一話 風と共に走る夫婦
古い知人が、83歳の母と一緒に過ごしていました。一人で介護に奮闘していましたが、厳しい状況に耐え切れず2年後、認知症専門の施設に母を預ける決断をしました。それから5年後、施設で静かに息を引き取りました。
「自分を育ててくれた親の老後の面倒を、子供が見るのは当然のこと」という考え方は、日本人の心に深く根付いた美徳です。しかし、その美徳が通用したのは、平均寿命が50〜60歳と短かった過去の時代の話です。今や平均寿命は80歳を超え、日本は長寿大国となっています。それなのに、「美徳」を守り、自分の老後を親のために捧げ、身を滅ぼしてしまったのでは本末転倒ではないでしょうか。
柔軟で創造的なアプローチが求められる時代です。何を選択し、何を捨てていくかを真剣に考えなければなりません。そんなことを思っていたのがつい最近までのことで、気がつくと古希が過ぎていました。老人問題、高齢問題、それは他人事ではなく、自分自身の問題となっています。
大小路彩人と由里子の間には、子宝には恵まれなかったが、幸せな心で穏やかな日々を過ごしている。その日常が、季節の幕開けのように、二人を優しく包み込んでいる。
西の空に低く垂れこむ厚い雲。夕日はその切れ間から深紅の炎を煌めかせ、伊達政宗の銅像は歴史の幕が再び開かれたかのように、輝きに包まれている。広瀬川の右岸に広がるのは、かつて栄華を誇った青葉城址。かつての栄光との対比となるように、石垣が寂寞として佇んでいる。
六十歳で定年退職した彩人の父、久太郎が、一週間が経った朝、突然「小さな旅に出る」と宣言した。その旅の目的地はなんと、シカゴからサンタモニカまでのルート66をハーレーダビッドソンで駆け抜けることだった。母、愛子は理由が分からず、驚きとともに呆然としている。
アメリカ横断、それもハーレーダビッドソンでの挑戦。それがなぜ「小さな旅」なのか。その冒険がどれほど大きなものか、愛子は久太郎の行動に混乱している。
毎朝の通勤バスの窓から、久太郎はハーレーダビッドソン宮城仙台のショールームに誘われるように、輝くバイクを見つめていた。そのバイクへの憧れと夢が、彼の胸に燃え盛る情熱となり、無邪気な子供のような笑顔が次第に顔に広がっていった。
今朝も通勤していた時と同じバスに乗っているが、定年退職した今、向かう先は会社ではない。東北最大級のハーレーダビッドソン宮城仙台に向かっている。展示場には新車のキラキラとした輝き、中古車の風格ある佇まい、バイク用品やウエア、カスタマイズパーツの多彩なラインナップが広がり、彼の心は興奮と感動で満ち溢れていた。
ショールーム内に迎えられたその瞬間、バイク用品やウエア、カスタマイズパーツの多様性に圧倒されながら、久太郎は胸を躍らせていた。初めての体験に興味津々でいる愛子の表情にも、彼の心は更なる喜びで膨れ上がっていた。
「これで、広大なアメリカを愛子と一緒にタンデムツーリングをする。それが夢だ」と言って、久太郎は機能満載の400kgにおよぶ重量クルーザーモデルのハーレーダビッドソンを指差した。
「大きいわ。」警戒心丸出しで愛子は言った。
「そんなことはない。」そんな会話をしていると、三十代後半の小柄で目の鋭いベテラン風の男性販売員がやって来た。
「大型自動二輪の免許をお持ちでしたら、こちらで準備しているハーレーダビッドソンにご試乗できますよ。」
「はい、大型自動二輪の運転免許証を持っています。」
「もしよろしければ、試乗をしてみませんか?お客様はくるぶしが露出しないブーツを着用していますし、ウエアも肌の露出が少ない長袖、長ズボンですので大丈夫です。グローブとヘルメットはこちらでご用意しますから。」
「試乗ですか。」と言って、久太郎は愛子の顔を見て「試乗してもいいか」と聞いている。
「駄目よ。と言っても試乗したいのでしょ。」
「まぁ、そうだけどね。」そう言って、久太郎はシートを跨いだが、脚が宙ぶらりんで、地面に足が届かない。
「お客様、こちらのハーレーダビッドソンはご無理なようです。足が地面に届かないと危険ですから。」そう言って、その販売員は去っていった。そして二度と久太郎の前に現れなかった。
ハーレーダビッドソンの試乗どころではなかった。久太郎は現実の厳しさを知った。それ以来、ルート66の話も、ハーレーダビッドソンの話も、影を潜めた。
「旅を決断するには、お金、時間、そして、勇気。この三つが揃わないと夢物語として終わってしまう。二つは揃えたが、私には最後のひとつ、勇気がなかったんだ。」それが久太郎の口癖となっていた。
父、久太郎の夢をかなえるため、彩人は定年退職後に小さなハーレーダビッドソンを手に入れた。シートに跨ると、地面に足がしっかりとついた。彩人の股下は、父よりも若干長いようだ。
ハーレーダビッドソンには、アロハシャツが似合いそうだが、同時に転倒すれば擦り傷で大怪我をしてしまう危険もある。彩人は風を感じるサマーブルゾンに身を包んでいた。メッシュ地ででき、汗ばむような日でも肌にまとわりつかない。これで自由な風を受けながら安全に旅を楽しめるライダーの姿に変身できるのである。
由里子はバイクのリアシートに腰を下ろす。彼女の手には革ジャケットを被ったままのヘルメットが渡され、無線の音声が微調整される。感度は良好で、これでどんな小さなため息も相手に届くことだろう。
「ヘルメット被ったか」
「被ったわよ」
「つかまっていれば心配ない」
「ほんと?」
「ああ、心配ない。怖かったらしがみつけばいい。ただ私と同じ方向に傾くのだぞ。逆には傾くな。重心を一緒にするのだ」
バイクのエンジンがキュルルとセルモーターの音を奏で、彩人は右手でスロットルを握り、空ふかしをする。
ブオーン、グワーオン、まるで爆音のようなエンジン音が響き渡る。これから繰り広げられる旅の冒険が、彼らをどんな風に包み込むのか。まるで物語の序章が幕を開けたかのようだった。
「うあわ、感じるわ。私の女性らしさに何かを感じているみたい。年甲斐もなく」由里子は興奮している。何に興奮しているのかはわからないが。
左手でクラッチを握り、カチャとギヤを入れる。右手で握っているスロットルをぐっと回すと、鉄の塊が水を得た魚のようにアスファルトリバーを走りだす。一気に四十キロまで加速した。木々の枝が空気の流れになびき、優雅に揺れている。その中で枯れ葉は急流に舞い上がり、水面に踊るように漂っている。緑の葉々は風に誘われてゆらゆらと手招きしているかのようだ。遠くの風景が次第に背後に消え去り、風が全身を貫通するような感覚が心地よい。自然の息吹を感じつつ、風景の美しさに心が満たされていく。由里子は彩人の腰に優しく手を回し、そのまま顔を寄せていく。
「還暦を過ぎてから、こんなに身近にあなたを感じるのは初めてだわ」還暦を迎えた彩人と由里子は、「清く、正しく、美しく」の理念を大切にしつつ、新しい愛情の形を見つけていた。「そうだな、何十年ぶりだな。」そう言って彩人はただ深く頷いた。「もしかして、今晩は『清く、正しく、美しく』の枠を越えて、新たな夫婦になるのかもしれない。由里子を燃え立たせることができるかもしれない。何十年ぶりの新しい章が始まるのかもしれない。」と、そんなことを思った。
「ヘルメットの中で風がどんどん強くなっていくわ。」
「気持ちいいだろう?」
「最高よ。」
くねくねとした道が終わりを告げ、真っすぐな道を走り抜け、緩やかなカーブに差し掛かる。体を左に傾けながらカーブに合わせるが、由里子は逆に右に体を傾けていた。
「俺と同じ方向に重心を合わせてくれよ。」
「怖いの。あなたと同じ方向に傾けるのが。」
あとはもうどうしようもない。何を言っても無駄で、由里子の口からは絶え間ないしゃべりが続いていく。反論しても何の意味もない。もう何も語りたくはない。無線を切ろうかと思った。せっかく『清く、正しく、美しく』の関係が破れると思ったが、当分破れそうにないと思った。
春の陽気が訪れ、桜の花が咲き誇りました。新緑の葉が生い茂り、桜の花びらが優雅に舞い、夕日が低く垂れこめる中、彩人と由里子の心は、桜のように儚さと美しさに満ち、揺れ動いています。
あのハーレーダビッドソンは、縁側で飾り物として大切に飾られています。足腰が弱り、ハーレーダビッドソンを支えきれなくなったこともありますが、それ以上に高齢者になったこともあり、大きな事故を起こす前に運転免許を返納したのです。風は柔らかなサマーブルゾンをなびかせ、その中には過去の思い出が香り立っていますが、それを身にまとうことはもはやなく、由里子と彩人は新しい季節を迎え入れ、時の流れと調和しているかのようです。
【読者のあなたへ】
いろいろなことを描いていられますのも、読者のあなたがいてこその小説です。いつも感謝と思いやりと優しさの気持ちを、こうして小説にしています。
小説を読んでくださって、本当にありがとうございます。これからも、あなたに応援してもらえる限り、描き続けたいと思っております。
このインターネットはすごいと感じています。見知らぬあなたに小説を読んでいただけるのですから。ただただ感謝です。どうぞよろしくお願いいたします。