2 実家泥棒
前書きの意味がよくわからなかったので、前回は「あ」とだけ入力しました。すみません。
この小説ですが、小説家になろうが、一度に7万文字しか投稿できないことを知らなかったため、急遽細かくきったものを投稿しています。全体で12万文字程度のものを、まとまりごとに分割しています。読みにくかったら申し訳ないです。
あの衝撃的な夜から、フェロはトーチを相棒と呼ぶようになった。フェロの旧時代解説は、それきり下火になった。どうやら本物を見せたことで、どこか満足したようだ。今までの多弁とは引き換えに、フェロはベタベタと纏わりつくことが増えた。トーチは困った顔をしながらも、フェロに相棒と呼ばれるのはなんだか照れくさかった。それにしてもあの夜は、あの後とても大変だった。フェロはトーチを相棒と言ったかと思ったら、突然トーチの上に倒れてきた。なんだなんだどこか怪我したのかとトーチは慌てたが、フェロはただトーチの上で寝ていただけだった。なんだと安心したトーチは、うっかり力が抜けてしまい、そこからしばらく空を見ていた。フェロに習って僕も寝てしまおうか、そう思ったときにトーチは思い出した。そういえば二人は懲罰室で軟禁されていたはずなのである。朝までその部屋から出ずに反省することが罰則だった。しかし現在二人は罰則室にいないどころか、学校にもいないのである。バレたらただでは済まないことは明白であった。トーチは慌ててフェロを揺さ振ったが、まったく起きなかった。
(そうだ……。こいつはとても寝汚いんだった……。)
仕方なくトーチはフェロを背負って学校へと帰った。疲労で足腰がブルブルと震える中、何とか起床時刻には帰宅することが出来た。そして懲罰室の中で、教師の朝の見回りを難なくやり過ごしたのである。それからトーチは、フェロの語る旧時代の話にどっぷりと漬かっていた。恥も外聞も捨てて、フェロと毎日を過ごすようになった。おかげで成績も評判も右肩下がりに落ちていったが、気を張って馴染もうとしていた時よりも息がしやすくなった。旧時代という概念は、今までトーチが知らなかった世界を広めてくれた。それと同時に様々な疑問を残した。フェロが何故ニコル先生に反抗するのか、その気持ちが分かった気がする。トーチはまずこの国の歴史について深く知りたいと思った。トーチはフェロに自分の考えを語った。
「旧時代のことを僕たちだけで調べることは不可能だ。まずはフェロ。きちんとニコル先生の授業を聞いて疑問点を洗い出していくんだ。そうすれば何かが分かるかもしれない。」
フェロは瞬きをして、トーチを見た。珍しくフェロは文句を言わずに頷いた。
トーチとフェロは、ニコル先生の授業をやけに真剣に聞いた。生徒も教師も二人を気味悪がったが、彼らは気にしなかった。二人は一日の予定をすべて終わらせると、そそくさとフェロの部屋にこもるようになった。トーチは部屋に入るとフェロに切り出した。
「はあ……。ニコル先生の話にもう収穫はないかもしれない。」
「なんでそう思うんだ? 諦めるのか? 」
「違う違う。フェロ。ニコル先生は何回も同じ話を繰り返しているんだよ。ほら、これは僕が今日の授業をまとめたノートなんだけどね。昨日と今日で全く同じ話をしている。全く新しいことを言っていない。……こんな日がもう何日も続いている。」
「はあ? あの爺さんボケてるのか? 偉そうに文句言っている癖に……。」
「まあ……たしかに。でも僕は、ニコル先生は呆けているのではなく、きっともう話すことがないから話していないじゃないかって思う。これ以上話していたら、禁書・禁句・禁足地の規定に引っかかるから話せないじゃないか。」
「たしかに……。そうかもしれないな。みんな旧時代の話をしたら、沈黙するんだ。賛同も反対もしない。」
「ああ、フェロ。旧時代の話はやたらとしない方がいい。」
フェロが髪の毛を逆立てた。
「相棒?お前もそんなことをいうのか?」
「お、怒らないで……。君の気持ちも十分分かる。だってすごく魅力的な話だもの。だけど騒ぎ立てれば、きっと無意味に事を荒立てることになる。本腰を入れて解明しようとしていることがバレたら、きっと邪魔されるだけでは済まない。……僕は君を死にたくないだろう。」
トーチは自分の手元に視線をやった。トーチは旧時代に興味を持った。自分が知らない真相を知りたくて、トーチは自分から秘密を暴こうと動いている。そんなトーチの意志を挫くように、毎日のように悪夢を見ていた。見る夢はいつも同じだった。淡くぼやけた夢の中で女性が殺されて、秘密を知るな、知らないふりをしろと囁かれる。トーチはその度にひどく恐ろしくなった。あの囁き声のことを、列車で聞いたときはそれほど恐怖を抱いていなかった。しかしあの日炎獣と出会って、フェロが自分の思い付きに命を懸けた時に、初めてあの囁き声が実態を持った。フェロに自分の策を話したときに、自分は興奮していた。自分の考えがどこまで通用するのか、挑戦状を世界に叩きつけたような高揚感があった。その浮かれた気分のままで、他人に命を賭けさせた。まるで命を駒のように扱った。きっと囁き声は、トーチのそういった癖を見抜いていたのだろう。トーチは好奇心や挑戦心に突き動かされれば、命を無為に扱ってしまう人でなしだったのだ。トーチはフェロの信頼に甘えてはいけない。そんな強迫観念が頭を占めていた。
「相棒。」
「何でもないよ。話を戻そうか。」
トーチはノートの新しいページを開いた。そこにさらさらとニコル先生の授業の内容を書き出していく。上からフェロがページを覗きこんだ。
「こう見ると、随分と不自然だな。この国はびっくりするほど平和なんだな。」
トーチも手を止めて、同じ個所を見た。そこにはニコル先生の授業の内容を読み上げた。
「・この国は約1000年の歴史を誇る。建国には初代王・炎主様が尽力されたと伝わっている。
・炎主様がこの国の法を作り、軍を作った。その時に火消も作られたとされる。
・建国の際、炎主様に力を貸したとされるのが、初代王の牙である。以降王の牙は、直属の部下である王の爪から排出されることとなった。王の牙は、七名で構成される。
・炎獣については多くのことが分かっていない。
・炎主様を師と仰ぎ、多くの者が火の扱いを習った。民衆は火を与えられたという説もある。
・王直属の機関として、この火消養成学校と、この国の様々なことを記録する記憶院。そして各地に点在する王立発電所、刑・政を定める政所、罰する煉獄舎。人々を癒す火生医薬舎。そして宮廷・陽炎門。それぞれ六人の王の牙が、六か所の国王直属の機関を治めるとされている。
・炎主様のご加護を求める「炎の祈り」は、門出に合わせて行われる慣習が作られた。
・炎主様は太平の世を作られたとされる。……気になることは三つだ。まず一つ目は炎主様が死んでいるのか否かだ。これだけ崇められている存在だったなら、きっと葬儀だって盛大に行うだろう? それなのにいつ行われたのか全く分かっていない。二つ目は炎獣についてまったくわかっていないのに、なぜか1000年前から火消が存在していること。そして王の牙は七人いる。それなのに機関は6つだけ。最後の一人は何を治めているのだろうか。」
「葬儀ってなんだ? 」
「そ、葬儀ってなにか? フェロは葬儀に出たことがないのか……? その葬儀は人が死んだときに行われるんだ。」
「ないな。全く知らない。」
「人は他の動物みたいに死ぬんだ。そして死んだら魂が炎になって登っていくんだ。だから生きている僕たちは、その旅路が安全でありますように、そう願って空に火を放つんだ。これを火送りって言うんだ。」
フェロは頷いたが、いまいちピンと来ていないようだった。
「死んだら誰でも俺様の幽体離脱が出来るってことか?」
「生きている間にできるのが逆に不思議なんだよ。」
唇を尖らせたフェロに、トーチは苦笑いをした。
「わかりきったことだけど、きっと王様は旧時代のことを知っているんだ。そして知っているからこそ消し去って、秘密にしている。僕たちがこの国で、王様の庇護下にある限り、自力で探すのは困難だ。」
「じゃあどうするんだ? 聞きに行くか? 」
「例えばフェロは、お前は禁書を盗んだことがあるかって聞かれたら、素直にそうですって答えるの? 」
「馬鹿じゃないのか。それは俺様のトップシークレットだぞ。」
「王様も同じだよ。きっと旧時代っていうトップシークレットを隠したいって思うはずだ。だから小さな発見を重ねるしかない。きっと突破口は炎獣だ。炎獣について何かしらの発見があったり、火消の内部事情を探ることが出来れば……。」
突然フェロが小さく笑い始めた。トーチはムッとしてフェロを睨む。
「なんで笑うんだ。」
「いや? 相棒の命が真っ直ぐ燃え始めた。俺様は相棒のその炎、大好きだ。このまま大きくなってほしいな。」
「燃え始めたって……。火をつけたのは君だぞ。……そんなに僕は変わったかな。」
「人が情熱を燃やすとき、命も同じように燃えるんだ。俺様はその光景が好きだ。今までの相棒の心は燃えカスだった。」
「燃えカス? 」
「一度燃えて、何かの拍子に消えちまったんだ。もったいないね。きっと綺麗な炎だっただろうに。でもまた火が付いた。これからきっと大きくなるって、もっと色んなものを燃やして、火をつけるって俺様は信じてる。」
トーチは思わず俯いた。
「変な話をしていい?」
「別にいつも変だぞ。」
トーチはフェロを小突いた。
「たまに……。たまに、不安になるんだ。この情熱は正しいのかって。君が言うように僕のこの心がもし炎だったら、何かいらないものに火をつけてしまうんじゃないか、そうしたら僕はどうすればいいのかって……。」
フェロは小首を傾げた。
「炎は別に善悪なんて考えないで燃えているよ。それを判断するのはいつだって周りだ。……それに炎は一度着いたらなかなか消えないんだぜ。」
フェロはあの夜みたいに、僕の顔を覗き込んだ。
「やめたくなければ、やめなければいいんだ。俺様は相棒に賭けるよ。」
フェロはいつになく穏やかな顔をしていた。トーチはフェロはいつだって揉め事の火付け役な癖に、こんな時だけこちらを真っ直ぐ見つめてくるのはずるいと思った。
「そんな小恥ずかしいセリフ、よく言えるね。」
トーチははにかむと、ごまかすようにフェロにちょっかいを掛けた。フェロは仕返しだと言わんばかりに、トーチに圧し掛かってきた。そしてそのまま二人でフェロの部屋で横になった。寒がりなトーチはフェロの温かさがありがたかった。
冬の中頃に差し掛かると、夏に行われる卒業試験に向けて本格的に動き始めることになる。卒業試験は三、四人一組でチームを作り、連携して炎獣を退治することが求められる。そこで各々が火消の新しい即戦力として活躍することが出来るかを判断するようだ。この卒業試験では毎年、成績上位者には大量の祝い金が出ることで有名だった。試験自体は、特設された町を模した会場に放たれた小型の炎獣を倒すといった内容だ。この試験では、毎年半数は脱落する。それ中の何人かは、町の保安部隊など別の組織に配属される人もいたらしい。当然トーチとフェロのこの試験を受ける予定だった。しかし二人はあの三拍子そろった0番コンビである。最近は全く授業が身に入っていないので、成績0も代名詞に追加されてしまった。そんな二人を仲間に入れてくれる人などいない。この状況にはさすがのフェロも頭を抱えていた。以前の二人だったら、卒業試験に受からずとも対して困ることはなかっただろう。火消にならなかったらならなかったで、きっと潔く別の道を探していたはずだった。しかし今の二人には、炎獣を通して旧時代の手がかりを探すという目標がある。そのためには何としてでも、炎獣と関わり続ける火消になる必要があった。トーチはきっと自分たちとチームを組んでくれる人はなかなか見つからないだろうと思っていた。しかし長期戦に持ち込めば、きっと誰かが仲間になってくれるだろう。そんな淡い期待をしていた。そんなトーチをあざ笑うかのように、現実は非情だった。まずフェロと共に話しかけようとすると、蜘蛛の子散らすように逃げていく。そのため早い段階からトーチはフェロを置いて交渉を続けた。トーチ一人で交渉を始めるようになると、「トーチだけならチームを組んでも良い」と言われることが増えた。トーチはあくまでフェロと火消になりたいのであって、一人で火消になっても意味がない。そうやっていくつも交渉が決裂していった。
冬の終わりごろには、もうチームを組んでいない人の方が珍しくなっていった。卒業試験を意識した立ち回りを求められる実技の授業も多くなった。まだチームを決めかねている人と、その場しのぎでチームを組むのにも限度がある。そろそろ本格的にチームを決めなければならない。トーチは完全に板挟みになっていた。トーチの不安げな思いを反映したのか、腰に付けた発電機の中で、種火がシュルシュルと縮んでいった。トーチは慌てて、種火の大きさを戻そうと集中する。一分もすれと種火は規定量の大きさに戻っていった。
(僕も随分と成長したな……。戦闘はからっきしだけど、とりあえず種火の扱いだけは何とかものにできた。)
トーチは種火を維持し続けるためには、情熱が必要だということに気付いた。初めて種火について習った授業で、ダイナは「溢れるパッション―命を燃やすという情熱が必要だ」と解説していた。あの時は根性論でどうにかなるのだろうかと思っていたが、あの説明は正しかったのだ。フェロの言う通り僕たちの命は燃えていて、その激しさは自分の感情と比例する。以前のトーチには自分に自信がなかった。だからトーチの種火はすぐに消えてしまったのだ。トーチは腰に手を当てた。種火の温かさがじんわりと伝わってくる。トーチはその温かさがうれしかった。
「やっほー。ボーイ。お姉さんだよ。」
トーチの視界にいきなりダイナが出現した。トーチは驚いて椅子から飛び上がる。腰についている種火は、驚いてビクついた体のように、一瞬大きくなったかと思うと、フッと消えてしまった。
「お姉さんとちょっとお話しない?」
「は、はい。」
トーチはダイナに空き教室に連れてかれた。彼女が扉を閉めると、教室の広がった痛い沈黙がトーチを刺した。
「あの、なんの御用でしょうか。ダイナ……お、お姉さん。」
「いや、君が卒業試験について困っているという話を聞いてね。お姉さんが相談に乗ってあげようかと思って。」
トーチはパッと顔を明るくした。
「そ、そうなんです。実はチームを組んでいる人が見つからなくて……。」
「そうか、それは大変だ……。」
ダイナはトーチの頭に手を置いた。
「君はよく頑張っている。さっき種火の訓練をしていただろう。以前と比べ物にならないほど成長している。とても頑張ったんだね。」
ダイナはそのまま緩々と頭を撫でた。トーチは思わず目を細めてうっとりとした。誰かから褒められるなんて、フェロ以外の人からは久しぶりだった。
「私はね。頑張っている人が好きなんだ。頑張っている人は美しい。応援したくなる。等しくその努力が報われてほしいんだ。」
フェロははにかみながら、薄めた目を開けた。ダイナの瞳の中で黒い瞳孔に沿って、光彩が燃えている。トーチの額に冷や汗が伝う。ダイナはトーチを励ましているのではなく、威圧しているかのような印象を受けた。トーチは、ダイナの手をやんわりと振り払った。
「心配してくださって、ありがとうございます……。あの、もう行ってもいいですか。」
ダイナの口角がピクリと動いた。そしてそのまま目を細めて微笑んだ。
「お姉さんは君が大好きだからね。君に火消になってもらいたいんだ。……だから、これは忠告だよ。」
ダイナの顔がトーチにゆっくりと近づいてくる。彼女が後ろに背負った、窓の外は凍てつくような吹雪が吹いていた。
「フェロ。あの子は化け物だ。用心した方がいい。あの子は人間ではなく、火そのものなんだ。君、焼き尽くされるよ。」
トーチは拳を握った。腰の種火が、轟々と燃え上がる。自分でも驚いてしまうほど、トーチは怒っていた。
「化け物を倒すはずのあなたがそれを言うんですか?フェロは生徒でしょう?」
「だから忠告しているんだ。もうわかっているだろう。フェロは普通じゃない。人間の皮を被ってはいるが、根本的な所がかみ合っていない。間違いなく、あの子は災いを呼ぶ火炎の子だ。」
ダイナはぞっとするほど真剣な顔をしていた。その顔を見て、トーチの頭にますます血が登る。
「フェロは化け物なんかじゃない?人間だ?」
「君、なにかフェロに打ち明けられなかったか? 過去や、夢、それから自分の能力……とか。」
「何も知りませんよ。知ってても教えません。フェロは人間で、仲間だ。化け物だなんていう人の口車になんか乗るわけがない。」
ダイナはため息を吐いた。
「現実的な話をしよう。このままフェロとチームを組もうとすれば、君は間違いなく卒業試験に落第する。いや、そもそも参加できないかもしれない。君が一人で火消になると決心すれば、全ての話は丸く収まるんだ。」
ダイナはトーチに歩み寄ると、トーチの手を強く握った。
「忠告を、聞くんだ。」
トーチはダイナの手を振り払った。腰の種火は、発電機から漏れ出しそうなほどの勢いで燃えていた。
「僕はフェロと火消になる。そのためならなんだってする。」
ダイナは目尻をピクリと動かした。そしておもむろに口を開いた、その瞬間だった。教室の扉が、音を立てて開いた。
「ダイナお姉さん。話が伝わっていなかったようで。コイツは俺たちとチームを組みます。」
「君は、ヒューズか。成績上位者の君が、何故彼らと組み必要がある。」
ヒューズはがつがつとトーチのに近寄ると、トーチの手を取った。
「なんだっていいでしょう。それよりも作戦を考えたいので、失礼します。」
ヒューズはトーチの手を掴んだまま、足早に教室を出ていった。それから寮のトーチの部屋に着くまで、ヒューズはトーチの手を掴んだまま、歩き続けた。
トーチの部屋に着き、二人は部屋の中に入った。ヒューズは扉が閉まるのを見届けると、すぐに着けていた眼鏡を拭き始めた。トーチは暫くヒューズの眼鏡拭きを見守っていたが、痺れを切らして話し掛けた。
「あ、あの。助けてくれてありがとう。あとチームになるだなんて、まさか君から声を掛けて貰えるとは思ってもいなかったよ。」
「チームになるとは言っていない。」
「え? 」
「お前らのような弱弱しい奴らを、チームだとは認めていない。」
「え、でもさっき。」
ヒューズは眼鏡を拭きながら、ズイッとトーチに顔を近づけた。
「お前たちはチームではなく、俺たちの奴隷となるのだ。」
「ええ、そんな……。」
「なんだ嫌なのか? 試験が受けられなくてもいいのか。」
トーチは何も言い返せなくて、歯がゆい思いをした。奴隷だなんて何をすればいいんだ。そんなことを考えていた。するとヒューズは、その考えを読んだようだった。
「手始めに俺の願いを叶えろ。」
そう言うと、ヒューズは相変わらずパンパンなバックを床に置いた。ドシンと床が振動する。ヒューズはトーチの方をちらっと確認すると、こそこそと自分の服の腕をまくった。何となく興味をひかれたトーチは、こっそりとヒューズの腕を見た。すると腕にはびっしりと文字が書いてある。トーチは思わず声が出てしまった。
「見たな? 」
「ご、ごめん。気になって。」
ヒューズはため息を吐くと、トーチの方に向き直った。
「人の秘密を覗き込むとは、小賢しい真似をするな。まあいい。知られたなら、隠す必要もない。俺は物忘れが多いからな。こうやって体に書いているんだ。」
そう言って、ヒューズは腕まくりをした。ヒューズの腕にはびっしりと文字が書いてあった。このメモ書きを隠すために、彼は長袖に手袋をいつも着用していたのだろうと合点がいった。メモ書きの中に、「0番コンビ、接触に注意」と書いてあった。
「確か……メモ書きには、5番のファイルと書いてある……。5番のファイル、ファイル」
ヒューズはごそごそと大きいバックを漁った。ほどなくして、大きく5番と書かれたファイルを取り出した。
「あったぞ。……ちょっと待っていろ。この紙にお前に話しかけた理由が書いてあるんだ。」
トーチは、ヒューズが今まで自分に何を話したいのか覚えていなかったことに愕然とした。それと同時に、ダイナの質問を曖昧に答えたのは、きっと覚えていなかったから答えようがなかったと察した。
「夢の剣……? ふむ。……ふむ。そうだ。よし。」
ヒューズはトーチの方に向き直った。そして一枚の紙を差し出してきた。その紙には絵が描かれていたが、何を書いたのか全くトーチにはわからなかった。線が虫のように紙面を縦横無尽に飛び回っているせいで、大まかなシルエットも掴めないような絵だった。
「この剣を作れ。お前は鍛冶屋の息子なんだろう。」
「えーっと。確かに……鍛冶屋の息子だけど……。」
トーチの煮え切らない反応を見て、ヒューズは眉を顰めた。
「なんだ出来ないのか。チームも解散か。」
ヒューズは立ち上がって、荷物を片付けようとした。トーチは慌てて叫んだ。
「ま、待って?ちょ、ちょっとこの絵は分からなすぎるよ?」
言った後になって、トーチは後悔した。どうしよう。彼が自分の絵の才能を信じている人だったら、怒らせてしまってチームを組む話が白紙になってしまうかもしれない。オロオロと取り繕う言葉を探すトーチとは裏腹に、ヒューズは自分の絵を拾い上げてまじまじと見た。
「そうか。絵があった方が分かりやすいとは思ったが……やはり俺の絵は下手だったか。そこは素直に謝ろう。」
「い、いや?下手って訳ではないよ。ただ鍛冶屋の手伝いをしていた時は、いつも図面を使って考えていたものだから……。ハハハ……。」
「フン。取り繕うな。悠長にしている時間などない。」
「じゃ、じゃあ。どんな剣を作りたいのか話してくれないか? その話を聞いて僕が図面を書くよ。……一枚紙を貰ってもいいかな。」
トーチはヒューズから紙を受け取った。トーチの準備が出来ると、ヒューズが話始めた。
「卒業試験に当たって、自分に合ったある剣を使いたい。しかしどこを探してもその剣は見つからなかった。」
「なるほど……。それはどこで見た物なの? 場所が分かったら、そこから貰えばいいんじゃないか? 」
「夢の中だ。」
トーチは開いた口が塞がらなかったが、図面を書いている振りをして、ヒューズに顔を見られることを回避した。
「夢の中で、俺はある剣を振るっていた。その剣は驚くほど、俺のすべてに馴染んだ。その夢を見てからというものの、いつもの訓練が物足りないんだ。剣を振るう度、どこか剣と歩調が合わなくて、全力を出すことが出来ない。」
ヒューズは遠くを見つめた。何かを思い出そうとしているかのようだった。
「俺は物忘れが激しいからな。昔は持っていたのに、どこかで手放してしまったのかもしれない。きっとその剣は俺の動きを邪魔することなく、寄り添ってくれていたはずなんだ。」
トーチは湿っぽい話を笑って流した。おそらく突けば、湯水のようにエピソードを引き出すことが出来るだろう。しかしトーチに必要なのは、刀にまつわるエピソードではなく、刀の形状についてに情報だけだった。
「なるほどね……。事情は分かったよ。それでどんな形なんだ?。」
「まず……形は、こう……反りがあるんだ。今みたいに真っ直ぐではない。」
トーチは図面に、反りがある刃を描いた。トーチは鉈か、それともブーメランみたいに刃を投げるのだろうかと思案した。
「次に片方だけ、ものを切ることが出来る。図で言ったら、弧が大きい方が刃だ。」
トーチは図面に弧が大きい方に刃、小さい方に背と書いた。トーチは包丁みたいだなと呟いた。
「最後に、こう叩き切るのではなく、引いて斬る。切れ味が今の剣より断然いい。」
「いやちょっと待って。その剣はきっと炎獣を倒すのに不利じゃないか? 炎獣を倒すために有効なのは、斬るんじゃなくて叩いたり、突いたりする方が有効だよ。」
「そんなことは分かっている。……でも夢の中の剣はとても頑丈だった。」
トーチは彼がよく使う「馬鹿馬鹿しい」を言いそうになったが、寸での所で押し黙った。色よい反応でないトーチに、ヒューズが再度打診してきた。
「どうだ。作れるのか? 」
「え? いや……その作るのは現実的じゃないよ。そもそもここには材料もなければ、炉もないだろ。」
「なんだ……。」
「でも……。」
「なんだ?」
トーチはヒューズの勢いに押されて、早口で「どこかで見たことがあるような気がしただけ!」と言い切った。
「見たことがある? それはどこで見たんだ?」
ヒューズはトーチの肩を鷲掴んだ。トーチの視界いっぱいに、ヒューズの顔面が広がる。
「いや、分からないよ……。既視感があるってだけで……。」
「思い出せ!思い出せ!」
ヒューズがトーチの肩を揺さぶる。トーチは頭がぐあんぐあんと揺れて、目を回していた。
「……よし、思い出すのを手伝ってやろう。……まずお前は家から余り出ないな?だからきっと家だ。お前の、家だ?」
「なんてことを言うんだ……。」
「お前は人間関係に積極的ではないからな。狭く深い交友関係だと言っていた。」
トーチは存外に友達が少ないことを指摘されて、悲しくなった。しかしそんなことに心を囚われている場合ではない。何としても目の前の男を説得して、チームになってもらうしか道はないのだ。トーチは必至になって頭を回した。
「家か……。うーん確かに家な気もするな……。図面を書いていて思ったのだけれど、きっと僕は同じ図面を一回見たことがある、気がする。これが正しければ、僕はその剣の図面を見て、実物を見たことがある。……なら僕はきっと作っている所を見ていたんだ。」
しかしトーチは違和感を覚える。僕が鍛冶を手伝ったのは、叔父さんに引き取られた8歳以降のはずだ。それ以前は近くのこじんまりとした家に、母と暮らしていたはずなんだ。8歳以降に作られた剣はすべて売り物になったはずだ。きちんと帳簿もつけられている。売り物にならなかった剣は、ほとんどが未完成のものか途中で失敗したものだけだったはず。そしてそれらの剣を保管していた倉庫は、トーチが良く掃除をしていた。だから完成したか、していないかは置いておいて、その剣をトーチが8歳以降に見た記憶がないのが可笑しいのだ。そんなトーチの考えをよそに、ヒューズは一人で盛り上がっていた。
「これで分かったな。お前、意外と頼もしい男じゃないか。……よし、お前の実家に侵入するぞ!」
「うん……。え?」
トーチは久しぶりに、あのセキュリティが甘い扉の前に立っていた。今回はあの時とは異なり、新たにヒューズとクレイが加わった。クレイという男は、ヒューズの幼馴染らしい。クレイは柔和な笑顔を浮かべる、ひどく愛嬌のある青年だった。ヒューズがトゲトゲとした毬栗と表現するなら、クレイは柔らかい果実だ。クレイは誰とでも和やかに会話することのできる青年で、よく会話の潤滑油のような役割を担っていた。そんなクレイは、ヒューズの物忘れがひどくなる前からの付き合いがあり、なにかと周りに軋轢を生む性格であるヒヒューズと周りの仲を取り持っている。それだけでなく、どうやら記憶の面でも彼を補助しているようだった。ちなみに「トーチの交友関係は狭い」という、ひどく偏見に満ちた意見は彼が言ったらしい。詳しく追及しようとしたが、笑顔で黙殺されてしまった。トーチは以前の反省を生かし、武器になりそうなものや、包帯、水などを携帯していた。クレイも同じように、深夜に出歩くリスクを考えて、荷物を持っているようだった。フェロとヒューズは手ぶらだった。夜空には満月が地面を照らし続けている。今日が満月で助かったとトーチは思った。月明かりがここまで明るくなければ、鉄の門までたどり付けなかったかもしれない。前回はフェロの髪の毛が光っていたため、トーチはフェロに追いつくことが出来た。その話をすると、ヒューズはリスクを潰しておいた方が良いと言い、フェロの髪の毛を帽子の中にまとめて突っ込んでしまった。髪が無くなったフェロは、シルエットが細くなり、なんだか濡れて毛量が減った犬のようだった。当のフェロは、すぐにでも帽子を脱ぎ捨てようとしていた。しかしクレイに「連れて行かない」と凄まれたためおとなしくなった。
「よし。ボーヴォー。今だ。鍵を開けろ。」
「フン……。簡単に言ってくれちゃって……。」
フェロはぶつくさ言いながら、いそいそと支度をしている。どうやら帽子を被せられたことを根に持っているようだった。
「相棒。俺様の体をきちんと受け止めてくれよ。こいつらはいまいち信用ならないからな。」
トーチは分かったと手を挙げた。フェロが肩幅に足を開き、息を整える。そして潜水するように、鼻を摘み、目を閉じた。するとあの時のように、フェロの体が幽体離脱をした。トーチは慣れた手つきで、フェロを抱きとめた。その様子を見て、ヒューズとクレイが難しい顔をしていた。
「手慣れているな……。まさか何回も抜け出しているのか? 」
「フェロはね。」
トーチは軽い調子で答えたが、ヒューズは信じられないものを見るような険しい顔をした。
「寮を抜け出すなんて無鉄砲な策だと思ったけど……。こんなに手慣れているなら、通りで自信があるわけだね。」
「まるで泥棒だな。」
さっきから蛇になって、鍵開けに挑んでいるフェロが叫ぶ。
「聞こえているぞ!そんなに言うなら開けないぞ!」
ヒューズはトーチに目配せした。機嫌を取れということらしい。
「相棒~!かっこいい!さすが超・俺様君主制・激烈楽しい楽園。「略して天国」を作る神だ!」
トーチが呼びかけると、クレイが慌てて口を塞いできた。トーチはもごもごと身を捩る。
「ウハハハハ。そうだろう、そうだろう。さすが俺様。何様?神様?」
フェロが喜んでいるのを見て、クレイはトーチの口から手を離した。
「ごめんね。まさか誉め言葉とは思わなかったんだ。」
「フェロがそう自称しているんだ。」
「なんて言うか……。すごいね。」
それから、フェロが以前のように幽体離脱を終えて(燃える蝶がフェロの口に入ったところを見て、クレイが思わず身を引いていた。彼は虫が嫌いらしい。)一行は森の中へと出発した。ヒューズが考えた作戦はこうである。まず寮を脱出する。次に森を出て、車に乗る。そして町へ行くという寸法だった。この作戦の要である「森を出ることが出来る場所」と「車に乗ることが出来る場所」は、フェロしか知らなかったので大変不安だった。しかしフェロの先導で歩いていくと、森を抜けて車がずらりと並ぶ空き地に到着した。車は、乗車する人間の炎を使って動くものを選んだ。燃料を乗せた車の方が速度は出るが、運転するために鍵がいる。だから他人が勝手に使いにくい、とクレイが主張したからである。トーチはクレイに何故そんなことを知っているのか聞いたが、笑顔で聞かなかったことにされた。ヒューズが車に付けられていた鍵を破壊すると、四人は車に乗り込んだ。クレイが運転席、フェロが助手席、トーチとヒューズは後ろの座席に座った。この車はエンジンを積んだ、馬無しの馬車のような形がしていた。前方の助手席に、おなじみの小型発電機が取り付けられていた。
「よし。ボーヴォー。発電しろ。」
「よし、よしって俺様は犬じゃないぞ。……なあ帽子を脱いでもいいか?やる気が出ないんだ。」
ヒューズが許可すると、フェロは帽子を引っ掴んで取った。そのままフェロが帽子をどこかに投げ飛ばす前に、クレイが華麗にキャッチした。フェロは帽子を取ってスッキリしたのだろう。犬のように頭を振った。そしてそのまま小型発電機に火を入れた。車のエンジンが音を立てて起動する。四人が勝手にジャックした車は、クレイの迷いのない運転によって暗い街中を滑り出した。
「とりあえず、君が学校に来るときに汽車に乗った駅があるだろう? まずはそこに行くよ。そしてそこから先はトーチが道案内をしてくれ。僕は駅の場所は知っているけど、さすがに君の家までは知らないからね。」
トーチはクレイの背中に返事をした。クレイは手を挙げてこれに返す。一連の流れが終わると、ヒューズが流れの確認をしたいと提案した。
「では今日の流れを再度確認するぞ。目的は一つ。フォスターの家にある、夢の剣を知られずに持ち出し、点呼の前に寮に帰ることだ。いいか?絶対に見つかってはいけないぞ。いいか絶対だぞ、ボーヴォ―。」
「なんで俺様を名指しするんだ。」
「お前が一番うるさいからだ。」
フェロは前の座席から、後部座席に座るヒューズを見た。
「失礼だな。そんなヘマしないっての。それに俺様にはたとえ見つかっても切り抜ける秘策があるからな。」
トーチはフェロの秘策に興味を惹かれた。
「秘策?」
「いくら相棒でも教えないぞ。なんたって秘策だからな。」
「そこ!盛り上がるな。作戦会議の途中だぞ。……まず家の中に侵入する。そして剣を探し出すんだ。フォスター曰く、確実に倉庫にはないそうだ。まあ虱潰しに探すしかないな。家の中では二人一組で探索する。見つけたら一人が剣を取って、もう一人が他の二人に知らせるんだ。」
ヒューズの話を聞いている間に、トーチは窓の外に見覚えのある街並みが現れたことに気付いた。
「フォスター君。そろそろ駅に着くよ!今は大通りにいるみたい。」
「わかった!……そうだな、この大通りには僕の実家以外、赤いレンガの家がないんだ。それを目印にしてほしい。」
「赤いレンガ?暗くてわかんないよ!他に何かないの?」
「ほ、ほか?」
トーチは唇に手を当てて考え込んだ。いざ自分の家の特徴を思い出せと言われても、なかなか浮かんでこなかった。トーチの家は鍛冶屋で大きな煙突を持っていたが、この大通り他にも大きな煙突を持っている家は所どころに点在していた。トーチは完全に行き詰ってしまった。いつもはあんなに騒がしい脳内が、この時はまるで電池が切れたように静かだった。トーチは取り合えず頭を両手で抑えて、上下に揺さぶった。箱の中にある小さな菓子の欠片が、揺すったら箱から転げ落ちてくるように、たった今必要な手がかりが記憶の箱からポロっと出てこないか期待しての行動だった。その様子を見たヒューズは、正気に戻れとトーチに手刀を叩きこむ。突然の暴力に晒されたトーチは、その勢いのまま車の扉に頭をぶつけた。トーチは頭を押さえると、ぐぐもったうめき声をあげた。
(そういえば前もこんなことがあった。その時僕は車に乗っていた。そして何故か僕は運転していたような気がする。……ほんとは乗ってはいけない車に乗せてもらって、祖父の石みたいな拳骨で頭を殴られたんだ。)
トーチは思わず奇声を上げた。トーチは頭の中で、何かが降って来たような感覚がした。トーチの実家には誰にも負けない特徴がある、それを思い出したのである。それは叔父が大のスクラップ好きで、庭に大量のスクラップが放置してあり、その中には作りかけの作品が大量に放置されている。トーチはそんなスクラップの山が大好きで、休日にスクラップを弄る叔父の後ろについて回っていた。叔父はそんなトーチにいい気になって、無許可の自動車を作った。完全に違法だったが、叔父は私有地なら運転しても問題ないと言い切った。そしてトーチは車に乗り込むと、見様見真似で操作をした。しかしこの車とトーチはとても相性が良くなかった。トーチは他の人よりも、あの町では炎を操ることに長けていた。そして叔父は車に余計な改造を施していた。そのため規格外の改造をされた車の発電機に、大量の炎が流れ込んでしまったのである。当然車は暴走し、音を立てて倉庫に突っ込んだ。祖父は、倉庫に突き刺さった車を見て、トーチに拳骨を落としたのである。そしてそのまま車付きの倉庫は罰として放置された。そんな倉庫をトーチは責任を取って掃除していたのである。
「思い出した!僕の家の倉庫には車が突き刺さっているんだ!あと庭に大量にゴミが転がっている!」
クレイは素っ頓狂な声を上げたかと思うと、突然車が右へ左へと蛇行した。後部座席のヒューズとトーチは車の動きに合わせて揺さぶられる。フェロは大喜びしていた。
「ご、ごめん。車ね。車が……突き刺さっているんだね……。」
クレイは前方に注意しながら運転していると、明らかに異質な家が見えた。家の隣に家の半分ぐらいの大きさのガラクタの山が積みあがっている。クレイは件の家のそばにある、茂みに車を寄せた。車から降りて四人は家を見た。車の中からは暗くて見ることが出来なかったが、確かに奥にある倉庫が半壊し、車が刺さっている。
「確かに、刺さっているね……。」
「嘘かと思ったぞ……。」
クレイとヒューズは、トーチに呆れたような目線を向けた。トーチは恥ずかしそうに家の中に入っていった。
四人はとりあえず、半壊した倉庫の中に入った。あのまま家の前で話していたら、誰かに見られる可能性があり、また外が寒すぎて凍えてしまう可能性もあったからだ。四人は突き刺さった車の荷台から、倉庫の二階へと侵入した。倉庫の中へ入ると、まずフェロの髪の毛を再び帽子の中に突っ込んだ。そしてトーチとクレイは、持ってきた荷物の選別を始めた。
「ここには人はこないの?」
「うん。夜の間は来ないね。仮に倉庫に誰か入って来たとしても、車から入らないと二階へいけないんだ。二階と一階をつなぐ階段は、叔父さんが壊しちゃったから。二階にはそれほど重要なものを置いていないんだ。」
クレイはトーチにじっとりとした目線を向けた。クレイはゆっくり瞬きすると、フッと息を吐いた。何かを言うのを我慢したみたいだった。暫くしてヒューズが手を叩いた。
「よし。準備は万端だ。いつでもいけるぞ。」
ヒューズは重々しく言った。そして拳を突き上げた。他の三人も倣って拳を突き上げる。
「ここを拠点とする。30分ごとにこの場所に集合するぞ。」
ヒューズの言葉に四人は二人一組になって散っていった。
トーチとフェロは、トーチという実家に詳しい現地人がいるため、必然的に最も探しにくい鍛冶場を探しに行くことになった。鍛冶場は一家の仕事の要である。当然セキュリティ対策は厳重に施されている。しかしトーチはただで挫ける男ではなかった。彼は一家の当主である祖父から嫌われていた。彼は祖父から度々叱られて、一人鍛冶場に閉じ込められることが多かった。初めの方はただただ暗闇の中で泣いていたが、閉じ込められ回数が増えると、なんだか怖いと思うことも無くなった。怖くはなかったが、閉じ込められているため非常に退屈だった。その退屈しのぎにトーチは鍛冶場を探検した。明かりは自分で炎を出せるので必要なかった。暫く探索していると、一部腐敗した床板を見つけた。そこは鍛冶に使う綺麗な水を保管する場所の近くの床板だった。そこの床だけは、よく水を溢すため、水を逃がすために、すのこのようになっていたのである。トーチはその床板を外すと、こっそりと穴を掘って、外に脱出する通路を作った。ただ床板を破壊するだけでは怪しまれるので、ここに穴が必要だと信じ込ませるために、綺麗に真四角の形に穴をあけたのである。そして丁寧に半分に割ったパイプを置いておいた。この表向き排水溝の穴は、誰にも何も言われず排水溝として使われることになった。トーチはよくこの穴を使って、自分の部屋にこっそりと戻っていた。訝しまれることを避けるために、家庭菜園に憧れていた叔母の片棒を担ぎ、秘密の抜け穴のそばに植木鉢を敷き詰めた。丁度秘密の入り口を、野菜と花の植木鉢の境界線になるように配置した。トーチは植木鉢に近寄ると、一方の植木鉢にだけ冬に咲くパンジーが咲いていた。その様子を見て、思わずほくそ笑む。トーチとフェロはパンジーの鉢を跨いで、こっそり穴から侵入した。久しぶりの鍛冶場は、独特な静寂が漂っていた。鍛冶場は昼と夜で全く違う顔を見せる。昼の間は鉄と鉄がぶつかる激しい音が鳴り続ける。しかし夜はひっそりと炉の火種が燃えているだけだった。トーチは昼の鍛冶場も好きだったが、夜の鍛冶場の特別感が一等気に入っていた。他の家族は知らない。夜、鍛冶場は完全な暗闇の中に沈む。月がある決まったところに移動すると、鍛冶場は強烈な月明かりに照らされる。すると暗闇の中で、放置されている刃物だけがぼんやりと浮かび上がる。トーチにとって、武器とは汗と血の結晶だった。武器を作る人間は、文字通り心血を注いで武器を作り上げる。あの陽気な叔父でさえも、真面目な顔で武器を鍛えるのだ。その成果が月明かりに輝いているのを見ると、ひどく誇らしい気持ちになる。とはいっても、トーチは家から追い出されてしまったので、もう二度と叔父の鍛冶姿を見ることは叶わないかもしれない。トーチは思わず感傷に浸ってしまった。するといきなりガコンと音が鳴った。いやな予感がして振り返ると、フェロがドリルを手に持っている。その指が引き金に向かっているのに気づき、慌てて引っ手繰った。
「何をしているんだ!これは叔父さんが王都から持ち帰ったものだぞ!僕だって触らせてもらったことがないのに……。」
フェロは顔を背けた。絶対にトーチの目を見ないという意思を感じる。喧嘩をしても埒が明かないので、とりあえず鍛冶場の中を探した。しかしそれらしきものは見当たらない。
「相棒。俺様気づいちゃったね。こりゃないって現象だ。」
「鍛冶場にないとしたらどこにあるんだ……。」
トーチは木を隠すのは森の中、剣を隠すなら剣の中だと思っていたため、件の剣は絶対に倉庫か鍛冶場にあると踏んでいた。ヒューズとクレイに保険として家の中を探してもらっているが、まず家の中にはないだろう。トーチの記憶の中では、その剣はトーチの背丈と同じぐらいの高さがあった。何歳の記憶なのかはわからないが、大きく見積もって120センチぐらいだろう。それぐらいの大きさの物を、今までトーチに気付かれずに倉庫で保管することは難しい。だからトーチは、自分は鍛冶場の中で自分はその剣を見かけていたが、鍛冶場に剣があることは普通なため気にも留めていなかったという可能性に賭けていた。しかし鍛冶場のどこにも見当たらない。
「相棒。どんな剣なのか、見た目だけ教えてくれ。」
「たしか……白だ。刃以外はみんな白だ。」
「それじゃ剣というよりも、お宝みたいだな。」
トーチはフェロの言葉に納得する。確かに炎獣を倒すために剣を振るえば、当然剣には汚れ付着する。そうなると白という色はとても汚れが目立つ。そのため叔父や祖父はグリップの部分を、暗い色にして作成していた。
「あ?俺様閃いちゃったね。」
「何? 」
フェロは人差し指を立てて、得意げに言った。
「相棒はお宝を隠すなら、床下だって言っただろ? 床下のどっかにあるんじゃないか? 」
トーチはその考えを否定する。床下にしまいこめば、水分を吸って腐ってしまうだろう。それでは剣として使うことは出来なくなる。フェロはやれやれと首を振った。
「そもそも、その剣は相棒が八歳より前に作られたんだろ? 八歳以降にもそんな剣も見ていないし、図面もないんだったら、そもそも隠しているんじゃないか? 隠している奴はきっと使おうだなんて、はなっから考えていないんだ。」
トーチは再び考え込んだ。トーチが知らないだけで、その剣がすでに売れている可能性はある。しかし武器というものはかなり高価で、かつ危険物だ。後々の揉め事を防ぐためにも、取引された剣の所在や持ち主は必ず帳簿に記載している。なによりも剣を愛している家族に限って、大事な剣を杜撰な取引に掛ける訳がないと確信していた。ならばやっぱり隠されているのだろうか? トーチは壁に掛かった時計を見た。もう25分は立ちそうだ。
「フェロ。そろそろ戻ろう。そして二人にフェロの考えを言うんだ。」
フェロは頷くと、ドリルを二丁盗んでいった。
ドリル片手に戻った二人を見て、ヒューズとクレイは一瞬面食らったようだった。
「それはなんだ……。」
「これはドリルだよ。叔父さんが王都から持ち帰って来たんだ。こう、ここを引っ張ると電気が……電気ってあの電気か。……ああ、話を逸らしてごめんね。とにかく固いものに穴を開ける機械だよ。」
「何故穴を開ける必要があるのだ。」
フェロが自分の考えである、もしかしたら地下に埋められているのではないか、という考えを説明した。すると、すぐに二人の顔つきが変わった。すぐに四人は床に座って、膝と膝を着き合わせて話し始めた。ヒューズとクレイは、トーチから預かった鍵で侵入し、片っ端から家の中を探したらしい。叔父家族はみんな部屋に鍵を掛けずに熟睡していたため、ざっと部屋の中を洗ったようだった。もちろんそれらしいものは見つからなかったが、唯一祖父の部屋だけは侵入することが出来なかったようだった。今までトーチは他人の部屋に入ろうと思ったことがなかったので、祖父が部屋に鍵を掛けていることは知らなかった。しかし他の家族が鍵を閉めていない中、一人だけ鍵を閉めているのはどうにも怪しい。祖父は偏屈で凶暴なじじいとして近所で名を馳せている。その排他的な姿に、祖父は部屋の中にいくつも凶暴な武器を隠し持っているとか、夜な夜な刃を研いでいるだとかそんな噂が流されていた。
「やっぱりお祖父さんだ。あの家族の中で隠し事をしそうなのもお祖父さんしかいない。」
「よし。侵入するぞ。」
「ちょっと待ってよ。フォスター君にヒューズも何か忘れていない?お祖父さんの部屋には、きっとお祖父さんが寝ているよ。」
ヒューズは盲点を突かれたようで、きゅっと口を噤んだ。そしてそのまま「爆音を鳴らして、引きつければいい。」とぼそっと呟いた。クレイは、なんて馬鹿なんだというの顔をした。
(音を立てるか……。)
トーチは唇に手を添えて考える。この作戦の問題点は2つ。そもそもどうやって爆音をだすか。二つ目は音を出した後、どうやってその場を離れるかだ。一つ目の問題だが、現在四人は全く爆音がなるようなものを持っていない。だからと言って誰かが囮になるもの避けたかった。それに家を破壊するのも申し訳ない。ここはあくまでトーチの実家なのだ。二つ目の問題は、きっと家の敷地内で爆音がしたら、家族は跳ね起きて様子を見に行くだろう。誰かが明かりを持っていくかもしれない。しかもこの家には改造魔の叔父がいるのだ。きっと持ち出した明かりだって、べらぼうに明るくて隠れることなんて出来なくなるかもしれない。トーチは頭に浮かんだことを、三人に共有した。するとクレイは2番目の問題だけは何とかなるかもしれないと言った。
「ボーヴォー君が音を出せば良いんだよ。」
「俺様に囮になれと? 」
フェロがぷりぷりと怒る。クレイは慌てて、手を振った。
「違う違う!君は炎だけに―幽体離脱が出来るだろう? 2番目の問題の難しいところは、庭に隠れるところが無くて、照らされたら一巻の終わりだってところだ。だけどそれは僕たちが人間の姿だからだ。もしも人じゃなかったら? 例えば蛇とかに変われば、芝生の中に潜むことが出来る。鳥や蝶に変わって上空を飛べば、仮に泥棒を警戒していたとしても相手はきっと侵入者を人間だと決めつけるはずだから、そもそも上を見ない可能性だってある。それに例え見られたとしても、きっとあまりにも不可解すぎて、不審火か怪奇現象だと思うかもしれない。」
「なるほどな。実に素晴らしい案だ。クレイの案を採用するぞ。」
ヒューズは眼鏡を押し上げながら言い放った。残る問題は一つ、何で音を出すのかだ。現状、四人は音を出すものを持っていない。これ以上、実家を破壊するのは忍びないので、壊すとしても放置されたスクラップ程度しかない。それにあまり人的証拠を残したくなかった。すると条件を満たすものは、現地調達できるもので、すでに壊れているものか、スクラップに限られる。以上のことを、トーチは無意識にブツブツと呟いていた。それを目ざとく聞いていたフェロが手を挙げる。
「俺様!あの車に乗りたい!」
「もしかして、倉庫に突き刺さっているアレのこと? 」
トーチの言葉にフェロが元気よく頷く。ヒューズは顎に手を置きながら、車の方を見た。
「しかし、車を起動したら、また発進してしまうんじゃないか? 」
ヒューズの言葉にトーチが頭を振る。
「あの車は、僕と叔父さんへの見せしめって意味もあるけど、実は動かせないから放置しているんだ。タイヤがパンクしちゃって、ホイールが壊れちゃったんだ。最後に動かしたのはもう何年も前のことだけど、その時はエンジンだけが付いたよ。」
その言葉にヒューズは頷くと、フェロの方に体を乗り出した。
「ボーヴォー。お前はまずここに残って車のエンジンを起動する。この時お前の体はフォスターに運ばせる。そして次になんでもいいから音を出せ。そうすればきっと住民が様子を見にやってくる。最後に音を鳴らしたら、すぐにフォスター祖父の部屋に侵入するんだ。」
「俺様、相棒のじいちゃんの部屋なんて知らないよ。」
ヒューズは顎に手を当てて暫く考えると、おもむろに口を開いた。
「お前はニコル先生が嫌いだろう。」
「大嫌いだね。」
「フォスター祖父の部屋は、まさにニコル先生が住んでいそうな部屋だ。つまりお前が入りたくないと思った部屋が目当ての部屋だ。」
「おお。分かりやすいな?」
クレイはトーチに話しかけた。
「穴はどうやって空ける? そのドリルを使うの? 」
トーチは持ってきたドリルを見た。鈍色の金属にどこか興奮したようなトーチの顔が映っている。出来たら穴は開けたくない。しかしトーチは自分の祖父が、収納だなんてわかりやすい所に隠しておくはずがないとも思った。祖父はやるとなったら徹底的にやる男だ。本気で隠蔽しようとするのなら、徹底的に見つからないような場所に隠すだろう。
「多分穴を空けることは回避できない。だからできるだけ時間を稼いでくれ。とにかく注意を引いてほしい。」
クレイがトーチの考えに賛同する。
「フォスター君の言う通りだね。まずボーヴォー君は、車に侵入する。そしたら発電機に種火を仕掛けることは出来るかい? なるべくエンジンを起動している時間を長くしたいんだ。」
「なんで? 」
「僕たち三人が部屋に侵入する前に、あらかじめクラクションを押した状態に固定しておく。そうするとエンジンが動いている間だけ、きっとクラクションは鳴り続ける。そして君はすぐに車から離れるんだ。そしてあの時みたいに蛇になって、ぐるっと家の周りを回って家に来てほしい。」
「どうして遠回りするんだ。」
「燃える蛇になって芝生を歩けば、きっと火が付くはずさ。そうしたらきっと穴を空けている音どころじゃ無くなる。僕だったら絶対芝生の消火活動を優先するね。
……ああ蛇のまま部屋に来ちゃいけないよ。途中で姿を変えてくれ。もしも蛇のまま部屋に来たら、何かが家の中に侵入したことがバレてしまう。」
「ふーん」
フェロは感心したように頷いた。そんな様子を見ながら、トーチは背筋にヒヤリとしたものが走った。このクレイという男は、とても自然な口調で人の実家に火を付けることを提案した。鬼か悪魔なのかと思ったが、トーチは何も指摘しなかった。そして四人は各々支度を済ませると、全ての荷物を持った。計画を実行すれば、きっとこの倉庫は警戒されて、荷物を持ち帰ることは出来ないだろうと思ったからだった。四人はクラクションを改造すると、フェロは倉庫に残り、他の三人は乗って来た車を目指した。そして車に荷物を入れると、ドリルとフェロの体をもって三人は祖父の部屋へと侵入した。
フェロは倉庫で一人じっとしていた。そしてなんとなく、自分の体が床に置かれたようなそんな感覚があった。おそらく祖父の部屋近くに着いたので、とりあえず邪魔なフェロの体をどこかの床に置いて隠したのだろう。なんてことをするんだと思ったが、フェロは怒りを鎮めた。なぜならこれから盛大に音を鳴らしていいと許可が出ているからだった。フェロの専売特許は迷惑行為だ。もちろんその中には、破壊と騒音も含まれている。自分の得意分野がついに認められたと、フェロはウキウキしていた。さっと壁掛け時計を見ると、あれから12分ほど立っていた。そろそろ頃合いではないか、そう思ったフェロはふよふよと車の中へ飛んで行った。車を見ると、スクラップを器用に押し当てて、クラクションが改造されている。フェロは、出来ることならクラクションも押したかったなと思った。フェロがスウっと意識を発電機の中に集中させた。フェロは人間のことを炎の塊だと思っている。フェロは人より目が良かった。そのため自分たち人間が、炎が人の皮を被っていて、その炎が筋肉なり、骨なりを動かしているという事実を知った。種火を作るという行為は、自分の内側に眠る炎を別のろうそくに移し変えるような、まるで自分を増やすかのようなそんな感覚がする。綺麗に自分の意思を込めると、炎は長持ちをする。出来なければ、風に吹かれて消えてしまう。誰だって自分から生まれた炎だけは偽ることが出来ない。炎は感情を写す鏡だ。心身が弱っている人の炎はひどくか細い。その反対に生命力に溢れる人の炎は、目が眩んでしまうような強烈な光を放つ。人類の炎は、多くの神秘を秘めている。その中の一つに自分の意思と心身がどちらも情熱に溢れているとき、人は最高に命を燃やすことが出来るという神秘がある。その時人は赤い炎ではなく、青い炎を生み出すのだそうだ。フェロは一度だけ青い炎見たことがある。あれは8歳ぐらいのときだろうか。窓の外を眺めていると、青い星が空を動いているのが見えた。初めは小さな点だった青い星が、徐々に自分の部屋に近づいてくる。フェロは思わず窓の外に身を乗り出した。米粒ぐらいの星が、手のひらぐらいの星に変わったとき、フェロは星だと思っていたものが実は人だったことに気付いた。青い炎を体に纏った男は、鬼気迫る顔つきでフェロの横を通り過ぎていった。彼は白銀の髪を靡かせて、額に汗をにじませながら、一心不乱に飛んでいた。彼はフェロのことを一度も見なかった。フェロはその彼の目が忘れられなかった。彼はどこに行くんだろう。何をそんなに急いでいるんだろう。その時初めて、フェロは他人に興味を持った。この体験がフェロを変えた。自分でも青い炎を出したかったフェロは、有り余っている時間を使って特訓した。炎が青くなることはなかったけれど、代わりに幽体離脱が出来るようになった。この技のおかげで、フェロは旧時代のことを知ることが出来た。一生を檻の中で過ごすのだろうと思っていた人生に、外の世界の存在を付け足してくれた。家族に受け入れられなかった自分自身を愛す理由が出来た。夢も出来た。だからきっとあの青い炎は、今まで燃えカスのような人生を送っていた自分を変えてしまうほどのパワーを持った、吉兆の証であり、誰かの命の波動なのだ。もう一度あの青い炎を見たい。もう一度見ることが出来たら、きっとまた自分の人生を変えてしまうような何かに出会うことが出来る。本当に自分の手で天国を作ることが出来るかもしれない。そう思ってフェロは火消養成学校に入学した。フェロは火消には興味はなかった。ただ火消養成学校が寮だったから、少なくとも実家よりかは自由に過ごせるのではないかと思って入学した。寮に住めるという以外に、魅力はなかった。しかし今は入学して良かったと思っている。フェロの周りで、一度に多くの命が、相棒を筆頭に激しく燃え始めている。ただの直感だが、きっと彼らの炎はフェロの何かを変えてしまうほど強い力を持っている。特に相棒の成長は目覚ましい。へなちょこにしか燃えていなかった炎が、あの日を境にメラメラと燃え始めた。彼の炎は、どこまでも飛んでいきそうな鳥のようだ。今はまだ殻を被ったままだが、彼の進化はもう目前に迫っている。フェロは嬉しかった。自分が付けた火がここまで燃えるとは思っていなかったからだ。フェロは芽吹き始めた炎を守るためなら、どんなことでもするつもりだった。正直に言えば、微塵も剣に興味などなかったが、それで彼らに火が付くのならむしろ僥倖だった。ボッと音を立てて発電機に種火が生まれる。フェロは胸の高鳴りを押さえることが出来なかった。この夜の間で、三人の炎は様々な形に変化した。命が確実に変化している。嬉しさが止まらなかった。フェロの高揚感に比例して、発電機の中の種火が激しく燃え上がる。狭い発電機の中で、生み出した炎が窮屈そうにしている。
(炎を誰かに閉じ込められるのは不快だ。)
彼らは、折角良い炎を持っている。
それなのにどこか窮屈そうだ。彼らの心身にあるどこかしらの異常が、炎を閉じ込めている。閉じ込めるなんて勿体ない。彼らは自由に外炎を燻らせている方が似合っている。フェロの激情に合わせて、とうとう発電機が発火した。ボンっと音を立てて蓋が取れる。それと同時に、クラクションがファンファーレのように鳴り響いた。
一方その頃、トーチ達は祖父の部屋に近い物陰に身を潜めていた。すると突然、耳を劈くような音量でクラクションが鳴り響いた。部屋で眠っていた住民たちは、次々と目を覚ましたようだった。四方八方から、慌ただしく動いている足音が聞こえた。それからほどなくして、眠っていた叔父家族が居間に集結した。一言二言何かを話合うと、玄関から外へ飛び出していった。祖父も例外ではなかったようだ。祖父が中で上着を羽織る音がする。祖父の着ている上着には、沢山のポケットが付いている。祖父はその中にいつも工具を仕舞っていた。そのためただ歩くだけでも、金属と金属がぶつかり合う音がするのである。それから一分も経たずに、祖父の部屋の扉が開いた。部屋の中から祖父がぬっと登場した。その手には、明らかに機動性に欠ける、黒光りした斧が握られていた。祖父は斧をズルズルと引きずりながら、足早に玄関の外へと消えていった。玄関の扉がガチャリと閉まる。暫くの間、家の中を静寂が支配していた。
「いったかな? 」
「多分言ったな。」
「ヒューズ?よく確認して。」
三人は辺りを警戒したのち、恐る恐る物陰から姿を現した。三人は、トーチの祖父の斧を思い出して、ゴクリと息を飲んだ。緊急事態の時に、パッとあの斧を持ち出せる人間の部屋は一体どうなっているのだろうか。まさか罠を設置しているのだろか。とても部屋に入りたくなかったが、入らなければ始まらない。この家は二階立ててで、二階には子供たちが住んでいる。一階は叔父夫婦と祖父の部屋、書斎、居間、キッチン、応接間が在った。一階のどの部屋にも、穴を掘って隠すことは可能だ。しかし最も可能性があるのが、この閉じられた祖父の部屋だった。マゴマゴしているトーチは、ドアノブを握ったり、放したりした。そんなトーチをヒューズは押しのけて、代わりに自分が部屋を開け放った。祖父の部屋は意外とシンプルだった。ベットにクローゼット、そして古そうな片袖机が置いてあった。そして壁や机には、叔父家族の写真が飾れていた。その中にはトーチの姿は一つもない。もう何年も前から、トーチは祖父に嫌われていた。その事実に悲しくなった時期もあったけれど、今はきちんと向き合い、その事実を受け止めたはずだった。しかし祖父の部屋に、トーチの家族の写真は一枚も無いことがショックだった。トーチの悲哀をよそに、二人は部屋を物色し始めた。
「さて、怪しいところはどこだ?」
「うーん。今のところ収納されている訳ではなさそうだよ。」
「やはり、隠しているのだろうな。」
「だろうね。」
ヒューズは床板を一枚一枚叩き始めた。部屋の隅から、部屋の隅まで隈なく叩き切った。そして今度は部屋の中央だけを叩き始めた。何度か中央と外側を叩き比べると、その様子を見守っていたトーチとクレイに声を掛けた。
「真ん中が怪しい。音も変だが、何より床板が沈む。」
「そりゃ確かに怪しいね。」
トーチはコツコツという異音を拾った。思わず窓の外を見ると、炎の鳥が窓ガラスを突いている。トーチは窓ガラスを開けて、炎の鳥を中に入れた。そしてそのまま鳥は、トーチの右肩に止まった。おかげでトーチはじわじわと右側の毛先を燃やされた。
「二人とも、フェロが戻って来た。僕はあっちでフェロをもとに戻してくるよ。」
「わかった。フォスター君。こっちは任せて。」
トーチはクレイの言葉に頷くと、祖父の部屋から出ていった。フェロの体は、キッチンの床に置いてある。キッチンの床は、家の床の中で一番温かい。一応これはトーチなりの配慮だったが、果たして伝わったのだろうか。トーチとフェロがキッチンに着くと、フェロが頬の肉を抉るかのように突いて来た。トーチはフェロを肩に乗せたまま、いきなり地面にしゃがんで見せた。するとフェロはバランスを保てなくなって、飛び上がった。そのまま向きを変えると、何も言わずに口に入っていく。ほどなくして、フェロの体がビクビクと痙攣し始めた。フェロが抵抗しないうちに、トーチはフェロに帽子を被せた。
「はあ……。さんざんな目にあった……。」
フェロはげんなりとした顔をしていた。話を聞くと、斧を持った人間に襲われたという。トーチは半笑いで流したが、いやな事実に気が付いた。もしかすると祖父は家の近くに戻っているかもしれない。遠くから二人が床板を切断する音が聞こえる。もし祖父が家に近づいたのなら、当然異音に気付くだろう。暗い中で床板を破壊するのは無謀すぎるため、当然ほのかな明かりは付けている。祖父ならその小さな明かりでも目ざとく発見するだろうと思った。
「とりあえず、二人に合流しようか。」
「俺様、まだフラつく。」
「肩貸すよ。」
トーチがフェロに肩を貸したその時だった。あの特徴的な金属音が鳴った。祖父の上着の音だ。トーチは恐る恐るキッチンのすりガラスを見た。外で屈強な男の影が動いているのが分かった。トーチは叔父であることを願ったが、無情にも何かを引きずっているような音も聞こえる。トーチは確信した。絶対に祖父だ。トーチは無理やりフェロを背負うと、最小限の足音で祖父の部屋へと向かう。家の外からは断続的に祖父の上着の音が聞こえる。トーチは自分が音と並走していることに気付いた。どうやら同じ場所に向かっているらしい。トーチは足を早める。最悪見つかったとしても、トーチ自身だけだったなら救いがある。しかし祖父にとって全く知らない相手である3人が見つかってしまった場合、何が起きるのかは未知数だった。最悪の場合、あの斧が猛威を振るう可能性だって十分に存在する。トーチが祖父の部屋に入るのと、二人が床板を取り除いたのはほぼ同時だった。小鹿のようなステップで部屋に入って来たトーチに向かって、二人は剣を取り出せることを報告した。トーチは小さくガッツポーズをする。そしてトーチは埋まっている剣に視線を落とした。はっきり言って、その剣は異常だった。まずトーチ達がいつも使っている剣とは大きく異なる細身の剣だった。そしてその剣は、湿気を含む土の中に入れられていたというのにも関わらず、あの時のままの白さを保っている。トーチの息がだんだんと細かくなっていった。手や額に汗がにじむ。視界の端に映った足が、ひどく震えているのが見えた。トーチは頭を押さえた。覚えのある痛みだった。あの白昼夢を見る前に必ず訪れる、締め付けるような、脳が沸騰するような痛み。トーチは歯を食いしばった。この後の展開を自分は知っている。この後自分は、女性が殺される光景と、自分が責め立てる声を聴く。そして爆発するように自分は叫んでしまう。
「おい、フォスターどうした。」
ヒューズがトーチの体を揺さぶった。その拍子にトーチの背中からフェロがずり落ちた。フェロはむくれていたが、トーチの顔を見て何かを察したらしい。そしてほぼ同時に四つのことが起こった。まずトーチが耐え切れずに叫んだ。そしてその声を聴いて、歩調を早めた祖父が窓の外に登場した。その様子を見たクレイが、さりげなく明かりを消した。そして最後にフェロがトーチの悲鳴を塞いだ。しかし塞ぎ方が良くなかった。フェロは何故かトーチにキスをした。ヒューズとクレイは、白目をむいて大口開けているトーチの上から、フェロが被さるようにキスをしている所を至近距離で見てしまった。
「ゲ……。」
ヒューズが呟く。間髪入れずに外にいる祖父が叫んだ。
「貴様ら!盗むだけでは飽き足らず、他人の家で口吸いまで行うとは?下品なコソ泥め。成敗してくれる!
」
ヒューズとクレイは、事態が一気に混乱したことを悟った。とりあえず部屋の中央で抱き合っている二人を引き離し、それぞれ一人ずつ脇に抱えた。そしてヒューズは獲得した剣を、クレイはなぜかドリルを片手に、勝手口から転がり出るように外へと飛び出した。後ろから「不埒な輩め!軍に突き出してやる!」という声が聞こえた。どうやら祖父は、自分の部屋に侵入した盗人は、部屋で堂々とモーター音を鳴らし、家主である自分に薄暗い部屋での熱いキスを見せつけたと思っているらしい。盗人がまさかの自分の孫で、そして軍関係者だとは微塵も思っていないようだった。何が何だかわからないが、ヒューズとクレイはとりあえず走った。とにかく頭の中にここから逃げなければ、そう思った。二人は車の前に到着すると、脇に抱えていた二人を車の中に投げ入れた。そのまま自分たちも車に飛び乗ると、クレイは容赦なくフェロの頭を叩いた。フェロも意図を察してか、おとなしく発電機に種火を入れた。車が滑り出すように発進した。後ろから突如として怒号が上がる。どうやら部屋の有様に気付いたようだった。運転席のクレイは、迷わず大通りを突っ切った。すると前方から、何かが走ってくる。クレイは一瞬対向車が車線を間違えているのかと思った。しかしそれは間違いだった。5匹の犬を模倣したであろう炎獣がこちらに真っ直ぐ突っ込んで来る。物体と物体が激突するときには、衝突時の物体の速さが合算される。現時点でこの車は、法定速度ギリギリの速さで走っていて、相手も同じぐらいの速さだと推測する。衝突したら車が大破するだけでは済まないだろう。クレイはハンドルを握りこんだ。5体は横に広がって並走している。端の一体と縁石の間を突き進むか、それとも正面突破するのか、その決定権はクレイにある。クレイは動揺からか、体が硬直してしまった。クレイの顔に焦りが滲む。そんなクレイの肩に、ヒューズが手を置いた。クレイはヒューズをちらりと見る。ヒューズは後部座席にある椅子の背もたれに登った。
「オープンカーで、こんな不安定な足場しかないのが些か気になるが、まぁ問題ないだろう。」
ヒューズは剣の柄に手を添える。忘れっぽい彼の頭の中で、誰かの声が響く。
「お前に、この刀をやろう。」
ヒューズは目を細めて、炎獣を睨む。姿勢を低くし、息を吐いた。
「お前は刀と言うのか。……よく手に馴染む。」
ヒューズは足場を蹴ると、異常なスピードで炎獣に肉薄する。彼の特技は、足に炎を集め、凝縮し、それを一気に開放することで生じる機動力だ。自分と炎獣との距離が急速に縮むのと同時に、ヒューズの視界からまるでトンネルの中に入ったかのように、炎獣以外の存在が消えた。自分と敵しかいないこの景色には、妙に見覚えがあった。きっと自分が忘れているだけで、何度もこんな経験をしたのだろう。体に染みついた型が、当たり前のように体を突き動かす。新しく手に入れた刀は、自分の動きを一切邪魔しなかった。あるべきものがあるべき場所にあるかのように、刀とヒューズはひどく?み合っていた。
(ああ、口惜しいな。こんな感覚を忘れていたなんて。)
ヒューズは大きく右足で踏み込んだ。
「抜刀!」
ヒューズは一瞬のうちに、炎獣を切り刻んだ。そして再び地面を蹴って飛び上がると、後ろから猛追してきた車に飛び乗った。一連の技は、彼の異常なまでのスピードによって成せる技だった。ヒューズは風圧によってずれた眼鏡の位置を直した。
「すまない……。久しい感覚だったもので、一体逃したようだな。なんとも恥ずかしい。」
「いいよ。一体逃したのが、結果的に良かったかもね。きっとあいつらはボーヴォー君の炎と音に釣られてきたんだ。」
フェロは椅子の上で胡坐を組んだ。
「そのボーヴォー君ってのをやめろ。親分かフェロって呼べ。」
クレイは一瞬目を見開くと、「フェロ君」と言い直した。
「もしかしたら一連に事件の犯人が炎獣ってことになるかもしれない。」
「そりゃ最高だね。幽体離脱した介があった。」
暫くの間車内に沈黙が続いた。話題はあったが、気力がなかったのである。
そして四人はコソコソと車を戻し、鉄の扉をくぐった。トーチは気絶しているのか、寝ているのか、とにかく車の中では微動だにしなかった。しかし車が停車して、フェロが鼻の孔を髪の毛でくすぐると、くしゃみをしながら跳ね起きた。こうして四人無事に帰って来たのである。四人は全員ひどく疲れていた。そのため早く寮に戻って眠りたかった。しかし、いつものようにカース先生が見回りをしていた。傍らには何故かニコル先生もいる。トーチは先生たちは、最近頻発する不審火を捕まえようとしているのだろうと推測した。見回りが一人より二人の方が、断然見つかるリスクが高まってしまう。四人はその都度物陰に隠れたり、天井に張り付いたりしてやり過ごした。目指すは寮の最上階にある、無人の個室だった。そこに刀を隠して置くという寸法である。ヒューズは卒業試験まで隠しておいて、卒業試験の際は何食わぬ顔をして刀を振るう腹積もりだった。最上階に着くと、ヒューズは残りの三人に、それぞれ階段を見張れと命令した。三人が返事をする前に、ヒューズはそそくさと刀とついでにドリルも隠しに行った。三人はポツンと廊下に立っていた。するとどこからか話し声が聞こえる。三人は顔を見合わせると、さりげなく声のする方向に近づいた。声の主はボソボソと話していたが、次第に熱が入ったのか、声量が大きくなって行く。声からして、カノンとジルのようだった。
「……から、何度言っても聞かぬのだ。あやつは散々怪しいと言っているのに、ミシェルは聞きもしないで話しかけに行ってしまう。」
「それは心配ですね。」
「ミシェルは優しいからな。もうすぐ命が尽きようとする者にも、悪人にも、平気で手を差し伸べようとする。それで迷惑を被るのはいつだってミシェルなのに。」
「ええ、本当。その通りですね。」
カノンが一瞬間を置いた。その後やけに通る声で、再び話始めた。
「ノヴァ・アンダーソンの本名は、ノヴァ・アルデンヌ。ミシェル様と同じ、歴代王の牙をお勤めになる一族のお方。」
トーチの真隣りで、クレイが息を飲んだ。トーチが振り返ると、クレイが険しい顔をして佇んでいる。しかしクレイはトーチの視線に気付くと、いつもの笑顔へと戻った。
「……アイツはミシェルとは違う。アイツは家から追い出され、一族を破門にされた。曰く、王の牙の適性がないからだそうだ。」
「まあ……。そんな秘密が。」
「あの女は何も持たない。何も中身がない。何も価値がない。虫けらのような奴のくせに、全てに対して勝者のように振る舞う。ミシェルはその姿に憧れたと言っていたが……。」
ジルが息を吸う音が聞こえた。
「私に言わせれば、ただの負け犬だ!あの女はいつもミシェルを邪見にする。あの女に何の権利があってそんなことが出来るのだ! あの女は、ただ、ただミシェルの優しさに付け込んで、ボルジアの威光を自分のもののようにしたいだけだ!……あの女は地位を棄てることが出来て清々していると話していた。それはきっと詭弁だ。結局あの女は地位と名誉に縋り付いているはずなんだ。あろうことか、他人の名誉にな!」
カノンがまた一瞬間を開けた。
「まあ……。」
カノンの靴が教室の床を踏みしめる音が聞こえた。
「私、全然知らなかったわ。何分人間関係に疎いもので……。」
彼女の声はお菓子のようにひどく甘ったるかった。
「私、ミシェル様がノヴァさんとお昼を食べている所を何度もお見掛けして、二人に憧れていたのに……。ミシェル様はよくノヴァさんに召し上がって、そう言っていたわ。……もしかしてそう言うことなのかしら。」
ジルが息を飲む音が聞こえた。
「ノヴァさんは、意外と繊細なのですね。……どうせ、秘密を打ち明けても誰も信じてくれないと思っている。そんなことないのに。」
ミシェルの声は、まるで砂糖のように空中で解けた。あたりの空気には、嫌な粘り気だけが残った。クレイが無意識に拳を握りしめ、下唇を血が出るほど噛んでいた。
「ジルさんは、お優しいですね。」
「え?」
「ああいや!ノヴァさんをミシェル様の周りに野放しにしていることが、お優しいな、と。きっとノヴァさんを哀れんだのですよね?」
クレイはフラフラと物陰から出ていった。トーチが背中に声を掛けると、すぐ戻ってくるから、と出て行ってしまった。
「私なら、きっと我慢できないわ……。」
カノンの声が、ゆっくりとあたりに広がっていく。トーチは視界の先でクレイがうずくまるのを見た。あのいつでも飄々としたクレイが、背中を丸めて、地面に手を着いている。思わずトーチとフェロが駆け寄ると、クレイは真っ白な顔をしていた。
「ひ、秘密を打ち明けても、誰も……信じてくれない……。」
「お、落ち着いて。」
トーチはクレイの背中を摩る。フェロは何となくトーチのそばに腰を下ろした。クレイの顔は、何かを怯えているような、後悔しているような、そんなあらゆる苦悩が混ざった顔をしていた。クレイの肩は震えている。瞳がどこか遠くを見ていて、心だけ昔にいるような、そんな雰囲気があった。クレイの解放をしていると、突然周りが明るくなった。思わず前を見ると、カース先生がこちらに灯りを向けていた。光源をじかに直視したせいで、トーチは目が眩んでしまった。そのあと三人は懲罰室に連行されていった。ヒューズは捕まらなかった。カース先生は、もう夜が遅いことと、クレイの体調が芳しくないことを加味して、罰則を翌日に回すと言いつけた。その代わり今夜は懲罰室で過ごさなければならない。懲罰室に着いても、クレイは、暗く、落ち込んだ様子だった。トーチは何とかしてあげたいと思うが、どうしようも出来なかった。そのまま三人は、トーチを川の字の真ん中にしていそいそと寝袋に入った。トーチは自分の瞼が、なにもしなくても降りてくるのを感じた。どうやら相当疲れていたらしい。ぼんやりとした記憶の中で、フェロにとんでもないことをされたような気もする。もう寝てしまおう。トーチは意識を手放そうとした。
「秘密を打ち明けても、誰も信じてくれないなら、どうする? 」
唐突にクレイがポツリと言った。日中の彼のハキハキとしたしっかり者な人物像が結びつかないほど、か細く弱々しい声だった。
「諦めない。」
フェロが言った。トーチは思わずフェロの方を見る。フェロの瞳の中で炎が燃えていた。
「俺様はそうした。そうやって相棒を手に入れた。」
トーチは自分の顔が赤くなるのを感じた。思わず寝袋に潜る。
「ははは。フェロ君らしいや。……トーチ君が羨ましいな。」
クレイはそう言うと、スッと寝てしまった。翌朝起きると、クレイはもうどこかに行ってしまったようだった。その日は、トーチとフェロの二人とも、クレイに合うことがなかった。その代わり、上機嫌なヒューズに出会った。ヒューズの荷物は相変わらず多くて、腕には入れ墨みたいなメモ書きが書かれていた。だがヒューズは二人に出会っても、眼鏡を拭かなくなった。そして姓で呼ばれなくなった。何かと態度が冷たいが、彼なりに仲良くしようと思っているのだろう。トーチの相談にも乗ってくれるようになった。理論派に見せかけた感覚派な彼は、フェロとも波長が合うらしい。しかし旧時代の話についてはいまいちピンと来ていないようだった。ヒューズはずっと気になっていた質問をした。幸運にもトーチは席を外していた。
「フェロはなんであの時キスをしたんだ? 」
「小説の中で、そういうシーンがあったんだ。雑踏に紛れるために、道で男女がキスをするんだ。そしたら追手は、別人の恋人同士だと思って去っていった。」
ヒューズは、ここ一番のあきれ顔を晒した。小鼻が若干膨らんでいる。
「街中でやったら効果的かもしれないが、家の中でやったらただの不法侵入した恋人同士な強盗だぞ。」
ヒューズは、その小説こそ禁書にすべきではないかと笑った。