四話 平凡な日々、そこに幸せな結婚生活が
春の陽光が小さなベランダを照らし、スーパーアリッサム スノープリンセスが花を咲かせ、新しい季節を迎える。夏には花火が小さなベランダを彩り、秋には温かな感動が心に広がり、寒い冬には雪景色の中で特別な瞬間を迎える。四季折々の喜びと幸せが小さなベランダに満ちている。季節の美しい移り変わり、自然への憧れと調和、そんなことを感じさせてくれるのが、この小さなベランダだ。
「お茶をどうぞ」と由里子は微笑みながら言う。その瞬間、彩人はくつろぎの空間へと招かれる。「この小さなベランダが楽園なの」と、何気ないその言葉には未来への希望が込められている。古びた手作りのアクセサリーを手に取り、「これを作ったときはとっても楽しかったわ。趣味があるって素敵よね。老いても心が若くなっているから」と、小さな作品を大切そうに見つめる。
お茶うけの小さなケーキ。それを前にすると、子供のように目を輝かせ、「美味しいものに囲まれて、幸せってシンプルだけど深いわね」と一口食べると嬉しそうに笑う。その瞬間の表情はほんわかと柔らかになる。彩人はそんな言葉に頷いている。
由里子の生きる指針というか、楽しみというか、シンプルな喜びを大切にしている。そのシンプルな中に豊かな幸せを見出している。そんな彼女の存在に親近感を抱いている。歳を重ねることで培われた優しさと喜び、それがまわりの人たちにも伝わっている。そんな小さなひとときが、特別な時間となっている。そんなこの頃をこんなに幸せに迎えられている。
会社員の頃、出世すること、登りつめることが生きがいでした。出世の魔性とでも言いますか、なぜそうなったのか理解できませんでした。気がつけば、時には人を傷つけ、時には自分も傷つき、それでも登り続けることしか目に入りませんでした。何のために登り続けるのか、そんなことを考える余裕もありませんでした。
還暦を過ぎ、古希を迎え、そして今、ゆっくりと変わる風景の色彩や空気の匂いを感じられるようになりました。そして気づいたのです。当たり前のことに、当たり前に気づくこと、下ることを楽しむ人生がこんなにも素晴らしいことだと。
子どもには恵まれませんでしたが、それもまた人生の一部です。私に気遣いをしてくれているのでしょうか、子ども好きなのに子どもが欲しいなどとは一言も口にしません。わかっています。彩人が我慢していることを。
彩人と出会うまでは、大恋愛をしたわけでもなく、特別なことに引かれるわけでもなく、のんびりとした日々を過ごしていました。
お見合いは何度かしました。なぜか、そんなに美人ではないのにモテモテで、会ったその日に「結婚を前提に」と言われたりしました。
何度も断っている私に痺れを切らし、母は「これこれ、この人と結婚しなさい」と言って、見合い写真を指さしていました。
そんな時、彩人と出会い、恋愛が始まりました。私たちは若かったのです。寝ても覚めても彩人のことだけでしたが、結婚するまでは、清いお付き合いを貫きました。でも実際は違いました。それは食事に誘われた時でした。ホテルに誘われました。天にも昇る気持ちになりましたが、断りました。その時、不運なことに、ボロボロのブラジャーとゴムの緩んでいる使い古しのヘソまでくるパンツを身につけていたのです。そんな下着姿を見せられませんでした。清い恥じらいのある乙女でしたから。
二度目は、おなかを壊してしまいました。三度目は、下着も新調して準備していましたが、約束の当日、仕事が入りキャンセルされました。ドタキャンでした。こうして振り返ると、一つ一つが懐かしい思い出となっています。
私の性格を知っている母が、彩人によく聞いていました。「由里子は、あなたをいじめていませんか」と…。そんな母も遠い昔に逝っています。今頃、父と一緒に天国でのんびりと過ごしていることでしょう。そんな私、母よりも父よりも長生きさせて頂いております。
今の趣味は、クーポン集めです。せっせとため込んでいます。特売の日とか、あの店は肉は安いが魚は高い。酒は高いが、ビールは安い。大根は安いが、ネギと白菜は高い。店ごとに頭に入っています。
「貯金がなくても、私たちは大金持ちよね。子宝には恵まれなかったけど、お互い健康体で病院にお金を収めなくていいから。病気になったら大変よ。あっという間にお金なんて消えていくんだから。これ以上、欲を出しちゃぁ駄目よね」
物事を深く考えない楽天的な由里子がいつもそんなことを言っている。石橋をたたいて渡る彩人、由里子に財布を任せない。結婚当初はサザエさん家族のように、彼女が財布を握っていたが、計画性のない買い物や思いつきの旅行で出費がかさみ、貯金が底をついた。
「貯金がないなんて、もし何かあったらどうすんだ」
「もしものために、保険に入っているんだから大丈夫よ。それに、もしものために今のこの大切なこの時を、我慢するなんておかしいわ」
「そりゃあそうだけど」
「大丈夫よ。万が一そうなったら、二人で認知症にでもなればいいの。スパッと忘れちゃうのよ」
それから彩人が財布を管理するようになった。どれだけ貯金があるか、それは由里子には教えていない。
「ねぇ、いまどれだけ貯金があるの」
「それを聞いてどうするんだよ」
「心配でしょ」
「心配?お前が、か」
泉台ヶ丘駅と自宅の中間点に、西宮公園がある。その公園を、彩人と由里子は散歩に出かける。由里子は出不精。できれば歩きたくない。うどの大木のようにゴロゴロするのが好きなのだ。それを彩人は、見破っている。季節を感じながら、手をつなぎながら散歩する。公園を三周すると色あせた木製のベンチにすぐ腰を下ろす。そして座った瞬間、機関銃のようにしゃべりだすのだ。彩人は、ただ黙って聞いている。と言うより、聞いてるふりをしているだけだ。
「だから、どう思う?」
「どう思うって、きかれても。」
「聞いてないんでしょ。」
「聞いているよ。」
「じゃぁ、私、今なんて言ったのよ?」
「まぁ、なんだな。それはその。」
「聞いていないんだから。」
まともに聞いていたら頭がおかしくなる。聞き流せるから仲がいい夫婦でいられるのだ。これは生活の知恵だと、彩人は思っている。こんな夫婦生活、五十年の歳月が過ぎている。