3 卒業試験
冬の寒さが薄まって来た頃には、トーチとフェロ、ヒューズとクレイの息が揃うようになってきた。チームを結成して暫くの間は、互いが互いの足を引っ張っていた。ヒューズの武器は速さだ。そして長年ヒューズとコンビを組んでいたクレイも、その速さを生かした立ち回りに重きを置いている。しかし0番コンビには、明確な戦闘スタイルがなかった。主な原因として、フェロが指示を聞かないことと、トーチは剣の扱いが全く上達しなかったからである。(ちなみにフェロは素手で戦っている。フェロはその有り余る炎を使った突進と突撃が得意だった。以前は武器を使っていたが、フェロが使った武器は必ず壊れるため、学校が武器を与えなくなった。)そのため、フェロが単身で切り込み、とにかく手あたり次第に破壊する。勿論、攻撃が雑であるため、打ち損じることが多い。その打ち損じにトドメを刺すのがトーチの仕事だった。どちらも二人で動くことが板についていたため、四人で戦うことに慣れなかった。しかしいつまでたっても、出来ないことに甘んじる訳にもいかない。四人は戦闘スタイルを模索していくこととなる。注目した点は、ヒューズの撃破に特化した戦い方と、フェロの破壊に特化した戦い方である。ヒューズはトドメを刺し切ることは得意だったが、炎獣の外殻を破ることには手古摺っていた。フェロはその反対だ。このことから、まずトーチとフェロが外殻を突き破り、ヒューズとクレイが核を担当するというスタイルを築き上げた。またトーチは自分の剣の才能に見切りを付けて、腕にドリルを着けて戦うようになった。そう、あの実家から持ち帰ったドリルである。トーチは、態度が軟化したヒューズに、自分の剣に対する問題点を洗い出してもらった。
「お前は、剣を振って、物体に当てることは出来ている。だけど当て方が悪い。そもそも体の使い方が不器用すぎる。」
ヒューズはトーチから剣を受け取ると、剣を見て少しの間だけ思案した。
「色々試行錯誤しているのは知っているが、そもそも考え方を変えたらどうだ。」
「考え方? 」
「そうだ。例えばノヴァ・アンダーソン。彼女の武器は、固い肉体だ。あの女は全身が筋肉の鎧で覆われている。だから巨大で重い武器に体が負けることはない。ミシェル・ボルジアの武器は、柔軟性と握力だな。あの女はとにかく動きはしなやかで、途切れない。だから連撃で攻撃しているだろう。そんな風に自分に合った戦闘の型を作ってしまえばいい。まあ、クレイみたいに、戦闘でなく後方支援を極めるという手もある。お前は当てることは出来ている。だけと次のステップである、斬ることが出来ていない。ならば斬らなければいい。」
ヒューズは空中に向かって、拳を前に突き出した。
「ただ当てるだけで、物体を破壊できるようになればいいんじゃないか。」
トーチはその言葉に素直に感心した。そしてトーチは、ヒューズの拳を突き出す動作から着想、殴っただけで物を破壊する武器を考案した。その際に、例のドリルを素材として使用したのである。まずドリルの、刃と持ち手に分解する。そして刃の中に空洞を作り、手を入れられるグローブを作る。この時グローブには、ボクサーのミトンを使用した。これでドリルに手を入れられるようになった。次に、このドリル付手袋に電力を供給しなければならない。これは支給された発電機を改造した。水を貯めたタンクからもう一つの管を伸ばし、ドリル付手袋そのものに、もう一つタービンを着けた。これは古いゴミ捨て場の近くに、隠すようにして置かれていた発電機からむしり取った。これでドリルに電力が供給されるようになった。最後にドリルに刃を装着する。ドリルやその他の掘削機が穴を掘るためには、ドリルに付けられた刃が回転することで、周囲を切削する必要がある。また、先端から徐々に太くし、ドリルに段差を着けることで、より大きな穴を簡単に掘ることが出来る。持ち帰ったドリルが、三角錐の形をしたステップドリルだったのは運が良かった。トーチは、このドリルに今まで使用していた剣を砕いて、螺旋状に溶接した。ちなみに、カース先生には剣を紛失したと報告した。カース先生は特に調査をせずに、トーチを懲罰室にぶち込んだ。トーチは、お誂え向きに完全防音な懲罰室に、こっそりフェロを呼び寄せて、ドリル付手袋を完成させた。カース先生も、まさか剣を無くして懲罰室に入れた生徒が、その懲罰室で剣を砕いて溶接しているとは夢にも思わないだろう。トーチはヒューズとは違い、新しい武器を卒業試験の本番でいきなり使う度胸はなかった。そのため割と堂々と実技の時間で練習した。トーチはいつか注意されるのではないかと不安だったが、トーチは教師にとって教え甲斐のない生徒だったため、特に何も言われなかった。こうして四人は様々な課題を乗り越えていった。四人は、火消になるために卒業試験を突破するという一つの目標に向かって尽力していた。
卒業試験の前日の夜に、四人はヒューズの部屋に集まっていた。トーチとクレイは武器を磨き、ヒューズは明日の自分に向けて体にメモ書きを残していた。フェロは隣で寝ていた。メモ書きの中で、「目標討伐数」という文字を見つけた。トーチは、ヒューズとクレイに質問した。
「なんで君たちは、卒業試験にそんなに真剣なんだ? 君たちの実力なら、まず間違いなく合格するよ。」
ヒューズとクレイはお互い顔を見合わせた。クレイが質問に答えた。
「僕たちには、家がないからね。だから家を買うために祝い金が欲しいんだ。」
「祝い金ってあの祝い金? 」
「そう。毎年成績上位者だけが貰える祝い金だよ。試験で討伐した炎獣の数に応じて、上位3人で山分けするんだ。......討伐数が多ければ、郊外で一戸建て買える金額が手に入ることだって夢じゃあない。」
クレイがひどく悪そうな顔をしている。横でヒューズも賛同していることから、もうずっと昔に決めたことなのだろう。トーチは相棒と誓い合ったフェロを見た。フェロは体を丸めて横たわっている。薄い腹に浮いたあばら骨が、呼吸に合わせて上下していた。
「いよいよ......明日か。」
トーチはドリル付手袋を見る。ドリルには、不安そうな自分の顔が映っていた。トーチは火消になると決心してから、人生で初めて真剣に努力した。トーチは自分に自信が無い。だから何度も諦めそうになったが、それでも努力をすることを辞めなかった。トーチは自分に自信が無いからこそ、人に言われたことはなんでも実践した。ヒューズに「剣をあきらめろ」と言われた時も、迷わず剣を切り捨てた。外野からは、「火消しとしてのプライドがない」とかなんとか言われたが、トーチからしたらプライドなんぞに感ける時間はなかった。火消しになるという夢、旧時代について解き明かすという夢は、トーチにとって初めて生まれた生きがいだった。だから卒業試験に絶対受からなければならない。トーチは生まれて初めて、努力が実るか、無意味なものになってしまうのか、それが自分の意思とは関係なく決まってしまう状況に直面していた。
「トーチ。お前、変に躊躇するなよ。」
トーチはヒューズの顔を見た。彼の顔は本気だった。トーチは真剣に話を聞いた。
「きっと、お前には何かあるんだろう。......フェロが教えてくれた。ああやって気絶するのは初めてではないってな。」
トーチは思わずフェロを見た。フェロは涎を垂らして寝ている。
「俺が聞いたんだ。フェロは何も悪くない。......これは完全な主観だが、お前はどこかで自分の力を使い切らないようにしている。勿論お前が手を抜いている訳ではないことは、重々承知した上で話しているんだ。」
トーチは四本の指を折り曲げた。
「例えば、今お前は五本のうち、四本までの力を出しているとする。この時お前は、あと一本分の余力を残している。ここで五本指の実力を出せれば、きっとお前はもっと強くなれる。だけどお前は無意識に余力をセーブしてしまう。」
トーチはゴクリと唾を飲んだ。自分でもその癖に気付いていた。自分を曝け出すことにひどく抵抗があった。トーチは昔から、安牌を選んで進んでいた。安牌を選ばなければ、ひどく不安になってしまう。底知れぬ恐怖心が、トーチをいつも生半可な道へと逃がしてしまう。最近は、フェロやヒューズの大胆な行動力によって、随分とトーチは変わった。何かに挑む度に、恐怖を飲み込み、自分が逃げることを許さなかった。しかし、事が終わった後に何時も恐ろしくなる。今回は運が良かっただけではないのか? もしこれで誰か死んでしまっていたら、取り返しのつかない何かが起こってしまったら。自分は責任が取れるのだろうか。
「怖いんだ。失うのが怖い。間違えるのが怖い。それなのに、何も失わないでいられる強さがない。......何が正しいのかもわからない。」
ヒューズは刀の手入れの手を止めた。
「それは俺も同じだ。何が正しいのかなんてわからない。......特に俺は物忘れがひどいからな。忘れちゃいけないことを忘れているかもしれない。」
トーチは俯いた。女性が殺される白昼夢は、おそらく自分の過去だ。本当はきっと向き合わなければ行けない。そうしなければ、ずっと悩み続けることになる。傷に蓋をするのは、ただの現実逃避だ。手当をしなければ傷は疼く。痛みは、体の動きを鈍くする。もしかすると化膿して、周りの健常な皮膚を穢すかもしれない。蓋をしてしまったら、皮膚が自己修復するのを妨害してしまう。いつまでもその傷が、体の持ち主を過去へと後ろへと引き戻すことだろう。人は前に進まなければならない。なぜなら時間はずっと前進し続け、体はどんどん老いていく。若いうちに治さなければ、治るものも治らない。
「別に、今向き合えと言っている訳ではない。きっと然るべき時に、然るべきことが起こる。それを正面から受け取ればいい。」
クレイはずっと下を向いて、自分の剣を磨いている。クレイに磨かれた剣は、鏡のようにきれいになっていた。ヒューズはトーチに笑った。静かに寂寥が滲む笑いだった。
「俺も怖いよ。いつか、自分に忘れた記憶が牙をむくかもしれない。いつか、全て忘れてしまうかもしれない。だけど始まってもいない怯えは、無意味で、疲れるだけだ。何も始まっちゃいないのに、怯えることなどない。」
トーチは頷いた。そうだ。まだ何も始まってはいない。何も起こっていない。だから怖がる必要はどこにもない。そう思うと、体を支配していた緊張がら、ふっと体が解放されたような感覚があった。
翌日、ついに卒業試験の日を迎えた。春先の暖かな日差しが、生物を優しく包んでいるようだ。天候は良好。風も少ないため、火が消し飛ばされること、火が不用意に燃え移る心配もない。まさに絶好の火消日和だった。生徒たちはみな、特設の試験場の中央で教師を囲んで話を聞いていた。相も変わらない不愛想な話し方でカース先生は、試験内容を再度復唱した。カース先生の近くには、ダイナが立っていた。例の授業の時とはことなり、彼女は大仰な鎧を着用していた。トーチは辺りを見回すと、ダイナと同じ鎧を着用している人間が、五人立っていた。おそらくあれが王の牙なのだろう。中には、ミシェルによく似た男性も立っていた。しかしダイナ合わせて六人しかいなかった。
「制限時間は、一日。その中で、できるだけ多くの炎獣を討伐しろ。討伐数はこちらが数える。討伐数が5つ以下の班は脱落とみなす。そして翌日の同じ時間にこの場所に戻ってくるのだ。不測の時代が起きた場合は、この発煙筒に火を付けて合図を送れ。上空に火を放っただけでは、緊急事態だと見做されないので注意しろ。また発電機で使用する水の、追加の供給はない。計画性をもって配分しろ。なお試験場から出た者はすべて失格とする。......それでは、この国の元首たるメギト・フレイム陛下より、貴様らの安全を祈願し炎の祈りが捧げられる。」
カース先生は、そう言って恭しく道を開けた。すると人込みの割れ目から、大勢の従者を連れて国王が現れた。トーチはその姿を見て驚いた。国王は車いすの上に乗っていた。体の大部分は鎧で覆われていて、車いすの上に体を弛緩させていた。国王の腕がガタガタと動いた。周りに控えていた従者が、国王の兜に耳を寄せる。従者は国王の言葉に頷き、国王の手に装着していた武具を外した。中から、流木のような黒い光沢を持った細い腕が現れる。そのまま王はゆっくりと祈りの姿勢を取った。王の兜がモゴモゴと揺れる。どうやら何かを話しているようだったが、全く聞き取ることが出来なかった。トーチは、王のあまりにも老いた姿に愕然とした。トーチの中で王というのは、炎主様より王位を賜った絶対的な正義であり、信仰の対象であり、憧れの存在だった。まさかこんな老いぼれだったとは、全く思ってもいなかった。数分間を置いたのちに、従者達が一斉に拍手をした。それに合わせて、王の牙、教師、生徒という順に、拍手の輪が広がっていった。国王の腕がついに限界を迎えたように、再びダランと投げ出された。従者はそんな国王の腕に、再び武具を装着する。従者はカースに目で合図を送り、しずしずと車いすを押して去っていった。それからカース先生の音頭で、生徒たちは開始位置に向かった。トーチは移動している間、ずっとダイナのことを見ていた。そのダイナはフェロのことを穴が開くように監視していた。すると不意に、ダイナの視線がこちらに向いた。ダイナは相変わらず、感情の読めない笑みを浮かべている。トーチはぐっと拳を握った。ダイナはフェロのことを化け物だと言った。フェロは化け物なんかじゃない。獣なんかじゃない。きちんと血の通った人間で、温かい心を持っている。だからこそ、この試験で証明しなければならない。不意に、空で空砲が鳴った。あの空砲は、試験開始の合図を告げるものだ。生徒たちは、皆一斉にスタートを切った。戦いの火蓋は斬られた。もう後戻りはできない。トーチは、深呼吸をすると、皆に続いで駆け出した。
トーチ達四人は、物陰の中に潜んで待機していた。この試験で重要なのは、できるだけ沢山の炎獣を退治することではない。炎獣を倒しつつ、必ず決まった時間に元の場所に戻る。この二つを絶妙な塩梅で両立することだ。火消の機動力は、全て背中に背負った発電機に掛かっている。この試験では、燃料となる水の補給が出来ない。そのため、水が底を着いたり、局所的に水が入ったタンクを攻撃されたり、とにかく水を失うと移動することが出来なくなってしまう。そのため多くの人間が、スタート地点に近い場所を狩場とする。生徒が多くいるため、炎獣に倒される心配はない。しかし自分が炎獣を倒す機会が半減してしまう。そのためトーチ達は、初めからスタート地点から遠く離れた所に陣を張った。
「相棒。前に炎獣がいるぞ。」
フェロがトーチに耳打ちした。確かに目を凝らすと、前に炎獣が二体だけ佇んでいる。
「よし。討伐だ。手筈道理に行うぞ。」
ヒューズの言葉に、フェロとトーチが先陣を切った。ゆっくりと炎獣との距離を詰めながら、周囲の様子を確認する。炎獣が立っているのは、治安の悪い裏路地を模したT字路だ。そのため通路は狭く、遮蔽物が多い。遮蔽物の多さは、狩人にとってとても優位な条件だ。身を隠しやすく、狩人は容易く攻めることが出来る。しかし、火消にとっては些か部が悪い条件だった。遮蔽物が多いということは、炎獣にとって外殻を探しやすい場所でもある。そのため外殻を破壊すると同時に、核を破壊することも求められる。
「どうする? フェロ。」
「俺様が動くには狭すぎる。相棒が穴を開けろ。俺様が穴を広げる。」
トーチは、一瞬目を見開いた。まさか自分が先行するとは思っていなかったからだ。しかしすぐに表情を変えると、トーチはさらに距離を詰めた。フェロは、トーチがじりじりと近づく様子を見届けると、ひらりと屋根の上に登った。そしてそのまま、屋根の上から狙いを定める。狙うはT字路の道と道とが垂直に交差する行き止まりだ。そこに火種になりそうな、本が落ちている。
「ファイヤ!」
フェロは本に向かって、指を鳴らした。音を立てて本が燃え上がる。炎に気付いた炎獣が、炎に目掛けて突進した。本の先には道がない。炎獣は獣の習性を模倣する。本来なら行き止まりに向かって突進することはあり得ない。しかし炎獣は、すっかり本を人間だと騙されていた。そのまま突っ込んでくる炎獣に、トーチは横から突撃した。二体の炎獣に突きを繰り出し、それぞれの腹に穴を開けた。炎獣の外殻に罅が入る。中の核と、発行しながらうごめく根が見えた。トーチは予定通り穴を開けたことを確認すると、一旦後ろに飛びのいた。入れ替わりにフェロが上から降ってくる。フェロはそのまま炎獣の体に着地すると、罅に爆炎を注入した。間髪入れずに、炎獣の外殻が木っ端微塵になり、核がむき出しになる。
「ヒューズ!終わったぜ!」
「見ればわかる!後方に戻れ!」
ヒューズは、息を吐いた。重心を前に倒し、腰を低く構える。
「抜刀!」
ヒューズは核を駒切りにした。核はドロリとした炎を溢して、崩壊していった。
「これで五体目。」
ヒューズは呟きながら、納刀した。
「ふう......。意外と早いものだね。もうノルマを達成してしまったよ。......みんな、怪我はない? 」
クレイは汗をぬぐった。
「ああ怪我はない......。だがどうにも怪しい。」
ヒューズは眼鏡を押し上げながら、何かを考えているようだ。
「わざわざ僻地を選んでいるはずなのに、炎獣との遭遇率が少ない。」
「確かに......。他の生徒は見当たらないのに、炎獣が少ないのは不思議だ。」
唇に手を当て考え込むトーチに対して、クレイが話しかける。
「もう退治されたってことはないの? 」
「それはないと僕は思っている。......炎獣の討伐数は、試験監督が把握しているって言っていた。正直どんなやり方で把握しているのかはわからない。だけど、仮に試験場を複数の区域に分けて、監督する炎獣の数を少なくしているとする。そうしたら、スタート地点からここまで移動した時点で、ある程度の数の炎獣と遭遇するはずだ。だけど僕たちは遭遇しなかった。それに、わざわざスタート地点に近いところに、炎獣を大量に配置するかな......。少なくともカース先生は絶対にしない。」
フェロも同意を示す。四人の間は、カース先生はとにかく意地の悪い先生という印象があった。
「なら......。どうする? スタート地点まで戻る? それとももう少しここで粘る? 」
「俺はスタート地点に戻りたい。」
クレイはヒューズの意見に頷く。そのままクレイはフェロとトーチにも同じ質問をした。
「俺様は別段なんだっていい。」
フェロはあっけらかんと言った。トーチは自分の背中にある、水の残量を調べた。今までほとんど自分達の肉体で討伐していたからか、ほとんど水の量は減っていない。
「うん......。僕も問題ないよ。それでどんな道を使う? 」
ヒューズは地面に地図を描いた。残りの三人が上から覗き込んだ。ヒューズはいくつか地面に丸を書き、適当な石を四つ拾って置いた。
「まず今俺たちはここにいるとする。そこでこの遠く離れた丸がスタート地点だ。ここに行くためには三つの道のどれかを使う必要がある。近道な道から順番に、街道、橋、山道だ。」
トーチは驚いてヒューズの顔を見た。その顔を見て、クレイがにんまりと笑う。
「事前の情報収集は勝負事の鉄則だよ。」
クレイはお茶目にウインクして見せた。トーチの底知れない有能さに、少し引いた。
「まず街道だが、これは平らな道で、三つの道の中で最も体力を使わない。きっと多くの生徒が終結しているだろう。炎獣と戦いながら歩くのは、些か不向きな道だ。次に橋だ。この橋は、試験場を二分するように横に流れている、川を横断するように取り付けられている。街道の次に楽な道だ。人通りもまばらだろう。しかし橋の上で戦う可能性がある。最後に山道だ。これは最も勾配があって、体力が必要となる道だ。好き好んでこの道を通る人間はいないはずだ。炎獣に体力は関係ない。おそらくポツポツといるはずだ。だが道が塞がれていた場合、ワイヤーを使って障害物を避けるしかない。」
ヒューズの言葉に、フェロが反論する。
「俺様は使わなくても飛べるぞ。足の裏から火柱を出せばいい。」
「それはお前しかできない。余計な口を挟むな。......俺は橋を通りたい。それでいいか。」
三人はそれに同意した。そして四人は立ち上がると、橋に向かって歩き始めた。
暫くして、四人は橋に到着した。トーチは先ほどからフェロの様子が気になっていた。フェロはどことなく、浮ついていて落ち着かない様子だった。まるで喧嘩を観戦しているときのように、気分が高揚しているらしい。
「フェロ。さっきからどうしたんだ。なんだかおかしいよ。」
フェロはゆっくりトーチを見た。その瞳が炎のように揺らめいている。
「相棒は気づかないのか? この匂い。この圧力。この熱。......大きな炎に近づいているぞ。しかも二体だ。どっちも大立ち回りをして、暴れまわっている。」
フェロの大きな炎という言葉に、トーチは炎獣を連想する。先ほどまではせいぜい1,2mの炎獣としか遭遇しなかった。しかしそれよりも大きな炎獣が、この試験会場にいるということなのだろう。5,6mぐらいだろうか。以前読んだ文献には、汽車の先頭部分を丸々外殻に使っていた炎獣がいたそうだ。トーチは思わずブルリと震えた。
「心配していてもどうしようもない。......とにかく進むぞ。」
ヒューズの言葉に頷くと、四人は橋を渡たり始めた。トーチはぼんやりと橋の下に流れる川の遠くを見つめながら歩いた。橋の中ほどに差し掛かった際、トーチは突然フェロに抱えられた。トーチはフェロに何事かを聞こうと思った。しかしさっきまでトーチが立っていたところに、大きな岩がどしんと降って来てしまった。橋は両端に切断される。切断された橋の先に、同じようにクレイを抱えたヒューズがいた。
「攻撃だ!仕方ない、別れるぞ!」
ヒューズが声を張り上げる。その間も絶え間なく落石が続く。
「スタート地点で落ち合うぞ!」
フェロはトーチを抱えて、岸へと駆け出した。ちらりと振り向くと、橋が崩壊する様子が映った。
「相棒、ちょっとばかし強引な手立てを使っていいか? 」
「え? 」
「早くこの場所から離れたい。」
トーチはフェロの意見に納得した。一連の投石は明らかに天災ではない。こちらを殺そうとする明確な殺意があった。
「もたもたしていると、いい機会を逃しちまう!大きい炎と炎がもうすぐぶつかりそうなんだ!ぐずぐずしていると間に合わない!」
「ああ......。うん。頼むよ。急いで移動できるに越したことはない。」
「よっしゃ!」
フェロはトーチを抱え直した。トーチもフェロにしがみつく。フェロは大きく屈伸し空へと跳躍した。そしてそのままフェロは、木々の間を縫うようにして飛行した。トーチは初めの方こそフェロの首の体に巻き付いていたが、時間が立つにつれて周囲を観察する余裕が出来た。山肌を登っているときは異常がなかったが、反対に下っているときには明らかに異常が広がっている。森の一帯が、何者かによって燃やされていた。まるで巨大な何かが森を突っ切ったように、木々から炎が立ち上がっていた。
「あれだ。俺様。あの跡を残した奴に会いに行きたいんだ。」
「フェロ......。そいつってどんな奴なの? 」
「詳しいことはわからない。初対面だ。だけど巨大な炎の波動を感じた。きっと盛大に燃えていることだろう。」
トーチの体に冷や汗が伝った。この森の燃え方が異常だ。上空から見ていなかったら、きっと隅々まで焦土になっていると感じただろう。それぐらい広大な範囲が燃やされていた。明らかに人の手によって、この惨状が生まれたとは考えにくい。だが炎獣がこの惨劇を作ったのだろうか? この仮説が正しければ、この森を突っ切った炎獣は、平方キロメートル単位の底面積を持つ外殻を纏っていることになる。トーチの嫌な予感とは裏腹に、フェロは意気揚々と巨大な熱の波動に近づいて行った。
一方その頃、クレイとヒューズはスタート付近に戻っていた。橋が切断されたものの、二人は橋を渡りきることが出来た。そのため難なくスタート地点に戻っていたのである。しかし辺りは様変わりしていた。スタート付近には、数多の生徒たちが倒れ伏していたのである。クレイはそのうちの何人かの脈を確認した。どうやら脈はあるようで、息はしていることが分かった。
「おそらく一時的に行動不能にされたんだろうね。意識がある人も、足だけが重点的に狙われている。」
「随分と作為的だな。......犯人はきっと炎獣じゃない。......クレイ、周囲の警戒を怠るな。」
クレイとヒューズは、それぞれが前と後ろを警戒しながら歩き続けていた。辺りを見回すが、人が倒れている以外に異変はない。
「これは誰がやったと思う......?」
クレイがヒューズに聞いた。ヒューズは鼻を鳴らした。そして左腕を捲くってメモを見た。そこには実力者リストと書かれていた。
「簡単だ。倒れている奴よりも強い奴だ。......生徒なら、ノヴァ・カノン・ジルの中の誰かだ......とメモには書いてある。」
「生徒じゃなかったら? 」
「教師か、王の牙だな。」
クレイは、短く荒い呼吸を繰り返した。きっと彼は戦おうとするだろう。彼は戦士じゃない。旅人だ。ヒューズは当たり前の理論を積み上げていくような話し方をする。しかし、実際はそれっぽく自分の直感を、さも事実であるかのように語っているだけだ。彼の行動原理は簡単だ、失った記憶を埋めようとする。そのためにはどんな手段だって恐れない。自分探しの旅を止めたのも、火消の学校に入れたのも、全部クレイのわがままだった。
「ね、ねえ......。逃げようよ......。」
クレイの予想通り、ヒューズは否定した。
「逃げても意味はない。相手はきっと襲ってくる。ならば向かい討つまで。」
クレイは強く歯ぎしりした。いつだってヒューズは、クレイのことを隣に置く癖に、最後はクレイの話を全く聞かなかった。
「それでも逃げるんだよ?」
クレイは絶叫した。ヒューズは思わずクレイの顔を見る。クレイの顔は恐怖が歪んでいた。
「もし、生徒じゃなかったら? 君より強い人だったら? 君は負けちゃうよ!」
ヒューズはムッとして顔を歪める。
「昔のことは覚えていないが、俺より強い奴にあったことはない。それに負けていたら、俺はいま生きていないだろうに。」
クレイにとって、煮え切らないヒューズの態度は癪に障ったようだ。クレイは、イライラとヒューズnお肩を鷲掴んだ。何がなんでもヒューズに諦めさせなければいけない。そう思って、クレイはヒューズに向かって吼えた。
「君は!王の牙には勝てないんだよ!なんでわかってくれないんだ!」
「......王の牙なら俺が記憶を無くした理由を知っているかもしれない。そう言って火消に入隊させたのはお前だ。......お前は俺に嘘をついたのか。それとも俺に記憶が戻ってほしくないのか。」
クレイは思わずヒューズの頬を平手うちした。ヒューズは茫然として、頬を押さえた。叩かれた場所がジンジンと痛む。クレイに殴られたのは、覚えている限り初めてのことだった。突如として、後ろで派手な爆発音がする。ヒューズは音の方角を見て、駆け出そうとした。そのヒューズの刀の先を、クレイが捕まえる。
「放せ!」
「駄目だ!行ったら死んじゃう!」
「ああもう!分かった!見るだけだ!」
クレイはしぶしぶ刀を放した。ヒューズはすぐに音の方へと向かう。目的地に到着すると、ノヴァが生徒を締め上げていた。ノヴァの前に躍り出ようとした、しかしそれをまたもやクレイが押し留めた。生徒の体がだらりと弛緩する。ノヴァは生徒の体を放り投げた。ドサッと生徒の体が地面に落ちる。ノヴァはその様子を見向きもしなかった。そんなノヴァにミシェルが話しかける。
「ノヴァ様......。わたくしあなたを師と仰いでおりますわ。ですがこれはいかがなものなのでしょう......。ノヴァ様。他の人を倒してまで何をなさりたいのですの。」
「ミシェルもうやめよう......?あなただってわかるでしょう。この女が真っ当な人間じゃないって?なにもかも教えに背いている?」
「ジル?口を慎みなさい。わたくしは友人の口から聞きたいの。」
ジルは納得していない顔で下がった。ノヴァはその様子を冷たく見据えた。
「アンタとチームを組むとき、最初に言わなかったっけ。私のやることに口を出すなってね。」
ミシェルはぐっと口を噤む。それでもミシェルは前に進み出た。
「わ、わたくしはノヴァ様のことをお慕いしておりますの?あなた様のその努力を惜しまないそのお姿、出会ったころから尊敬しておりますの?こんなこと、きっとあなた様がご自分で為さる訳がない。......だから、だから?あなた様の炎主様より給われた力を......いいえ、あなた様の努力をこんな悲しいことに使わないでくださいませ!」
ノヴァは皮肉そうな笑みを浮かべた。そしてそのまま片手で顔を覆った。いつも完璧にセットしている前髪が、くしゃりと歪んだ。
「 ......アンタはほんと底抜けに甘っちょろいわね。」
ノヴァはミシェルを鋭い視線で睨みつけた。
「残念だったわね。全部、全部私が決めたことよ。はあ......ミシェル。アンタは優しすぎる。甘すぎる。ぬるすぎる。そしてそのぬるさを他人にも押し付けようとする。ごめんなさいね。アンタの理想のノヴァじゃなくて。......アンタ世の中の全部には理由があると思っているでしょう。不幸になる人は不幸になるだけの理由がある。悪人には悪事を冒すだけのやむ負えない訳がある。そう思っているでしょう? 隣のちゃんちゃらおかしい炎主様なんてものを信じちゃっているその子は、随分とあなたに手を焼いていたようね。」
「何を言うか!炎主様は私たちの祖であり、神だぞ!」
「だから何よ。その名前、虫のいいときだけ登場するから大嫌いなのよね。」
ノヴァはミシェルに向かって手の甲を見せた。
「この焼き印、見覚えがあるでしょう。私の姓はアルデンヌ。......あなたと同じ王の牙の一族の焼き印よ。......そこの女が後生大事に信じている炎主様が祝福なさった証よ。」
ミシェルはゴクリと唾を飲んだ。そして手をゆっくりと握りしめ、一歩ノヴァに近づく。
「......存じておりますわ。あなたがアルデンヌ家の人間でいらっしゃることも、あなたがアルデンヌ家からも追い出されたことも。」
ノヴァはうっすら眉毛を上げた。
「意外だわ。疑うなんて知らなそうなお嬢様が、私のことを調べているなんてね。」
ミシェルは目を細めると、ちらりとジルの方を見た。
「わたくしは自分で調べたのではありませんわ。ジルが教えてくれたの。......わたくしが騙されているのではと、ぼんやりしているわたくしを心配してね。」
ミシェルの言葉に被せるように、矢継ぎ早に畳みかけた。興奮覚めやらぬノヴァの口角に溜まった唾が、彼女が口を開き、話すたびに宙に放たれた。
「それを聞いて、どう思った? 軽蔑したでしょう。私を見下した? 」
「いいえ!そんなことありませんわ!わたくしはあなたの強さに憧れましたの?誰にも負けないその姿勢、炎獣に殺されるなんて考えたこともないと言い切ったあなたは気高かった!わたくしにはないものを持っていらした!だからわたくしはあなたに憧れて......。だから、だからこんなことしないでくださいまし......。あなたは曲がったことが嫌いなお方。そうでしょう? いつでもわたくしを守ってくださった、優しいお方ですもの。」
ノヴァが息を長く吐いた。その姿は何かをせき止めるかわりに息を吐いているかのように見えた。
「私が、やさしい? 私が、強い? ......そのままでいて欲しい? ......それをアンタが言うのね。」
ノヴァは不気味なほど、左右対称な笑顔を浮かべた。まるで誰かがきちんと定規で計って、口の形を動かしたかのような笑みだった。
「恵まれているアンタが、私に憧れるのね。......私は強くなんかない。ただ勝たなければ生きていけなかった?だから強くなった、ただそれだけよ。」
ノヴァが大きな片口ハンマーを振り上げた。ジルはミシェルを慌てて背に隠した。
「私もかつてはアンタと同じだった。王の牙に憧れていた。そう思うと、私とあなたって似ているわね。」
ノヴァがミシェルに向かってハンマーを振り抜いた。ハンマーがごぉと風を切った。
「だけどね。恵まれているアンタとは違ってね、私には王の牙になる素養が無かったの。王の牙はね、他人の炎を体内に入れても問題がない人間しかなれないの。」
ノヴァが続けざまに、右へ左へとハンマーで殴りかかった。そのたびにジルに先導され、ミシェルは何とか退くことで避ける。ミシェルがすべて避け切ったことが癪に障ったのが、ノヴァの語気が強まった。
「この恐怖が分かる? 私は王の牙になろうと思っていた。その努力をたった一つの欠点だけで否定された!無価値なものへと変えられた。まだ戦える。勝てる。私には未来がある!それなのに、実家の人間は私を幽閉した。私に妊娠されて、これ以上無能が家に連なることは許されないと思ったのね。」
ノヴァはそこら辺から生えていた、瓦礫に目を止める。そしてそのまま瓦礫をハンマーで殴って飛ばしてきた。瓦礫がミシェルとジルに雨のように降り注ぐ。それを弾きながら、ジルがノヴァに吼える
「お前の過去など知ったことではないわ?その凶暴さが炎主様に見放された原因なのではないのか?どうせ今回の企みだって、祝い金が目的なのでしょう?参加者全員を倒せば祝い金を独占できる!そうすれば爵位だって買えるやもしれない!」
ジルの言葉に、ノヴァはうっかり瓦礫を叩き潰す。パラパラと瓦礫が音を立てて瓦解する。ノヴァは肩でフゥーフゥーと息をした。こめかみに大きく血管が浮かび上がる。
「やめなさい。ジル!」
「どうしてそんなにアイツを庇うのですか?従者として納得が出来ません!結局こいつは権力に固執している!自分を棄てた家に復讐したいだけなんだ!それにあなたは利用されている!」
ジルはミシェルに向かって、火山が爆発するかのように喚いた。知的で精悍な女であるジルは、その顔をグシャグシャに歪めて、鼻水も涙もそのままのひどい顔をしていた。ミシェルはそんな彼女に向かって、目に涙を溜めながら言い返した。
「わたくしは信じておりますの。ノヴァ様ほど気品に溢れ、心身ともに美しく、強靭な方だと!だからこそ、こんなことを止めるのですわ!どんな理由があれど、他人を傷つければ、人は曇ってしまう!そんなあなた様は見たくない!」
ノヴァはぎりぃと歯ぎしりをした。目に言いようのない感情を浮かべながら、叫んだ。
「だから!お前の言う強さも、優しさも、全部!私を否定した奴らへの呪いで出来ているの!もう止まることなんて出来ない!私を穢した他人も、そのまま穢された私も許せない!私はすべてを呪って、踏みつけて、勝つことでのみ生きる!他人様の力がないと王の牙になれない? 上等だわ。......私は一人で頂点に立って見せる。全員。そう全員。私は見返してやるの。この体で、素質で、頂点に立つ!歴史に私という傷をつけてやる!」
その瞬間ヒューズは刀を抜いて、ノヴァに肉迫した。目的が同じなら、ヒューズも容赦することはない。
「結構なことだが、爵位のために祝い金を欲するのか。愚かしい。もっと賢い奴だと思っていたのだがな。」
振り下ろされたヒューズの刀を、ノヴァはハンマーの柄で受け止める。
「あら? 金を貪欲に欲するものは、操っているはずの金に人生を操られる。だから皆等しく愚か者よ。その点あなたも変わらないんじゃないかしら。」
「ノヴァ様!」
ヒューズの登場にミシェルはますます藻掻く。そしてミシェルがジルの腕を振りほどいて、ジルの拘束を解いた。
「ミシェル!」
ジルが手を伸ばすものの、ミシェルはまっすぐノヴァの方向へ走っていく。ノヴァがミシェルに気付き、鍔迫り合いをしていたヒューズを蹴飛ばした。三つ巴の混戦が続く中、突如として大地が震えた。ノヴァは思わず上を見た。自分の後ろにいたのは、あまりにも大きな炎獣だった。高さは60mぐらいだろうか。巨大な構造物を外殻に纏った炎獣がこちらを見ていた。窓から炎が飛び出ている。どうやら古い建造物を外殻に使っているようで、所々骨組みがむき出しになっている。まるで巨大な四足歩行の生物の骸骨が動いているようだった。そんな炎獣がノヴァに向かって死火根を伸ばしてくる。あれに捕まったらきっと自分は養分にされてしまうのだろう。骨も残らないかもしれない。死が刻刻と迫っているのに、ただただノヴァは驚いていることしか出来なかった。何もかもが予想外だった。ここにこんな炎獣が現れたことも、自分が死にそうになっていることも、何もかもが自分の計画にはなかった。まさかこんなところで死ぬなんて、何も出来ないまま死ぬなんて。死がこんなにも突然だとは思わなかった。悲しむ暇も、後悔する暇もない。ただ無遠慮な速さで死が近づいてくるのを、黙って見ることしか出来なかった。ノヴァは不意に体を押された。ノヴァは思わずよろめいてしまう。
「え......?」
ノヴァの背中を押したのは、ミシェルだった。ミシェルは泣きそうな顔をしながら、ノヴァの位置にとって代わったようだ。
「なんでアンタが......。」
ミシェルが顔を歪めて、祈りの姿勢を取った。
「祝福が......。」
しかしその先を聞くことは叶わなかった。死火根がミシェルの頭を締め上げていた。辺り一帯にジルの絶叫が響き渡る。ノヴァは腰を抜かして座り込んだ。死火根は、そのままミシェルの体を核へと持ち上げようとした。誰もがミシェルは吸収されてしまうと思った。
「切!断!」
遅れてやってきたトーチが、空中で死火根を切り離した。そのままトーチは、ワイヤーを外殻に打ち込んだ。死火根を頭に付けたままのミシェルは、そのまま落下していった。
「フェロ頼む!」
「任せな相棒!」
フェロがミシェルを空中で抱き留めた。そしてそのまま茫然と座り込んでいるノヴァと、炎獣に立ち向かおうとするジルも抱え上げる。ジルは体を捩りながら、炎獣に向かって絶叫した。
「離せ!私は、アイツを倒さなければいけない!ミシェルの仇を討たなければ!」
ジルはミシェルの腕の中で暴れた。そんなジルにフェロは鋭く注意する。
「炎獣を討つのは誰でも出来る。でもコイツのことはお前しかわかんないんだろ。」
ジルはハッとして、おとなしくなった。ようやく遮蔽物に囲まれた場所を見つけ出すと、フェロはそこに三人を置いた。ジルは恐る恐ると言った様子で、死火根を顔から取り除いた。ミシェルの顔は、ほとんど傷がなかった。しかし半分閉じている瞼は絶えず痙攣しており、口から泡を吹いていた。ミシェルは明らかに様子が正常でなかった。ジルは泣きながら口の泡を拭った。フェロは頭を垂れて動かないノヴァの様子を見て、奧の方でただ座っていたクレイを呼び付けた。再び炎獣の前に戻っていった。
トーチはドーム型の天井に空いた穴から、炎獣の内側に侵入した。遺跡の上部には、ホールのような広い場所を中心とし、その外側には小さな小部屋が取り囲んでいた。壁ではなくて柱で建物を支えているのだろう。建物全体に多くの吹き抜けがある。ホールの上部を見上げると、多くの根が壁に張り付き、繭のような形を作っていた。どうやら。トーチは迷わず、ワイヤーを使って核へと向かって行く。上昇しながら、建造物の内部を隈なく観察する。やはりトーチの考えは当たっていた。この炎獣は、旧時代の建造物を外殻に使っている。
(そうか......。棄てられた旧時代の建造物だって、炎獣からしたら外殻にできる廃棄物なんだ。)
ぐんぐんと核へ近づいていくトーチの隣に、ヒューズが並走する。
「はあ......。お前に救われたな。」
「そんなことないよ。......それよりもどうやって倒すか考えないと。」
トーチは核を見ながら考える。今動ける人間は、トーチとヒューズしかいない。二人だけで、繭のような根を取り除き、核を破壊しなければならない。問題なのは、根とトーチの武器のドリルは相性が悪いことだった。根はとても伸縮性と吸着性に優れている。通常ドリルは、固いものを掘削するために使われる機械だ。ドリルは固いからこそ削ることが出来る。それの力が、柔らかい根にどれぐらい通用するのかは未知数だった。
(いや......。それでもやるしかない。削れるまで回転するまでだ!)
トーチはドリルを数倍速く回転させた。そしてそのまま根に突きを繰り出した。根がブチブチという音を立ててちぎれていく。
「やった!」
「よしいいぞ!そのまま切り込め!」
不意に切断した根の先が動いた。そのまま根は、トーチとヒューズの体を締め上げた。トーチは腕のドリルを使って切断しようと試みた。しかしドリルは音を立てて爆発した。思わず顔を背け、反射で目を閉じた。トーチはすぐに目を開けると、ドリルを着けていた右腕が黒く変化していた。まるで燃えカスのように、黒ずんで硬化していた。
(ああ......。なんで忘れていたんだ......。炎は物を炭に変える。そして炎はいつか消えるんだ。)
僕らは命という炎を、体を蝋燭として燃やしていたんだ。トーチは腕を曲げようとしたが、うまく曲げられなかった。トーチは体の芯が冷えていくのを感じた。しかし呆けている訳にはいかなかった。このまま拘束されたままでは、逃げることも戦うことも出来ない。トーチはドリルの破片を無理やり黒ずんだ手で握り、根を切り裂いた。トーチを拘束していた根が、二つに二分される。破片が深く食い込んだようだ。手の平から、血が細く滴っている。
(まだ自分の腕は生きている......はずだ。)
トーチは根が暴れたことによって、外れた階段の手すりを武器に使うことに決めた。右腕が動かないため、左腕で握りこむ。トーチは再び核への攻撃を試みた。
(躊躇をするな......。全力を出すんだ。迷わず、悩まず、ただ攻撃を叩きこむんだ。)
トーチは切断した根が背後に迫る中、壁に張り付いた根を伝って核へと迫る。しかし核は依然として根に守られていた。トーチは考える。根は繊維状の組織を持つ。仮に根を布だと仮定しよう。完璧に織られた布は、どの方向からの力にも耐えることが出来る。しかし、穴が開いていた場合その限りではない。その穴から綻びは広がっていく。近づいて切断することが不可能ならば、遠くから穴を開けてしまえばいい。一つでも多くの突破口を作れば、きっとヒューズが繋いでくれる。トーチはヒューズの姿を探した。戦闘センスに優れた彼は、適度に根を排除しながらも、核の破壊を諦めていないようだった。トーチはあることに気付いた。根はトーチだけを執拗に追い回していた。ヒューズに対しては、根は核に近づけば追い払うが、離れてしまえば追ってこない。反対に、トーチのことは止まる暇がないほど追ってくる。
(僕だけを殺そうとしている......。いや違和感がある。きっと僕だけしか認知していないんだ。ヒューズはさっきから、純粋な刀での攻撃だけ繰り出している。だから炎を出していない。炎獣は耳もなければ目もないはずだ。だから熱源だけを追ってくる。)
なら何故トーチは追われているのだろう。トーチは自分の腕を見た。さっきから少量だが、血が滴り落ちている。不思議なことに、トーチの腕から落ちる血は、一瞬だけ炎を纏っているように見える。すぐにトーチはピンときた。きっとこの血を追ってきているのだろう。一瞬だけ発火する血液は、微弱ながら熱を持っているはずだ。
(これに賭けるしかない。)
トーチは、核に背を向けて走りだした。そしてそのまま、柱の間を縫うようにジグザグにワイヤーを使って移動する。そして近くを通りすぎた柱に、黒ずんだ右腕の掌を押し付けて走った。尋常じゃないほど痛い。それでも止まるわけにはいかなかった。トーチが擦り付けた血を目印にして、二つに分かれた根が柱を壊していく。それでもトーチは根に追いつかれてしまうような、遅い速度で走った。どうやら血液には鮮度があるようで、走り出したときに血をなすり付けた柱は壊されていない。トーチとしては、柱や壁に巻き付いた根を一本でも多く減らしたかった。そのためには、できるだけ多くの柱に倒れて貰わないと困る。突如としてドシンッという音が響き渡る。どうやら柱が切断されたことにより、柱に巻き付いていた根が核を支えることが出来なくなった。そのため、核が重さに耐えきれず落下したようだった。フォール内に中に埃が舞う。トーチはその瞬間をずっと待っていた。この旧時代の遺跡は、劣化がとても目立つ。遺跡のどの部分であっても、すでに衝撃に弱く、そして脆くなっているだろう。多くの粉塵が漂うこの場所に、着火源である炎を投げ込む。そうすれば爆発を引き起こせる。爆発の中に核を巻き込んでしまえば、きっと少なからず繭を破ることが出来るはずだ。
「ヒューーーーーズ!建物外に逃げろ!」
視界の端でヒューズが外へ出たのが見えた。自分も最大限核から離れる。そしてその場で、傷口の中に入ったままだった破片を抜き取ると、持っていた階段の手すりで野球のボールを打つように粉塵へと放った。血と炎を纏った破片はまっすぐ粉塵に突入する。そしてそのまま爆発した。
「よし!」
トーチとヒューズは核のもとへとんぼ返りした。見ると繭の一部が剥がれ落ちている。
「トーチ!よくやった。」
ヒューズは核にワイヤーを打ち込む。そしてそのまま「抜刀?」と膜を切り裂いた。ヒューズは勢いを殺さずに、今度は丸天井に向かってワイヤーを打ち込んだ。そのままワイヤーを巻き取る力を利用して、ヒューズは天井へと張り付いた。そしてそのまま核に向かって、再び天井を蹴った。ぐんぐんとむき出しになった核が迫ってくる。
(待て。何かがおかしい。)
核の透明な殻の中で、何かが蠢いている。正確に言えば、殻の中の炎が何かしらの形を取っている。明らかに何かを形成しようとして、炎の形を変えていた。ヒューズは胸騒ぎがして、進路を別の方向へと変えた。ヒューズの体が、核の上空を移動する。その瞬間、ヒューズは炎が人の胎児の形をしていることに気付いた。炎で出来た赤子が、殻の中で母体の中で守られているかのように横たわっている。ヒューズは、トーチが核に近づこうとしている様子を見た。
「トーチ!その核に近づくな!何か変だ!」
「え? 」
「普通の核じゃないんだ?見間違えじゃなれば、核の中の炎が人間の赤ん坊になっている?」
その瞬間、核の中に眠る赤子の口が開いた。廃墟である外殻の中に、赤ん坊の泣き声が響き渡る。徐々に赤ん坊の泣き声が、幼児に、少女に、そして女性へと変わっていった。その声は随分とミシェルの声に似ていた。赤子は突然ピタリと泣き止んだ。そして抑揚のない声でこう言った。
「ひ、ひ、ひ、火消にと、とぉ、って。み、水は、生命線、なのだ。」
その言葉を皮切りに、今までだらりと床に落ちていた根が、トーチに襲い掛かった。トーチは窓から外へと逃げ出した。空中へと飛び出したトーチは、体を捻って外殻にワイヤーを打ち込んだ。不意にトーチの体にガツンと衝撃が走った、衝撃の方向に体を向けると、水を入れるタンクに、根が突き刺さっている。そのままトーチは、突き刺さった根によって、隣の建物の壁に叩きつけられた。
トーチは誰かに体を揺さぶられたようだ。体がガクンガクンと横に揺れ、その拍子で目を覚ました。目を開けると、そこは随分とにぎやかな街角をバックに、綺麗な女の人が覗き込んでいた。
「あなた......。大丈夫? もしかして体調が悪いの? 」
トーチは突然のことで面食らった。トーチは思わず辺りを見回した。 自分は卒業試験を受けていたはずだ。こんな綺麗な街角で優雅にお茶を飲んでいたわけではなくて、瓦礫の山に埋もれながらも必死に炎獣と戦っていたはずだった。
(ここは一体どこだ? なぜ場所が変わっている。移動したのか? 卒業試験は一体どうなったんだ。仲間はどこに行った? )
そうだ、仲間だ。トーチは思い出した。あの場で戦っていた人間は、トーチとヒューズしかいなかった。もしもトーチがあの場を離れたとするならば、ヒューズであっても一人で炎獣を倒すことは無理だろう。それぐらい想定外な炎獣だった。ヒューズを倒したら、きっとクレイが必死に応急処置を施しているミシェルを狙うだろう。今、そんなことが起きてしまえば、きっとまともに戦えるのは、フェロとクレイだけだろう。ノヴァとジルは、ショックが大きすぎて戦うことなど出来ないはずだ。非常にまずい状態だった。一刻も早く戻らなければ。そう言って、トーチは駆け出そうとした。
「ねえ、待ってよ......。トーチ君。」
女の人はトーチににしな垂れかかる。そのままくねくねとトーチの体に絡み始めた。
「は、放して!誰か!助けて!」
「もう......照れないでよ。トーチ君の、エッチ。」
トーチは自分の中で何かが切れた。何がエッチだ。公衆の面前で甘い言葉と体で篭絡しようとする女の方が、はるかに破廉恥で非常識だ。トーチはありったけの声で叫んだ。
「胸を押し付けられても困りま!あなたは知らない人に無遠慮に纏わりつかれても、うれしいんですか?」
「もう、何言っているの?今日は待ちに待ったデートの日でしょ。やっとあなたお兄さんにバレずに連れ出せたのに。」
彼女は可愛く頬を膨らませた。周りの人は生暖かい目で見てくる。どうやら痴話喧嘩だと思われているらしい。こうなったら仕方ない。トーチは最終手段を取ることにした。
(いいか......。トーチ。集中するんだ。大多数に不快感を与える、フェロの真似をするんだ。)
トーチは勢いよく息を吸う。トーチが異常な行動を取ろうとしていることを察したのだろうか。突然彼女が耳元で囁いて来た。
「ここで私とデートし続けたら、あなたをもとの場所に返してあげるわ。女泣かせのトーチ君? 」
トーチは弾かれたように、顔を上げる。彼女は妖艶な微笑みを浮かべている。その笑みは、トーチを誘惑していると表現するよりも、トーチが戸惑っているのを可愛がっているような笑みに見えた。彼女の言葉からは、絶対的な自信を感じる。別の選択肢を容認するなんて微塵も思っていない癖に、わざとトーチに決断させようとしているのだ。まさしく支配者の風格があった。
「どうする? 現時点であなたはここのことを何も知らない。そうでしょ? 」
彼女は小首を傾げながら、上目遣いでトーチのことを見つめた。そしてトーチを茶化すかのように、コロコロと笑いながら、手を差し出してきた。トーチはしぶしぶ彼女の手を握る。すると彼女はするっと腕を絡め、トーチの体に密着した。彼女からもう逃がさないという意思を感じる。トーチは仕方なく、彼女とデートすることにした。
「初めはやっぱり演劇を見ようと思って。ほら、私たちはここであの作品を見たことがきっかけで出会ったでしょう。」
「出会ったも何も......。」
トーチは彼女のことを何も知らない。この街にも来たことがない。勿論演劇だって、全く身に覚えがない。全く知らない誰かの世界に、そっくりそのまま自分だけが誰かを押しのけて入ったみたいだった。
「もしかして忘れちゃったの? トーチ君ったらひどい~。」
トーチは苦笑した。苦笑でも何でもいいから口に出さないと、現状への文句が飛び出しそうになった。彼女はトーチを連れ立って、小さな芝居小屋に入っていった。芝居小屋には、50人ほどの座席があったが、トーチたち以外に全く人がいなかった。
「この演目、人気がないのかな......。人が全然いない。」
突然彼女がクスクスと笑いだした。そして彼女の雰囲気がサッと変わった。
「当たり前じゃない。これは私とあなたの話よ。他の誰かが......、いやあなたのお兄さんは例外として、知るはずがない物語よ。」
そう言うと、彼女はまたふわふわした話し方に戻った。どうやら彼女には、二面性があるらしい。頭が色恋に支配されているような少女の顔と、何もかもを高みから弄ぶ支配者のような女の顔を持っている。そしてどうやら女の方が、トーチにとって有益な情報を持っているようだ。
「どうやら本当に覚えていないのね。少しおさらいをしようかしら。」
彼女は舞台上に視線を移した。舞台の幕はまだ閉まっているが、彼女はじっと見つめながら話始めた。
「この物語は冒険譚なの。でもね、普通の冒険譚と違うのは、その冒険譚の終点がその世界での犯罪だったってことかしら。女と少年はそれなりに努力して、秘密の箱の中身を知ろうとした。でもそれはいけないことだった。それに女は箱の中身を解くことに、それほど熱心でもなかったの。......結果として二人は捕まってしまう。」
突然、劇場の後ろのドアが開いた。どやどやと警棒を持った治安部隊がなだれ込んでいる。そして何やら確認すると、隊長らしき人物が威厳の声を張り上げた。
「上演禁止!この演劇は「幼児保護法」に反する!人の心を乱し、平穏を破壊する有害な作品である!上演した者はもちろん、鑑賞した者も処罰に値する!......そこの男女二人をひっ捕らえよ!」
隊長の声に合わせて、治安部隊がトーチ達に迫っていく。トーチはどこかに逃げようと、咄嗟に周囲を見回したが、出口は今隊長が立っている一つしかない。トーチがモタモタしていると、隣の彼女がトーチの手を引いて走り始めた。そして一番舞台に近い客席の上に飛び乗ると、そのまま舞台に向かってジャンプした。隊長の苛立ったような怒号が背中を追ってくる。そしてその声は徐々に女性の悲鳴へと変わっていった。
(あの悲鳴だ......?誰かが殺されそうになっている......あの......。)
トーチの耳の奥で、ひどい耳鳴りが激しくなっていった。トーチは思わず頭を押さえた。彼女が「早く飛んで!」と手を差し伸べる。トーチは震える足に鞭を打って、ピンと張った緞帳に何とか飛び込んだ。そのまま彼女は緞帳をかき分けて舞台の中に入っていく。トーチも慌ててそれに習うと、舞台の中は、どこかの宴会会場になっていた。広い豪勢な宴会場に、仮面を付けた男女30人ぐらいが座っている。参加者は豪勢な料理と、上品な香りを称えたシャンパンを片手に、宴会を楽しんでいた。トーチは突然現れた宴会場に、暫く棒立ちになっていたが、すぐにあの戦いへ帰らないと、と思い直した。自分の隣を見ると、いつの間にか彼女の姿が消えている。トーチは宴会場の中で人を掻き分けながら、彼女の姿を探した。もう20分は人込みの中で揉まれていただろうか。当然宴会場が暗くなり、前の壇上に、何故か着飾った彼女が立っていた。彼女はスポットライトに照らされながら、光る青いAラインドレスを身にまとい、歌を歌い始めた。
(歌っている場合か!)
トーチは駆け出して、彼女を問いただそうとした。それを誰かに止められる。トーチはイラつきながら、後ろを振り返った。すると自分の肩を掴んだ恰幅の良いおじさんは、仮面から滴るほどの涙を流していた。トーチはぎょっとした。
「ええ、ええ。素晴らしい話なのですよ。全くいつ聞いても感動できます。こんなに心温まる歌は他にありますでしょうか。今までこの歌は長らく禁止されていました。しかし今夜聞けることが出来るなんて!
感極まったおじさんが、トーチの肩を抱いた。トーチは右肩に湿っぽい不快感を感じ、恐る恐る自分の右肩を見る。すると、トーチの肩はおじさんの涙でビショビショになっていた。
「は、はあ。」
「その薄い反応......もしやあなた様は今日が初めてですかな? 」
おじさんがずいっと顔を寄せてきた。トーチは、おじさんの涙でテカテカと光った顔から眼を背けた。
「ま、まあ。初めてと言えば初めてです。」
すると、おじさんが突然身もだえ始めた。何かがおじさんの曲線に触れたようで、おじさんは鼻息を荒くしながら、解説を始めた。
「全く仕方がありませんな。わたくしめがその有難さを解説いたしましょう。まずね。この歌は、恋に恋する女の歌なのです。恋した相手が好きなのではなくて、恋している自分が好きだという歌なのですな。噂によると、その女はすべてにおいて結果ではなく過程を重視したそうで。まぁとにかく、この歌は曲調こそ素晴らしいものの、歌詞としては一癖も二癖もあるような歌詞なのです。まあそこが味なのですが......。」
おじさんは壇上で歌う彼女のことを見た。彼女が体を動かすたびに、青いドレスがちかちかと輝く。月の表面のように光る部分が切り替わる。その度に違う顔を見せていた。まるで蝋燭の炎が、不規則に彼女を照らしているようだった。
「......。この場所で、この歌がまた聞けるようになるとは、思ってもいませんでした。......この場所は7年前のある事件によって封鎖された。そしてあらゆる芸術が禁止されるようになったのです。あの歌だってそうです。塵俗的な下品な歌だと、治安部隊に規制されていたのです。ああ......。何と悲しいことでしょう。あなただって聞きたかったはずです。なんと言ったって、あの歌はあなたのお母さまの歌なのですから。」
「僕の母の歌? どういうこと? 」
トーチはおじさんにさらに話しを聞こうと詰め寄った。その瞬間、入り口の当たりで悲鳴が上がる。そこには3,4mぐらいの四足歩行の炎獣が立っていた。宴会場の客が、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。トーチは咄嗟に、武器になりそうなものを探した。途中でトーチは信じられないものを目にした。倒れている仮面の男女の中に、ヒューズとクレイがいたのだ。トーチは二人のもとに駆け寄ると、二人の首に手を当てた。
(脈が......ない......。)
それでもトーチは二人のことを諦めたくなかった。二人を背負って持ち上げようとした。
「駄目よ。」
いつの間にかトーチの正面に、彼女が立っていた。彼女はトーチの体を包み込むと、トーチの耳元で囁いた。
「彼らを連れて行ったらあなたのお兄ちゃんにバレちゃうわ。......ねえ場所を変えましょう? 」
トーチは彼女の言い分に絶句した。暫く茫然としていたが、彼女が自分の手を握っているのを見て、ハッとした。そしてトーチは力任せに彼女の手を思いっきり叩き落した。
「いや......いかない?この二人は僕の友人なんだ?」
「いいえ、違うわ......。彼らは生きていないの。」
トーチは彼女に喰って掛った。トーチは元々不明瞭な彼女のことが、さらに分からなくなっていた。どうして仲間を助けたいという思いをわかってもらえないのか理解が出来ず、腹の底に怒りが溜まっていった。
「もう助ける術がないって言っているの? 」
「違う、そんなことを言いたい訳じゃないの......。」
トーチは苛立って彼女を押しのけようとした。彼女がその場から動くと、ある一人の人間と対峙することになった。その人は、髪が長くて、手足が小枝のようにガリガリだった。そしてそんな薄っぺらい腹から大量の出血をしながら、うなだれるようにして立っていた。
(フェロだ......。)
フェロはトーチの姿を見つけると、一歩、また一歩と近づいて来た。その度に口から血がこぼれる。とうとうトーチの目の前で潰れるように座り込んだ。
「お、お前のせいで......死んだんだ。」
トーチは自分の体温が急激に下がっていくのを感じた。恐れていたことが起こってしまった。大事な人を死なせてしまった。ひどく足が覚束ない。自分がきちんと立てているのかどうかでさえ、分からなくなってしまった。
「もっと......もっと、生きたかったのに......。お前が馬鹿な真似をするから......。お前の言葉を信じた俺様が馬鹿だった......。」
その言葉を聞いて、トーチの中の何かがスッと下がっていった。ひどくささくれ立った感情が、突然パッと消えてしまったような感覚だった。
「わかった。コイツは偽物だ。」
トーチはフェロに向かって踵を返した。彼女が驚いたような顔をする。
「よくわかったわね。」
「当たり前だ。フェロは火事と喧嘩が好きな派手好きだ。僕が変な案を出せば出すほど乗ってくるんだ。そんなフェロは馬鹿な案とか言うことは絶対に言わない。」
トーチは彼女をじっと見つめて懇願した。
「早く次の場所へ連れて行ってくれ。」
女はトーチの言葉に頷くと、指をバチンと鳴らした。すると何かの機械の電源が落ちたような大きな音が鳴った。そして辺りは暗闇の中に包まれた。
再び目を覚ますと、トーチはまた劇場の中に座っていた。今度はどうやら映画館のようだった。前方に大きなスクリーンが掛かっている。トーチがぼんやりとスクリーンを眺めていると、突然ブザーが鳴った。そしてフィルムが巻かれたリールが射映機の中で回転する音がした。そして鈍い音を立てて、スクリーンに映像が映った。画面いっぱいにトーチの祖父の顔が映る。
「トーチ?この穀潰しが、悠長に生活しているとは......。」
「映像を止めてほしい。見苦しくて聞きたくない。」
トーチはスクリーンに向かって吐き捨てるように言った。するといつの間にか隣に座っていた彼女が、両手を鳴らして辞めさせた。音を立てて射映機が止まる。それに合わせてスクリーン上の祖父の姿も消え去った。彼女の服装は、青いドレスから、落ち着いた色のワンピースに変わっていた。
「何となくだけど、もう分かったかしら。」
彼女はひじ掛けに肘をついて、トーチのことを流し目で見つめた。
「ここは僕の頭の中だ。そして何かを知ろうとするたびに、いつも妨害される。仲間の死体、祖父。これらは僕の嫌いなものだ。きっと治安部隊も僕が嫌いなものなのだろう。」
彼女は頷いた。そしてゆっくりと足を組んだ。
「正解。ここの記憶は、あなたにとってのトラウマで埋め尽くすことで、あなたに思い出させないようとさせているの。私はね、ある人から頼まれてここにやって来たの。結構無理矢理な方法を使って、あなたに会いに来たのよ。おかげであなたを混乱させちゃったわね。本当はもっとわかりやすく噛み砕いて教えたかったのに、そんなことを言っていられなくなってしまった。」
彼女はトーチの顔を見た。初めて見る表情だった。困っているような、こちらを哀れんでいるような、所々慈愛が滲みだしたかのような表情だった。
「ここから先は、痛みの記憶よ。......それでも知りたいの?」
トーチは頷いた。知りたくない訳がない。きっとこれがヒューズの言っていた「然るべき時」なのだ。今日この日、トーチは過去と向き合う。それはきっと定められた運命だったんだ。再びブザーが鳴った。そしてフィルムが巻かれたリールが射映機の中で回転する音がした。そして鈍い音を立てて、スクリーンに映像が映った。
その映画は、ある事件をめぐるドキュメンタリー映画。王様の甲冑が、解体されるという事件が起きた。犯人は鍛冶屋の娘。鍛冶屋の娘は中を見たかったといった。でも中身はなんだか燃えているだけで対して面白くないとふてくされた。その時女のそばには息子もいた。息子は泣きじゃくって自分のせいだ。母さんを殺さないでくれと訴えたが、全く反省していない女を見て、女に無理やり言わされているのだと確信する。そして女は極秘裁判にかけられる。弁護士無しの暗い裁判室での裁判だった。裁判の途中で、女の父親が証言台に登った。カメラが父親に焦点を絞る。厳つく鋭い目つきの大柄な男性だった。しかしその男は憔悴しているようで、覇気がなかった。
「こいつは昔からおかしかった。アイツはやらせたらなんでも出来た。でもそれは本物じゃなない。初戦二番手、小手先だけ。一番にはなれない。だからあいつはおかしなことに夢中になった。虫、生物、歴史、絵画、音楽、何でもやった。そうやって沢山の分野に手を出しては、何でも知っている風を装った。そんな自分に酔っていたのです。間違っているって指摘しても聞きやしない。特に歴史の時がひどかった。昔の時代が存在するとかなんとか言いやがったのです。そんなことあるはずない、と一蹴しました。だけどアイツは真相を探そうとした。だから家業の鍛冶を手伝わせて、幼馴染の男と結婚させました。ついでに曾祖父が分けた、女からしたら叔祖父ですね。その工房を継がせたのです。あの男の話だけは聞きましたからね。私は女に鍛冶の一部を委託しました。定期的に依頼分が送られてくるので、それでおかしなことをしていないか確認していました。やがて二人の息子を生んで、奇行は鳴りを潜めた。ようやく私たちも安心したのです。あの女のやることなすこと全て人々の平穏を破壊するものです。私達の生活に、世界の正誤は関係ありません。そんなことを知らずとも、今まで平穏に生きてきました。慎ましくとも、確かに幸せが得られた方が何百倍もありがたい。あの女の言い分に従うなんて百害あって一利なしです。だから家族が生まれたことによって、あの女は楔を打たれた。孫と婿には頭が上がらなかった。しかし婿が死んですべてが一変しました。女は徐々に狂って言ったのです。次男を洗脳し、私の工房で甲冑を解体することをひそかに狙っていた。依頼分は孫に作らせ、自分は別で武器を鋳造していた。勿論依頼分の質は変化していました。しかし私たちも自分の娘相手に鬼に成れんかったのです。婿が死んだばかりの娘に、質がわるいだの、集中できとらんなどと、鞭打つことが出来なかった。そして女は作り上げたのです。幻の白刀です。......そう、あのやけに反った、片刃の剣です。世に出ている剣とは全く違います。おそらく自分で作ったのでしょう。......性懲りもなく、旧時代の剣を参考にしたと言っていますが。......あの女は反省する気など毛頭ありません。そもそも人とは違うのです。人の営みがどれほど大事なのか、それが全くわかってない。自分の興味関心だけが満たせればそれでよいのです。どんな罰を与えても、あの女は良くなんてならない。悪い鉄くずからは、いくら鍛えようにも名刀は生まれない。そういうものなのです。もう手が付けられないのです。」
場面が転換した。男の服が代わり、被告人席に座った女の髪が伸びている。初めの映像からそこそこの月日がたっているように見えた。
「ああ......。ありがとうございます。きっとあの女も喜ぶことでしょう。炎主様に祝福されながら、その御恩に背いて生きているという事実はきっとあの女を苦しめたことでしょう。まともになどはなから成れぬあの女は、もはや死んだ方が幸せだったでしょう。寛大なご決断感謝します。......わかりました。刀の方は、我々が責任をもって処分いたしましょう。ですが、あの女の作品となれば、よからぬことが起こるやもしれません。破壊しきれぬ可能性もございます。......ああ、そんな、あのような女を生み出してしまった我らにそんなお言葉を下さるなんて......。願ってもないことでございます。これからも精神誠意、王の鍛冶屋としてお勤め致します。炎のご加護がありますように」
そしてまた場面が転換した。多くの軍人に囲まれながら、女が処刑される。女は最後まで叫びも泣きもしなかった。ただ抜け殻のように、じっと磔にされていた。暫くの間、カメラは処刑場と女の顔を映していたが、牢の中へカメラが移った。牢の中で泣き叫ぶ子供が映っている。子供の処遇を決めかねているのだろう、見張りの兵士が言い合いをしている。ただ牢の壁だけを映し続ける映像が続いた後に、突如として牢の天井が吹き飛んだ。そして青い炎を灯した男が、牢を破壊しながら侵入した。武器を構える兵士を一撃で仕留めると、子供のもとに歩み寄った。男は子供を抱きしめた。男の衣服が子供の涙でしっとりと濡れていく。子供は身を削って、涙を流しているように見えた。身を引き裂くような悲痛な声が、牢の中で反響する。男は暫く泣き叫んでいる子供を抱いていた。そして何かを決心したらしい。男の目の色が変わった。自分のせいで母が死んだと嘆く子供を宥めると、男は子供にやさしく聞いた。
「辛かっただろう。苦しかっただろう。......もうすべて忘れてしまいなさい......。」
子供は涙をぬぐいながら小さく頷いた。男は上着を脱いで、牢の床に敷いた。そしてその上に子供を横たえると、子守歌を歌い始めた。徐々に嗚咽が細くなっていき、ついには引くついた呼吸音だけになっていった。子供の瞼が、開閉を繰り返している。男はそんな子供の目を、左の手で塞いだ。そして右手の手袋を、口を使って器用に脱いだ。男の右手は、フェロの髪のように燃え盛っていた。手が燃えているのではなく、炎が手の形を取っているようだった。そして男は子供の胸をサッと撫でた。そしてアタリを付けたかと思うと、子供の胸に男は腕を突っ込んだ。子供の体が不自然に跳ね上がり、額に脂汗が滲む。男はゆっくりと子供の炎に、自分の炎を混ぜた。
「お前はこの先何も知ってはならない......。知ることは、失うこと。知ることは災いを招くこと。知ることでお前は再び誰かを不幸にしてしまう。知らないという選択はお前を守る選択だ......。お前の命を、心を、周りを守る。お前も望んでいないはずだ。不本意に誰かを失うことを......。」
男のしっとりとした声が響き渡る。子供の体のわななきが徐々にひどくなっていく。
「お前はここまでのすべてのことを、忘れなくてはならない。忘れることは。捨てること。やんだ記憶も、罪の意識もすべてなかったことに出来る。もうお前は傷付かずに済む......。お前のせいで人が死んだことを、思い出さずに済む。」
男は左の腕で頭を支えながら、右の手で炎を弄り続けた。とうとう子供は、周りを半ば蹴るかのようにして暴れ続けた。そんな体を抱きしめることによって、男は子供の体を固定する。子供にいくら蹴られても、男は笑いながら抱いていた。男の白髪と、子供の黒髪が混ざり合う。
「トーチ。もうお前は好奇心に振り回されることはないのだ。お前はこの先、普通に生きるのだ。そして、なにも知らないまま、無垢なままに死ぬのだ。......秘密を秘密のままにするのだ。」
最後に子供の体が大きく痙攣した。体をくの字に曲げたかと思うと、2,3回腹を上下させたのちに、ドサリと床に落ちた。男は額に滲んだ汗を拭う。そして子供の体を恭しく抱きしめた。
「大丈夫だよ。君の兄さんが、この世のすべてからお前を守って見せる。お前は弟として、安全な温かい場所で待ってくれればいい。兄さんはそれ以上なにも望まないよ。」
男は子供の胸に、頬を寄せた。男は目を伏せて、子供の鼓動を確かめているようだった。そして男は目をつぶると、子供の胸に頬ずりした。
「この世界はひどく醜く、悲しい。真相を知って、君の澄んだ心が穢れてしまう前に、私が新天地へと連れて行ってあげよう。」
男はひどく柔和な、優しげな微笑みを浮かべた。何かの啓示を受けたかのようなそんな表情だった。彼はひどく緩慢な動きで、子供の体を横たえた。そこで映像は終わる。トーチは映像が終わった後も、魂を抜かれたかのようにぼんやりとスクリーンを眺めていた。そんなトーチの肩を隣の彼女が揺すった。
「トーチ君。ショックを受けている所で申し訳ないのだけど、少し見てほしいものがあるの。これは私が預かった、あなたへの贈り物よ。」
トーチはひどくゆっくりと彼女の方を見た。何故だか体が上手く動かなかったからだ。
「誰から?」
「6歳のあなたから。......ついでに言うと、私にあなたに会って、放してほしいと依頼をしてきたのは彼なの。」
彼女は、トーチを見つめた。しかしその視線はトーチではない、どこか遠くを見ていた。
「そろそろ僕を救い出してほしい、そう言っていたわ。あの子、古い記憶の中に封じ込められているの。このままだといつか消えてしまうから、迎えに来てほしいって。」
トーチはだらりと項垂れた。どうやって思い出せばいいのか、さっぱりわからなかった。そんな様子を見て、彼女は少しの間思案した。そして指を鳴らす。
「トラウマも所詮は記憶の一部、過去の残滓よ。よく目を凝らしなさい。過去を懐古するのをせき止めている、トラウマばかりに目を囚われないで。記憶とは、一本の長い道よ。トラウマと同じ直線上に、あなたの原点の記憶が眠っている。それがあなたの本能で、あなたの心を一番燃やす情熱よ。」
とたんにトーチは思い出した。自分は昔、炎獣に襲われたことがあった。一人だけ転んでしまって、逃げ遅れてしまった。勿論炎獣はそんなトーチを見逃さなかった。尻もちをついたトーチの上に、幼いトーチよりも何倍も大きい炎獣が圧し掛かった。トーチの体は、炎獣の体に覆い被さられた。その時、トーチはたまたま炎獣の腹を見た。その炎獣の外殻は、背中は壊れていなかったが、腹には所々穴が開いていた。穴を隠すために、穴が開いている方の面を腹に見立てていたのだろう。そんな腹に開いた隙間から、トーチは初めて炎獣の核を見たのである。その時トーチは興奮した。核のことをとても美しいものだと認識してしまった。トーチは何かに憑依されたかのように、核をじっと見続けた。トーチの中にある生物的本能が、どこかで早く逃げろと警鐘を鳴らす。だけどトーチは逃げることが出来なかった。死ぬ恐怖より、炎の美しさに感動する心の方が上回った。世界はこんな美しいもので溢れているのだと泣きたくなった。
何故炎獣は燃えているのか。
何故核を持っているのか。
何故こんなに美しいのか。
全部知りたい。手に入れたい。炎獣のすべてを暴きたい。トーチはこの美しい謎だけを考えて、ずっと考えていたいと思った。一方で、今すぐにでも解き明かして、脳が震えるぐらいの歓喜に酔いしれたいとも思った。脳に全身の血液がかき集められる。焼き切れそうな勢いで頭の中に沢山の疑問が生まれる。トーチの鼻から、タラリと鼻血が垂れた。トーチは自分が今にも死にそうだというのに、恐怖とは対極の悦びを得ていた。トーチはわずか6歳という年齢で、興奮の絶頂を味わった。その後トーチは、たまたま通りがかった兄に助けられた。兄からしたら、炎獣の下で無抵抗に横たわっていたように見えたらしい。口酸っぱく叱られてしまった。そこからトーチは炎獣に興味を持った。興奮のままに、トーチは自分の考えを母に打ち明けた。母は目を大きく見開いた。そして徐々に母の瞳に光が戻る。トーチは、母が久しぶりに生き生きとした姿を見せてくれたことが嬉しかった。母は父が死んでから永らく元気がなかった。そんな母が元気になったのだ。謎を解き明かすことは、きっといいことに違いない。浮かれるトーチに対して、母は優しく窘めた。秘密を暴くことは、そんなに簡単なことではない。母はとても冷静に説明した。その時母は、トランプを使って秘密を暴くことはどういうことなのかを語った。そう、いつも見るあの夢は、この時の再現だったのだ。最後に母は、トーチの頭を撫でながらこう言った。
「きっとたくさんの苦労をすると思うの。だけどその心を持ち続けてね。挫けそうになったら、自分の原点を思い出して。自分の心に火が付いた理由を思い浮かべるの、そうしたらきっと、ムクムク力が湧いてくるはずよ。......大丈夫。あなたのその炎は私よりも何倍もきれいだわ。私は謎が好きなんじゃなくて、謎を追っている自分が好きなの。でもあなたはただ秘密が好きなのだから......ふふ、それってもうね? いやなんでもないわ。」
トーチは思わず、隣に座っていた彼女を見る。彼女―母は恥ずかしそうに笑った。
「いやよ。そんなに見ないで頂戴。」
「母さん?」
母はトーチの手を握った。母の低い体温が、じんわりとトーチの手を温める。
「軽蔑したでしょう。私は、あなたのお兄ちゃんに気付かれないように、無理してここに来た......いいえ、あなたに思い出させに来たの。私はあなたの中に残る母の面影。陽炎みたいなものよ。お兄ちゃんが、あなたの体に細工した所を見たでしょう。お兄ちゃんは、あなたのトラウマを使って、あなたが思い出さないようにしていたのよ。水を板でせき止めるようにね。トラウマに邪魔されないようにするには、すべてがありのままであなたの前に現れるしかなかったの。......私のありのままの姿。母らしくない姿よ。女の顔か、子供のように追い続ける顔しか、私は持っていないのよ。」
「母さん......。僕が気になるんだ、なんて言ったから。」
「あなたのせいじゃないわ。私、後悔なんてしてないのよ。謎を追ったおかげで、あなたと色んなことが出来た。あなたの色んな顔を知ったわ。知れば知るほど私に似ている癖に、どこか変な所であの人に似ている。謎を解くふりをして、私はあなたのことを見ていたのよ。あなたの中にあの人の影を見つけるたびに嬉しくなった。優しい所、人の話をきちんと聞いてくれるところ、流されやすいところ。......いっぱいあるわね。」
母は自分の髪を撫でつけた。髪の一房を自分の耳に掛ける。
「でも、知れば知るほど虚しくなった。もうあの人はいないんだって。私は片割れを失ったんだって。秘密に情熱を燃やしながら、私は死ぬための準備をしていた。だって、恥ずかしいじゃない。謎に生きた女が、愛を失って死ぬなんて。だからこの謎に命をあげようと思った。謎を解きながら、ずっと思っていた。早く解いて死にたい。永遠に解けなくて死にたくない。どっちの気持ちも同じぐらい本物だった。」
母は実に穏やかにほほ笑んだ。彼女の言葉は嘘でも何でもない、本当にこの人は死にたいから死んだんだとそう思った。
「私の死は、きっと自分が望んだから起こったことなの。それが私の欲だった。結局私は、私が好きだったの。わがままだったの。......そしてこの言葉は死んだから言えるのでしょうね。」
「その点あなたは純粋だわ。自分を愛するために、謎に向き合う私と違って、あなたは世界そのものを愛している。愛しているから、謎が気になるのよ。あなたは生のエネルギーで生きている。だからその情熱は、私よりも強い。きっと誰にも穢されることはない。......ああ、あなたの炎が消える前に、こうして出会えてよかった。」
映画館の中で明かりがついた。トーチの隣に座っていた母が、椅子から立った。そしてゆっくりと劇場の外に出ていこうとした。
「待って、母さん?どこに行くの!」
母は振り返った。彼女は静かに言った。
「そろそろお暇するわ。あまり私がここで長居をすると、あなたにとって良くないのよ。」
そう言って、彼女はトーチに背を向けた。トーチは慌てて彼女の袖をつかんで引き留める。
「一つだけ教えて。......なんでさっき誤魔化したの。本当は最後になんて言おうとしたの?」
母は意表を突かれた顔をした。そして、少し考えてこう言った。
「ん......。あなた何歳になったの?」
トーチは早口で言った。何とかして彼女を引き留めておきたかった。
「15歳。もうすぐ16だ。」
彼女はにっこりと笑う。瞳にいたずらっ子のような、こちらを揶揄う色が滲んだ。
「ふふ......。なら大丈夫かしら。」
母はトーチの額と自分の額をぴったりと合わせた。母とトーチの髪が混じる。母の髪は白。トーチは黒だった。二つが溶け合って、どちらの色も濁っていく。
「......大丈夫。あなたのその炎は私よりも何倍もきれいだわ。私は謎が好きなんじゃなくて、謎を追っている自分が好きなの。でもあなたはただ秘密が好きなんだから......ふふ、それってもはや、世界の真理を見つめることが、あなたの性癖じゃない? ......あなた、まるで恋しているみたいよ。」
トーチはぽかんと口を開けた。この人はなんて言った? 性癖だって? 驚いていると、母はスルリと出口の近くに立っていた。そのまま母は扉を開ける。扉の先はまぶしい光で溢れていた。トーチは思わず目を閉じる。途端に自分の体が、急激に現実へと引き戻されていった。
「そろそろ起きなさい。あなたの大事なお友達が、あなたの帰りを待っているわよ。」
最後に母の声を聴いた。
「ああ......。相棒。こんなに右腕がシワシワの真っ黒けになっちゃって......。これじゃ腕じゃなくて炭だよ。」
トーチはうっすらと瞼を開けた。どこかでフェロの声がする。
「相棒......。なあ、もしかしてこのまま死んじゃうのか? このまま動かなくなっていくのか。」
ぼやけた視界に、フェロが右腕を握っているのが見えた。木炭みたいな右腕の、親指や人差し指を勝手に曲げたり伸ばしたりしている。
「この指......まずいし、生きてる味がしない。相棒......。はあ......。相棒の炎が一番きれいだったのに。一番炎みたいな命だったのに。......初めて俺様の話をきちんと聞いてくれたのに。......このまま死んじゃうのか? 」
トーチは返事をしようとして、おもむろに口を開けた。しかし声は出なかった。そのかわりにカラカラに乾いた咳と痰が出た。トーチの咳を聞いて、フェロが飛び上がった。そのまま自分の額を胸に押し当てた。
「まさかまさか......生きてる?相棒が生きてる?」
トーチは再びゴホっと息を吐いた。そのまま右腕でゆっくり体を起こす。木炭のようになった腕からは、パラパラと粉末状の炭が落ちた。
「最初から......死んでないって。」
「あ、相棒?起きない方がきっといいぜ。俺様詳しいんだ。その腕、絶対異常だよ!」
「そんなの......見たら......誰でもわかる......。」
トーチは座りながら、猫背になった。頭がフラフラする。まるで鈍器で殴られたかのような痛みが、ジクジクと頭を蝕んでいた。トーチは左手と、両足を動かす。右手以外は問題なく動いた。トーチは自分の胸に手を当てた。トーチの心臓は問題なく動いている。トーチは自分がこんなにも死に掛けなのに、何故だかひどく興奮しているのを感じた。今まで一番視界がクリアで、体と心が隙間なく噛み合ったようだった。以前は自分の体が、どこかちぐはぐで借り物のようだった。しかし今は、きちんと自分の体で、自分を支えているのだという感覚がある。きっとこれが自分のありのままの姿なんだ。腐っていた自分に、6歳の自分が火を付けた。そして自分の命を、自分の情熱や興奮に捧げようとしている。こんな無鉄砲な生き方が、きっと自分らしい姿なんだ。トーチには一つの確信があった。今の自分はきっと誰にも止められない。今もトーチは、痛みも、悲しみも、トラウマも、炎獣でさえも止められない。ただ行きたい方向に突き進んでいく、そんな溢れんばかりのエネルギーがあった。
「相棒......。お願いを聞いてくれるかな。」
「なに? なんでも言ってよ。」
トーチは自分の心臓に当てた手を、ぐしゃりと握り占めた。
「僕はまだ死ねない......。いや、死んでいる場合じゃないんだ。僕は世界のすべてを知りたい。手に入れたい。暴きたい!もう我慢できないんだ。もう止まれない。僕の興奮が、謎を解けって喚いているんだ。僕の理性は興奮に負けた!しょうがないだろう。だって世界は、こんなにも美しい!それなのに知らないことだらけなんだ!」
トーチはフェロの顔を真剣に見つめた。今のトーチに迷いも、自信のなさもなかった。ただ単純に全身が興奮で麻痺していた。そんなトーチの姿を見て、フェロはゴクリと唾を飲んだ。フェロの目には、相棒の炎の色が、刻一刻と変化している様子が見えた。血のような赤から、空のような青色へと変化していっている。相棒はたった今、完全燃焼しようとしているんだ。ただ一点の綻びもなく、一つの目的に向かって体と心が命を燃やそうとしている。
「相棒、僕に賭けてくれ。」
トーチが自分の胸をドンっと握った。その衝撃に呼応するように、炎がひと際大きく燃え上がる。
「絶対に後悔させない。」
トーチがフェロに顔を近づけた。フェロは思わず頬を染めた。なんて熱い炎なんだ。なんて純度の高い情熱なんだ。見ているこっちが火傷しそうな、苛烈な炎が揺らめいていた。それはフェロが大好きな、甘美なスリルの色をしていた。
「僕に、炎を宿せ!」
フェロは恍惚とした表情で頷いた。断るなんて考えられなかった。
「いいぜ、お前の右手に宿ってやる。」
一方その頃、ヒューズとクレイは炎獣に対して、ひたすら防戦を繰り返していた。ヒューズは、トーチが水のタンクを破壊されたのを、その目でしっかりと見ていた。タンクに攻撃が入ったのは、決して偶然じゃない。根はあきらかに水を狙っていた。ヒューズはひとまず炎獣から距離を取り、クレイ達と合流した。ヒューズはクレイに向かって叫んだ。
「クレイ!気を付けろ!この炎獣は水のタンクを狙ってくる!それを破壊すれば、俺たちが戦えないってわかっているんだ!」
「一体どういうこと! 炎獣には、知能なんてないはずだ。」
ヒューズはゴクリと唾を飲んだ。一呼吸置いて、「ミシェルの脳を吸ったのかもしれない。」と言った。ジルが勢いよくヒューズの顔を見た。奥の方で項垂れたノヴァの体がピクリと動く。
「信じられないことだが、核が言葉を発した。......ミシェルの声で、カース先生の真似をしていた。」
ジルが顔を歪めた。目から大粒の涙が零れ落ちる。
「そんな......。」
ヒューズはそんなジルから目を逸らした。
「ともかく、あの炎獣を倒すしか道はない。クレイ、トーチとフェロはどうした。」
クレイは瓦礫の一角を指さした。
「壁に叩きつけられたトーチ君を、とりあえず身を隠せるあの場所に横たえておいた。その時、脈を確認したけど、生きてはいたよ。ただいつ目が覚めるのかはわからない。だから僕はトーチ君のことは、フェロ君に任せてきた。」
ヒューズとクレイは互いに見つめ合った。
「ヒューズ。やるよ。僕たちに掛かれば、こんなの屁でもないさ。」
ヒューズは頷く。
「ワンツーで一気に畳みかけるぞ。」
二人は同時に炎獣にワイヤーを打ち込み、地面を蹴った。クレイが前、ヒューズが後ろの位置を保ちながら、炎獣に迫っていく。炎獣はそんな二人に向かって沢山の根を伸ばす。根を切断したのは悪手だったようだ。空中で身を捩りながら、根を避けていく。クレイは迫りくる根を、器用に剣で叩き落していく。しかし何本か取り逃がしてしまう。クレイの後ろに続いていた、ヒューズに向かって複数の根が接近した。
「烈火六連......。」
ヒューズは空中で刀を構えた。頭の中で太刀筋を考える。
(今必要なのは、多数の根を、一度に一刀両断する一手だ。)
ヒューズは、迫りくる根を観察する。根は不規則に動きながら、ヒューズに向かってくる。ヒューズはその根の一つに飛び乗ると、根の上を破竹の勢いで滑り降りた。そしてそのまま炎獣の外殻の内側へと滑り込む。
(あった。あれが根の根本か。)
「切り裂き!」
ヒューズは根元から根を切断した。根元から離れた根が、紙テープのようにだらりと床に落ちていった。背後でクレイがヒューズに呼びかけた。
「やった?」
「いや、何本か逃した。」
クレイはヒューズの言葉を聞いて、あたりを見回した。クレイよりもはるかに低い位置で、根が何かに向かって伸びている。そこはミシェルが倒れている場所だった。
(しまった。あの上空ばかりに気を取られていた。このままじゃ、ミシェルさんは......。)
クレイは巻き取られるワイヤーに身を任せ、炎獣の外殻に張り付いた。そして再びミシェル達がいる場所へとワイヤーを打ち込み、蹴伸びの要領で勢いよく地面に向かった。クレイと根がミシェル達に向かって、猛烈な勢いで接近する。
(早く、早く!どうして僕のコンベックスは、ワイヤーを早く巻き取ってくれないんだ!)
コンベックスは、電力と中のゼンマイばねを利用することでワイヤーを巻き取る。クレイのコンベックスは、火花を散らしながらワイヤーを巻き取っていた。要するに、もうこれ以上の速度は出せないのだった。クレイはジルとノヴァに向かって舌を噛むのを恐れずに叫んだ。
「逃げて!」
ジルとノヴァがクレイの方を見上げた。クレイをはるかにリードして、自分たちに接近する根の存在にも気が付いた。ジルとノヴァは、慌ててミシェルを抱えた。そしてノロノロとその場を離れようとする。しかし根の移動速度の方が、彼女らの移動速度を上回っていた。どんどん根は伸びていき、そのままだと串刺しにされると、誰もが思った。
「切!断!」
「トーチ君!」
突然横から滑り込んだトーチが根を切断した。クレイは思わずトーチの姿をまじまじと見つめた。トーチはだらだらと至る所から出血をしていた。そしてその血液は、青い炎を出して燃えている。おかげで彼全体が発光しているようだった。彼は黒ずんだ右手で、鋭い瓦礫に断片を持っていた。どうやらあの断片で切り裂いたらしい。トーチの腕は、まともに動かせないだろうと推測できるほど、ひどい怪我を負っていた。それなのに彼は、右手で瓦礫を握りしめている。さらによく見ると、彼の背中に、見覚えのある赤髪が見えた。トーチの背中には、何故かフェロの体がしっかりと縛り付けられていた。まさに満身創痍な姿で、彼はミシェル達を助けに来たのだった。クレイはそんなトーチを見て、茫然とした。その傷だらけの姿にではない。彼が頬を染めながら、恍惚としたしまりのない表情を浮かべていたからであった。
(わ、笑っている……。)
トーチは鼻の孔を膨らませながら、その興奮を隠す素振りも見せなかった。今の彼には普段のおとなしさの影もない。彼の顔から、触れたら飛び火しそうなギラギラとした欲望が透けて見えた。ヒューズはゴクリと唾を飲んだ。その場で、トーチだけが異質だった。彼一人だけが、死に対しての焦りも恐怖も抱いていなかった。ただ彼は欲望というなの生存本能が燃え上がっていた。トーチが口に流れ落ちてきた、鼻血をペロリと舐めた。そしてトーチは、ノヴァに向かってゆっくりと口を開いた。
「ノヴァ......。お願いだ。君の力が必要なんだ。」
ノヴァは思わず顔を背けた。無意識に下唇を強く噛んでしまう。
「私なんていても、意味ないわよ。あれだけ暴れたくせに、最後は助けられて......。」
ノヴァは肩を震わした。自分がとても情けなかった。抑えようとしても、自分の目から涙がぽたぽたと落ちていった。
「あんだけ、勝ち負けに拘ったくせに......。この様なんて。結局私は敗者なんだ......。」
「敗者なんていない。」
「え? 」
トーチは膝を折って、ノヴァと目線を合わせた。トーチの炎のようなきらめきを宿した瞳の中に、汚い顔をしたノヴァが映る。
「人生に勝敗なんてない。それはどこかの勝負を大袈裟に捉えて、人生の勝負だと勘違いしているだけだ。」
トーチはノヴァの手を強く握る。トーチの熱い体温が、ノヴァの体に写っていく。蝋燭から?燭に火が映っていくように、ノヴァはトーチから何かしらのエネルギーを受け取った。
「それに、勝ってたって、負けてたって、どうだっていいだろう。」
トーチはスクっと立ち上がると、空を背負って両手を広げた。そしてトーチはノヴァに向かって満面の笑みを浮かべた。
「世界はこんなにも!美しい謎ばかりだ!」
ノヴァはトーチの腕を握り返す。ノヴァは何かを言おうと思ったが、喉が小さく動いただけだった。
「いいわ。......やってやるわよ。アンタにはどうせ、やりたいことがあるんでしょう。私が囮になって引き付ける。」
「待ってそれじゃだめだ。一人でも囮に消費するのが惜しい。」
「何をするつもり......?」
トーチは両手を平行に立てた。そしてそこを壁に見立てる。
「あの外殻は、縦と横の奥行がバラバラなんだ。だから壁から壁までの距離は、横より縦の方が長い。炎獣は、今すぐにでも崩壊しそうな床に接触しないために、壁や柱に根を巻き付けていたんだ。」
「さっさと結論を話して。」
「今、床と横方向の壁を壊せば、核は重みで落下していく。いくつか崩壊してない床があったとしても、落下時の衝撃で破壊できる。......核に近寄れないから、叩きつけて割るんだ。」
ノヴァは頷いて了承した。そしてすぐ近くに着地したクレイに、全てを炎獣の中にいるヒューズに話すよう伝えた。そしてすぐさまトーチとノヴァもクレイの後を追った。炎獣の外殻に入ると、すでにヒューズとクレイが身を潜めていた。四人の男達に向かって、ノヴァが再度作戦を確認した。
「いい。十分後に作戦を開始するわよ。眼鏡のアンタ―ヒューズと、眼鏡じゃないアンタ―クレイが壁を壊しなさい。トーチ。アンタは床を壊すのよ。この中で一番頑丈なのは、私。だから私が核に接近して、地上へと叩き落す。」
ノヴァは近くに落ちていた瓦礫を取ると、灰色のポニーテールを根元から切断した。そして切り取った髪を、くるんと団子にした。ノヴァは三人のもの言いたげな視線に気付いたようだ。少しムッとした表情をする。
「なによ......。ただ留めを指すんだったら、出来るだけ根をおびき寄せた方がいいんじゃないかって思っただけ......炎獣は熱にはもちろん反応するわ。でも一番反応するのは、生物が燃えているときの炎よ。」
トーチは複雑な気持ちで髪を見つめた。母も叔母も髪は女の命だと言っていたからだ。
「せっかく綺麗に伸ばしていたのに......。」
ノヴァは鼻で笑った。そして毛先が毛羽立った短髪を手櫛で整える。
「王の牙は囮とかに何かと使えるから、髪を伸ばす風習があったの。それに習って伸ばしてただけ。だからこうなることは、むしろ本望なのよ。」
ノヴァは自分の髪の毛をじっと見つめた。今まで自分にしっぽのようについて回っていた、自分の髪が手元にある。それはなんだか感慨深い光景だった。
「......それにもう、実家と競わないって決めたの。だから最後に、用無しになった髪の毛に有終の美を飾らせてあげようと思って。」
ヒューズが手元の時計を見た。
「おい、そろそろ十分立つぞ。」
再度四人は頷き合うと、それぞれの所定の位置に着いた。ノヴァはホールの中央から、外に向かって髪の束を投げた。灰色の髪の毛が、まるで凧のように見えた。ノヴァは指を指して、髪に狙いを定めた。
「炎獣君。アンタに私の過去を全部あげる。......たっぷり味わい!」
空中で髪の束に、ぼっと火が付いた。根がビクンと痙攣すると、燃えている髪に向かって伸びていく。その様子を見て、ノヴァは叫んだ。
「今よ!」
その言葉を皮切りに、四人は作戦を開始する。まずヒヒューズとクレイが横の壁を吹き飛ばした。次にトーチが、そこらへんに落ちていた大きな瓦礫を持ち上げると、すでに罅が入り、脆くなっている所に叩きこんだ。これはトーチの右腕に、炎の塊となったフェロが宿っているからこそできた芸当だった。フェロ炎が、壊れたトーチの右手を動かして、同時に瓦礫にも乗り移ることで、トーチの右手と瓦礫を接着したのだった。スーツが重さを肩代わりしているとは言え、法外な重さの物を持てば、当然腕は痛み発する。しかし焼き焦げたトーチの腕はもう痛覚を伝えてくれるほど正常ではなかった。だからトーチは躊躇いもなく、右腕を叩きこんだ。ビシィっと床の罅が広がり、音を立てて穴が出来ていく。それと同時に、トーチの右腕からも同じような音がなる。トーチは腕を庇うことなく、ノヴァに向かって叫んだ。
「ノヴァ!頼む!」
ノヴァは丸天井を蹴り、核へと接近する。途中で回転し体の向きを変える。ノヴァは空中でハンマーを振りかぶると、迷わず核に叩きこんだ。核は壊れなかったが、核が反発したハンマーの衝撃が、全部床へと回っていった。そのまま床に大穴が開く。核は奈落の底へと落ちていった。ノヴァがワイヤーを使って、丸天井へと戻った。
「やったか? 」
ヒューズの声に押されて、トーチは自分も落ちないようにしながら、大穴を覗きに行った。音を立てて核は落下しているものの、核は急いで壁や柱に根を伸ばすことで、何とか落下を防ごうとしているようだ。核から通常よりも細い根が、伸びては壁や柱に引っ付き、そして落下の速度に耐え切れず千切れることを繰り返す。根に巻き込まれた柱たちが、核に合わせて落ちていった。トーチは咄嗟に奈落に向かってワイヤーを伸ばすと、躊躇わず降りていった。後ろから、三人の引き留める声が聞こえる。だが引き下がるわけにはいかなかった。これでこのまま核が生半可な速度で落下してしまえば、きっと核を破壊することは出来ないだろう。核に近づくのは得策ではないことぐらい、トーチだってわかっている。それに今回は核を地面に叩きつけようとしているのだ。地面と核が接触した瞬間、大爆発が起こる可能性だってないわけではない。
(何とかして核を叩きつけるんだ。核を破壊して、僕の考えが正しいことを証明する。僕の欲が、好奇心が、人の役に立つことを証明するんだ。)
不意にトーチの腕が振動した。そのままニュッとフェロが顔を出す。
「相棒。大変だな。......ところでなんだけどさ、一番強い攻撃って何かわかるか?」
トーチは苛立ちながら「知らないよ?」と叫んだ。
「正解は捕食!相手を倒せるわ、自分は腹一杯になって強くなるわ、超お得なんだぜ!」
ついにトーチの腕と、炎になったフェロが分離した。途端にトーチの腕が、グンっと重くなる。フェロは山犬に姿を変えると、瓦礫から瓦礫へと飛び移って、核に迫っていった。トーチはフェロに置いてかれた。
「相棒に炎をあげたせいで、ちょうど腹が減ってたんだ。」
フェロの体が再び変化する。薄く液状になったかと思うと、核を殻ごと自分の体で包み込んだ。
「いくぞ!生呑活剝!」
フェロは核を完全に丸呑みした。核の大きさの分だけ膨らんだ、フェロの体が風船のように漂っている。不意にフェロの体がボインっと膨張した。一回り、二回り、と細かく段階を刻んでフェロの体が大きくなっていく。ついにフェロの体が、直径2.3mはある完全な球体になってしまった。フェロは顔を真っ赤にして何かを我慢しているようだった。前歯をむき出しにして、唇を噛んで耐えている。歯の隙間からチロチロと炎が見え隠れした。
「フェ、フェロ......。」
「ヴッ」
フェロが胸をぎりぃと押し当てた。球体になったからか、手が全く届いていない。
「フェロ?」
フェロは耐え切れないとばかりにぱかっと口を開けた。すると待っていましたと言わんばかりに、ゲ~っと長いゲップが出てきた。最後にカァッと餌付くと、腹を摩って何事もないように言った。
「いや~。ごちそうさん!」
トーチは列車の駅で人を待っていた。駅のガラス天井から、春先ののどかな光が降り注ぐ。今日は記念すべき、トーチの火消初出勤の日だった。トーチは感慨深く、あたりを見回す。丁度半年前の入学式も、列車に乗って学校に向かったのだった。今日、この列車に乗ることで、自分の火消としての日常が始まる。そう思うと、何故だか目頭が熱くなる。あの卒業試験の後は、非常に大変だった。フェロが核を?み込んだ瞬間、核を無くした炎獣の外殻が音を立てて崩壊し始めたのである。あの旧時代の遺跡は、ひどく内部で劣化が進んでいたらしい。そんな内部を、根が代わりに支えていたようだ。しかしその根のほとんどはトーチ達が切断してしまった。そのため、くしゃっと上から潰されたかのように崩壊したのである。トーチとフェロは間一髪のところで、ノヴァに救出された。そのため崩壊に巻き込まれることはなかった。結果的にあの卒業試験は、多数の怪我人と、一名の重傷者を出すという、稀にみる大事件となった。ほとんどの生徒が、ノヴァに炎獣と戦う前に倒されたり、戦っていた炎獣を横取りされたりしたようだ。これでは卒業試験として機能していないと問題になった。とりあえず、ノヴァとトーチ達4人に合わせて、ノヴァの術中に嵌らなかったカノン・ラヴァ・スコッピオは、日学校を卒業し、正式に火消として任命された。それ以外の生徒は、今回の試験の合否は保留とし、夏に再び卒業試験を実施するようだ。次に問題になったのは、ノヴァとミシェルの処遇についてである。どちらも王の牙に連なる家系の者として、当代王の牙と学校が処遇について話し合った。アルデンヌ家・ボルジア家の両家とも、該当生徒の処刑・および死亡したとして処理することを望んだ。しかしノヴァの処刑はダイナが阻止し、ミシェルの火葬はジルが大暴れをしたことで、中身のない棺を燃やすこととなった。罰として、ノヴァはトーチ達四人の部隊に加わることになった。(トーチ達は、右手が再起不能のトーチと、何故か核を呑んだフェロ、王室に紛失届が出されていた武器を持っていることで、非常に扱いづらい問題児集団だと任命された。本来であったら、既存の部隊に新人は加わるのだが、どの部隊も問題児が加わることを容認しなかった。)ちなみに、トーチ達五人は、晴れて0番隊という名前を付けられた。名前の由来は、人徳なし・才能無し・希望無しの0番コンビに、「あと一回悪さをしたら、問答無用で処刑される」ノヴァの残機0が加わって、0番隊らしい。トーチはあれだけ卒業試験で大立ち回りをした、自分たちに何もお咎めがないのに、少し怪しさを感じた。特にフェロの幽体離脱は、学校中に知れ渡ったことだろう。あれだけフェロを監視していたダイナの耳にも、フェロの話が入って来たことだろう。しかしダイナは、あれからなにもアプローチをしてこなかった。少し気味が悪いが、今は素直に卒業できたことを喜ぶべきだと思い直した。一方で、ミシェル不在のミシェルの葬儀は滞りなく行われた。王の牙である、彼女の兄が喪主を務め、多くの学校関係者が参列した。トーチは盛大な葬儀を見て、ミシェルは愛されていたのだなと改めて実感した。そして大勢の参加者と共に、空に向かって火の玉を送る「火送り」に参加した。ミシェルのために思って打ち上げられた火の玉が、蛍のように空を彩った。そして葬儀が終わった夜に、トーチの部屋に思わぬ来客が来た。丁度トーチは、部屋の中で右腕のリハビリをしていた時のことだった。トーチの右腕は、全体的に動きにくくなっていた。トーチはこれからもドリルで戦うつもりだったので、右手の指が動かしにくいことさほど重要な問題ではない。しかし肘が曲がりにくいのは、とても大きな問題だった。途方に暮れていたトーチを、王の牙であるミシェルの兄が手助けしてくれた。彼は火生医薬舎で務めているため、腕の組織を回復する薬と、リハビリのやり方を教えてくれた。なんでも、ミシェルを助けてくれたお礼だそうだ。(ちなみにドリルも何個か貰った。)そうやって、トーチが教えてもらったリハビリをこわごわと実践しているときに、ひどくやつれた顔をしたジルがやって来たのだった。ジルは、本来なら燃やされてしまうはずだったミシェルをハンガーストライキによって救い出し、今まで献身的に世話を続けてきた。当然ミシェルの葬儀にはいなかった。そんなジルは、何も言わずトーチの部屋の床に座り込んだ。
「聞いてくれ......。みんなミシェルは死んだって言うのだ。ミシェルのご実家も、教師もみなだ。確かにミシェルは、目を覚まさない。言葉も発さない。身じろぎもしない。ただ心臓が動いているだけだ......。でも、それでもミシェルは生きているのだ。」
ジルは絞り出すように、言葉を吐き出した。彼女が言った言葉は、彼女自身を傷つけているように思えた。
「明日......。私たちはここを発つ。ミシェルがこうなってしまった以上、火消を続けることは出来ない。......卒業試験では、世話になったな。どうしても言いたかったが、明日は時間がない。だからこんな夜分遅くに訪問したことを許してくれ。」
「これから、どうするの?」
ジルは目を伏せた。暫く考えて、俯きながらぽつりと話始めた。
「私は......生涯を賭けて、ミシェルを回復させる方法を探し出す。......もちろん生半可な道ではないことは分かっているつもりだ。卒業試験から今日まで、私はあらゆる医者に掛け合って、あらゆる医学書を読んだ。けれど、どこにも寝たきりの人間を治す方法は書かれていなかった。きっと......長期戦になるだろう。それでも私は諦めないつもりだ。ミシェルが起きてこなくとも、私は毎朝ミシェルの好きな紅茶を淹れるつもりだ。」
トーチもジルに合わせて床に座った。そして彼女の手を握り、耳元に近づいた。ジルはトーチの行動にぎょっとしたようだったが、話を聞いて目の色を変えた。
「なに......? 旧時代の技術なら、治せる方法があるかもしれない......? 」
トーチは人差し指を立てて、ジルに静かにするように合図をした。そして慌てて周囲を確認する。
「あまり口に出さないでくれ......。反感を買うかもしれない。」
「旧時代か......。存在は知っていたが、旧時代の技術に頼るなど、考えたこともなかったな。」
トーチはびっくりして、目を見開いた。
「旧時代のことを知っているの? 」
今度はジルが静かにするように合図を送る番だった。
「ミシェルは、あれでも列記とした王の牙の候補だったのだ。王の牙としての教養を身に着ける必要があった。その時にさらっとだが、旧時代の話を家庭教師から聞いたことがある。」
トーチは衝撃を受けた。同時に旧時代と王家は、相当密接な繋がりがあるのだと悟った。
「旧時代について解き明かすのならば、記憶院に言った方がいいだろう。王の牙はそれぞれ七つの場所を守っている。そしてお互いの領分を、お互いに侵さないという不文律が存在する。ミシェルの兄上は、火生医薬舎を治めているが、他の王の牙との連携にいつも腐心なさっていた。だから本来であれば、互いの機関の情報は流れてこない。しかし、記憶院は別だ。すべての人間は、記憶院に対して嘘を証言してはならない。隠し事をしてはならないという法律がある。どうやって隠し事を見破るのかは疑問だが......。」
ジルは再度後ろを確認すると、トーチの耳に耳打ちした。
「お前にいいことを教えてやろう。ダイナという王の牙に近々動きがあるかもしれない。これはある筋からの情報なのだが、ダイナは状況を伏せているらしいが、彼女が治める発電所の一つが何者かに攻撃されたようだ。......彼女はボーヴォーを危険視していた。」
「ありがとう......。肝に銘じるよ。」
トーチは俯いた。そして一瞬だけ逡巡した。けれど結局トーチは、ジルにこの言葉を送ることに決めた。
「これは......ある人からの受け売りなんだけど......。知るってことは、強くなるってことなんだ。きっと君がこれから受け取る情報のほとんどは、もしかすると関係ないかもしれない。だけど......。」
「わかっている......。途中でやめるつもりなんてない......。......丁寧にありがとう。その腕、良くなるといいな。」
その言葉を最後に、ジルは部屋から出ていった。そして彼女は、ミシェルを連れて、人知れず早朝の霧の中へと消えていった。おそらくどこかのアテがあるのだろう。彼女はトーチ達の誰にも行先を告げることはなかったが、きっと旧時代について探究を続けていたらいつか彼女と再び会うことになるはずだ。
不意に後ろから声を掛けられた。振り返ると、ヒューズとノヴァがいた。後ろの方に、もみ合っているクレイとフェロも見える。
「さっきから何を呆けている。全くあほらしい顔をするな。あほだとバレるぞ。」
「......さっきからずっと思っていたの。アンタ、クールを装っている癖に、あんまり語彙のレパートリーがないじゃない。そのナントカしいっていうのが口癖なの? 」
「そういうお前は随分と頭が固いな。体の頑丈さを上回るんじゃないか」
ノヴァはそっぽを向いた。
「はあ......。まあいい。もうすぐ出発するそうだ。忘れ物はないかよく確認しろ。」
ヒューズの言葉に、トーチは自分の荷物を確認した。全部あることを確認すると、ヒューズに向かって頷いた。その様子を見て、ノヴァは朗らかに笑う。0番隊と呼ばれるようになってから、トーチは良くノヴァと関わるようになった。そこで、ノヴァは良く笑い、良く起こる、喜怒哀楽が豊かな人間だと初めて知った。在学中の彼女は随分とトゲトゲしい印象を持っていたが、すっかり鳴りを潜めていた。おそらくあのトゲトゲしさは、彼女なりの苦痛に対する対処療法だったのだろう。不意に彼女が笑うのを辞めた。笑顔が無くなった彼女は、随分儚げに見えた。
「......仲間に入れてくれて、ありがと。......あと、私の力が必要だって言ってくれて、ここ最近で一番うれしかった。」
トーチはフッと笑った。ノヴァがムッとして、トーチの足をゲシッと蹴った。
「いたっ。馬鹿にしたわけじゃないんだ。フフッ。ここ最近なんだって思って。」
「フン。私のことを笑ったら、いつか私に呪われると思いなさい。......でも、当分は見逃してあげる。アンタ相手しているより、汚名返上に尽くした方が有意義だわ。」
「あれ?勝ち負けは気にしないって......。」
ノヴァは腕を組み、不遜な態度を取った。相変わらず偉そうなのが、随分と様になる人だ。
「もう実家云々は気にしないって決めた......。だけど、いつまでも残機0だの言われているのは腹が立つの。だから、私に勝ったと驕っている奴に、やり返すって決めた。」
トーチは苦笑した。一応「ほどほどにね。」と忠告しておく。
「相棒!この列車、火消の遠征用の寝台列車なんだって!だから個室があるらしいぜ!オイ!絶対同室にしような?」
フェロがニコニコしながら、トーチの背中に飛びついた。そして蝉のように引っ付く。卒業試験でフェロを背負ってから、フェロはトーチの背中に張り付くことが多くなった。
「寝台列車だって?そりゃまた豪勢だね。」
「フフフ......。豪勢じゃなきゃ困るよ......。結局僕らがあんなに渇望していた、祝い金はお預けになったんだ。卒業試験場の改修や、再試験の運営費に充てられるんだってさ。あーあー。どこかのノヴァ・アンダーソンとかいう人のせいで。あーあー。僕たちの祝い金が。あーあー。」
「うるさいわね。その口塞ぐわよ。」
ノヴァとクレイがいがみ合った。ここ最近、トーチ達は、今のようにクレイが嫌味を言う場面をよく出くわす。その度にノヴァは、その負けん気を生かして、クレイに喰ってかかる。それがいつの間にかお約束になっていた。突然ヒューズが「聞け!」と言った。四人がそれぞれ、なんだなんだとヒューズの顔を見た。
「重大なことが発覚した。この寝台列車は、一つの個室の中に2~3人で寝るように作られているらしい。」
途端にノヴァが車掌に向かって走っていった。ノヴァはずけずけ文句を言えるタイプなので、自分が個室を一人で使うと主張しに行った。しかし、他の個室は既に満室だと言われたようだ。非常に不機嫌な顔付きで戻って来た。
「私達5人で2部屋だって。どうする? 一対四で分かれる? 」
「少なくとも君は四の方だね。君には選ぶ権利がない。」
「いちいちいちいち、ぐちぐちぐちぐち、うっさいわね!ヒューズ!こいつを黙らせなさい!」
「僕のヒューズになんてこと頼むんだ。ヒューズがそんなこと、僕にするわけないだろう!」
「なんなのよ、その自信は!」
クレイとノヴァが、再びギャアギャアと盛り上がっている。トーチは、カラスが威嚇しあっているみたいだな、と思った。ヒューズは眼鏡を押し上げながら、ヤレヤレと頭を振った。
「はあ......。埒が明かない。トーチ・フェロ、俺とクレイで分かれる。アンダーソン。どちらに入るかはお前が決めろ。」
ノヴァは、クレイとトーチの顔を交互に眺めた。そしてしぶしぶトーチとフェロの間に立つ。
「こいつらと同室にするわ......。紅一点の私が男と同室なんてね......。まあいいけど。」
「一応聞くが、なんでそいつらなんだ。」
「何?選ばれなかったのが悔しいの? ......簡単よ。濃厚なホモソーシャルな中で寝たくないわ。乗り物酔いしそう。」
ノヴァは吐き気を現すジェスチャーをした。ヒューズは肩眉をあげたものの、特に何も言わなかった。しかし、クレイはノヴァの言葉を聞いて、湯沸かし器のような奇声をあげた。あまり聞き取れなかったが、「ホモソーシャルとはなんだ?」と言いたいらしい。
ノヴァは喚き立つクレイに向かって、鼻に皺をよせ、歯をむき出しにして威嚇する。そして関わってられないと言わんばかりに、腕を組み、顔を背けた。
「フン。こいつらも中々にハードなじゃれ合いをするけれど、それは犬が他の犬の尻の匂いを嗅いで喜んでいるようなものだわ。アンタ達みたいに、ぬめぬめしていないの。」
ノヴァはそこで一旦言葉を区切った。隣にいるフェロの頭を撫でる。フェロは口を半開きにして、ひたすら撫でられていた。フェロは特に何も考えていないようだった。
「特にコイツは犬よ。犬。はあ......。アンタ本当に人間? これじゃ「ボーヴォー七不思議」が増えちゃうわよ。」
ノヴァの言葉にトーチは疑問を示した。今まで学校でそんな話は全く聞いたことが無かったからだ。
「「ボーヴォー七不思議」って? 」
「ボーヴォー、髪が燃えている説。ボーヴォー、髪が炎で出来ている説。ボーヴォー、水を掛けたら禿になる説。ボーヴォー、汗フェチ説。ボーヴォー、人間じゃない説。ボーヴォー、ボーヴォーの言っていることは全部正しくて、本当に命の炎? が見えている説。ボーヴォー、性別不明説。」
「なんだ、その説は。」
突然、駅のホームの中でブザーが鳴った。トーチ達は慌ただしく、列車の中に入っていく。列車の中で、多くの人々が、火消を乗せた列車を見送りに来ていた。トーチはその光景がとても嬉しかった。火消という夢は、トーチが初めて本気で叶えたいと思った夢だ。その夢を叶えられたことが、トーチにとって大きな自信になっていた。トーチは窓の外に向かって、大方回復した右手で手を振った。初めはゆっくりだった列車が、徐々に速度を上げていく。遠くなる駅の景色を見て、もう後戻りはできないことを悟った。それでもトーチは走り続けなければいけない。世界の謎を暴くために。そして、兄に追いつくために。トーチ達を乗せた列車は、彼らを火消としての最初の任務地へと運んでいった。




