六話 人生の原因と結果
彩人は、後悔のある人生は送りたくないのです。失敗も成功も問題ではないのです。まずは夢に向かって一歩踏み出したいのです。由里子の方は、自分の意思が弱く自分であまり決断できません。「人に決めてもらう」という癖があります。財布を握ること以外は素直なのです。だから彩人と由里子はプラスとマイナスで、ちょうどいい夫婦関係を築き上げているのかもしれません。
それは遠い懐かしい思い出です。「家を持ったら庭に柿の木を植えようね。ここが終の棲家ですもの。」という由里子の希望通り、ホームセンターに行って苗木を買ってきて、二人で植えました。その柿の木に毎年柿の実が溢れんばりに実り、どんなに頑張っても二人では食べきれません。近所に配ろうと思っても必要ないのです。どこの家でも柿の木を植えていました。
そんな長年親しんで住んでいた家を売却しました。ちょっと寂しい気持ちにはなりましたが、子供もいないのでこの家も十分役目を果たしてくれました。それに屋根の修繕などをすれば、今の貯金などすぐ吹っ飛びます。それに思い出は生きていてさえいれば作っていけます。
アパートに引っ越して喜んだのは由里子です。最初はあんなに売却に反対していたのに、電気、水道の光熱費が今までの半分以下、何かが壊れても大家さんが修繕してくれます。庭の手入れも必要なく、固定経費もかかりません。その分、食費や温泉などに行けて優雅に過ごせるようになりました。
そんな時です。このアパートを取り壊すので、出て行って欲しいと言われました。私たちもちょうど新しいアパートに引っ越したいと思っていましたので、「わかりました。」と言って承諾しました。ところがです。高齢者にはどこのアパートも貸してくれないのです。一括払いするからと言っても首を縦に振ってくれません。「認知症」と「孤独死」など高齢者トラブルを懸念しているからです。
認知症については、バルコニーでの放尿や入居者のパニック症候群で警察を呼ぶなどし、家主や管理会社が高齢者の対応に手を焼いているのが現状のようです。認知症の高齢者による奇行は近隣住民との摩擦を起こしやすく、結果的に同じアパートやマンションの別の入居者の退去を引き起こしてしまうことを恐れていました。
孤独死も悩みの種で、遺品整理が必要になるほか、発見が遅れれば、室内の汚れや異臭を取り除く特殊清掃が必要になります。孤独死が「事故物件」にあたると考える大家や管理会社は多く、通常の賃貸物件に比べて入居者に敬遠されるからです。それに火の不始末による火災などのリスクが高くなるからです。
いわゆる老人問題です。でも老人側から言わせてもらえれば、老人が全て問題のような表現にはいささかカチンときます。まるで老人が問題のようで、老人にしてみればおかしい話です。問題を起こしたのはその老人であって、老人全てが問題ではないのですから。
そんな時、「市営住宅の入居募集しているわよ。」と由里子の年下の義姉が教えてくれました。入居資格は満たしていましたが、倍率がとても高くこれは無理だろうと私は思っていました。
ところがです。当たったのです。そして無事入居でき、「ここが終の住処ね」と私も由里子も大喜びしました。そんなここぞというときのくじ運がいいのも由里子なのです。
持ち家であれ、アパートであれ、市営住宅であれ、安心して眠る家があることは、人生において非常に重要な幸せな要素です。家は単なる寝る場所ではなく、日常生活に深い影響を与えます。家が提供するのは、物理的な安全だけでなく、心の安らぎや安心感も含まれていると思います。自分の家に戻ることは、外部のストレスやプレッシャーから解放され、日々の疲れを癒し、新たなエネルギーを得るためのリフュージュでもあります。持ち家であるかどうかにかかわらず、家は人生において特別な意味を持つ場所で、その価値は単なる物理的な居場所を超えています。この市営住宅が、居心地のいい、安心できる由里子と彩人の終の住処になっているようです。
昔から、由里子と私はブランド品にこだわりがなく、欲しいものがたまたまブランド製品だったり、外車だったりすることがありました。しかし、今ではそれらのものには全く興味がなく、服は安さ一番の島村で満足しています。
由里子の弱いところは、「限定」「特別」「緊急」などの言葉に弱いことです。宣伝文句に乗ってしまい、欲しいものがなくても買い物が好きで、建前上、「これ安いから買ってもいい?」と夫を立てるように聞いてきます。「今持っているものを捨てられるなら買ってもいい」と彩人は答えます。押し入れは着るもので溢れているからです。
最近、由里子は「物から食に変わっているわ。同じお金を出すのなら、自分のためだけの「物」ではなく、あなたとおいしいものを食べる方が幸せなのよ。」と言っていますが、安いとすぐ買ってしまいます。そして、似たような服ばかり買ってくるので、いつも同じ服ばかり着ていると思われています。それはそうです。私だって気づかないのですから、ましてや他人様が気づくわけがありません。それなのに、「新しい服は気分転換になるわね」と言って喜んでいます。
「そういえば、由里子、どうして指輪を外しているんだ?」
「そんな枝葉にこだわらないの」と言っています。未婚の女性にみられたいのでしょうか、そんな女性を演じたいのでしょうか、結婚指輪を外しケースに入れたまま箪笥に入れています。私は律儀に結婚指輪を外さずに、鉄棒する時でも、石鹸で顔を洗う時でも、邪魔だと感じることはありますが、それが由里子への愛の証だと思っています。
いつでしたか何かのきっかけで、久しぶりに由里子の指を、手のひらを、容姿を、眺めました。指輪を外した原因がわかったのです。ふっくらとし過ぎて、指輪ができなくなっていました。指に食い込んでいたのです。やっとの思いで外したようで、時が過ぎていくということの一つの現象を垣間見た瞬間でした。
自分で料理を作れない時は、レストランに足を運びます。私はそんなに冒険好きではありません。いつも同じレストランで同じ料理を食べますが、由里子は違います。彼女は冒険が好きなのでしょうか、毎回異なるレストランに行くのです。
「あらあ、こんなところに新しいレストランができてるわ。よし、今日はここにしましょう」
「いやだよ、今日は日高屋のあんかけラーメンって決めていたんだから」
「本当に彩人さんはストライクゾーンが狭いんだから。だめよ、冒険しないと」
「わかったよ」彩人は言い合いはしません。言ったところで何も変わらないからです。言葉だけでは無駄なのです。
混雑していなかったので、紙に名前を書かずに店員に案内されるのを待ちましたが、一向に受付に誰も来る気配がありません。気づいてはいるのですが、気づかないふりをしています。後から別の客が入店し、紙に名前を書いていました。やっと店員が来たと思ったら、私たちではなく後から来た客を先に案内しました。
私たちのことは完全に無視です。一向に声がかからないので、しびれを切らして由里子の方から声をかけました。
「紙に名前を書かないと案内できないのです。ルールを守っていただかないと」と強い口調で言われてしまいました。
「ねえ、あのみすぼらしい客大丈夫かしら。」
「そうだよな、あの服装だと心配だ。お金持っているんだろかね。」
「この店を安い店とでも思っているのかしら。」
「値段を見てびっくりしてサラダだけかもしれないね。」
「サラダだけでも千二百円よ。おそらくジュースでも飲んで終わりじゃないかしら。」
「まあとにかくあそこの目立たない隅っこのテーブルに座らせてきて。」
「はい、わかりました。」
彩人も由里子も耳も目も良いんです。店長とウェイターの会話は全部耳に入っていますが、そんなことは一向に気にしない彩人と由里子です。そんなことでイライラしたり怒ったりしては、せっかくの食事が台無しになります。周りが何を言ってもそれは周りの意見。何か悪いことをしたわけでもなく、服装も古びてはいますが清潔です。どの店員も接客の態度は悪く、言葉も適当で笑顔もなく、無愛想でした。テーブルの前でメニューを無愛想に渡されて、挨拶もなく、「決まりましたら声をかけてください」と言ったきり、やってきません。しびれを切らして、由里子がオーダーを頼むと、「こちらがメニューです。お飲み物は?どんなコースがいいですか?コースの方が単品でオーダーするよりお手頃価格になっています」と言って、ウェイターが上から目線で由里子と彩人を見ています。
その後、飲み物やお料理を担当したウエイターはなんとか対応してくれたのですが、あとは知らんぷりで、ケアもせず店員同士で会話していました。
それにしても由里子の太っ腹は大したものです。グラスワイン一杯5500円もする赤ワインを頼み、アペタイザーから始まって肉はフィレミニョン、最後にデザートです。店員は食い逃げでもするのではないかと、見張っているかのように二人を見ていました。
「会計は59000円です。大丈夫ですか、支払えますか?」
「大丈夫です。でもお金は持っていません。」
「持っていない!食い逃げは犯罪だ!警察を呼ぶぞ!」
由里子と彩人の服装を見ていて、ウェイターは最初から疑っていました。店長もやってきて大騒ぎです。由里子の意地悪が始まりました。そうなんです。長谷川町子の4コマ漫画作品『いじわるばあさん』を原作として、青島幸男が演じた青嶋いじわるばあさんです。
「お金は持ってないけど、このカードでお願いね」と、そう言って由里子は、アメリカン・エクスプレスのブラックカードを出しました。そのカードを見た店長は、驚きと興奮が入り混じった表情を浮かべ、態度も言葉使いも一変しました。丁寧かつ敬意を込めて接客されるようになりました。「まさかこの客がブラックカードを持っているとは…」そんな驚きの態度でした。
「あなたたちの会話は全部聞こえていました。私の耳は地獄耳なのよ。」
半年前、彩人からプレゼントされたのが補聴器でした。その装置は高性能で、イコライザーも搭載されており、会話を妨害する音を制御し、聞き取りやすくしてくれます。彩人も由里子も身につけるものにはあまりこだわりませんが、直接体に影響を及ぼすものには、値段よりも品質や安全性にこだわります。彩人が贈った補聴器は由里子の耳に優しくフィットし、新しい音の美しさを再発見させてくれました。
「ミディアムレアを頼んだのにウェルダンでしたね。赤ワインのカベルネを頼んだのにメロウでしたね。とっても残念です。」
この店は「食」に口うるさい由里子を怒らせてしまったのです。由里子は怒ると優しく語ります。怒鳴ったりはしません。それは怒鳴るほどの価値がないからです。怒鳴ってまで、この店のことを心配する必要がないのです。その半年後、このステーキハウスは閉店してしまいました。
由里子は考えています。「あの時、忠告してあげればよかったかしら」と。でもそれは無理な話で、人も店もそんなに変わるものではありません。親切に言ってあげても、その親切が仇になるだけです。その店も残念ですが、その店のポリシーのまま営業していた結果、そうなっただけです。ビジネスも人生も原因、結果。「原因があって結果がある」ただそれだけのことなのだろうと思います。