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三話 妻の強さと好奇心:ミステリーツアー  

 家事や育児もしない。妻に対する思いやりや配慮が欠如している。家事や子育ては女性の仕事であるという固定観念に囚われて、家庭での役割を果たす責任を避けている。妻には重い負担を抱えさせて不安や心理的なストレスを与えている。夫は、仕事や友人、趣味に重点を置き、幅広い人間関係を築き、人生を豊かにしている。夫として、父親としての優しさはあるのだろうか、ないのだろうか。そんなことを朝のテレビ番組で、いつものコメンテーターが問いかけていました。


 私はどうだったろうかと、結婚生活を振り返り胸に手を当てます。思い当たる節が心に重なります。そんな私に対して、由里子は50年という歳月を通じて変わらずに、深く、温かい愛を注いでくれています。その愛は長い冬の中で咲き誇る一輪の花のようで、由里子の愛に包まれた人生には豊かな色彩が満ちています。ただただ感謝しかありません。


「苦労かけたな」と言うと、「そんなことないよ」と言って欲しかったのですが、「苦労したわ」と言われてしまいました。「申し訳なかったね」と、照れ笑いをして言いました。


おかげさまで歳月を共に歩んでいく中で、お互いに理解を深めていくことに喜びを味わっています。由里子の存在は、今もなお私の人生に美しい色彩を添えているのに日々の生活の中でアメリカ映画のように "愛しているよ" と言えない自分に戸惑いを感じています。


自分らしい態度で、自分の言葉で、やってみよう。今日こそは…。ところで、なんと言ったらいいのでしょうか。"アイラブユー" なのか、"愛しているよ" なのか、それとも "もう一回プロポーズさせてくれ" と言ったらいいのだろうか。


決められた時間どおり、決められた一日を過ごしていると、一日、一週間、一ヶ月、一年といった時間が速く感じてしまう。子供の頃は、一日が長く、一週間が冒険の数だけあり、一ヶ月が未知の世界への探求心をかきたて、一年が楽しみな出来事でいっぱいだった。友達との遊びや新しいことの発見が、日々を輝かせていた。


 高齢者の仲間入りをした今、新しい体験や感情が減ってきたのかもしれない。ルーティンに囚われ、日常の中で新たな体験や特別な瞬間が少なくなり、時間の流れが速く感じられるようになっているのかもしれない。これではいけない。自分を取り巻く世界に耳を傾け、目を凝らしてみよう。外に出よう、旅に出よう。心のままに、新しい発見を求めて…。


「こうして家の中にいてはダメだわ。家でまったりしているのは楽でも。一日が早く終わってしまうから」

「どこにも行きたくない。こうしてお茶を飲んで、テレビを観て、音楽を聴いて、寝たい時に寝る。こんないい空間はどこにもない。」

「彩人、だめよ、外に出るの。それにもう遅いから。温泉ツアーを申し込んだから」


 ツアーの前日から慌ただしい。「体調管理は大丈夫?マスクは?下着は?セーターは?歯ブラシは?」由里子は全てのチェックをし、準備万端にしていないと気が済まないのである。


「さてと、準備が終わったから、お風呂に入ってくるからね。」

「どうして、お風呂に入りシャンプーし、念入りに体を洗うのだ。明日から温泉に浸かるというのに。」

「温泉は行き先であって、汚い身体を洗いに行くのが目的ではないの。せっかくの旅行なんですから、きれいな身体でおしゃれしてお化粧もして行くの。女性はそんなものよ。どうせ風呂に入るんだから無駄なことするな、なんて言わないの。」


 時計の針が静かに進む音がしている。暗い朝の五時、人生を楽しく生きるために二人はリュックを背負って駅に向かって歩いている。家を出た時は人影はなく、静かだったのに、駅に近づくにつれ、仕事に向かうサラリーマンたちが急ぎ足でプラットフォームに向かっている。新しい一日の始まりに向けて電車に乗り込んでいる。駅前のコンビニでは店内で商品の陳列や清掃作業が行われ、周辺は既にその営みで満ちていた。


東京駅周辺のカフェでは、早起きしてリラックスしたい人々が静かにコーヒーを楽しんでいたり、公園ではジョギングや散歩をする人たちが活気を見せていたり、街の中では様々な人々がそれぞれの目的で行動している。もう一日の日常の動きは始まっていた。東京駅には八時までの集合ではあるが、参加者はすでに集合していた。このツアーは温泉ミステリーツアーで、どこの温泉に行くのか行き先が伏せられている。どこに向かうのか電車に乗るまでは分からない。これから始まる三日間の旅、最後まで無事故でと添乗員さんは気を張っている。


「それでは新幹線の座席表を配ります。お名前をお呼びしますので受け取ってください」

「安倍さま」

「はい」

「大西さま」

「はい」

 次々と座席表が配られた。

「すみません。大西ですけどまだもらっていません」

「さっきお呼びしてお渡ししましたよ」

「でももらっていないんです」

「そんなことないです。さっき渡しましたから」

「すみません、佐々木ですけど、大西さんのを間違えてもらっちゃいました」

「よその人のを受け取らないように。自分の名前の分を受け取ってください」


 こんな調子で添乗員さんはてんてこまいになっている。当たり前のことを当たり前にできなくなっている。耳は遠い、思い込みが激しい。それが高齢者なのである。そのツアーの参加者は36名、高齢者の夫妻、ご婦人の友達、点呼を済ませ、添乗員が掲げる旗に従って改札口へと向かった。


35年前、よく乗った新幹線の乗り場が見えた。「まさか東北新幹線ではないよね。」そのまさかで、行き先は仙台で、福島で下車する。電車旅といえば駅弁、それが楽しみで朝食をとっていない。早速、幕の内駅弁とお茶を買って乗り込んだ。「幕の内弁当が1150円!」隣で驚きの声をあげているのが由里子である。確かにそうである。物価高騰をしみじみ感じてしまう。


福島駅で下車し、添乗員の掲げる旗に脇目も振らずついていく。今日から3日間お世話になるバスが待っていた。座席表に基づいて乗り込んで辺りを見渡すと、ここは老人ホーム行きのような車内である。


どこをどう回ったのか記憶にない。ずっと寝ていれば当たり前のことで、ただどこをどう回ったのかより大切なのが温泉宿なのだ。


温泉に浸かりたっぷり食べて飲んでいる。由里子は、傍で「太った太った。お腹いっぱいだ。」と言いながらも食べている。


深夜2時、昼寝の時間が長かったからなのだろうか、目が覚めた。寝ようと思っても寝付けない。そっと部屋を出て、薄暗い廊下を通り露天風呂へと向かった。 湯から立ち上る湯気が、夜風に舞い散りながら星と共に踊り狂っているかのような光景が広がっている。仰ぎ見る星空は、無数の輝く米粒のような光、天の川が地上まで降り注いできたかのような幻想的な光景が広がっていた。心の奥深くから得体の知れない感動が湧き起こっている。


誰もいないだろうと思いきや、温泉好きな先客がいた。露天風呂で寝そべって星を見ている。

「綺麗な星ですね。」星空に陶酔しているのか、返事はない。儀礼的な挨拶はしました。あとは知りません。相手が喋れば喋ります。それは相手次第です。

「見上げてごらん夜の星をなど」と思いながら、今日の1日を振り返ってみたが、特別なことはなく、平凡な穏やかな1日でした。ただ家にいる時とは違って、一日が三日分に感じられた。あと二日、この癒しミステリーツアーは続く。


初日のバス座席は一番後ろだったので気が付かなかったが、二日目は最前列から二番目となった。どうしてだろうか、乗る時は順番を守るが、降りる時は我先にと降り、順番を守れない。そんなに焦っても変わりないのに、のんびりまったりするための旅なのに、慌ただしさを感じてしまう。


そんなミステリーツアーも終わり、帰宅した。たった二泊三日が一週間以上にも感じられた。外に出るからわかることがある。外に出たから感じることがある。やっぱり我が家はいいなと。 この旅に行った喜びと疲れ、疲れて帰ってきた時の我が家の安らぎ、新しい発見と共に感じた幸せ。部屋に足を踏み入れると、懐かしい空間が優しく迎えてくれる。旅の冒険とは違った、我が家ならではの安心感が広がっている。


もう由里子は次の旅の準備をしている。さすが妻は強い。次なる冒険の舞台はどこだろう。その想像が膨らんで、わくわく感が募る。彼女の強さと好奇心に、私も心から敬意を抱いている。


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