婦生活を続けていくことなんて耐えられない。こんなことは一度で終わらせたい。
だからソルイードと男爵令嬢ウォルミーサの仲はあえて干渉しなかった。干渉せずに観察した。密偵まで雇って二人の動向を探らせた。
若い男女が仲を深めれば触れあわずにはいられなくなる。禁じられた恋となれば秘め事はより魅惑的なものとなる。
二人が肉体関係に及ぼうとしたところで現場を押さえ、徹底的に糾弾する。それで二度と浮気をしようなんて気が起きないように心を折る。リーシェンスはそんな苛烈な手段を選んだ。極端すぎる策だった。彼女は冷静なつもりでいながら、実のところ暴走していたのだ。
そうして待ち続けたがソルイードとウォルミーサの付き合いは実に清いものだった。触れると言えば手をつなぐ程度。休日にでかける先は美術館や博物館に演劇といった健全な場所。日が暮れる頃にはきちんと別れる。学生の模範的な交際と言った感じだった。
どうもソルイードの方が一方的に熱をあげているだけで、ウォルミーサとしては友達としての付き合いとして線引きしているようだった。彼女の側からすれば、浮気をしているという意識すらないようだった。
特に秀でた能力はない。爵位も貴族としては低い方だ。身体を許すこともしない。そんなウォルミーサが、気立ての良さだけでソルイードの心を虜にするのは、リーシェンスからすれば忌々しくてたまらないことだった。
研究の支援者たちに働きかけて追い落とし、男爵令嬢ウォルミーサを学園から排除することも考えた。リーシェンスはその名声から上位貴族とのつながりもあるから、十分実行可能なことだ。だが万が一、学園から去るウォルミーサを追ってソルイードが駆け落ちでもしたらたまらない。そうした障害がかえって恋の炎を燃え盛らせることもあるとリーシェンスは知っていた。
待つばかりの耐え続ける日々。それはリーシェンスであっても感情を隠しきることなどできなかった。お茶会の席では彼のことを睨みつけてしまうこともあった。ソルイードがその視線を自分のことを見下したものだと誤解し、ますます二人の距離を離すことになったのは、どちらにとっても不幸なことだと言えるだろう。
そうして月日は過ぎていった。そして卒業もそろそろ見えてきた1月頃。
リーシェンスとソルイードは卒業後まもなく結婚する予定になっている。このままソルイードの浮気は片思いで終わるのかと思われたころ。彼は動いた。
ソルイードは法律科の生徒と交友を持つようになった。友人や密偵を通して探らせたところ、どうやら白い結婚の契約方法について相談しているようだった。
白い結婚なんて成立するはずがない。リーシェンス本人も、彼女の家であるヴィオテナルト子爵家にも瑕疵はない。立場の弱い第二子であるソルイードが、正当な理由もなくただの恋心でそんな無理を通せるはずはない。
彼の動向は常に把握していたが、伯爵家に根回しする様子もない。白い結婚について調べはしたものの、実行は諦めたかと思われた。しかし密偵の報告によれば彼は実際に契約書を作成したらしい。
もう卒業も近い。結婚式はそのあとすぐだ。今さら白い結婚の契約書を出して許される状況ではない。王都で流行りの演劇のように、初夜にでも突きつけるつもりなのだろうか。
そこまで考えて、リーシェンスは恐るべき可能性に気づいてしまった。
もし本当に初夜の晩にソルイードが白い結婚の契約書を突きつけて、リーシェンスが強制的にサインさせられたらどういうことになるか。
契約書が法に基づく正式なものなら、伯爵家と言えど無視はできない。かと言って、それをただ受け入れることもできない。両家を取り持つ結婚を、初夜のタイミングで白い結婚にする――それも新郎の恋心によるものだと周囲に知られれば、貴族社会で笑い者となる。両家は大きく立場を落とすことになるだろう。
この不祥事は隠ぺいしなければならない。そのためには、「実は最初から白い結婚だった」ということにしてしまうしかない。それならば周囲に対して言い訳が立つ。
無論、こんなにうまく事が運ぶとは限らない。だがリーシェンスにとって可能性があるというだけでも無視できないものだった。ずっと耐えて来た日々が無為に終わることなど許せない。彼を失うなんて耐えられることではなかった。
だからリーシェンスは、ロマンチックな白い結婚を、黒く染め上げ地に落とそうと決めた。
事前の準備は入念に整えた。
ソルイードの夕食には精力増強剤と興奮剤を仕込んだ。
初夜を迎える部屋には催淫効果を促す魔道具を設置した。ネグリジェは異性の視線を集める魔法をかけた。
白い結婚の宣言の後はあえて挑発的な言動をとり、彼を逆上させた。
怒りに燃えたソルイードが暴力に訴えるのではなく凌辱という行為に走ったのは必然だ。そうなるようにすべての環境を整えていたのだ。彼の暴走はあくまでリーシェンスの引いた道の上に走ることにとどまっていたのである。
白い結婚を宣言しておきながら、別れるはずの相手を抱いたとなれば、台無しだ。白い結婚の宣言など無に帰すことになる。
だがこの策にも欠点はある。ソルイードがこの凌辱の事実を隠蔽し、リーシェンスの純潔が失われたのは研究時の事故のためだと言い張れば、世間の支持を得られるかもしれない。結局貴族社会では爵位の上の者の言葉が通る。ソルイードの主張が受け入れられる可能性は、実はそう低いものではなかった。
だがリーシェンスはそのわずかな可能性も既に潰している。
予めかけていた幻覚の魔法でソルイードには認識できないようにしておいたものがある。
シーツに着いた赤いしみ。リーシェンスの破瓜の証だ。
実験で純潔を失ったなど偽りだ。リーシェンスほどの才媛がそんなミスをすることなどありえない。彼女は初夜を迎えた時、純潔の乙女だった。
ソルイードはウォルミーサのことを深く愛していながら、彼女の意思を尊重して決して手を出さなかった紳士だ。リーシェンスが純潔だったなら、彼は強い意志で自分を抑えたかもしれない。
だから、騙した。
行為を途中で止めさせず、取り返しのつかないところまで行かせるために、わざわざ幻覚の魔法で破瓜の血を隠しさえした。そして彼は目論見通り、獣のように彼女の身体をむさぼった。
白い結婚を宣言しながら花嫁を凌辱し、純潔を奪った。白い結婚は黒く染まって地に落ちた。この惨事はソルイードを縛る枷となるだろう。男爵令嬢ウォルミーサとの清くて淡い恋愛など砕け散るに違いない。その枷によって彼は二度と浮気をする気も起きないはずだ。
男爵令嬢ウォルミーサは、ソルイードが予想外の動きをしないようにするため意図的に放置していた。もうその必要もなくなった。
当人に自覚はないようだが、彼女は天然の魔性の女だ。リーシェンスの雇った密偵の報告によれば、ソルイード以外にも数名が骨抜きにされている。このまま放っておく理由はなかった。
リーシェンスの研究を支持する高位貴族に既に話を通してある。後日、こちらから依頼すれば動いてもらう手はずになっている。高位貴族に睨まれた男爵令嬢に明るい未来はないだろう。
髪をすっかり梳き終えた後。リーシェンスはそっと身体のあざを撫でた。強く握られた手首は痛みがあり、髪を梳くのも苦労した。初めてなのに乱暴に貫かれた秘所も、まだ鈍い痛みが残っている。
「……あなたはやっぱり優しい人です」
それでもリーシェンスは彼の優しさを認めた。
ソルイードは鍛え上げられたたくましい身体を持つ青年だ。本気で彼女を壊そうと思えば、この程度では済まなかったはずだ。
行為が長時間に及ぶと予想されたため、予め体力増強の魔法をかけておいた。それでも体格と筋力の差は大きい。脱臼や骨折くらいは覚悟していた。危険な状態に至った時に備え、相手を強制的に眠らせる魔法を封じた指輪もつけておいた。だが指輪は使わずに済んだ。
怒りに身を任せ性欲に溺れてもなお、彼はギリギリのところで抑えていた。彼の優しさが自分にも向けられたことが嬉しくてたまらなかった。
あざも秘所の痛みも、回復魔法を使えばすぐに癒せる。生命について研究しているリーシェンスは、初体験の後にどういう処置が必要であるかを知っている。
だがリーシェンスはこの痛みを癒そうとはしなかった。身を苛む苦痛さえも、愛する人に刻まれたものと思えば愛おしく思えたからだ。
それに彼にはこの姿を見せたかった。朝の光の下、傷ついた裸身を晒して、それでもなお彼を愛する自分を見て欲しかった。
そう考えていたが、汗は拭きとり髪も整えた。汗まみれの身体と乱れた髪で好きな男の前にいたくはないという、彼女なりのこだわりだった。
リーシェンスは愛する人の髪をそっと撫でた。
ソルイードに起きる気配はない。相当疲れているのだろう。時折、苦し気に顔をゆがめている。悪い夢でも見ているのかもしれない。
彼が目を覚ましたら全てを明かすつもりだ。実験で純潔を失ってなどいなかったこと。今までどんな想いで彼を見つめてきたかということ。なにより、彼のことをどれだけ深く愛しているか、つつみ隠さず何もかも告白するつもりだ。
全てを知ったときソルイードはどうするだろう。喜んでくれるだろうか。それとも怒るだろうか。
泣き叫ぶかもしれない。怒鳴り散らすかもしれない。暴力を振るってくるかもしれない。ふさぎ込んでしまうかもしれない。
何をしようと構わない。彼の心を縛り、自分のものにする……その最大の望みが叶った今、全て受け止められる。どんな彼でも愛せると思った。
自分の抱いている恋心が、もはや普通のものではないという自覚はある。きっとあの嫉妬に苛まれた日々で、自分の中の何かが壊れてしまったのだろう。
こんなことをしなくても、きっとソルイードと結ばれることはできた。浮気についてはきちんと抗議して、彼を愛していると誠心誠意伝えて関係を深めていけば、白い結婚を突きつけられることなんて無かったかもしれない。
だが。そんなありえたかもしれない未来に、リーシェンスはもう何の価値も感じられなかった。
今、彼女を満たすのは例えようもない喜びだ。ソルイードはもう逃げられない。自分だけのものになった。その充足感は普通の恋愛などでは決して得られない種類のものだ。
当たり前の恋愛では、これほど深く激しく彼を愛することなどできなかった。こんなにも熱く狂おしい想いで胸が満たされることもなかった。自分は世界一幸せな花嫁なのだと心底思う。
こうして寝顔を眺めるのは幸せだった。でも、早く目を覚まして欲しいという気持ちもあった。
彼を起こすか、起こさないか。そんな悩みを楽しみながら。リーシェンスは愛する人のまぶたに、そっとキスを落とした。
終わり
「白い結婚を宣言したのに性欲に負けて手を出しちゃったら台無しになるよね?」というネタを思いつきました。
もともとは令嬢がお色気で子息を翻弄するライトな話になるはずでした。
それなのに、ヒロインがそこに至るまでの過程とか背景とかあれこれ作り込んでいったら予想外にエグイ感じのお話になってしまいました。
お話づくりは相変わらずままなりません。
2025/1/10 20:10頃、1/11、1/12、1/13、1/19
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!