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1 旧時代の呼び声

 Give me fire

         茶路


 トーチは、寝つきが悪い夜に、決まって同じ夢を見た。幼いトーチと、トーチの母がトランプでババ抜きをしている夢だ。この夢で、毎回トーチは負ける。トーチは母に自分が持っているババの位置がバレていて、母はニコニコ笑いながら、他のカードを取って上がってしまう。そしてトーチは母にズルをしただろうと、トーチは怒りを露にする。一度トーチにババが渡ると、一回も母はババを引かないのだ。トーチは悔しくて地団駄を踏みながら、ババを引かない秘密を教えろと駄々を捏ねた。母は、やけにきらめいた目を細めながら秘密よと笑う。そのうっすらと浮かべられた微笑みは、トーチが悔しがっているのを見て楽しんでいるようだった。トーチはなおも知りたい、教えてと喚いた。トーチは床に仰向けになって、カサカサと全身をゆすってアピールをした。彼の体の周りにチロチロと炎が燃え上がる。母はトーチをたしなめながら、慣れた手つきで炎を消した。そんな母は負けたら負けたでそれでいいじゃない、どうして秘密が気になるのと質問した。トーチは、床から体を起こすと、母の目をじっと見ながらこう返した。

「知らないままでいると、なんだか気持ちが悪いんだ。」

トーチは母が少し顔を強張らせて、目を見開いたのを見た。そしてそのあと雪が水に解けるように、強張った顔を綻ばせた。母は本当に楽しそうに、嬉しそうに笑いながら、トーチの後ろを指さした。トーチが後ろを振り返ると、そこには大きな姿見があった。どうやら母は、鏡に映ったカードを見てゲームをしていたらしい。なんだ、とトーチがつぶやくと、母はそうよと話し始めた。

「この世にはたくさんの秘密がある。けれどその多くの秘密は、実は大したことがないものなのよ。」

トーチがそんなもの秘密にする意味がないじゃないかと返すと、母は秘密にしておくことに価値があるのだと言った。

「謎を謎のままにしておくこと。それってとても大事なことなのよ。大したことない秘密だとしても、知っている人と知らない人には大きな差が生まれる。実際あなたは大したことのない秘密によって、ゲームに負けてしまったでしょう?」

彼女はゆっくりと椅子から降りると、トーチの目の前に腰を落とした。

「この世界はね。秘密を多く知るものが勝つの。例えば私たち人間が、どうして炎を操れるのか、どうして炎に触っても燃えないのか。炎は人類の友というけれど、いつから共に歩んできたのか、なぜ私たちは炎を生み出せるのか。そのことについて私たちの誰も知らない。もしかしたら王様は知っているのかもしれない。そうなれば、王様はこれらの秘密を知っているから、王様になったのかもしれない。……私たちの人生は、誰かの秘密を奪ったり、誰かに秘密を知られないように守ったりすることの連続なの。人は秘密に命を懸けるの。誰だって人は勝ちたいと思うものよね。」

母はトーチの頬に手を伸ばす。トーチの右頬から頭にかけて、母のすべすべした手が撫でた。そしてトーチの少し外側に跳ねた髪の毛を弄る。

「だからトーチ、あなたは難儀なものね。あなたはただただ興味で知りたいと思っている。知ってどうしたいとか、知って勝ちたいとかは考えたことがない。本当に強い好奇心を持っているだけなのよね。……でもきっと世界はその好奇心を許さない。なぜなら秘密を秘密にしておきたいから。」

母は自分の白い額を、トーチの額に押し付けた。母の長い白髪が、ベールのようにトーチを包んだ。

「きっとたくさんの苦労をすると思うの。だけどその心を持ち続けてね。」

徐々に景色が歪んでいく。だんだんと意識が覚醒して、現実に引き戻されるような感覚があった。目の前が白くなっていき、徐々に至近距離にいる母がぼやけていく。母はまだ何かしゃべっているのに、うまく聞き取ることが出来ない。母に聞き取れないことを伝えようとすると、彼女は頷いたかと思うとトーチを抱きしめた。そして母はトーチに、そんなあなたのことが大好きよ、と囁いた。己の動揺をよそに、非情にもトーチは夢から覚めてしまった。トーチは夢とは違う、成長した自分の母親譲りの青白い手を見つめる。

 またあの夢だ。もう何度も観ている。あの夢がトーチの妄想なのか、それとも昔の記憶なのか、トーチには検討もつかない。母はもう随分と昔に亡くなっていて、トーチ自身はあまり母の記憶を持っていなかった。この夢ははじめて見た時から、何度も何度も同じ場面を繰り返し、彼女がトーチに語り掛けて終わる。のんびりした夢ではあるが、トーチはこの夢は悪夢だと思っている。この夢を見ると、なぜか焦ってしまう。それに頭部にひりついたような痛みが走る。この痛みはまるで何かの警告のようだ。「この先を知ってはいけない」と、そう伝えているように感じる。トーチは頭を押さえながら、ベッドから体を起こす。その夢はどこか生温かい、他の夢にはない妙なリアルさがあった。そのためか鼻の中に、母の柔らかい匂いが残っていた。トーチは大きく深呼吸をして、鼻の中の空気を入れ替えた。

 トーチの朝は早い。まず夜明けとともに起床し、すぐに点呼を取られる。そして到底食べきれない量の朝飯を食べさせられる。そしてホームルームを行ったのちに、授業が始まるのである。そして秋の訪れを感じる時間もなく、実技や座学を習う。ここまで厳重にスケジュールが決まっているのは、ここがただの学校ではなく、軍人を育成するための訓練学校であるからだ。ここは火消訓練学校。炎獣を倒す軍人を育成するためだけに作られた軍事施設である。そもそも炎獣とは何か。これはとても簡単に説明できる。正体不明・神出鬼没の超巨大生物。それが炎獣である。そしてこの炎獣は困ったことに人を襲うのである。そんな炎獣から民間人を守るために作られたのが、王直属の軍隊の中でかなり特殊な「火消」という組織である。本当はもっと炎獣について、詳細な情報があるのだろう。しかしトーチはほんの4日前までは、軍隊などとは無縁な生活を送っていたため知らなかった。トーチは3日前に突然家を追い出され、2日前に入学式が行われ、一日前に学年で一番弱いという評価を受けたのだった。もちろん家を追い出される前に抵抗はした。トーチは鍛冶屋の叔父夫婦に育て上げられ、そのまま鍛冶屋として働くものだと思っていた。一応子供は18歳までは親元で過ごし、18歳を過ぎて成人になったら就労する義務がある。トーチは18歳になったら、叔父たちの工場を離れ、別の工場に所属することを検討していた。なぜなら叔父夫婦には3人の息子がいたため、後継者には事足りていたことと、彼らを押しのけて跡継ぎになるほど優秀ではなかったからだ。それに、この街には沢山の工場が存在する。この国ではいくつか発電所が存在しているが、その電力がどこに使われているのかを誰も知らなかった。庶民は未だに油やガスによって火を灯し、蒸気機関や紡績機を使って工業製品を作り上げていた。(トーチの家は、この街で少し特殊だった。トーチの家は王直属の鍛冶屋だった。そのため、たまに祖父や叔父が、王都の機械を持ち帰ってくることがあった。よく王都に出入りする祖父は、酔っぱらうと王都が誇る技術の素晴らしさを語っていた。)もともとこの街は時計産業が盛んだった。その時計屋達の精密で緻密な指先が、この街の工業化を支えていた。鍛冶と鉄鋼の町。それがトーチの故郷だった。そのため、街中には沢山の人手を募集する紙が貼られていた。トーチは叔父夫婦の工場から出ていったとしても、この街のどこかの工場で働こうと思っていた。トーチは、今後工場からいなくなる人間であったが、当然のように18歳になるまではこの家で過ごし、その後も死ぬまでこの街で生きるのだと思っていた。

しかし現実は非情で、15歳の今家から追い出されることとなってしまった。叔父からこの家から出ていけと言われて悲しくなった。肉親ではないとはいえ、叔父と甥であり、従兄同士なのである。トーチ自身は祖父に嫌われているとはいえ、叔父家族とはそれなりに仲良く暮らしていた。家族のように気安い関係だったかと言われると疑問は残るが、それでもトーチは彼らに心を開いているつもりだったのだ。「僕は家族だと思われていなかったのか」と泣きたくなっているトーチをよそに、叔父が話を続けた。

 「当然このままではどうしたらいいのかわからないだろう。お前をこの家から追い出すことを決めた父さん、お前からしたらお祖父さんだな。お祖父さんが気を利かして働き口を探してくれた。」

 叔父はそう言うと、食卓に置かれていたランプを手に取ると、何やら紙を引っ張り出してきた。ゴホン、と咳払いをするともったいぶって紙を読み始めた。

 「えー。トーチ・フォスター。この度は、我が火消養成学校へのご入学、心よりお祝い申し上げます。皆さんがこの名誉ある学校に選ばれたことは、誇り高い使命を担う者としての第一歩です。新たな仲間たちと共に、共に成長し、強い絆を築いていくことを楽しみにしています。わが校は、炎獣という燃え盛る怪獣を倒すための技術と心身を養う学び舎であり、「自己鍛錬」と「仲間との協力」が求められます。火消としての道は決して平坦ではありませんが、困難を乗り越えることで真の強さが身につきます。自分自身を高める努力を惜しまず、仲間と共に支え合い、共に成長していく姿勢を持ち続けてください。

さて、入学式の詳細についてお知らせいたします。入学式は、40XX年9月20日午前9時より、本校大講堂にて行います。新しい仲間たちと共に、特別な一日を迎えましょう。

また、入学後は寮での生活が始まります。寮生活は、仲間との絆を深め、共に訓練に励む貴重な時間です。新しい環境での生活に期待を持ち、共に素晴らしい経験を積んでいきましょう。

皆さんの入学を心よりお待ちしております。新たな人生が始まるこの瞬間を大切にし、共に子国や民を守る火消として精進していきましょう。」

 そう叔父が読み上げると、トーチに向かって指を指した。

 「お前は火消になれ?それが天職なんだ。」

 トーチは喜色満面の叔父に向かって反論した。

 「叔父さん?よく考えてよ?僕は火消なんて無理だ?それに祖父さんが推薦したって、嘘だろう? 祖父さんがさんざん僕を薄い・とろい・頭が足りないと言っていたじゃないか。どう考えても僕じゃ力不足だよ。仮に火消になったってどうせすぐ死んじゃうよ?」

 すると叔父さんは、驚いた顔をした。

 「なんだ。選ばれるなんて光栄なことなんだぞ? 火消に選ばれるなんてな、エリート中のエリートだ。働きが認められれば『王の牙』になって、王のおそばで働けるかもしれない。」

 「だから、そんな大役を僕ができる訳がないでしょう?僕は特別な才能を持っているわけでもないんだ。」

 トーチの言葉に、叔父さんは腕を組んで唸った。こういうときの叔父は、頑なに意見を変えない。一度引き下がった振りをして、少しずつ自分の要求を小出しにしてくる。

 「そうか……。わが一族二人目の火消誕生だと思ったんだがなあ……。お前の兄さんも、両親―特に妹なんて喜ぶと思ったんだがなあ・・・…。」

 そういった叔父さんの口を、叔母さんが急いで塞いだ。三人の息子たちがそれぞれ申し訳なさそうな顔をしている。

 「あんたねえ。デリケートな部分にわざわざ触れないの? ごめんねトーチ君。ほら?ささと行った?仕事の時間だよ。」

 彼女は息子と夫を追い立てると、トーチに向かって苦笑した。

 「ごめんなさいね。あのバカったら本当にデリカシーがなくて。」

 「いえいえ、そんな。兄さんがいなくなったのは遠い昔のことですし……。それにそんなに兄について覚えていないので。」

 叔母さんは、器用に目じりに寂しさをにじませながら、眉をひそめて見せた。

 「それでもよ。あなたとイグニ君は兄弟でしょう。いくらあなたが忘れてたって、気にしてなくたって、わざわざあなたに言う必要はないわ。ああ……そんな顔しないで。迷惑だなんて思っちゃいないわ。私たちが自分たちで考えて、一人残されたあなたを引き取るって決めたのよ。」

そういうと叔母さんはカラっと笑った。トーチは叔母さんの湿り気のない明るさが好きだった。叔母さんは息を吐くと、次の瞬間にはひどく強張った顔をした。

 「いきなりこんな話をして驚いたでしょう。ごめんなさいね。傷ついたでしょう。私達としても、あなたとこのまま暮らしていたいわ。だけれどお祖父さんがね。正直手が付けられないの。あなたのことを親の仇のように嫌って、厳しく躾をしていたでしょう。最近になって落ち着いていたから静観していたけれど、このところまたひどくなって来ているの。何が彼をそうさせているのかわからないわ。だけどお祖父さんね、あなたの部屋に夜な夜な忍び込もうとしているのよ。もう何かされるんじゃないかって心配で……。だからね、お祖父さんと離れた方がいいんじゃないかって賛成したの。」

トーチは叔母さんから目を背けた。実際、祖父は自分にだけ強く当たっていた。初めは祖父に嫌われているという事実は、トーチの心をひどくかき回した。しかしあることが起きて、祖父に嫌われるのも無理はないと思うようになった。トーチは一つのことが気になったら、一心不乱に追及しようとする。トーチは今でこそ、ものづくりに熱中し、周囲に鍛冶屋の子らしいと理解を示されている。しかしトーチが一時期アリに寄生する菌類に興味を持った時は、実に散々だった。トーチが9、10歳ぐらいだっただろうか。トーチは近所の森から寄生されたアリの死体、冬虫夏草を人知れず収集していた。冬虫夏草は、アリに菌類が寄生することによって、異常な行動を取る。そしてアリは菌類に操られたままで亡くなってしまう。死亡したアリの遺体は、菌類の養分として扱われ、菌類はミイラ化した虫から棒状の胞子形成のための子実体を作る。その時に様々な形に変化するのである。体から沢山の棒を出した冬虫夏草。まるでキリンのようなシルエットになった冬虫夏草。クラゲの足のような子実態を着けた冬虫夏草など、虫が死んだその場の環境や、菌類の違いによって、一つ一つの細部が違う。トーチはその差に興味を惹かれた。どんな菌類が虫をミイラにしてしまうのだろう。虫は寄生されていることに気付かないのだろうか。人間に菌類は寄生するのだろうか。沢山の疑問が、トーチの毎日を鮮やかに彩り、日常に恒常的な興奮をもたらした。いつしかトーチは、この感情を誰かに共有したいと思った。学校で冬虫夏草をみんなに見せよう、そのためにトーチは冬の間に雪の中に閉じ込めて凍らせることで、大量の標本を作った。トーチは皆が冬虫夏草の良さに気付いてくれることを期待した。しかし結果は散々なものだった。冬虫夏草を見せた途端に、近くにいた女子生徒が叫び声をあげた。水面に波紋が広がっていくように、混乱が人から人へと移っていった。そのうちの一人が叫ぶ。

 「そんな気持ち悪いものを見せないで!」

 この出来事はトーチに大きなショックを与えた。自分の興味関心が気持ちの悪いものだった。それはまるで自分の心がどこか腐っていて、普通ではないのではないのかという後ろめたさを与えた。もしも、自分の曲がった興奮がバレてしまったら、きっと嫌われてしまうだろう。トーチはそれから普通を意識して生きていた。現時点で、トーチは周囲と可もなく不可もない人間関係を築いていた。だから祖父だけに嫌われているのは、むしろいい方だろう。

 「お祖父さんが僕を嫌うのも、無理もないですよ。……僕は性格が湿っぽいし、お祖父さんが好きな男らしい度胸もない……。」

 (それに興味関心も人とはズレている……。)

 トーチは話していて、自分がひどくみじめに思えてきた。今は物作りに熱中しているが、冬虫夏草に熱を上げていた時の激しい興奮は今の趣味では得られなかった。それに物づくりに熱中しているさまを見ると、周りが「家の家業と同じ技を極めようとするなんて、なんて親孝行な子なのでしょう」と褒めてくれる。トーチはその言葉を聞くたびに、ひどく安心した。自分はこの地域社会に受け入れられている、そう安堵するとともに、周りに嘘をつき、孝行者の皮を被っているだけなのだと居たたまれない気持ちになった。叔母さんが、トーチの手を優しく握った。トーチの緊張した体がゆっくりと綻んでいくようだった。

 「正直、お祖父さんはあとちょっとの命だわ。それまで家から離れてくれればいいの。そうしたらあなたも安全で、この家で無用な争いも起きないでしょう。こんな形になってしまってごめんね。」

 叔母さんの隈が乗った瞳から、ほろりと涙が落ちた。その様子を見たトーチは、何も言えなくなってしまい、結局入学することに決めてしまった。出立の際、まだ町の明かりがつく前の、朝早い時間だったのにも関わらず、家族や町の人が送り出してくれた。餞別としてお菓子や食べ物をたくさん貰い、ハグや握手をして別れを惜しんだ。祖父も見送りに参加していたが、彼は鷹の目のような、ギョロリとした目つきでこちらを睨んでいた。叔母さんに別れの挨拶を進められると、

 「あの糞餓鬼が死のうが生きようが知ったことではないわ。二度と帰ってくるな?」

 と罵声を浴びせてきた。叔母さんはお祖父さんを押しのけると、ある一枚の封筒を差し出してきた。トーチは驚いて叔母さんの顔を見上げる。叔母さんは何か話そうとしたが、横にいるお祖父さんの顔を見て、ウインクするだけに留めた。一同を代表して叔父さんがトーチの手を握った。叔父さんは「炎の祈り」を行った。これは人々の門出を、人類に炎を与えたとされる炎主様によって守られるように願う祈りだった。

 「炎のご加護がありますように。……大丈夫だ。お前は炎を上手く生み出せる。それは炎主様に祝福されている証拠だ。」

 トーチは叔父の手を握り返した。叔父の手は、鍛冶でタコと煤だらけでとても分厚い。あの日熱で朦朧としているトーチを抱き上げて、雪の中を走ってくれた時と変わらない安心感がある。本当は叔父たちとは離れたくなかった。けれどここに留まり続けるのは、双方にとって都合が悪いことは、トーチからしても明白だ。

 「炎のご加護がありますように。……ありがとう。叔父さん。」

 トーチは涙を抑えながら、叔父との別れを惜しんだ。そんな面々に見送られながら、トーチは学校行きの汽車に乗ったのである。トーチは座席に着席すると、バッグの中からさっき貰った封筒を取り出した。そこには一枚の写真が入っていた。写真には自分には覚えのない母と、どこかに消えて行ってしまった兄が映っていた。随分懐かしい顔だと思うものの、どこか別の家族の写真を眺めているようで居心地が悪かった。トーチは母や兄についてほとんど覚えていない。母や兄はトーチが8歳の冬に居なくなってしまったそうだ。トーチは一人ひどい寒さの中で震えていたのだという。たまたま様子を見に来ていた叔父夫婦によって、トーチは一命を取り留めたそうだ。その時のひどい高熱で、トーチはほとんどの記憶をなくしてしまったようだ。すべて又聞きなのは、12歳の誕生日にすべて教えてもらったからである。それまでは、自分の幼少期の写真がないことにうっすらと違和感を覚えていたぐらいで、さほど気にしていなかった。そのためトーチは自分が幼少期の記憶を無くしているという事実を知って、ひどく驚くとともに、不自然な胸騒ぎがした。なんとなく無くした記憶の蓋を開けるのに躊躇した。そのため、トーチは昔を思い返すことを先延ばしにしていた。おもむろに裏面を見ると、今から9年前の日付が書かれていた。

(9年前……。つまり僕が6歳の時か。僕が覚えているのは8歳の冬からの記憶だけ。つまり僕は、この写真を撮ったことを忘れているのか。)

写真の中のトーチは、弾けるような笑顔を浮かべて、きらきらときらめく瞳をこちらに向けていた。トーチは、列車の窓ガラスに映った自分を見つめる。窓ガラスには、気丈にふるまいながらも、これからの不安に押しつぶされそうな顔が映っていた。写真の自分と比べると、自分の目はなんだか埃っぽい色をしていて、写真の中の自分の方が生命力に溢れているような印象を受ける。トーチの手に思わず力が入る。手の汗によって、写真がしなってしまった。

(今の僕と全然違う……。このころの僕には、今の僕にはない何かを持っていたのだろうか。僕はなにか大事なものを、置いてきてしまったのだろうか。)

トーチの心の中で、何かがムクリと首を擡げた。全身の血が沸騰するように、興奮する。

(だめだ……。落ち着かないと……。)

8歳より前の自分について、知りたい。暴きたい。手に入れたい。嫌な予感がなんだ。虫の知らせがなんだ。その直感は、この全身を支配する興奮よりも優先すべきものなかのか。すると、突然トーチは頭痛に襲われた。まるで、ついさっき産まれた興奮を咎めるような痛みだった。思わず額を押さえながら、座席の背もたれに体を預けた。瞼から額にかけて、両手で抑える。押さえた所で痛みは全く治まらない。視界が真っ暗になったせいなのか、どくどくと早鐘を打つ瞼の血管を感じた。自分の心臓がまるで飛び跳ねて、自分の体から出ていこうとしているようだった。さっきとは打って変わって、トーチは明らかに自分の体に異常が発生していることを感じ取った。脳が締め付けられるように痛い。息を吸っても吸っても吸い足りない。自分の体が、何か熱を持って暴走した機関のようで、恐ろしかった。トーチは、自分の意識を誰かに下へと沈まされる、押さえつけらえる、そんな感覚に陥った。意識を失う寸前に、トーチはひどく冷たい声を聴いた。

「自分の好奇心に支配されてはならない。普通に生きるんだ。そして、なにも知らないまま、無垢なままに死んでくれ。……秘密を秘密のままにしておくんだ。」

そうしてトーチは火消養成学校に入学した。心意気は良かった。火消養成学校では国王が直々に祝辞を述べてくださる。大変含蓄のある言葉にトーチはとても胸を打たれた。自分は火消になんてなったらすぐ死んでしまうと悲観していたが、祝辞を聞いただけでなんでも出来そうだとうっかり思ってしまうほどだった。トーチは自分に自信がなかったが、祝辞に背中を押され、また風の噂で自分と同い年の人間ばかりではないと聞いたため、自分でも案外火消としてやっていけるのではないかと胸を撫でおろしていた。トーチは人の話を聞くことには人一倍気を使っている。そのため教官の覚えは良かった。他訓練生の前で聞く姿勢を褒められ、これからの成長が楽しみだとまで言われた。ここまではいいスタートを切っていたといってもいいだろう。しかし翌日の実技になってから、トーチの評価が一変した。トーチはあまりにも火消の適正がなかった。運動能力も炎を操る能力も劣っていた。特に炎の制御の出来は散々なもので、トーチの火は分散しやすく、おまけに出そうと思っていない所から出た。最終的にトーチは、尻とへそから火の玉を出した。周りの訓練生は、細長い狼煙のような炎を、手のひらから出している。訓練生たちは、器用に炎出しながらトーチを見て笑っていた。そんなトーチを見て、教官は最低評価を下した。なまじトーチは炎の制御に自信があったため、ショックがとても大きかった。地元では炎を出し続けられるだけでも、英雄になれた。多くの人は炎を継続して生み出すことが出来なかったが、日常生活で炎を生み出し続ける必要はない。炎を継続して生み出せるという特技は、体が柔らかいとか、高い木に登れるとか、その他大勢の特技と同列に扱われていた。それでも、トーチにとっては、たった一つの自慢の得意技だった。そんなトーチは自分の特技が、自分だけの特技ではなかったこと、そして自分よりさらに才能がある人がいることを知ってしまった。それらはトーチの低い自己肯定感をさらに滅多打ちにした。このようにトーチの訓練生活は、大分幸先が悪い中でスタートした。トーチはこの時点で、だいぶ自分の人生に希望が持てなくなっていた。今すぐに学校から抜け出したいと何度も考えている。だが学校から脱走したところで、自分は貧弱すぎてすぐに捕まってしまうだろうと分かっていた。そんな訳で、トーチは今日も仕方なく学校に通うのである。

 講義を聞くためにトーチは教室に向かうと、すでに半数の生徒が教室の中で待機していた。トーチが教室の引き戸を開けると、何人かが振り返りヒソヒソと話し出した。それを見てトーチは、げんなりし、どっと気力が抜けていった。

(僕じゃなくて、もっと別の人を見ればいいのに。)

火消訓練学校では、同時期に入学した訓練生と同じタイムスケジュールで動くことになる。同期と生活を共にすることで、結束力を高めることが目的らしいが、トーチにとっては、迷惑でしかない制度だった。同時期に入隊する訓練生が、例年50名弱であるため、一気に全員の授業を行っても無理はない。しかし裏を返せば、学級の中にはピンからキリまで存在し、それらに同じような教育を施すということだ。つまり授業のレベルが高すぎると、キリ―底辺のトーチはいつまでたっても授業に着いていけないのである。そしてこの学校では、現役の火消や元火消が教壇に立つことになる。当然彼らは、炎を自分の手足のように操るエキスパートであるため、トーチのように炎を思うように操ることが出来ない人間を理解することが出来ない。こうして、トーチの辛く、助けも期待できない訓練生活が確定した。さらに不幸なことに、この学年はひと際優秀な学生が揃っていた。トーチは同期との足並みが揃わないことを痛感した。トーチはぐるりと回りを見渡した。遠くの方の席に派手な女子生徒が座っている。彼女はノヴァというらしい。新入生代表として式辞を述べていた、成績優秀者の一人だ。彼女は、顔立ちがとても利発そうな顔立ちと、非常にスレンダーな体形、そして常に光を宿す猫目が特徴的な美人だ。いつも灰色の長髪を一つにまとめて括っていて、彼女のストイックさを際立たせていた。しかし、目つきと態度がとてもきつい。トーチは既に彼女に苦手意識を持っていた。これはつい先日のことだ。入学して早々に無能の烙印を押されたトーチは、授業に着いていけず困っていた。そんなときによく席が隣になるカノンという女子生徒に「先生に相談したらどうだ」とアドバイスを受けた。カノンはトーチと気兼ねなく話しかけてくれる数少ない生徒だった。長く艶やかな直毛と、優しい目尻が、彼女の清らかな性格を際立たせていた。トーチはカノンから度々お菓子を与えられていた。彼女曰く、お菓子は元気の源だそうだ。カース先生に話しかけることを渋っているトーチの口に、彼女は「元気をだして」と眉毛をハの字にして笑いながらお菓子を入れてきた。トーチは、思わぬ接触にドキマギしてしまった。そして動悸がするトーチは、カノンと共にカース先生に教えを仰ぎに行った。すると先生は「自分は教えない。生徒に教えてもらえ」と言った。これも同期同士の仲を深めるためだと、もしかしたらお前でも切磋琢磨する仲間が生まれるかもしれない、カース先生は無精ひげを弄りながら語った。トーチは、カース先生はただ単に時間外労働を嫌ったのではないかと疑った。カース先生はいつも授業を時間きっかりに終わらせ、休み時間の間はずっと喫煙所にいるからである。カース先生は意気揚々とノヴァを呼びに行った。隣に立っているカノンは、トーチに向かって苦笑いを浮かべていた。呼び付けられたノヴァはとても機嫌が悪くかった。ノヴァとトーチが話したのはその日が初めてであったが、トーチがノヴァに話しかけると、まるで虫が彼女のまわりに纏わりついていた時と同じぐらい不快そうな顔をされた。すぐに前を向いてトーチを無視しようとしたところ、カース先生に取りなされてトーチに向き直った。そして、

「できない雑魚が悪いのよ。弱者が戦えるほど、炎獣って優しいのかしらね。」

と言い放ち、そのまま教室を出ていった。トーチはもうこの人と話したくないなと思った。

 次にカース先生は、男子生徒二人組に話しかけろと命令した。(話しかけた日も今日も教室の炭のあの席を占拠していた)二人組は昔からコンビを組んでいたらしく、特に息が合っていた。実生活でも基本的に二人で生活しているらしい。そのうちの一人は、入学の際の体力テストで特出した足の速さを見せつけていた。今度こそトーチは有益なアドバイスを貰おうと、勇んで二人に話しかけに行った。隣でカノンはなんだか居心地が悪そうに、長い髪の毛を弄っていた。トーチが近寄ると、そのうちの一人がいきなり眼鏡を吹き始めた。トーチが面食らって立ち止まると、眼鏡を拭く始めた方(ヒューズというらしい。足が速いのは彼の方だそうだ。)が、片眉をひそめて頭からつま先までジロジロと観察してきた。

「なんだお前は。何をしに来た? いや待て。その厚かましい顔を見たらすぐにわかる。敵情視察か? 俺たちを踏み台にしようとしているのか。なんて卑しいんだ。やれやれ小手先だけを取り繕っても虚しいだけだぞ。」

ヒューズが眼鏡を拭くたびに、大きめのカバンが揺れた。一体何が入っているのか見当もつかないが、子供が入りそうな大きさのカバンが荷物でパンパンだった。トーチはヒューズの肌を見せない装いと、大きな荷物を見て、とても怪しい男だと感じた。

「いや・・・…。僕はうまく炎を操れないから、アドバイスを貰えってカース先生の人が……。」

「カース先生をダシにするとは。小賢しい。そして近寄るな。汚らわしい。それに炎が制御できないとはなんだ。その炎は炎主様より与えられたギフトだぞ。扱えないなど、怠慢でしかない。」

ヒューズの隣にいる柔和な顔立ちをした男子生徒クレイというが慌てたように遮った。

「ちょっと!ヒューズ君はなんてことを言うんだ!ただ質問しに来ただけだろう!ごめんね……。この人、悪気はないんだ……。ちょっと警戒心が高くてね……。こう、出会う人すべてを貶すことで予防線を貼っているんだ。」

「そんな倹しい態度をとるな?大体予防線とはなんだ。俺はそこまで女女しくない。」

「じゃあ、なんでいつも偉そうなんだ。君は息をするように罵倒する?君がまともに誰かと話している所を見たことはないぞ?」

「フン……。喧しい。俺は他人とは慣れ合わない。まともに会話せずとも問題はない。会話など、しないに越したことはない。」

「そう言って君がなんでも遮断するから、僕にすべてが回ってくるんだろう!」

「お前はおしゃべりが好きだな……。多弁は人を忙しく見せるぞ。もう少し余裕を持て。それに。」

「それに?」

「会話などお前がいれば事足りる。」

「はー?」

二人はトーチを置いて、口論を始めてしまった。トーチはおずおずと再び話しかける。

「あのぉ……。」

すると口論していたヒューズが、トーチの方に向き直り、再び眼鏡を拭き始めた。

「なんだお前は。何をしに来た? いや待て。その厚かましい顔を見たらすぐにわかる……。」

「やっぱり結構です。」

今度はトーチが会話を切り上げて、彼らから離れた。後ろから、「ほんとにごめんね!」という声と、「おい!そんな忌々しい奴に謝るな!」という声が追いかけてきた。

最後にカース先生はほぼ投げやりに、このクラス最大の問題児に教えを乞えと言ってきた。もうトーチはこの半ば挨拶回りと化したこの勉強会を解散したかった。さっきのヒューズの発言でトーチはだいぶ熱意を失っていた。自分は本当に厚かましいのかもしれない、汚らわしいのかもしれない。そう思ったら泣きそうになった。しかし隣でカノンが笑いかけてくれる、それによって励まされるのと同時に、トーチの戦略的撤退という選択肢を潰していた。件の問題児は、運動ができないから、炎が上手く操れないから問題児だというわけではない。名前はフェロと言い、入学して日が浅いはずなのに、もうすでに香ばしい噂が立っている人物だ。ある生徒は、フェロは髪が燃えているのだと言った。また、ある生徒は、フェロは突然常軌を逸した行動を取るのだと言った。ちなみにその生徒は、ちょっと失礼と顔を舐められたらしい。トーチは、カース先生が噂の問題児の名前を出した時点で、カース先生は僕を指導するのが億劫になっていることを察した。フェロはその日、教室の窓際の席に座っていた。授業後すぐに聞きに行ったのだが、フェロは大量の涎を垂らして机で寝ていた。涎とそいつの特徴的な赤毛が机の上で湖のように広がって、隣の席まで侵食している。トーチはおそらく授業中も寝ていたのだろうと推測した。トーチの隣に立っていたカノンは、刻刻と領土を拡大する涎を見て、一瞬表情を崩した。カノンは鼻に皺を寄せて、捲れ上がった唇から食いしばった歯がのぞいているようなそんな表情をしていた。しかし次の瞬間には、元の笑顔に切り替わり、さわやかにその場を去っていった。

(こいつに教えを乞うのか……。)

トーチは若干引き気味に、フェロの頭を突いた。起きない。今度は若干強めに、手のひら全体で叩いた。起きない。気合を入れて叩いた。やっぱり起きない。トーチは半ばやけくそになって、教科書でフェロの頭を全力で殴った。

「ぎょ!」

フェロが叫びながら、顔を上げた。驚いたのはフェロの様子である。涎とかいびきとかが全く似合わない、大きな目が目を引く、小動物のような顔立ちをしていたことにではない。今まで全く普通の髪だったフェロの髪の毛が、叩かれた瞬間に突然炎を纏い始めたのである。トーチは、殴った教科書に火が付いていることに驚いた。フェロは辺りを見回して、トーチが教科書を持っていることに気付いた。 

「お前!俺様の頭殴ったな?俺様のきれいな毛を!教科書で殴ったな?」

フェロがトーチに、甲高い声で食ってかかる。トーチはフェロのあまりの近さに、思わず後ずさる。

「殴ったな?国宝級の俺様の髪を!うおおおお、どうしてくれる?どう責任取ってくれる?」

フェロは額をトーチの額にぶつけ、力を加えて押した。枯れ木のような腕をしている癖に、意外と力が強かった。トーチは呆気なく押し負けた。トーチは自分の目と鼻の先にあるフェロの口から、炎が出ているのを見て、思わず情けない声を上げた。

「なんだお前?なんでいきなり殴って来たんだ。まて……。待て。分かった、分かったぞ。あれだな?お前、俺様に興味があったんだな? 俺様に憧れていると? え? つまりなんだ……。構って欲しかったのか? 」

「いや……。ごめん……。謝るから……。離して……。」

「あれか?ファンか?親衛隊か?つまり俺様はお前のリーダーってことか? それが恥ずかしくて言えなかったと? いやあ分かる!確かに俺様は話しかけずらい上品さがあるからな……。なんだっていずれ

超・俺様君主制・激烈楽しい楽園。「略して天国」を作る神だからな……。憧れるのも無理はない。そんな存在になりたいと思うのもあり得ない話ではない……。」

「ち、ちがう……。だれもそんなことは言っていない……。」

「よおおし。分かった。納得した。お前の親分になってやる。お前のことは俺が責任をもって、大事に、だあいじに育ててやるからな!」

「だから、違うんだって。僕は質問があって来たんだ……。本当にそれだけ!」

「質問、質問、質問ねえ。フフフ、良いだろう。良いだろう。さあなんでもどうぞ? 親分たるこの俺様に、答えられないものはない!」

「えっ……。あぁ、うん……。実は炎が上手く操れなくて困っているんだ。思ったところから出せなくて、しかも量も少ない……。もしかして僕はどこかおかしいのかな……。」

トーチはそのまま「出来たらコツとか教えてほしいんだけど」と続けようとした。しかし、トーチが続ける前に、フェロがトーチの顔を舐めた。

「はッ?はああああ?」

「ふむ……。別に普通だな。量が少ないとか、変に出せないとか、そういうことはなさそうだ。むしろ自分で自分を抑圧しているように感じる。こういったことは、コツが云々という前に、よく自分を知ることが大事なんだ。ほら、俺様は自分が神だと分かっているだろう…」

フェロが何かを続けていたが、トーチはもう限界だった。意識が徐々に遠くなっていく。トーチはぼんやりと記憶がなくなっているといいな、と思いながら失神した。しかし起きた後に、トーチは記憶を失っていたりとかはなかった。むしろ起きたらフェロがこちらを覗きこんでいた。(再び失神するかと思った。)そしてフェロの隣に立っていたカース先生が、トーチに向かって話しかけた。

「フォスター。起きたか。お前は教室で派手に頭を打った。この学校では病人・けが人は必ず救護室に運ぶきまりがある。そのため、この私がわざわざ、失神した貴様をここへ運んできたのだ。……まったく仕事を増やしやがって。」

カース先生は、トントンと持っているバインダーを叩いた。どうやら何かを記入していたようだ。

「はぁ……。何故養護教諭は席を外しているのだ……。おかげで休憩時間に生徒の健康管理をやる羽目になった……。全く運が悪いな。」

タバコが切れて不機嫌なのだろう、カース先生にはイライラと貧乏している。そんなカース先生に向かって、フェロは自信たっぷりにこう言った。

「子分の面倒は、親分の俺様が見る!」

カース先生は一瞬考え込み、フェロに役目を交代することに決めた。

「おお。頼もしいな。きっと炎主様も喜ばれる。いい行いをしたな。」

そしてウキウキと救護室から出ていった。救護室にはフェロとトーチだけが残った。途端にフェロが、トーチに向かってにんまりと笑った。

「はあ……。まったく子分はかわいいねぇ。教室で倒れる瞬間なんて、子犬みたいだったぞ。」

「か、からかわないでよ……。本当に僕はアドバイスを聞きに来ただけで、子分になるなんて一言も言ってない……。」

トーチは、ベットの中に潜った。とにかくフェロの顔が見たくなかった。

「ごめんって、子分。拗ねるなよ。仲よくしようぜ。」

「こ、この僕と友達になる? な、なにが目的……?」

ベットがドスンと沈んだ。トーチは掛け布団の中から、自分の体の近くでフェロが何かしているのを感じた。まるでトーチの顔が一体どこに隠れているのか探っているような動きだった。不意に、フェロの声が布団越しに耳元に届いた。

「俺様、実は列車の中で、お前のこと気になって見てたんだ。だってお前、あんまりにも目立つ命だったから……。」

「耳元で囁かないでよ……。」

「お前はずっとぶつぶつ推理していた。ぜーんぶ丸聞こえだったぜ。……まあほとんど興味が無くて、内容は覚えていないが。」

トーチはおずおずと布団から顔を出した。その様子を見て、フェロが目を細めて笑う。。

「俺様目がいいからな。人の心に着いた火の色が見えるんだ。コイツは何に情熱を燃やしているのか。それが何となくわかる。それで俺様、お前を見てピンときちゃったんだ。ああ、コイツって秘密を秘密のままにしておけないタイプなんだって、白と黒のどっちかを選びたいタイプなんだって……。その気持ち、よくわかるぜ。スッキリするもんな。」

トーチはヒュっと息を飲んだ。他人に時分の悪癖が知られている。自分が謎や秘密が異常に気になってしまうことがバレている。トーチは逃げ出したかった。しかしいつの間にかフェロが自分の体に覆いかぶさっていて、トーチの逃亡を阻止していた。

「そんなお前に耳よりの情報を教えてやるよ……。実はこの世界にはな、歴史の教科書にも載っていない時代の遺跡が隠されているんだ……。その遺跡は人目に付かない所に、ひっそりと放置されている……。」

トーチはゴクリと息を飲んだ。脳みそがフェロの話に引っ張られる。

「でも不思議なことにな。多くの奴が誰もそのことを知らないんだ。遺跡ってとてもデカいんだぜ? 国王の城よりもデカいんだ。……なのに見つからない。話題にすら上がらない。……なあ、これってすごい不思議じゃないか? 」

トーチは思わず口を塞いだ。塞がなければ、きっと話に乗ってしまうだろう。それぐらいトーチはフェロの話に興味が惹かれていた。まだ見ぬ世界の事実に自分の体が興奮しているのが分かる。分泌された粘々とした唾液が、口の中の水分を奪っていく。知りたい。手に入れたい。暴きたい。……どうしても気になってしまう。他のことは考えられない!

「自分の好奇心に支配されてはならない。普通に生きるんだ。そして、なにも知らないまま、無垢なままに死んでくれ。……秘密を秘密のままにしておくんだ。」

不意に頭の中で声が響く。列車で聞いた声が、全く同じことを昏々と繰り返し続ける。トーチは段々と冷静になっていった。そうだ。普通にならなければ。好奇心のままフラフラしている人間なんて、きっと周りに馴染めないだろう。それはいやだ。トーチは人に囲まれていたかった。トーチは孤独に対して、異常なまでの恐怖心を抱いていた。多くの人間は、おしゃべり上手より、聞き上手の方を好み、秘密を突く人間より、突かない人間を好む。独りにならないためなら、自分に合っていないことでもやって見せる。独りになった途端にやってくる、あの地面が崩れていって奈落に落ちていくような不安感に比べれば、自分を変えることなど造作もない。

「聞きたくない!僕は普通になるんだ!」

トーチは耳を塞いで、体を右へ左へと捩った。あまりの抵抗に、フェロはトーチの体の上から降りた。

「なんだよ。詰まんないな。絶対気に入ると思ったのに。」

「退屈で結構!僕はそんな眉唾話に興味ないったらない!信じないったら信じない!」

フェロは一瞬むすっとした表情をした。顔に思いっきり不承知の文字が書いてある。そんなタイミングで、養護教諭が救護室に戻って来た。養護教諭は、乱れたベットの上で耳や目を強く塞いだトーチの姿を視認すると、横で棒立ちしていたフェロを救護室から追い出した。追い出される寸前に、フェロは「絶対興味持たせてやる!」と言い捨てて、去っていった。トーチは思わず胸を撫でおろす。全くの初対面で、あれだけ執拗に絡まれたのは、初めての経験だった。トーチは自分達が全く自己紹介をしていないことに気付いた。お互い苗字も出身地も趣味だって知らない。(ついでに言うと、トーチはフェロが女なのか男なのかわかっていなかった。フェロは男擬きだと言われれば、声も高いし、目も大きいしで納得できる。逆に女擬きだと言われれば、背もヒョロヒョロしているし、体も、胸も薄いしで納得できた。それぐらいどっちともつかない容姿をしていた。)そんな相手のことなんて、どうせすぐに忘れてしまうんだろう。これは悪い夢だと、トーチは再び横になった。

 しかし、無情にも、翌日からフェロの熱烈なストーキングが始まった。常にトーチの隣にフェロは張り付いた。そして、授業中、移動中などお構いなしにフェロはずっと何かをしゃべり続けていた。おそらくフェロが大好きな、旧時代や遺跡のことだろう。トーチは耳栓を着けて生活していた。しかしすべてがフェロにとって暖簾に腕押し・糠に釘だった。

こうしてトーチとフェロは、コイチにされることが多くなった。後から分かったことだが、フェロの問題児たる所以が、その意味不明な発言と、なぜか常時炎を放出している髪と体、それだけであったなら、そこまで問題視されることもなかっただろう。しかし、フェロは好奇心旺盛・人が大好きな犬系だった。兎に角、本能のままに生きていて、常に独自の理論を展開してくる所が問題だった。トーチはなんで早く教えてくれなかったのか、周囲を恨んだ。フェロはどこまでも付きまとい、何をされても「親分だからなあ」トーチにつき纏った。先生や生徒達からは、人徳なし・才能無し・希望無しの0番コンビと一纏めにされてしまった。今のところトーチが安心して過ごすことが出来るのは、与えられた寮の個室だけであった。

フェロに絡まれるようになってから一か月がたったある日のことだった。トーチはうまく眠ることが出来ない日が続いていた。夜になるとどうしても、自分が除籍されて学校からお出されるのではないかと考えてしまう。そして朝起きて、いつものように教師陣が物々しい雰囲気を漂わせていると、とうとう自分は除籍されるんだ、と毎日のように震え上がった。除籍は悲しいことだが、想定内のことだった。むしろ今まで除籍されなかったことが不思議なぐらいだ。トーチは訓練学校で生活する中で、同期の火消という仕事への意識の高さを思い知った。発端は授業が始まって一週間ぐらいの時だっただろう。それまでは国の成り立ちや、今まで教わった炎の制御方法より数段レベルが上がった実技などが授業内で行われてきた。これは火消学校で行われる基礎中の基礎の単元だ。この単元を基盤として、主に座学では炎獣について学ぶ生物学、炎獣を倒す方法を学ぶ戦法学、そして軍隊の戒律を学ぶ法律学を学ぶ。(火消は軍の中の特殊部隊ではあるが、平和を守る治安部隊に人員を貸し出すことがあるため法律を学ぶ必要があるとのことだった。)こういった本格的な座学を学ぶにあたって、訓練生に火消になるという確固とした覚悟を養っておく必要がある。もっと噛み砕いて解説するなら、訓練生に火消として死ぬ覚悟を植え付けるのである。トーチはあれよあれよと何となく訓練学校に入学してしまった。だから当然死ぬ覚悟など出来ていなかった。その気の迷いがいけなかったのだろうか。トーチはカース先生の「火消として死ねるか」という問いかけに思わずどもってしまった。いつもなら、カース先生のこのような質問はフェロに浴びせられる。フェロは当然独自の理論を展開して間違える。カース先生はフェロを失敗例とし、正しい正解を生徒たちに広めるのだった。しかし、件のフェロは、深夜に寮を抜け出そうとしていたところを取り押さえられ、懲罰室に入れられていた。

「火消として……ですか? 」

「そうだ。火消として炎獣に負けることなどはあってはならない。しかし火消が常に死というリスクを背負っているのもまた事実だ。……貴様は自分の死の瞬間を、火消に差し出すことが出来るか。」

カース先生は、いつものいい加減な表情とは違う、随分透明な表情をしていた。まるでこの先の返答を知っているような、当然自分の思っていること答えしか返ってこないー間違ったことを言うなんて考えたこともないような、そんな表情を浮かべていた。トーチは弱ってしまった。自分は火消として死ねるか。……どうだろうか。トーチは脳裏に漠然とした最期を思い浮かべてみる。目の前に炎獣がいる。対して自分は今にも死にそうで、息も絶え絶え立っている。そんなとき自分は命を懸けて戦うのだろうか。死へ一直線に落ちていくのだろうか。トーチは無意識に手を揉んだ。言わなければいけない答えは分かっていた。ただ一言、「自分は命を懸けることが出来る」、そう言うだけでよかったのだ。しかしトーチの口から出た答えは違った。

「……死にたくないって、思うかも。こんなところで死ぬなんて、まだその時じゃないって……。」

はっとした時にはもう遅かった。トーチは慌てて口を押える。ビクビクしながらカース先生を見ると、眼窩がひどく落ち窪んだ別人のような形相をしていた。骸骨のような、死人がこちらを睨んでいるような、底知れない凄味があった。教室中はいやに鎮まり帰っていた。皆が皆トーチを見ていたわけではなかったが、トーチはなんとなく皆が信じられないといった面持ちをしているのだろうなと思った。トーチの放った言葉だけが、宙に固定されているようだった。皆が教師の出方を伺っている、そんなひどくねっとりした空気感が漂っていた。

「……ははは。はははははは。死を炎獣ごときにはやらぬということか。いい心持ちだな。フォスター。しかしそういった心持ちは、成果を出してもらえるとこちらとしても安心できるのだが。」

当然笑った教師に合わせて、教室中も太鼓を打ったように一斉にどっと沸き立った。トーチもとりあえず同調して笑って見せた。

「なぜ笑う? なぜ笑ったフォスター。何がおかしい? 」

「と、とんでもありません。おかしいところなんて一つも……。」

「フォスター。心持ちは良かったがな。すぐに返答できぬ所は芳しくない。何故即答が出来なかったのか? 簡単だ。貴様が心から思っていないからだ。……貴様は火消に命を懸けるなんざさらさら思っていないんだ。何たる罰当たりな態度。貴様の命は炎主様によって与えられたものであるというのに。……フォスター。罰則だ。」

そう言ってカース先生はトーチに背を向けた。そして周囲を見回すと一人の女子生徒を指名した。

「ボルジア。手本を見せろ。」

「はい先生。なにか御用でしょうか。」

「貴様は火消として命を懸けることが出来るか。」

「当然ですわ。例えわたくしが死ぬことになろうとも、一体でも多くの炎獣をこの世から消し去ることが出来るのならば、文句などございませんわ。むしろ本望ですの。」

カース先生は手を叩いて、女子生徒に称賛の意を示した。

「素晴らしい。ボルジア。貴様のことを、炎主様は大層祝福されることだろう。この時間はこれで終わりとする。ボルジア。フォスターに教えてやれ。」

「畏まりました。」

そう言い残すと、カース先生は教室から出て行ってしまった。トーチは、できるだけ早く教室から出ようと、急いで荷物をもって教室のドアに向かって行った。そんなトーチの服の裾を誰かが緩く掴んだ。どこからか鋭い視線が降り注いだ。

「お待ちになって。わたくしたちは、先生から申し付けられたことをきちんと完遂しなければなりませんわ。……さあお座りになって。」

ボルジアと呼ばれた彼女には何故だか逆らうことが出来ないオーラがあった。立ち居振る舞いから溢れ出る気品に圧倒されたのか、それとも彼女のどこか浮世離れした少女の理想のような容姿のせいなのだろうか、結局トーチはやけに時間をかけて椅子に座った。トーチが彼女の目の前に座ると、より一層誰かからの視線を感じた。

「わたくしもね。死ぬことは恐ろしいことだと思っておりますのよ。」

「で、でも……さっきは命を懸けるって。」

彼女は組んでいた指を解いて、胸に手を当てた

「死という行為に怯えるのは、生物としては当然のこと。しかし、火消としての死は普通の死よりも、各段に価値があると私は思いますの。」

彼女はトーチの手を柔らかく包んだ。トーチはぽかんと口を開けて彼女の顔をまじまじと見つめた。すると突然誰かに腕を強く掴まれた。

「貴様のような男が何故ミシェルの手を握っている……?」

「い、痛い、痛い!」

トーチの横には、狼のような鋭い眼光でこちらを睨む長身の女性がいた。トーチは鋭い視線の主はこの人かと合点がいった。またトーチは、さっきから自分の手を握っている女子生徒はミシェルというのだなとどうでもいい考えがよぎった。彼女は長髪を後ろで一纏めにひっ詰めていて、まるで男のような恰好をしている。平均的な身長であるトーチを抜かすほどの背丈を持った彼女は、そこにいるだけで抜き身の刃物のような威圧感があった。

「ミシェルの手を握るなど言語道断!貴様はたった今しがた人権を無くした!敵に人権がなければ、この有り余る殺意は合法となる!」

トーチはミシェルに手を握られながら、謎の女性に腕をギリギリと強く握りしめられている。隣に立っている長身の女性も、トーチの腕を引っこ抜こうとぐいぐい引っ張ってくる。別にトーチはミシェルと握手をしていたい訳ではなかったので、トーチはミシェルの手から無理やり自分の手を引っこ抜こうとした。するとミシェルはぐっと力を入れて、自分の手の中からトーチの手を出すまいとした。その力の強さに、トーチは思わず呻く。まるでドアに手を挟んだ時のような痛みだと思った。

「この身はもとより火消として生まれた身。ボルジアに生まれた者は皆、火消として王に使えますの。……わたくしの兄上が特に優秀でね……。」

ミシェルは手を握り潰したまま話続けた。トーチはミシェルの認識を童話の中の住人から、綺麗な万力に改めた。

「何故!まだ!握っているのだ!いい加減に手を放せ!」

女性はついにトーチの腕を抱え込むと、本腰を入れて腕を引っ張り始めた。

「この方はな?塵芥のような下々の命が手を握っていいようなお方ではない!放せと言っているのが聞こえないのか?お前は耳がないのか!」

ミシェルはいきなり握っていた手を離した。トーチは全体重を背もたれに懸けていたので、バランスが取れずに椅子ごとひっくり返った。トーチがなんとか体を起こすと、ミシェルが長身の女性の手を握っているのが分かった。

「ジル。お静かになさい。わたくしは今この方と話しているのよ。」

「わ、分かったよ。ミシェル……。あ、痛い。ふへっ。痛。へへ……。」

ジルと呼ばれた女性は、ミシェルに手を握り潰されているのに、ニヨニヨと笑っている。さっきまでの棘を纏ったような姿とは打って変わって、にょろにょろと体をくねらせている。トーチの頭には、「蓼食う虫も好き好き」という文字が浮かんだ。

「話が逸れてしまいましたわね……。お見苦しい所をお見せてしまいましたわ。彼女には後で、戒めておきますわ。」

ミシェルはニコリと笑うと、ジルに対しても座れと指示を出した。トーチはきっと厳しく叱られているときも、ジルはニヨニヨくねくねしているのだろうなと思った。

「わたくしの父上には、兄上以外にも沢山の子息が居りますの。けれど兄上はその御活躍を認められ、父上の後をお継ぎになることになったのよ。」

「父上の後を継ぐ? 」

「ええそうよ。わたくしの父上は王の牙。国王直属の軍人ですわ。そして兄上はいずれ王の牙を担うとされる、王の爪の中の一人だった。」

ミシェルはうっとりと宙を見上げた。そんなミシェルをジルは恍惚とした表情で見つめた。

「兄上は宮廷に呼ばれ、国王によって祝福なされた。その時に初めてボルジアの名前でお誓いになったのよ。……この身を火消に支え、この炎主様から与えられた誉れあるボルジアの名を継いでいくのだと。…その時わたくしも思いましたの。今の私はボルジアの家に生まれたただのミシェル。一人の平凡な女に過ぎないのだと。わたくしもボルジアになりたい。ミシェル・ボルジアとして王の牙に名を連ね、わが名を刻みたい……。」

「ハッ。名を連ねる? 馬鹿馬鹿しい。」

突然誰かが会話に入ってきた。声の方向に顔を向けると、あのトーチを雑魚と罵ったノヴァがこちらに向かってガンを飛ばしていた。そのままノヴァはカツカツと音を立ててこちらに近づいて来る。対抗するように、ジルが立ち上がった。

「なんだか随分ぬるい考えね……。温室育ちにお似合い、ね。」

「貴様、突然割ってきて、何の用だ。」

「いや? うっかり聞こえてしまっただけ、大した用はないのよ……。ただ随分見上げた考えね、そう思っただけ。気にしないで。」

ノヴァは口元に手を当てながら、含み笑いをした。ジルは机を叩くと、そのままノヴァに食ってかかろうとする。ミシェルはそんなジルを片手で制すと、今度は自分が立ち上がった。

「わたくし、あなた様の語るぬるい考えについて、ご教授願いますわ。」

「アンタ、王の牙として名を刻むが誇りって言ったわね。どういう意味か分かっているの? 王の牙は交代制。先代が死に、その名を刻まれた後に、新たな王の牙が誕生するのよ。」

ノヴァは瞳をスッと細めた。

「アンタのその願い、まるで死にたがっているみたいね? 」

今度こそジルは椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。そしてそのままノヴァに掴みかかる。ノヴァは一瞬ジルを見つめると、するりとジルの拘束を解いた。そのままノヴァはトーチのそばで腰をかがめると、トーチと肩を組んだ。

「アンタよりもね。こっちの雑魚の方が見上げた根性もっているわよ。火消に命を懸けるか? 考えるだけ無駄よ。私は炎獣に殺されるなんて考えたことなんてないわ。だって私そこらにの弱者と違って強いもの。」

「は、貴様……。ミシェルが弱者だと言いたいのか? 」

「あら、賢いのね。安心して? あなたの大好きなミシェルだけが弱いだなんて言うつもりはないわ。もちろんアンタも弱者よ。」

「ミシェルのどこが弱いって? 」

「ミシェルの弱さは、頭が単純すぎること。アイツはきっとこの世の因果応報を信じているタイプね。……そしてアンタの弱さは言うまでもないわ。そうやってすぐに騒ぐ所。馬鹿のひつつ覚えみたい。ねえ。そんなにミシェルが大事? ミシェルってそんなに価値があるのかしら。」

「ふざけるな!その言葉を訂正しろ?価値だと! いいかミシェルはな……?」

「うるさい、うるさい。自制って言葉を習わなかったの? ボルジアは使用人の教育を怠っているのかしら。」

「はあ……? 貴様がボルジア家の何を知っているというのだ。ノヴァ・アンダーソン!平民風情が知った口を聞くな!ミシェル!君からも何か言ってくれ?私はこれ以上君が馬鹿にされるのは耐えられない!」

トーチはノヴァに肩を組まれながら、ミシェルの方を見た。ミシェルはなぜだか震えている。

「ミシェル……?」

ジルが心配そうに近寄り、ミシェルの肩の両肩を掴んだ。ミシェルは突然顔を上げたかと思うと、ジルの腕を振り払い(ジルは嬉しそうだった。)、ノヴァに肩を組まれていたトーチを押し出すと、トーチが居た位置に自分が入り込んだ。トーチとジルは茫然としながら、ミシェルとノヴァを見上げた。ミシェルは同じようにノヴァの手を握ると、瞳を輝かせながらノヴァに向かって満面の笑みを浮かべた。

「素晴らしいですわ?なんという高貴なお考え?情熱溢れる志?感服致しましたわ?本当にあなた様のおっしゃる通りですの。失念していましたわ……。わたくしの瞳は曇っていましたのね。確かに王の牙に名を連ねることは、大きな誉。ですが我々は死して炎獣を倒すのではなく、圧倒的な強さをで炎獣を挫き、生き続ける……。その方が何倍も美しいですわ。」

ミシェルはノヴァの腕を上下に振った。ノヴァは身を引いたが、ミシェルは際限なく迫ってくる。

「わたくし、決めましたわ?ノヴァ様、あなた様の弟子になります。あなた様からその気高さを学んで見せますわ?どうか、御指南のほどよろしくお願いいたします。」

ミシェルは深々と頭を下げた。ジルが後ろで頭を上げてください、と叫んだ。トーチはミシェルは気品のあるフェロだと納得した。

「はぁ…? 鬱陶しいんだけど……。」

ノヴァは鼻に皺を寄せ、まるでまずいものでも食べたのかというような表情を浮かべた。再びジルは後ろで、諦めましょう、と叫んだ。

「孤立無援を好むそのお姿……。素敵ですわ!。その姿勢こそが強さの秘訣なのですね?」

ノヴァは頭を振ると、やってられないとばかりに教室から出ていった。その後をミシェルが追って出ていく。ジルが慌てて追いかけようとすると、ミシェルが振り返ってこう言った。

「わたくし、孤独になりますの!ですのでジル、あなたも自由に過ごしなさい!」

ミシェルは良い笑顔だったが、ジルはしなびた野菜のような顔をした。次にミシェルはジルの隣で棒立ちをしていたトーチを見た。ミシェルはトーチの顔を見て、すっかり忘れていた、あらいけない、とでも言いたげな顔をした。

「ごめんなさいね?もっとあなたとご一緒したかったのだけれど、わたくし火急の用事が出来てしまいましたの。」

「う、うん。ははは……。また機会があったら話したいね……。」

ミシェルは目を輝かせると、満面の笑みで頷いた。ジルが後ろで、機会などない、と叫んだ。

「では、失礼しますわ!ええっと……そうだ。フォスター様?あなた様に炎のご加護がありますように!あなた様のお悩みが晴れますように!」

彼女はお淑やかに手を振りながら、お淑やかでない速度で教室を出ていった。彼女が出ていった後、30秒カウントしてからジルが鬼気迫る形相で追いかけていった。彼女たちが出ていった教室は、嵐が過ぎ去ったかのように静かだった。

 秋の訪れを感じることには、トーチは朝練が義務付けられることになった。毎朝、校庭を走り、筋肉トレーニングをする。もちろんトーチはひ弱で軟弱なので、追加のトレーニングを命じられている。その追加のトレーニングが厄介だった。追加トレーニングでは、いつも5人の固定メンバーで行われる。その中の一人である、ラヴァという少年の性格が最悪で、いつもこちらを見下してくるのである。彼は学年で一番体が小さいのに(実は15歳ではないのかもしれないという噂もある。)、やたらと態度が大きいことで有名だった。いつもやたらと体の大きな男性、スコッピオを連れていて、彼のことを粗雑に扱っている。そのため何か如何わしい関係なのではないのかとか、実はとんでもなく偉い人―王族だから護衛を連れているのではないかとヒソヒソ噂されていた。トーチはそんな人と、関わりたくなかった。トーチはこの時ばかりは、自分の無能さに感謝したものだ。こうも無能だったら、自分は取り巻きになれなどとは言われないだろう。なぜなら足手まといだから。いない方が楽だから。しかし予想とは裏腹に、何故かとても絡まれた。トーチとラヴァが顔を合わせると、彼はとにかく罵ってくる。彼曰く、トーチは野蛮で危険な制御不能の反逆者らしい。トーチはそれを聞いて、自分の隣にはまさにすべて当てはまるフェロがいるのに、見えていないのかなと思った。そして件のフェロは、なぜか自主的にトレーニングに参加してくる。フェロは炎と体の扱いだけは、目を見張るほど優秀なので、猪のような突進を繰り返す走り方でランニングを終わらせる。そして終わったら寮に戻ればいいものを、「子分!」と言いながら追加のトレーニングに参加するのである。そのためトーチは、右手に嫌味を一定のテンポで垂れ流すラヴァと、左手にリードが付けられなかった暴走犬のようなフェロを抱えてトレーニングをするのである。

 その日も、いつも通りラヴァとフェロは、トーチに一方的に何かを喋っていた。そしてここ最近は、同時にトーチに話しかけている相手の声を、お互いが不快に感じたらしい。フェロとラヴァは顔を見合わせるたびに喧嘩をしていた。トーチとしては、どうしてもこの実技の授業だけは聞きたかった。なぜなら、ミシェルが教えてくれた国王直属の軍人である王の牙の一人、ダイナという女性がわざわざ教鞭を取るのである。今回の授業は、炎獣を倒す基礎知識についてであり、底辺を彷徨うトーチとしては、彼女の話が現状を打破する起死回生の一手になるのではないかと期待していた。

「君たち……。いいから静かにしてくれ……。今王の牙のダイナ先生がわざわざ稽古を付けてくれるそうなんだ。……。僕はどうしても彼女の解説きかなきゃいけないんだ。……僕は何も上達できなけば、きっと退学にされてしまうんだ。だから静かにしてくれ。話が聞こえないだろう。」

トーチはボソボソと二人に初めて文句を言った。本来なら他人に意見を言うことなんて考えられないが、今回ばかりはさらにハードルが高い文句を言った。フェロとラヴァは一瞬口を噤んだが、すぐにまた口論を始めた。

「いつものカースの親父しかいないじゃねえか。王の牙のくせに遅刻か?」

「王の牙は遅刻などしない。貴様とは違うんだ。王の牙の解説が、救いようのない0番コンビを変えてくれると助かるんだがな。」

ラヴァがやれやれと肩を竦めた。それを見てフェロがトーチに耳打ちをしてきた

「子分!こいつ身長よりも態度の方がでかいぜ。」

トーチを罵っていたラヴァは、首がねじ切れるんじゃないかという勢いでフェロの方を向いた。顔を真っ赤にして何かを言おうとしているが、怒りが頭を支配していて何も口に出せないらしい。フェロはそれを指さして笑うと、頭の上で大げさに拍手をした。

「アイツの方が、真っ赤だぜ? きっと今炎主様が顔だけ祝福したんだ。よっ。今最も顔が熱い男!」

 黒板の前の教壇に立っているカース先生が、ゴホンと咳払いをした。トーチは慌ててフェロの口を押える。ラヴァの方を見ると、スコッピオが励ますように、ラヴァの背中を摩っている。トーチはひとまず静かになったと溜息を着いた。フェロはトーチの手の中で、相変わらずもごもごと話している。トーチの手はフェロの涎ですっかり湿っていた。

「……もう一度説明するぞ。聞き逃した者がいるかもしれないからな……。まず炎獣とは、内側にある高温度な熱球である核を守るために、外殻を被っている生物のことを指す。外殻に使われるのは、主に放棄された廃棄物などが使われることが多い。主に好まれるのは、金属などの固い物質で形成された箱型の廃棄物だな。過去の例では、廃棄された機関車の先頭車両を纏う炎獣も目撃されている。そして奴らは、動物の模倣をし、基本的には四足歩行で移動する。」

カース先生は箱型の模型を手に取ると、箱の中に丸い球体を放った。すると箱の底に球体が落ちる。

「このように、核と外殻をつなぐものが無ければ、核は安定しない。しかし炎獣はこの核から根と呼ばれる触手のような繊維を出すことで、外殻を纏っている。」

カース先生は紐を使って箱に球体を括りつけた。箱の中で、球体はまるで太陽のように浮いていた。

「炎獣を倒す方法は一つ。この核を破壊することだ。核を破壊しなければ、炎獣は根を使って新たな外殻を纏ってしまう。核は衝撃を和らげるために、球体の形を取っている。そのため直接攻撃をしない限り、破壊することは困難だ。これらを踏まえて多くの火消は、外殻の一部を破壊して侵入し、核を破壊するという手法を取っている。」

カース先生は箱型の模型を掲げた。

「火消として炎獣と対峙する際に、必ず覚えておいてほしいことがある。それは炎獣の本体は、この球体の核であることだ。たまに炎獣の中では大きな外殻を纏う奴が存在する。しかしその大きさに圧倒されてはならない。核さえ破壊してしまえば、大きな体も無用の長物となる。それを覚えておいてほしい。」

カース先生は黒板に向き直ると、二重の丸を書いた。

「核の構造について説明しよう。この丸が核だとする。実際の大きさは片腕から両腕ぐらいの直径だ。まず核の外側は卵の殻のような役目を担っている。この殻は透明だが、さながら卵の殻のように、熱に強く、内外の熱を完全に遮断している。固い殻の内側、卵の中身に当たるものだな。中には非常に高温な炎が入っている。この炎が炎獣の体を構成し、動かしている。つまり指示を出す脳のような役割を担っているわけだ。この殻を破壊し、高温の炎を分散させることで、初めて炎獣を倒すことが出来るのだ。」

カース先生は、生徒達に振り返った。

「この炎は非常に危険だ。高温すぎて、下手すると爆発する。接触するのはお勧めしない。駆除するときは迅速に行え。万が一接触してしまった場合―ああ、言い忘れていたな。炎獣は核を維持するために、定期的に引火することで補給、捕食を行うと考えられている。植物、動物……要するに燃えるものなら何でも捕食する。人間も例外ではない。そのため炎獣に食われそうになったらその場からの即時離脱を推奨する。……簡潔に言うと捕食のためにある根、死火根に掴まらなければいいだけだ。シンプルだろう? 」

教室は水を打ったように静かになっていた。カース先生はやれやれと頭を押さえた。

「怯えているのか、軟弱者め。……火消には炎獣を倒すための武器や装備が支給される。武器は、まあ見ればわかる。外殻や核を破壊することに特化した武器だ。次に装備だが……見せた方が早いだろうな。」

そう言うとカース先生は手を叩いた。教室のドアがゆっくりと開くと、六人がかりで大剣が運ばれてきた。その大剣はとても大きく、斬ることよりも叩き潰すことを意識して作られたかのような形状をしていた。カース先生は運んできた六人に軽く手を挙げて礼を言い、後から入って来た男性になにやら話しかけている。男性がカース先生に何かを打ち明けると、カース先生の顔がぎゅっと歪んだ。

「えー。ダイナ先生は少々遅れるらしい……。各自その場で待機するように。」

そう言い残すとカース先生は、男性を伴ってどこかに行ってしまった。

「やっぱり遅刻かよ。王の牙って緩いのか?」

「緩いわけがなかろう!侮るな!その口塞いでやろうか!」

「短いおててで出来るのかな? やってみろベロベロビヨーン。」

フェロがわざと舌をベロベロと動かした。ラヴァもそれに応戦する。フェロとラヴァの喧嘩を皮切りに、教室中がざわざわと煩くなっていく。

「みなさんお静かに!こんな時こそ己の理性が試されるときですわ!」

「さすがだよミシェル!」

ミシェルが立ち上がって注意し始めた。そんなミシェルにジルが拍手を送る。

「そういうアンタが一番うるさいわよ。ほっとけばいいじゃない。」

ノヴァがミシェルに鋭い指摘をする。その言葉にミシェルがハッとする。

「そうですわ。名誉ある孤独。わたくし誰とも慣れあいませんの。ジル?拍手は結構ですわ?」

「ミシェル、目を覚まして!」

トーチは、ジルとミシェルが揉み合っている後ろで、あまりにもクールに居眠りをしているヒューズの姿を目撃した。ヒューズはどうやらわざわざ眼鏡を外すまでして、真剣に居眠りしているようだった。教室の喧騒が一段と大きくなっていく。もう生徒たちは声を潜めずに、大声で話すようになった。トーチは先生が帰ってきやしないか、ビクビクと怯えていた。そんなざわめきを切り裂くように、教室の引き戸が音を立てて開いた。教室が水を打ったように静まり返って、入り口の方を注目した。誰かが靴音を鳴らしながら、教室に入ってくる。

「やはり若さ溢れる教室は、自分も若返るようで堪らないな!そのフレッシュさ。このダイナお姉さんは大好きだ!」

ダイナは平均的な女性の身長を持ち、十字型の瞳孔を持った瞳と豊かな巻き髪が印象的な、豊満な女性だった。彼女は体にぴたっと密着したスーツのようなものを着用し、腰と背中にそれぞれ何か機械のようなものを着けていた。また彼女は、右腕にのみ重厚な籠手を着用していた。そんな彼女は今まで大剣を持ち続けていた六人にハキハキとお礼を言った。六人はダイナに大剣を渡すと、解放されたと言わんばかりにそそくさと退散していった。どうやらダイナは大剣を持ち上げようとしているようだった。ダイナはジルよりも背が低く、筋力も少ない。そのため教室中の誰もがダイナ先生は大剣を持ち上げられないと予想していた。

「点火」

ダイナ先生はポツリとつぶやいた。すると彼女の両腰に付けた機械に、炎が灯るのが見えた。そしてそのままダイナ先生は、軽々と大剣を持ち上げた。教室中から拍手が巻き起こる。ダイナ先生は片手で大剣を持ちながら、もう片方の手で生徒たちの歓声に応えた。しばらく拍手が続いていたが、ダイナ先生が片手で持っていた大剣を振りかぶったので、歓声が悲鳴に変わった。

「授業中にお喋りをするなんて、みんなは悪い子だな。そんな様子だと、火消への道は遠いぞ。だが・・・・・・。私が来たから、もう大丈夫だ!君たちを完璧に扱き上げて見せようじゃないか!」

ダイナは振りかぶった大剣を肩の上に乗せて見栄を切った。

「お姉さんに、任せなさい!」

教室中が茫然としている中、少し遅れてカース先生と男性が教室に入って来た。カース先生は胸に手をあてて息を整えると、何事もなかったように話し始めた。

「……このように明らかに重いものでも、このスーツを着れば持つことが可能だ。特に火消の使う武器は、原材料が特殊でどうしても重くなってしまう。だからこのスーツは絶対に着用する必要がある。軽く原理を説明すると、スーツは電気の力を使って、人間の運動能力を向上させてくれる。火消は基本的に、このスーツを着用して戦っている。」

「もちろん元の筋肉を育てることも大事だぞ?」

カース先生はダイナの方を鬱陶しそうに見た。ダイナは微笑み返した。そしてカース先生は咳払いをした。そしてダイナの体の向きを変えさせることで、生徒達に彼女の背中を見せた。

「その電力を賄うために必要なのが、この背中に背負っている装置だ。この装置は、持ち運べる発電所、そう説明できるだろう。背中にあるタンクには水が入っている。この水を、管を通して腰の機械に送る。そこで水を熱して水蒸気を作り、タービンを回す。これにより発電し、スーツの電力を維持するといった寸法だ。また、この電力は貴様らの足場となる、ワイヤーの噴出や巻き取りをするコンベックスにも使用されている。……裏を返すと水が無ければ何もできない。火消にとって水は生命線なのだ。」

ミシェルが手を挙げた。トーチも手を挙げて、電力やタービンについて詳しく聞きたかった。しかしトーチは手を挙げるのを躊躇してしまった。ダイナが勝手にミシェルのことを指さした。

「どのようにして水を熱するのですか? 」

「ダイナお姉さんと呼びなさい。」

「だ、ダイナお姉さん。」

「諸君たち、ボーイズ&ガールズは心にパッションを秘めているだろう? そのパッションを使うんだ。自分の肉体を至高の域に高めたい!その情熱が君たちの力を伸ばしてくれる!」

カース先生は頭を押さえ始めた。今まで影のように佇んでいた男性が、スッと前に進み出た。

「お前たちは炎出せるだろう。その炎を使うんだ。」

「ペイン。さすが私の相棒だ!」

「これくらい当然です。」

ダイナは「見本を見せてあげよう!」と、ムキっとポーズを取った。そしてダイナは窓の外に生えている木を指で指す。生徒達が木をじっと見つめた。

「届け、お姉さんの情熱ビーム!」

ボッと音を立てて突然木の一部が燃え始めた。生徒たちの間でざわめきが大きくなる。

「静粛に!静粛に!」

カース先生は、手を強くたたいて生徒たちを黙らせた。カース先生はため息を吐くと、声を張り上げた。

「私たちは炎を出せる。多くの人間は自分の体の一部からしか炎出すことが出来ないと思っている。それは間違いだ。私たちは火種さえあれば、自分の体からでなくとも燃やすことが出来る。この技術を種火という。種火を維持するためには、波のある精神を一定に保つことが重要だ。……実際に実践してみよう。」

カース先生が生徒達の机を指さした。机の上には小型発電所が並んでいる。

「今日からの実技はこの装置を着けて行うように。それでは10分後に運動場集合だ。」トーチはいそいそと発電機を背中に背負った。半人前だがトーチも鍛冶屋で働いていた人間だ。発電機の中に希少価値の高い金属が使われているのを見て、間違っても壊さないと心に決めた。そんなトーチの横で、フェロがベタベタと発電機を触っていた。フェロの手つきはとても軽やかだった。まるで慎重さがない。トーチは「いつか壊すぞ」とか「もっと慎重に扱え」とか言いたいことはあったが、一つ言ったら十返ってくるのでやめた。最近のトーチの格言は、沈黙は金だった。

「フーン。これ水入れたら動くんか……。フーン……。」

フェロは水を入れるタンクを揺さぶった。中で水が音を立てて揺れた。

「涎とかー。汗とかー。おしっことかでも動くんかな?」

トーチは話しかけなくて良かったと思うべきか、その装置はあくまで貸出されている者なんだから絶対にやるなと注意すべきなのか、もしも尿を入れて発電したらフェロの気化した尿が空中に飛散することを怯えればいいのかで迷った。少なくとも教室中の誰もが、あの心根が優しいカノンでさえもフェロの発言に氷付き、若干引いていたことは確かだった。

「フン!やはり貴様は獣だな!そんな獣と絡む奴の気が知れぬな。」

凍った空気を切り裂いて、ラヴァがフェロに話しかけた。ご丁寧にトーチの方をちらりと見てきたが、彼は随分と小さいので、トーチは上から彼の視線を受け止めた。トーチは上から見るとラヴァはますます子供のような体躯をしているなと感じた。ラヴァも同じ大きさの発電機を身に着けているはずであったが、大きさが合っていないように見えた。

「おうおうおチビちゃん。馬鹿にしてくれるねぇ。さっきまでは日焼けしたみたいな顔色だったのにな。知ってるか? 日焼けって火傷なんだってさ。十分冷やしたか? 」

「この人の皮を被った化け物が!我を侮辱する前に、己の異常さを思い知る方がよほど建設的だぞ!」

「異常? 全然異常じゃないね。だって水が無くなったら、何を燃やすのさ。それこそおしっこしかないだろ。知ってるか? 昔の時代は糞尿さえも使っていたらしいぜ。」

トーチの肩にフェロがしな垂れかかってくる。トーチは決して尿を使用したいとは思っていなかったため、フェロに同調していると思われたくはない。トーチはフェロから離れようとしたが、フェロはトーチの肩に顎を乗せ始めた。

「禁忌を口にするなど……!」

「あ? 禁忌ってことは知ってるんじゃんかよ。俺様何が禁忌か知りたいなァ? 」

フェロはトーチの肩からガンを飛ばした。

「この下衆が……!やはり下々の者と交流するのは草臥れる……。こんな所に来るんじゃなかった。気が触れそうだ!我の頭が侵されてしまう!」

「仲良くしようぜ? あと心配するな、お前って既に結構な変わり種だぜ。」

フェロは腰を屈めて、じりじりとにじり寄った。頭を鳥のように動かし、手を昆虫の足のようにして、ラヴァに近づいた。ラヴァは袖で鼻を覆いながら退いた。

「近寄るな!寄るな!獣臭さが移る!」

ラヴァは後ろ向きに歩いて居たため、何かに衝突した。

「あッ!痛……。これだから下々が集まる場所は柱が多くて困るんだ。」

「柱みたいで悪かったわね……。」

ラヴァがぶつかったのは、ノヴァだった。どうやらノヴァとその一行―勝手について来たミシェルとジルは丁度教室から出ようとしていたらしい。そんな彼女たちに気付かずに、ラヴァはぶつかってしまったようだった。ノヴァはラヴァの後ろにヌッと立っているせいか、獲物を狙う猛禽類のように見えた。トーチは一番初めの体術の授業で、ノヴァと組手をした時のことを思い出した。既にノヴァはその美しいプロポーションで、多くの男子生徒達をざわつかせていた。トーチは男子最弱、ノヴァは女子最強だったため、互いの実力(どれぐらい最強で、どれぐらい最弱なのか)見極めたかったようだ。トーチは男子生徒の中で一番初めに、女子生徒と組手をした。試合前にトーチは散々冷やかされ、中には自分が代わりたいとブーイングまでされた。正直トーチはノヴァに興味はなかったが、みんながトーチに構ってくれて嬉しかった。そんな浮かれた気分でノヴァとの組手に臨むと、予想と反してノヴァの体はびくともしなかった。岩に体当たりしているような、樹齢何百年の太い幹に腕を回しているようなそんな感触がある。トーチは間違いなく力を入れて、彼女の体を押しているはずだ。しかし押しているどころか、自分は、彼女が全く動かないことで押し返されているようなそんな無力感があった。その時トーチは、自分は強くないことを思いだした。そしてそのまま投げ飛ばされたのだった。だからこそ、ラヴァの「柱のようだ」という感覚はとても共感できる。

「そろそろどいて貰ってもいいかしら……? あなたみたいにここに来たこと後悔するような時間がないも、ここでお遊びする時間もないのでね……。」

「どこをどう見たら、遊んでいるように見える。」

「楽しそうだったわよ? 一目も憚らず、己も顧みず、通行の邪魔をしながら慣れあっているなんて……仲がいい以外になんと言えば良いのかしら。」

「この悪魔と一緒だと?冗談じゃない。」

「同じような思考をしているのだから、仲良くなるのも無理ないわね。体よりも口が動く。そしてそこにいる雑魚なフォスターが大好き。ほとんど同じじゃない。あなたたち身長以外に差はないわよ。ラヴァ、あなたも0番コンビに入れてもらったら? 」

ラヴァはトーチの方に勢いよく振り返り、鋭い目つきで睨んだ。ラヴァの顔は茹ったように真っ赤で、肩で息をしていた。なにかしらを言いたいが、言葉を選んでいるのか、ラヴァは口をもごもごしているだけだった。フェロがその様子を見て、アハアハと笑う。

「顔が真っ赤!顔に火、付けられちゃったね!いいね、いいね。もっと燃えろ!もっと怒れ!」

フェロがラヴァに向かって囃し立てた。ラヴァは一瞬何かを言い返そうとしたが、ぎゅっと口を噤んだ。

「フン……。失礼したね。さあ行くと良い。全く君は、顔立ちは素晴らしいのに、中身は飛んだじゃじゃ馬だな。女性は愛想よくしないと。守りたいと思えなくなる。」

ノヴァの雰囲気が、途端に剣呑なものへと変化した。ノヴァの腹の中でグラグラと怒りが燃えているのが伝わるような、悪魔も素足で逃げ出すだろうその表情が恐ろしかった。

「守る? こちらからお断りよ。あなたみたいな口先だけはご立派で、中身が全くない巧言令色少なし仁は……アンタは顔色を全く繕えていないからそれ以下ね。アンタに頼むよりも、自分で自分を守った方が、よっぽど有意義だなんて、火を見るよりも明らかだわ。」

「人の忠告を聞かないとは、なんて頑固なんだ。前しか見えていない馬なのか、君は? それとも良薬が苦すぎて受け付けられないのか?」

「口だけ達者なのは、百害あって一利なしね。同じぐらい頭を回した方が、もっといい人生になるんじゃないかしら。」

トーチはジルやミシェルの方を見た。ノヴァを敬愛するミシェルなら割って仲裁してくれるのではないかと期待したからだ。しかしトーチはジルがそれとなく、ミシェルを体で隠しているのを目撃した。

「喧嘩だァ!喧嘩!俺様喧嘩が大好きなんだ。喧嘩は一番、人の心が見事に燃え上がる!これで火の粉が飛んだら最高だね!」

「フォスター?貴様は鍛冶屋の息子だろ?そこの化け物を黙らせろ?」

「確かに実家は鍛冶屋だけどできません……。あとなんで知っているんだ……。」

まるでタイミングを計ったかのように、ラヴァの叱責が飛んできた。ラヴァはトーチが使えそうもないと分かると、ますます肩を戦慄かせた。

「あは!怒った、怒った!飛び火した!人のこと化け物だなんて言うから、自分も化け物みたいに真っ赤になるんだ。なあそう思うだろ子分? 」

フェロがトーチの顔を覗き込んだ。トーチはさっと顔を逸らす。

「顔を逸らすなよ。ん? 子分。子分の大事な親分は化け物に見えるか?」

「み、見えないです……。」

「だよな?ぎゃはは!お前の目ェがおかしいんだ!」

フェロはラヴァを指で指して、一人で盛り上がっている。ラヴァはますます真っ赤になって、そんなラヴァをノヴァが冷静に言い負かす。一見するとノヴァは、ラヴァの言葉を受け流しているように見えるが、ふつふつと怒りは湧き上がっているらしい。さっきからイライラと貧乏ゆすりをしている。トーチは勇気をもって諫めるべきか迷ったが、この状況でのこのこ自分が出て来ても火に油を注ぐだけで、フェロしか喜ばないだろうなと思った。

「はあ……。よくわかったわ……。弱いって残酷ね。頭まで弱くなるんだもの。言葉が通じなくて、周りも不幸になるわ。」

「寛大な心が理解できぬか、この愚か者めが。貴様、自分の立場をわかっているだろうな。」

「立場? ああ無くてスッキリよ。あったらアンタにへりくだらなくちゃいけないものね。」

「身の程を知れ!その減らず口塞いでやる!」

「いいぞいいぞ…!盛り上がってきたァ!もっと燃えろ!もっと激しく!もっと苛烈に!いけ~いけいけ!そこだ!」

フェロは突然トーチの背後に回り、トーチの手を操って手拍子をした。

「もーえーろ!もーえーろ!」

「フェロ?良くないって?大体なんで僕を巻き込むんだ。」

「おいおいお前は子分だろ? それにこんなに綺麗に火が付いたんだ。大きくしないでどうするよ。え? 」

「そ、そうかもしれない……。」

「トーチ君?いくらコンビを組んでいたとしても流されちゃだめよ?」

カノンがフェロとトーチを引き離した。カノンは眉毛を釣り上げて、「怒っています!」という表情をしていた。カノンはノヴァとラヴァの間を割って入ると、どことなく及び腰で話始めた。

「全くもう……。今から授業なのよ。こ、こんなことしている場合じゃないでしょう。同期同士、仲良くしないと。で、でもいきなり仲良くしろなんて、そんなの無理な話よね……。」

トーチは、ワタワタと動くカノンを見て、ノヴァやラヴァに何か言われるのではないかと思った。トーチの中でのイメージは、ノヴァとラヴァは、毒を持った捕食者で、カノンはウサギだった。カノンはハッとして何かを閃いたようだった。

「そうだわ!こんな時こそお菓子よね?今回は私、手作りしてきたの。友情の印としてお一つどうぞ!」

ノヴァとラヴァは、同じような不快感を隠しもしない表情を浮かべた。トーチは名前だけじゃなくて、表情も意外と似ているんだな、とうっかり溢してしまったが、運よく誰にも聞かれてはいなかった。

「遠慮するよ。下々のものはちょっとね……。」

「気分じゃないわ。」

それぞれがさらりと断る中で、二人を押しのけてフェロが躍り出た。

「はいはいはいはい!俺様食べる!」

フェロはカノンから焼き菓子のようなものをいくつか強奪すると、そのまま丸呑みした。みんながぽかんとフェロを見つめていた。フェロの喉がごくりと動いた瞬間だった。

「ウゲェ~~~~~~~~。」

フェロはわざわざラヴァの方に振り向いて吐いた。フェロは全身から常時発火している特殊人間だったからか、吐しゃ物は火炎放射のように真っ直ぐ伸びる炎だった。

「まっず!劇物すぎ!生命の危機を感じる!暗殺道具として使えそう!」

フェロは叫びながらえずいている。カノンはまずいと言われて泣きそうだ。ノヴァはラヴァの方を見て腹を抱えて笑っている。ジルは相変わらず自分を盾にしてミシェルを隠している。トーチはおずおずとラヴァを見た。綺麗な金髪が、前の方だけチリチリに焦げている。当の本人は、額の血管がはち切れるのではないかと思うほど、激怒しているようだった。ラヴァは下唇を噛んで黙っていた。言いたいことが頭を駆け巡りすぎて、頭の中で爆発したのかもしれない。とりあえずラヴァは、「見世物ではないぞ。」と低く唸った。

「頭でっかちの頭に火が付くなんて最高ね?爆発するんじゃないの? 」

ノヴァの言葉にラヴァが反射的に言い返そうとした。しかし力みすぎて言語にならなかった。

「ひぃ~。最高だぜ~。傑作、傑作!」

場を引っ掻き回したフェロが他人事のように手を叩いて煽った。そんな周りの状況を見て、もう我慢できなかったらしい。ラヴァはその場にある椅子を振りかざした。ジルはミシェルを守る体制に、カノンとトーチは自分を庇うように腕を曲げた。柱のようなノヴァと、どこから来るのかわからない自信に溢れているフェロはそのまま仁王立ちをしていた。

「もう我慢ならない!天誅だ!」

椅子はそのまま力任せに飛んでくるはずだった。しかし途中でカース先生に受け止められた。どうやらカース先生は全く授業に来ない生徒達の様子を見に来たらしい。そしてぐるっとあたりを見回し、どうやらフェロが事を荒立てたのだろうとあたりを着けた。カース先生は非常に冷静に言った。

「そこの二人。トーチ・フォスター。フェロ・ボーヴォー。今晩は懲罰室で過ごせ。それ以外の者は、罰則として課題を出す。いいな? 」

 トーチは何か物音がして目覚めた。天井をぼんやりと見上げながら、そういえば今日は懲罰室で寝泊まりしているんだっけと思い出した。あの後トーチ達は、カース生に運動場へと引きずられ、そのままダイナに扱かれることになった。ダイナは、大剣を振り回すだけの肉体を余すことなく使い、生徒達の限界を超えさせようとした。ダイナは生徒達にひたすら腰の発電機に種火を維持し続けながら、走り込みと筋肉トレーニングを繰り返させた。種火は少しでも気を抜くとすぐに消えてしまう。ダイナは、種火が消えていると分かると、男女問わず尻を叩いた。なんでも尻が一番叩いても火消に影響がない部位だそうだ。男子生徒の多くは女性に尻を叩かれることに、最初は浮足立っていた。徐々にダイナの尻叩き「お姉さんパンチ」が、叩くではなく殴るに近いことが分かってくると、浮かれた男子生徒たちの顔つきは、兵士の顔つきに変り、手で尻を守り始めた。もちろんトーチはドベだった。そのために度と座れなくなるんじゃないかと思うほど、尻を叩かれた。フェロも全く訓練に集中していなかったので同じぐらい叩かれていた。ダイナはラヴァに対してだけ、若干尻叩きが甘かった。それを目ざとく見つけたフェロは、「チビだから手加減してるんですか?」と抗議した。それに対して、「獣が!手加減などされてたまるか!」とラヴァが叫んだので、ダイナはラヴァの尻を太鼓か何かを叩くかのように平手打ちをした。ラヴァは運動場に転がって悶絶し、いつもラヴァの腰巾着をやっている屈強なスコッピオに回収されていた。怒涛の尻叩きが終わると、その後は座学の授業が行われた。生徒達は座学の間中ずっと、痛くない座り方を模索してもぞもぞしていた。フェロは机の上でうつぶせに寝るという、あまりも斬新な傾聴姿勢を見せつけた。しかし尻が無防備だったので、教室を巡回していたニコル先生にさらに叩かれていた。几帳面なニコル先生は、わざわざ手袋を外して思いっきり叩いていた。どうやらニコル先生は、相当フェロのことを腹に据えかねていたのだろう。ニコル先生は、生物学を担当している先生だが、炎獣についてわかっていることはとても少ないため、彼の授業は半ば歴史の授業へと変化していた。(ニコル先生は歴史から炎獣を読み解こうとしているらしい。)当然フェロは、先生が話す歴史にいちいちケチを付け、わざわざ質問したり、話を遮って旧時代の話をしようとするものだから、彼らの相性はとても悪かった。そんな目の上のたんこぶとも言えるフェロを懲らしめることが出来て、ニコル先生は見たこともないような穏やかな表情をしていた。ニコル先生は初老の険しい顔つきたが、その時ばかりは少年のような笑みを浮かべていた。そうやって怒涛の一日が終わった。トーチは、もしかするとこのまま罰則なんてないのではないかと思った。トーチは別に他人にゲロを掛けるフェロと同室で寝たいと思っている訳ではなかった。そんな淡い希望を抱いているトーチは、あっけなくカース先生につかまり、懲罰室にぶち込まれた。懲罰室は、懲罰室と名前が付けられているだけで、実際は大きな水場があるだけの何かを洗浄する部屋だった。そこでトーチとフェロは、ひたすらドロドロに汚れた服やシーツ、雑巾などを水洗いしていった。途中でフェロがふざけたせいで、寝ることが出来たのはだいぶ夜も更けてきたころだった。こういった訳で、トーチはとても疲れていたので、いくら早く目覚めたとしても起きている気にはなれなかった。懲罰室の床は、湿ったタイルで出来ているため、とても寝心地が悪い。しかし寝ないよりかはましだった。トーチは床に敷いた寝袋の中でモゾモゾと体の向きを動かした。懲罰室は暗く、寒い。だからフェロのなぜか燃えてる髪があれば、自分の労力は割かずに暖を取れるのではないかと思ったからだ。隣に横たわっているフェロの寝袋を見ると、フェロはどうやら深く眠っているらしい。日中あんなにうるさいフェロでも、寝るときは静かになって、髪も燃えないんだなと思うとなんだか不思議な気持ちになった。そしてそのまま、トーチはもうひと眠りしようとした。その時おかしなことに気が付いた。なぜさっき物音がしたのだろうか。横のフェロは深く眠っている。いびきもなければ、身動き一つもしない。もしかしたらフェロはとても綺麗に寝るのかもしれない。そうなると、さっきの物音は一体だれが建てたのだろか。ネズミだろうか。虫だろうか。トーチは徐々に眠気が無くなって来たのを感じた。とりあえず虫やネズミだったら、フェロに退治してもらおうと、フェロを揺さぶって起こそうとした。しかし当のフェロは寝袋に居なかった。ぎょっとしてあたりを見回すと、懲罰室のドアが開いている。トーチはフェロがどこかに逃げたことを悟った。トーチは明日の朝に思いを馳せる。きっと点呼の前にフェロが懲罰室に戻ってくることはないだろう。教師はきっとフェロが居なくなったことを、トーチに追求してくるはずだ。そうしたら明日もトーチは懲罰室に入れられるかもしれない。懲罰室での寝泊まりが続けば、きっと睡眠不足で倒れてしまうだろう。そうなったらトーチの成績はさらに絶望的なものになる。トーチは寝袋から跳ね起きると、フェロを探しに行くことにした。トーチはフェロが見つからなかったらどうしようと一瞬考えたが、その時は素直にフェロを差し出そうと思った。きっと先生たちもフェロの素行の悪さを鑑みてくれるはずだ。予想とは裏腹にフェロは案外早く見つけることが出来た。理由は簡単だった。髪が燃えているからだ。暗い闇の中で燃えている髪はとても目立つ。すぐにトーチは、フェロが既に寮の柵が半壊している所から、体を通して抜け出そうとしている所を押さえた。トーチが後ろから呼びかけると、フェロは勢いよく振り返ると、トーチに口を塞げというジェスチャーをした。トーチは後ろを確認した後、フェロの目の前にしゃがんだ。

「どうしてこんな時間に寮を抜け出しているんだよ……。こんな時間に抜け出しているのがバレたら一体どうなるのか……。僕らはただでさえも成績が底辺なんだぞ。」

「なんだよ子分。お前もワルだな……。ワルな親分についていくなんて、中々根性あるじゃないか。まあいいや。お前も連れてってやるよ。」

フェロはそう言うと、柵の反対側からトーチの手を引っ張った。トーチは体がまな板みたいに薄いので、難なく穴を通り抜けてしまった。そしてそのまま二人は歩き始めた。

「あのな、フェロ。君が何をしたいのか僕にはさっぱりわからないよ。そもそもこの学校から抜け出すのは不可能だぞ。門には警備員が居て、周囲は塀で囲まれている。学校探検なら日中すればいいじゃないか。」

「学校探検? そんな湿気たものには興味ないね。あと学校からは簡単に抜け出せるぞ。今俺様たちは、寮から遠く離れた運動場の端にいる。ここには深い森が広がっていて、生徒は滅多に近寄らない。変な噂が多いからな。」

「変な噂? 」

「叫ぶ老人とか、人骨の一部とか出てくるとか、燃える火の玉とか……まあよくある怪談話だな。」

トーチは、最後の燃える人魂はもしかするとフェロのことなのではないかと思った。フェロはトーチの訝し気な視線をものともせずに、ズンズンと歩いて行った。

「噂を気にして生徒たちは近寄らないが、ここにはなぜか外に出られる扉があるんだ。」

少し進むと本当にフェロが言った通りの扉がひっそりと存在していた。黒い鉄の棒が格子状にクロスした門は、どうやら学園の外から鍵を閉めるようだった。

「門が本当にあるのはわかったよ。でもどうやって開けるんだ。サムターンは外からしか回せないよ。」

トーチは試しに鉄の門の隙間に腕を入れてみた。後ろでフェロが「よ!大泥棒!」と騒いでいる。隙間に腕は入るものの、サムターンには手が届かなかった。トーチがお手上げだと退くと、代わりにフェロが扉の前に入った。フェロは扉の前で、軽く体を動かすと、緩く足を開いて立った。

「いいか子分。俺様は今から幽体離脱をする。俺様の体が後ろに倒れると思うから、きちんと支えてくれよ。」

そういうとフェロは、目をつぶり、鼻をつまんだ。水の中に潜水するようにしゃがみこむと、そのままフェロの体から、火の玉が出てきた。トーチは慌てて肉体をキャッチする。トーチはあんぐりを開けて、フェロを見た。フェロは見た目こそいつものフェロだが、全身が燃えている。いつもの抑えきれない炎がチロチロと出ているような様子ではなく、肉体全体が炎の塊に変化したようだった。

「はあ、成功、成功!見てな子分!」

フェロは今の自分の肉体である、炎の塊を蛇のような細長い形に変えた。そして鉄の門の間をするすると入っていく。フェロの体に燃やされた鉄が、赤く変形して、煙を挙げているのが見えた。フェロはサムターンのつまみに器用に巻き付くと、そのまま捻って鍵を開けた。

「ふぅ。やったね。……子分。俺様の体を支えてくれ。あとできれば俺様の口を開けてくれ。」

「え、ああ……。」

トーチはフェロを地面に座らせ、自分が背もたれになることで体を支えた。フェロはぐったりと力を抜いていて、うなだれるように座っていた。トーチはそんなフェロの顔を起こすと、フェロは白目を剥き、口を半開きにしている。トーチは悲鳴を挙げたが、何とかフェロの体を支え続けた。

「よし。いいぞ!そのまま体を動かすな。」

フェロは蛇から蝶へと姿を変えた。そのままひらひらと燃え盛る蝶がフェロの口へと入っていく。トーチは完全に蝶が口に入ったのを見届けると、お節介を焼いてわざわざフェロの口を閉じてやった。フェロの喉がゴクリと動き、フェロの体がビクビクと痙攣した。そしてフェロの目が開いた。

「な?すっげーだろ。俺様、実は鍵開けが得意なんだ。」

「色々聞きたいことがあるけど……。体は平気なの?」

「まあな。あんまり遠くに行き過ぎると肉体に戻れなくなる。あと体が炎になるから分散しないように気を付ける。そうすれば問題はないな。」

「いやあ。君は本当にびっくりさせてくれるね。まるでからくり箱だ。……もしかすると噂の人魂は君なんじゃないか。」

「確かに俺様は良く噂の的になる。しかしこれは俺様の奥義。そう簡単には見せていない。習得するのにかなりの時間が掛ったんだぞ。人に真似されたらどうする。」

後ろで茂みがガサガサと揺れる音がした。フェロが顔を上げる。

「おっと……。長居はよくないな。」

二人はそそくさと扉に入ると、森の奥深くへと入っていった。

 トーチはフェロの後に続いて深い森を歩いていた。トーチは度々後ろを気にして振り返った。もう随分と遠くにぼんやりと学校にある電波塔の明かりが見えた。ここらの森は学校の近くの木々とは違い、随分と背が高く、幹が太い。秋の終わりの鬱蒼とした雰囲気が漂っていて、木々が額縁のように満点の星空を囲っている。今歩いて居る道はどうやら上り坂らしく、足が少しずつ重くなっていった。それでもトーチは自分がこの深夜の冒険にどこか興奮しているのが分かった。来たばっかりは即刻寮に帰るべきだと考えていたが、森の奥へと進むごとに自分はトーチというちっぽけな人間から、冒険に魂を売った夢追い人へと作り替わっていくようだった。深夜に誰も知らない場所に向かう、それがトーチに一時的な全能感を与えていた。そんなトーチの火照った肉体をどこか湿った空気が冷やしていた。前に歩いて居たフェロがいきなりトーチに質問してきた。

「例えばお前が今から、今まで知られていなかったものを手に入れようとしているとする。その時子分、お前は何かを支払わなければならない。なんだと思う?」

フェロは草をかき分けて、地面に隆起した太い根を軽々と登った。トーチはフェロに置いて行かれないようにと、慌ててついて行った。フェロが動くたびに、フェロの燃えている毛先が先導するかのように揺らめいていた。

「え……。お金とか、時間……かな。」

「違うね。金ってそれは既にあるものを買っているってことじゃないか。そういうことじゃない。もっと根源的なものだ。」

トーチは近くにあった大きな木に手を着いた。湿った苔が、トーチの手に張り付いた。

「わからないよ……。ところで聞いていいかな。僕たちはどこに向かっているんだ。なんでこんな夜に、こんな森を歩いているんだ。……深い森の中に僕を置いていくなんてしないよね。」

「まあ、まあ。そろそろつくぞ。……さっきの話に戻るが、対価とは、すなわちスキルかリスクだ。人間は新たな挑戦をするときに、スキルかリスク、どちらかを選択するんだ。」

フェロが近場にあった木々に登った。トーチもそれに倣う。

「賢い奴は自分のスキルで生み出せばいい。安全で、堅実だ。命の危険性もない。しかし残念なことにこの世は馬鹿の方が多い。だから人間はリスクを冒して、探求しようとする。実際俺様も馬鹿だから、こんな夜中に探検しているんだ。……さあ着いたぞ。お前が今日、深夜こっそり抜け出すというリスクを払ったおかげで来れたんだ。」

そこには巨大な鉄や金属、砂や砂利を固めてできたような色をしている何かで構成された、建造物が放置されていた。今までこの森には終わりがないのではないかと思うほど、木々が生い茂っていたのに、まるで建造物に場所を取られたかのように森がそこで終わっていた。トーチは思わず目を擦った。相変わらず、所々壊れた抜け殻のような建造物はそこに立っていた。風が森の木々と、二人の髪を揺らしていった。生物とは違い、まったく動かないそれは何かの死骸のようだ。トーチは思わず身震いした。

「大きな建物? ……だろうか。すごい、壮観だ。……だけどおかしい。法律で公的機関以外の建造物は2階まで、公的建造物は4階までと決められているはずだ。」

トーチは親指と人指し指を広げ、建造物の大きさを計った。

「4,6,8,10。一階あたり、窓らしき穴が一列だと仮定しても、少なくとも10階はある。上は欠けているから、少なくとも、この建造物は11階以上が存在していたんだ……。おかしい……。」

「そう。おかしい。」

フェロがこちらを向いた。上弦の月が、フェロの顔に、淡く光を乗せていた。フェロの瞳は、今日の昼にラヴァを煽っていた時と似たような輝きを秘めていた。

「本来なら、間違いなくこの建造物が完成する前に、これら建造物は破壊されていただろうね。火消だって、犯人逮捕に派遣されたかもしれない。しかしこの建造物は、比較的外観を保ったまま存在している。おまけに火消が戦った後に残る炭が見当たらない。焦げた跡もない。むしろ埃を被り、蜘蛛の巣が張っている。」

「あり得ない。こんな建造物を建設していて、バレないはずがないんだ。すぐに捕まる。……でも、実際にこの建造物は現存している……。まさか黙認しているのか? 」

フェロは目を細めてにんまりと笑った。まるで狐のように、口の端と目の端が吊り上がった笑い方だった。

「本来なら作ることのできないこの建造物。しかし建てることが出来る人物は存在する。」

「まさか。法律が僕らを縛っているんだ。誰だって破ることは出来ない。破った者は厳しく処される。」

「そう。そうだ。この建造物を作った人間には、法律は意味をなさない。」

「は……。?」

トーチはぽかんと口を開けた。フェロの回答がまるで理解できなかった。フェロは間抜け顔を晒した

トーチをひとしきり笑うと、ゴホンっと咳払いをした。

「『ようこそ、世界の深淵へ。このことを知る者は、この世界であまりにも少ない。この世界には、我々よりも昔の時代を生きる人類がいた。私たちは、古き時代を生きた彼らに便宜上の名前を付けた。―その名も旧人類。』子分。知りたがりのお前に、お前の知らない世界を教えてやろう。」

フェロは得意げにそう言うと、滑らかに木々を降りて、坂道を下って行った。

 トーチはフェロに連れられて、建造物の中を歩いていた。中は薄暗く、埃と砂に満ちていた。フェロは歩く先々で、途中で拾った木の枝などに火をつけたものを置いて行った。

「フェロ……。君は一体何をしているんだ……。放火か? 」

「ハン!言うねえ、子分。違うよ。親分たる俺様がそんなことするわけないだろう。」

トーチの脳裏には、昼間のラヴァの頭に嘔吐したフェロが焼き付いていた。フェロの親分という言葉は全く頼りなかった。親分と書いて、愉快犯と読む方がまだ理解できる。

「これはな。炎獣避けさ。放棄された遺跡は、身も蓋もなく言えば、炎獣が好むゴミの宝庫さ。だから奴らはよく出没する。そんな奴らにいかに遭遇しないで探索するかが、旧時代の遺跡探索における最も重要なポイントなんだ。」

フェロはクルクルと小枝を回しながら続けた。

「俺様が枝を燃やして置いて行っているのも、工夫の一つだ。炎獣は熱源を狙って襲ってくる。だから俺様以外にも、燃えているものを別で置いておくのさ。そうしたら炎獣はどっちを狙えばいいのかわからなくて混乱する。そうしたら襲われないって寸法さ。」

トーチはまともなことを言っているフェロに感心する反面、なんだかフェロらしくなくて気持ち悪さを感じた。微妙な顔をしたトーチに向かって、フェロが鼻を鳴らす。

「上階は劣化が激しいからな。ほとんど埃と砂と瓦礫だけ。遺物なんざ残っちゃいない。」

「遺物?」

「そう。遺物。旧人類が遺したものだ。正直、これみたいに巨大な建造物だとな、なぜか上に行くほど、壁とか天井とかが破壊されてるものだから、こうやって低階を探すんだ。遺物は、どうやって使っていたのかも、何をしていたものなのかも、あまりわかっていない。だけどロマンがあるだろう? それに意外と遺物って使い勝手が良かったりするんだ。」

フェロはそう言って、O字型の何かを構えた。陶器で形成されているらしいそれは、所々のヒビが気になるものの、おおむね従来の形を取っているのではないかと推測できた。

「フェロ……。それって何に使うために拾ったんだ……。」

「アン? 簡単だよ。こうここの窪みに棒を着けるだろ……。棒の先に集中するだろ?3,2,1、ファイヤ!」

フェロが構えたO字型と棒の合体兵器? から炎が迸り、真っ赤な火の玉が8mほど先に落下した。

「どうだ……?すごいだろう……。親分らしいだろう……。これは盾を構えながら炎を出せる装置?名前はまだ未定だ。ハイ、大成功間違いなし!ハイ、画期的な発明と称賛されるに、俺様全額ベッド!」

「あのね……フェロ。炎は普通、自分の体から離れれば離れるほど制御が難しくなるんだ。この武器は……もちろん素晴らしい。だけどフェロにはこの武器は使えるだろうけど、多くの人には難しいと思うよ。」

「はあ……?俺様の発明に文句があると? この素晴らしい閃きが使えないはずないだろう。いいか?これを思いついたのは、つまらんニコルの授業を聞いているときだった。その時、俺様は思った……。大砲を持ち歩きたい!音も威力も派手で、なんて俺様向きな武器なんだ!しかしそれはぬか喜びだった。大砲は重すぎて借りることが出来なかった。作ってみようかと思ったが原理が分からなかった。そのため、大砲部分は一回置いておいて、それ以外の実用性を付与することに決めた!次いで盾としての役割も与えることで、多彩な戦術を実現する武器へと変化を遂げたのである!」

フェロは武器に頬ずりをした。

「耐久性は試したの? 」

「耐久性~? 見たらわかるだろう?分厚い・固い・きれいな絵? 柄? しみ? がある!文句なし!よってテスト必要なし。」

「フェロあのね。僕、言うか言わないかですごく悩んだんだ。だけどどうしても言いたくなっちゃって……。このまま言わない方が居心地悪いというか、何と言うか……。」

「なんだなんだ。言ってみろ。俺様は親分だぞ。」

トーチはゴクリと唾を飲んだ。トーチは何度か逡巡したのちに、まっすぐフェロを見た。

「それ多分、便座だと思うよ。」

ストンとフェロの顎が落ちるように、口が開いた。

「いや、なんか見たことある形だなと思って……。普通インテリアとかだったら、楕円の真ん中に穴をあけるはずだろう? なのに変な位置に空いていて、しかも形もなんだか、デザインが似ているから、これってもしかして便座なんじゃないかって……。ま、まあ、間違えるのもしょうがないよ。僕たちは排泄物をすぐ燃やしてしまうものね。そのための空気孔とか、ガスの廃棄管が伸びて、そこそこフェロの持っているそれと形が違うから……。間違えるのは無理ないよ。」

フェロはO字型の兵器を睨むと、結構な力を込めて床に叩きつけた。パリンっと乾いた音と共に、O字型の武器が割れた。

「フン……。割れるなど……軟弱者が。」

トーチは「カース先生みたいだね」とだけ言った。

 フェロはしばらくの間しょげていたが、ものの数分で立ち直り、いつものように話し始め、せわしなく歩き始めた。トーチは数分前の打ちのめされた姿を見て、一瞬言わない方が良かったのだろうか、謝った方が良いのだろうかと思った。しかし時間が1分、2分と立つにつれ、いつもの車輪が回転するような語り口調が戻ってきた。そのためトーチはやっぱり言ってよかった、言わなかったらこいつはずっと便器に頬ずりしていただろうと思い直した。やっぱり真実は言った方がいい、トーチはそう実感した。フェロの話は、相変わらず遺跡や旧時代の話についてだった。今までは話半分に流していたが、実際に遺跡に来て話を聞いてみると、フェロは全く嘘をついていなかったことが分かった。意外かと思われるが、トーチたち現代人の住む住居の壁は基本的に薄く、建物の背は低い。理由は、人間自身が燃えるため非常に火事が多いこと、分厚い壁・高い建物の中で火事に遭遇してしまえば、炎をうまく操ることのできない一般人による更なる火事拡大が懸念されているからだ。一般人の炎に対する心得は、火消に比べるとあまりにも少ない。理由として、火消になるほどの炎を、体内に宿して生まれてくる人間が少ないことがあげられる。実際に鍛冶屋になるとばかり思っていた頃のトーチは、炎の制御を習う授業でいつも満点を叩き出していた。一般人には、炎は出せるが量はおまけ程度というのが共通認識だった。そのため、壁が厚い・背が高い建物は、基本的に建築してはいけないことになっている。そしてそれは、建築およびすべての製品と定められているため、兵器でさえも巨大なものを作れない要因となっていた。だから、フェロの話す高さ100mの超巨大建造物のことは、もちろん法螺話だと思っていた。しかしここに来て、実際に見て、まったくの夢物語ではないことを知った。そして所どころに、異なる遺物が落ちているのを見て、過去の足取りをほのかに感じた。

(ここでは、昔の人間が生きていたんだ……。何となく使用用途が分かる遺物がチラホラある……。コップ、テーブル、これは……筆記用具か? 確かにここで、何かが生きていたんだ。)

この場所で、トーチとフェロは明らかに異物だった。トーチは何となく、この空間そのものが、時代の異なる自分たちを拒絶しているような感覚があった。トーチは不快感と不安を払拭するために、明け透けに明るくフェロに話しかけた。

「あはは……。それにしてもすごいね。旧時代って。こんなものが存在していただなんて……。全く知らなかった。」

フェロはきょとんとした表情を見せた。

「全く知らない?そりゃ、トーゼンだ。旧時代のことは誰からも教わることは出来ない。なんだって国王が定める『三つの禁』を破ることになるからさ。」

「『三つの禁』? 」

「禁書・禁句・禁足地。この三つの禁は、全部人類と旧時代を遠ざけるためにあるんだ。普通に暮らしていれば知ることはない。」

「なら、なんでフェロは知っているんだ?」

「そりゃ簡単さ!俺様はこっそり禁書を読んだんだ。」

トーチは「フェロって本読めたんだ。」と言いたくなったがやめた。代わりに、「たまに難しい言葉を使うから、そうだろうと思っていたよ。」と返した。

「そうだろう。そうだろう。気に入った言葉はすべて覚えている。ちなみに先ほど建造物に入る前に言った言葉も、とある禁書から引用した。」

フェロはこほんと咳払いをし、宙を見上げた。

「子分……。親分のしけた話を聞いてくれるか? こんなじめじめした話は俺様には似合わない……。もっとカラっとした燃えるような情熱が俺様の好みなのに……。」

「うん。うん。いいよ。聞くよ。」

「まず親分はな見てわかる通り、大きな商家の5人兄弟の末っ子として生まれたんだ。」

トーチの頭の中に、なぜか5匹いるアヒルのうち、一匹だけ燃えながら激しく自己アピールをするアヒルが浮かんだ。

「親父はこう考えた。5人のわが子をお互いに競わせることで、最終的に優秀な一人を跡継ぎに指名しようと思ったんだ。だけどそこで重大な問題が発覚した。」

トーチは隣を歩くフェロの方へ視線を動かした。

「俺は驚くほど計算が出来なかった……。何をどうやってもできなかった。そんな俺様は早々と跡継ぎになる資格を失った。そんな俺に対し、親父は考えた。見てくれだけはいいから、接客や商談でもさせよう、こいつはおしゃべりだから丁度いい、と。」

トーチは、きっと次は「しかし」で始まるだろうなと思った。

「しかし、俺様は他人の興味ない話などに、微塵も面白さを感じなかった……。だから「あなた対して面白味がないですね」と言ってやった。そうしたら接客業も外された。……まったく呆れるね。」

「そんな…フェロ…。」

「全く馬鹿じゃないのか、あの親父は。この俺様が自分で出来ないと判断したんだ。無理に決まっておる。それなのに何度もやらせおって……。」

「……。」

「そうして、俺様は家に軟禁されるようになった。だが俺様は気づいてしまった……。炎を体から分離し、炎となった自分が鍵を壊してしまえば、外に出られるのではないかと思った。それまで俺様は炎を出すのを禁止されていてな。出したら殴られていたもので、そもそも炎自体を出せるかどうかは未知数だった。なんでも炎を出しすぎるのは良くないらしい。だが、炎を出すことは簡単にできた。そして、体と炎を分離し、炎の意識を移すことも意外と簡単に出来た。ちょっとしたコツがあってね。果物の皮をむくときをイメージするんだ。……いやどちらかというと、皮を突き破るという感覚だな。自分の肉体という皮の綻びを探すんだ。怪我、精神的ダメージ、トラウマ。なんでもいい。肉体が完璧では無いときほど分離しやすい。こうして俺は見事鍵開けに成功した。以降この「こっそり鍵を勝手に開ける」という術を使って、あまたの場所に侵入した。」

「その中のひとつに、禁書があった書庫があったというだけの話だ。親父は成金趣味だったからな。とにかく禁書っていうのは高い。まず数が少ない。当然規制対象だからな。おまけに使われている素材が希少だ。だから頭がおかしい値段が付いていることがざらにある。まあつまり、親父は美術品として禁書を買ったんだ。」

いきなりフェロが立ち止まった。トーチはフェロの視線をたどって見ると、下へと続く階段があった。フェロは階段の手すりが付いている壁を擦った。そこには『B1』と書いてあった。

「ふむ……。記号に数字か。数字だけは今と変わらないからな。しかし1か。さっき降りてきた階も1と書かれていた。なかなかに不思議だな。」

「多分床下のことなんじゃないか。」

「床下? 」

(そうか……。こいつはお坊ちゃんだか、お嬢ちゃんだったから、床下に食料を貯めるとか、

財産を隠すという概念がないんだ。)

「庶民は大体床下に財産を隠しておくんだよ……。どこか部屋に隠すより、家の床に穴をあけて、そこに隠し、また床で塞いでしまえば、滅多なことではバレないだろう。」

言ってからトーチは、フェロは泥棒の技術を自慢していたことに気付いた。しかし侵入すると言っても実家の鍵しか開けてないのだろう、と水に流すことにした。

「フン、なるほど穴ね……。つまり地下ってことか。これはラッキーだぜ? 遺跡の中でも立ち入れる地下は珍しいんだ。」

フェロはゲっとゲップをした。フェロの口からぽこっと火の玉が出てくる。トーチはもうちょっと上品に出来ないのかと思った。

「ふう……。ここからは暗いな……。まあこいつがあれば何とかなるだろう。……さて、禁書の話に戻るのだが、さっきも言った通り禁書は美術品、綺麗な置物としての役割を期待されている。だから禁書を読んで研究しようとするやつは少ない。それに研究したところで、誰かに話したら罰せられる。だけどどうしても旧時代のことを伝えたかった……。そんな狂ったやつらが、禁書に書き込みをしたり、こっそりページを付け加えたりしたんだ。そうしたら禁書と一緒に知識も流通させることが出来るだろう。そういう「いたずら」された禁書は、劣化品って言われているんだ。だからただの金持っているってだけの商人も持つことが出来たんだ。」

フェロとトーチは、目の前に倒れている瓦礫の山の上を跨いだ。

「まあ、知識って言ってもそんな大したものでもないけどな。旧時代は、ほとんど闇に包まれている……。どんな人間がどんな生活をしていたか、どんな人生を送っていたのか。……どうして旧人類はいなくなったのか。それすらわかっていない。」

「いなくなった?」

「はあ、よく見ろ。」

そう言ってフェロは傍に落ちていた椅子らしきものに手を触れた。フェロの指先に炎が生まれると、すぐに椅子に燃え移った。

「どんな道具もある程度の防火性を持たせるのが普通だ。だけど旧時代の遺物は、そろいもそろって燃えやすい。このことから、旧人類は炎を出せなかったのではないかと言われている。あとこれは信憑性が低いのだが、もしかすると旧人類は、今の人類よりも頑丈ではなかったのではないかと言われている。まあこれは都市伝説に過ぎないがな。どうにも防具の種類が豊富なことと、やけに頑丈な壁から推測したらしい。」

フェロは燃え盛っている椅子を破壊することで、鎮火した。

「はあ……。フェロ……。何だか夢を見ているみたいだ。まさかこんな場所があるなんて……。」

「ほらやっぱり気になるんじゃないか。俺様の言ったとおりだ。」

「それにしても、君はなんでそんな旧時代が好きなんだい? ただ見つからないようにするスリルを味わっているだけじゃないだろう。」

フェロは目を丸くしてこちらを向いた。

「なんだぁ~。子分。親分のこと、よくわかっているじゃないか~。」

そう言ってすり寄ってこようとするフェロを、トーチは全身で拒否した。フェロはつまんなそうな顔をし、その後フェロの顔が、フッと真面目な顔つきに変わった。

「俺様はさ、炎主様なんていないって思っているんだ。」

トーチは弾かれたように、フェロの顔を見た。

「そんなこと言って。誰かに聞かれたら。冗談じゃすまないよ!」

「でも死なないだろ。」

フェロは非常に凪いだ表情で佇んでいた。地下の暗闇の中で、火の玉がフェロを照らす。火が揺れると、フェロの影も揺れた。

「不敬なことを言ったって、炎主様は罰しに来ない。その代わりに、いろんな奴から叱られるだけだ。」

トーチは頷かなかった。しかし心の中では同意していた。町ではトーチは祝福された子供だった。炎を出せるのは、特に炎主様に愛された子供なのだと、そう言われながら育ってきた。しかし、火消養成学校に行くと、炎主様の祝福を無下にする恩知らずとして扱われた。トーチ自身は変わっていないのに、周囲が変化しただけなのに、トーチの評価は一変した。その度にトーチは思った。祝福の有無は、炎主様が決めるものではなく、人々が与えるものなのかと。以前のように、炎主様を信頼することも出来なくなっていた。

「これは、噂なんだけどさ。炎主様に心を尽くして仕えると、苦痛も苦難も苦悩もない天国へと招待されるらしい。そのためには精神誠意尽、自分の命のすべてを炎主様に捧げることが重要なんだってさ。……でもそれってウザくないか? 大体、本当にそんな天国があるなんて保証はどこにもない。……それにさ、炎を持つ子供はみな平等に愛すると言っている癖に、その噂が本当だったら、炎主様に平等なんてないんだ。」

「そんな噂、聞いたことないよ。」

フェロはトーチの顔を見た。フェロはひどく淡泊な瞳をしていた。

「当たり前だ。これは上流階級だけに、流行っている噂だってさ。俺だって知らなかった。だけど兄弟の一人がうっかり漏らしたんだ。お前のような背教者は、絶対に天国に行けないってな。天国に行ける人間には、限りがあるんだから背教者の席はないだそうだ」

フェロはトーチから目線を外すと、再び前へと歩き始めた。トーチとフェロが歩いて居る床には、所々に薄くなった白線が残っていた。フェロは、その上だけを飛ぶようにして歩いた。

「平等って嘘なんだ。博愛なんてないんだ……まあ、炎主様だってもしかしたら人間かもしれないからな。一人の人間に、そんな大層な救いを求めるなんて馬鹿馬鹿しい。だから、俺様はこの世界をいずれ捨てると決めたんだ。だって俺様には、この世界はどうにも噛み合わない。」

「世界が……合わない……? 」

「そうだ。みーんな教えてくれない。大人になったらどうなるのか。俺たちはなんで今こんな生活を送っているのか。天国の話は真実なのか。知りたいことをみんな秘密にしているんだ。知っている奴らは、分け与えるつもりなんて、きっとさらさらないんだ。多分、黙ってりゃ暮らしていけるんだ。計算が出来て、お口をきちんと閉じれる奴は受け入れてもらえるんだ。おかげで自分の人生なはずなのに、生きてる感じがしないよ。俺様は風船みたいに浮いているだけで、誰かが吹かせた風に流されているだけなんじゃないかって思う。俺様はそんな人生嫌だね!なんで自分の好きに生きれないんだ。なんで自分が人生を選択した気になれないんだ。それってなんだか湿っぽくて嫌になる。周りを見たら、そんなこと思っている奴なんて一人もいない。みんな同じ型で作られた量産品みたいな奴ばっかじゃないか。そんな型に入っていたら、勿体ない。1000年間には、炎主様がいなかったんだ。いないのに旧時代は成り立っていた。その証拠もある。だから俺様は、炎主様がいなかった時代に戻したい。もっと自由な世界に行きたい。」

フェロはそう言いながら、空中でくるっと一回転して、着地した。そして空中を指さした。

「そのために俺様は、いろんな奴に火を付けるんだ。どうせ俺様はマイノリティさ。なら俺様みたいに派手に燃えている奴の数を増やせばいい。そいつらはきっと旧時代に興味を持つ。そうすれば、あらびっくり。俺様が嬉しい天国に、世界の方が様変わりする。どうせ生きるなら心燃える方へ……。そうだろ?」

そう言うと、フェロは恥ずかしそうにどこかに行ってしまった。トーチは衝撃でその場から動くことが出来なかった。トーチの中でドクリと何かが動き始める音がした。この世界は秘密に満ちている。なんで炎獣がいるのか。それは誰も知らないと言われている。だけどそれはおかしい。ニコル先生は少なくとも1000年前に、火消を含む軍隊が結成されていたと解説していた。火消がいるのに、倒す炎獣がいないなんておかしい話だ。それにこの旧時代の遺跡。禁足地になっている理由は、炎獣が多発して閉鎖するしかないからとされている。もしもこの理由が建前だったとしたら? 本当はこの遺跡を隠そうとしているのだとしたら。トーチたち生きている人間は、自分たちが知る権利があるものを誰かに隠されていることになる……。それにフェロの言う通り、炎主様は非常に怪しい。炎主様とは何者なのか。誰なのか。みんな知らない。トーチは思わず、胸に手を当てた。心臓がいつもよりも忙しく動いているのが分かる。自分は今、興奮している? トーチはおもむろに自分の手を見た。何となく今は、自分の体と自分の意志がぴったり嵌っているいるように感じた。トーチは手を握り、そして開いた。トーチの手の中には、非常に安定した炎が小さく揺れていた。

(炎は、持ち主の精神状況にひどく影響される……。今の僕は、安定しているということか? つまりこの興奮が僕の“常”なのか)

この身を焦がすような興奮。体を置き去りにして、心がどこかに飛んでいきたくなるような、もしも自分の肉体がなかったら、ここでグダグダしていないで、今すぐそこに行けるのに、という焦り。これが自分、なのか? これが命を燃やす感覚なのか? 自分の体から、絶えず何が溢れ出てくる。これが情熱なのだろうか。トーチは、自分の足がしっかりと地面に踏みしめているようなそんな安定感を久しぶりに感じた。しかしどこかそんな自分を咎めるような思いもあった。知ってはいけない。知ったらまた失ってしまう。そんな恐怖が自分の足を重くする。

(心が叫んでいる。……真実を知りたい。なんで僕は、知りたいのに、知ることを恐れている? 思わず興味のない振りをしてしまう? )

すると、トーチは再び突発的な頭痛に襲われた。今度は列車で味わったものよりも、さらに酷く重い。まるで鈍器で直接殴られているような、脳みそが沸騰しているような激しい苦痛が、トーチの頭を支配した。

「ん? 子分? どうした。親分について来ていないじゃないか。」

遠くからフェロの声が聞こえる。トーチは思わず、地面に膝をついた。四つん這いになったトーチは、自分の手の甲に汗が垂れていくのを見た。

(気を失うわけにはいかない……。僕は先に進みたい?)

頭の中では、誰かの低い声が絶えず響いている。

「知ってはならない……。知ることは、失うこと。知ることは災いを招くこと。知ることでお前は再び誰かを不幸にしてしまう。」

トーチは頭を?きむしる。

「いやだ……。僕は知りたい!」

「知らないという選択はお前を守る選択だ……。お前の命を、心を、周りを守る。お前も望んでいないはずだ。不本意に誰かを失うことを……。」

徐々に息が苦しくなっていく。トーチは首に手を当て、深呼吸を繰り返す。静かな遺跡の中で、トーチの荒い息遣いだけが、反響していた。

「忘れることで、もうお前は傷付かずに済む……。お前のせいで人が死んだことを、思い出さずに済む。」

目の前が突然弾けた。トーチは腕で自分の体を支えていられなくなって、ぺしゃりと体制を崩した。ひどい耳鳴りが耳の奥で嵐のように唸る。その中で、誰かの悲鳴と、うめき声を聞いた。悲鳴はしきりに誰かの命乞いをしていた。ぎゅっと瞑った瞼の裏で、一つの情景が鮮明に浮かび上がった。トーチは気づいた。誰か、女の人が殺されている。

「あああああああああああああ!」

トーチは絶叫した。フェロがトーチのところへ足早に戻ってきた。

「大丈夫か? 子分。一体何があった。どこか悪いのっ、か……」

ひゅうっとフェロが息を吸った。フェロはトーチを自分の後ろに隠し、姿勢を低くする。フェロの視線の先には、3,4m級の炎獣がいた。その炎獣は虎の姿を模倣していた。四本の足を使って、じりじりと炎獣が近寄ってくる。フェロは警戒態勢を崩さずに、炎獣を観察する。

(こいつ……!全然隙が無い!全身隈なく殻を纏っていやがる。)

通常炎獣にはゴミや廃棄物で覆われていない、炎がむき出しの箇所がある。どうしても足の可動性を死守するためには、関節部分などを覆うわけにはいかない。そういった隙間から、人間で例えるなら骨格のような役割を果たす柔らかい組織「根」を破壊する。これによって炎獣を足止めするのである。しかしこの炎獣は全く隙間がなかった。隙間に燃えやすい遺物を埋め込むことで、防御を固めていたのである。

(あ、あいつ~。遺物を燃やしやがって!絶対許せん!)

フェロはちらりと後ろを見る。トーチは相変わらず後ろでうずくまっている。これではおそらくまともに戦うことは出来ないだろう。そしてフェロは、自分の体を弄った。何か武器になりそうなものでもあればと思ったが、あいにく何も入っていなかった。次にフェロは周囲を見回した。ここはおそらく地下である。地上とは異なり、窓が一つもない。地上であれば、少なくとも壁を破れば脱出することが出来る。しかし地下である以上、強引な脱出は出来なさそうである。とりあえずフェロは、自分の下にたまたま落ちていたパイプと鉄片をもって構えた。その間も、炎獣は距離を詰めてくる。もう鉄片を投げるしか道はない、そう思ってフェロは投球の姿勢を取った。

「うう……。フェロ……。」

「子分?大丈夫なのか?」

トーチがふら付きながら立ち上がった。顔色が優れないが、目の焦点がしっかりとあっている。どうやら意識はあるようなので、フェロはほっと息を着いた。

「ごめん。フェロ……。きっと僕が叫んだせいだ。奴らは熱源を狙ってやってくる。だからフェロが所々に火をつけておいてくれていたのに……。」

「気にするな。子分を守るのは親分の役目!……それよりもだな。子分走れるか。」

トーチは自分の膝を触る。まだ膝ががくがくと震えていて、一歩でも踏み出したら足が引っこ抜けそうだった。

「無理、かもしれない。本当にごめん。」

「……気にするな。子分を守るのは親分の役目だからな……では、どうする…? 逃げることが出来ないなら、残された道はただ一つ。戦うしかないぞ? 子分、何か武器を持っているのか。」

「いや……持っていない。フェロは? 」

「便座は捨ててしまった。」

「そうか……。」

トーチは距離を詰めて、こちらを伺っている炎獣を観察する。

(殻が固い。ダメージを与えるだけの隙間がない。……この様子じゃ、核を壊すなんて、きっと夢のまた夢だ。)

トーチの中にある仮説が浮かんだ。火消訓練学校で、炎獣を討伐するためには、核を破壊する必要があると学んだ。なぜなら核を破壊されなかった炎獣は、次の外殻を見つけだし、また新たに体を形成しようとする。そのため、外殻の一部を破壊、そこから侵入し、核を破壊することが戦闘の基本である。しかしそれは、討伐における定石だ。今トーチたちは、この炎獣を退治したいわけではない。あくまで逃げる時間さえ、地下から地上に上がる時間さえ稼げばいい。

(授業を聞いたときに、炎獣はまるで容器に入った水のようだと思った。容器に傷が付けば、炎が漏れ出してしまう。炎そのものが炎獣の肉体なのだから、当然炎獣は炎を外に放出したくない……。炎獣は自分の外側に炎が漏れ出したことを察知すると、どちらかの行動をとる。それは更なる熱源を吸収するか、壊れた外殻を修復しようとする……。)

トーチはこれだと思った。今まで無秩序に転がっていた可能性のその端をつかんだ、そんな感覚があった。そしてトーチは、フェロを観察した。フェロは今、鉄片と鉄パイプを持っている。

「フェロ。手に持っているそれ、全部貸して。」

「ん? おお、いいぞ!」

トーチは鉄片とパイプを受け取った。トーチは、パイプと鉄片をガンっとぶつけると、鉄片の表面を溶かして溶接した。

「フェロ。もう一個似たような鉄片を見つけてくれ。出来ればもう一回り小さいほうがいい。」

「なんだかわからんが、なにか閃いたんだな?」

フェロはウキウキしながら鉄片を拾い、トーチに差し出した。受け取ったトーチは、鉄片を鉄パイプの中に入れた。

「フェロ。今からやることはすべて君に、いや親分に懸かっている。親分は鍵開けが得意、肉体と炎を分離することが出来るんだろう。」

「そうだな……。でもそれがどうした。」

「この鉄パイプの中に、炎になって入ってくれ。出来るだけ小さくなって入るんだ。そしてパイプの中で膨張するんだ。そうすると鉄片が勢いよく発射する。」

フェロはぽかんと口を開けたまま、トーチの話を聞いていた。

「即席だけど、大砲の原理を利用するんだ。……でも正直成功するかわからない。もしかしたら鉄片が飛ばないかもしれない。……だけど成功したら、足止めが出来るんだ。最悪、地上に出れればいい。だから……。頼む。親分!親分にしか出来ないことなんだ。親分の炎を僕に貸してくれ!」

「い……。」

「はは……。ごめん。やっぱりいやだよな……。こんなこと……。失敗する可能性も高いのに……。炎と体が分離している間は、体の方が無防備になるって言っていたものね……。」

「いいぜ。いいぜ。いいぜ!お前は最高だ!なんだその作戦は!最高に燃えるじゃないか!」

「へ? 」

「その話、乗った!俺様の炎、お前にやるよ!」

そう言うとフェロは炎になって、パイプの中に潜り込んだ。膝から崩れ落ちるフェロを、トーチは咄嗟に支えた。

「おい子分!俺様の体持っとけよ?置いてかれたらザマないからな。」

「う、うん。」

トーチはフェロの体を背負うと、来ていてた服をフェロごと自分の体に巻き付けた。トーチが長袖を着ていたこと、フェロが驚くほどガリガリだったので、即席とは思えない安定感があった。

「よっしゃ?行くぜ。3」

トーチは慌てて鉄パイプを構える。

「2」

トーチは炎獣に照準を合わせた。何かに気付いたのか、炎獣が姿勢を低くした。

「1」

炎獣がトーチ目掛けて突進してくる。

「ファイヤ!」

鉄パイプの中で、ボンと破裂音が鳴った。鉄パイプがビリビリと振動する。トーチは鉄パイプを必死に握りしめながら、視線は炎獣から離さなかった。

「うっひょ~~~。押し出し、押し出しぃ!」

「フェロ?! 」

「爆発するだけなんて、芸がねぇ!黙ってられなくて、うっかり飛び出しちまった!」

フェロの炎が纏わりついた鉄片が、ガンっと炎獣に突き刺さる。炎獣が腹に響くような咆哮を上げた。

「フェロ戻れ!吸収される!」

「俺様は親分だぞ?そんな馬鹿はしないって。それより俺様の体を持って、早く逃げろ!」

トーチはその言葉を聞いて、炎獣に背を向け走り出した。その背中を追うように、咆哮が再び響きわたる。トーチは階段に向かって一直線に走り、一階まで駆け上がった。そしてすぐそばの窓を体当たりで割り、外の森へと駆け出した。冷たい夜風を、顔に受けながら、一目散に森の奥を目指した。とにかくこの建物から離れなくては、トーチはいつもより数段力の入った迷いのない足取りで走った。いつものトレーニングとは違う、命の競り合いがもたらす興奮が頭を支配していた。

 しばらく走っていると、不意に背負っていたフェロの体がピクリと動いた。そしてそのままトーチの後頭部を腹に抱くように巻き付いてきた。トーチは驚きのあまり、足が縺れて転んでしまった。そのまま深い森の斜面をゴロゴロと転がっていく。転がっている最中に、二人を結んでいた長袖が解けて、二人は別々に転がっていった。

「ふははははは。なんだ今のは!」

「フェロ?」

「最高だ!なんなんだお前は!」

フェロはそう言うと、トーチの体に圧し掛かってきた。そして興奮のままに、トーチの顔をぺしぺしと叩いてくる。

「痛いよ。フェロ。もう、なんだって君まで一緒に飛び出してしまうんだ。」

「甘美なスリルに耐えられなかった!こんな感覚久しぶりだぞ!まるで全身が燃えているみたいだ!」

「ははは。大げさだな……。でも、僕もなんだかわかるよ。僕、今までにないほど興奮している。」

トーチは大の字に体を広げた。

「……まさか。本当にうまく行くなんて。駄目元な発想だったのに。死なないで生きているなんて、なんだか夢みたいだ。」

トーチはだんだんと興奮が冷めていくようなそんな感覚がした。全身を支配していた興奮がすっと鎮まって、今度は悲しさやら不安やらが押し寄せて、全身の熱を奪っていった。

「はあ……。知っちゃいけないことを知っちゃった。そんな気がする。さっきまであんなに楽しかったのに、今は不安で仕方ない。」

脳裏に浮かんだのは、あの誰かが殺されている光景だった。今回はうまく行ったが、もしもあの作戦が失敗していたら、フェロがあの光景のように死んでいたかもしれない。さっきは意識していなかったが、作戦を話した瞬間・実行した瞬間ではフェロの命はトーチの考えに賭けられていた。

(ただの思い付きで今回は助かった……。だけどそれはただの偶然で、今度は助からないかもしれない。ただの好奇心・探求心が生んだ一時的な考えを、安易に実行するのは危険かもしれない。)

トーチは自分の上に乗っているフェロを見た。フェロはニコニコと笑いながら、無遠慮にトーチの顔を弄り続けている。フェロのやけに浮き出た肋骨が、ゴリゴリとトーチに押し付けられていた。

「ごめん……。フェロ……。あの時はどうにかしていたんだ。結果的には助かったけど、もっとよく考えるべきだったんだ。口先から出た考えを、そのまま実行に移してしまったんだ……。」

「なんで謝るんだ? 楽しかったし、助かった。いい作戦だったじゃないか。」

トーチは首を振った。

「いや駄目だ。出来るだけリスクは少なくしないと……。僕の考えで誰かが、フェロが死ぬかもしれない。僕のくだらない考えが、いらない結果を生むかもしれない。」

トーチはフェロのことをなんだか直視できなくなった。フェロの命を駒のように扱ってしまった。それが今更トーチの心をジグジグと蝕んだ。トーチは顔を動かして、横にある草木を眺めた。体の上に乗っていたフェロが、スッと上体を起こした。今まで自分の体に乗っていた重さがなくなった。そしてトーチは突然頭を動かされ、強制的に正面を向かされた。トーチは驚いてフェロを見る。トーチの上半身を、フェロが跨いで座っている。そしてそのままフェロはトーチの顔を覗き込んでいる。

「俺様は死なない。俺様はいずれ神になるからな。」

トーチはフェロに顔が固定されていて、フェロの顔を直視することしか出来なかった。フェロの目の中に、メラメラと燃える炎が見えた。

「それに、相棒になら燃やされるのも悪くない。」

トーチはヒュッと息を飲む。フェロの顔がどんどん近づいていき、二人の額がぶつかった。

「お前は特別だ。……俺様の言葉を信じてくれた、俺様の相棒なんだ。」

 



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