4、Υ.Νεφέλωμα.Πράσινο
x、断片
今日も同じ夢を見た。
仄暗い空間。眼前には吸い込まれそうな深い闇。
塗り潰したような漆黒の向こうに、無数の光の点がちらつき瞬いている。
闇への恐れはない。
すぐ隣にいる誰かが、安心感を与えてくれる。
彼は誰だろうか。いつか会ったことがあるのだろうか。
「もし、この夜に を るなら」
青年が呟いた。
やはり聞き取れない。
仰ぎ見れば、静かな眼差しがこちらを向くところだった。
すらりとした長身。仄暗い空間に溶け込む暗色の服。吸い込まれそうな深い碧眼。
「 」
私は答えた。唇が動くのを感じた。自分の声なのに、自分の耳には届かない。
けれど彼には聞こえたのだろう。
静謐さを湛えた表情に笑みが浮かぶ。少し可笑しそうに、愉しげに。
「じゃあ、それにしよう」
4、Υ.Νεφέλωμα.Πράσινο
『艇の塔』の街へ行きたいとアルトが言うと、ノインもリクも驚きつつ同行を申し出た。
「例の人に会いたくなった?」
からかい口調で言ったのはノイン。
「やっぱり時間を置いた方が気持ちが高まりますよね!」
角ばった顔で目をきらきらさせるリク。
恐らく、いや、間違いなく二人とも、アルトが羊獣人への恋心を遅馳せながら自覚したからだと思っている。
とりあえずそのことは否定しないでおいた。
(だって説明すると、ややこしいし……)
街へ行くための装備をどれだけ整えようかと語り合う二人に、少女は心の中で手を合わせてごめんと謝った。
「どうして『艇の塔』? あと、ティコって……?」
夕暮れの図書館で、告げられた言葉に少女は当惑していた。
アルトの知るティコは『カロス・アイドス』にいる『火の輪使いのティコ』しかいない。彼が一体何だというのだろう。
そんな彼女の目の前で、少年の左手に乗せられた硬貨大の円盤が光を反射してちらちらと光る。
「それ……私のペンダント」
「同じ型のものです」
「型?」
「あなたはこれをどこで手に入れたか、思い出せますか?」
少し前、幾度も自問したことだ。答えは得られなかったが。
「ううん、買ったのか、貰ったのかも全然……入ってた箱があれば分かるかもって話はしたけど」
「箱は持っていますか?」
「持ってない、たぶん。部屋で見た覚えもないし」
「部屋以外では?」
静かな眼差しがアルトを見上げる。
「部屋以外、って」
「『モルフェ』の外、あなたの家にあるのではと、考えませんでしたか」
胸のざわめきが一際高まる。
そうだ。
自分たちは学生なのだ。十二歳から二十二歳までの一貫校の、全寮制の学園の。
外に家があり、家族がいる筈だ。保護者がいる筈だ。自分たちを生み育て、学費や生活費を収めている筈だ。
あのとき、三人で話し合っていたとき、どうして思い出さなかったのか。
「……思い出せませんか。この学園に入る前のことも」
少年の言葉にじわじわと寒気が広がっていく。
思い出せない昔のこと、外のこと。
だけど、考えれば思い出せそうな気がする。
「そんなこと、いや、だって、家? 入学前のこと? ちょっとまって、いま、思い出す」
「駄目です!」
鋭い声に、思考が停止する。
頭の中で形成されかけていた昔や外のことが、砂の城のように崩れていった。
再び静かに、ヒューネが続けた。
「いま、思い出せないものを思い出そうとしないで下さい。『現実』になります」
「何それ、どういうこと……?」
誰かが警告する。
これ以上聞いてはいけないと。知ってはいけないと。
少年は少女を見上げた。
そして一つ、呼吸を置いて。
「アルト、ここはあなたの……いえ、皆の夢の中です」
(夢……? ここが……?)
何を言っているのだろう。
呆然とした少女に、少年は淡々と述べた。
「あなたたちが日々を過ごしている学園都市『モルフェ』は、あなたの……いえ、この学園に所属している学生全員が見ている夢です」
非現実としか思えない状況を事務的な口調で語る少年に、穏やかに笑みを浮かべていた転校生の面影はもう見当たらない。
「何それ……よく分かんないんだけど。私は……こうやって起きてるのに」
「夢の中というのはそういうものです。現実でのあなたは、あなたたちは眠っています。眠っていて……今は起きることが出来ない」
「起きられない……?」
「本来は起きられる筈でしたが……事故がありました」
一瞬だけ、ヒューネは目を伏せる。
「あれから、皆、起きられなくなってしまいました。夢の中で、互いの見る夢に取り込まれてしまって」
アルトは困惑する。
話している内容が頭に入って来ない。夢だとか現実だとか、事故とは何のことなのか、何も分からない。
何もかもが荒唐無稽だ。
「……そんなの、どうやって信じろっていうの」
本当の自分は眠って夢を見ているだけだなんて。
これまでの学生生活が、今ここにいる自分が夢の存在だなんて。
狼狽する少女に対し、少年はますます冷徹なまでに無感情な態度で。
「先程提示した根拠では足りませんか?」
家族の、学園の外の記憶の欠落。
確かにおかしなことだ。思い出せないなんてそんな筈がない。けれど。
「だって、こんなにはっきりしてるよ? 物にも人にも触れるし、お腹も空くし眠くなるし、夢だって見る。大体ずっと眠ってるなんて無理でしょ。有り得ない。ごはんだって食べられないし」
「現実の肉体は外部装置で管理されています。生命維持装置に繋がれているようなものですから、安心してください」
「安心って言われてもどう安心しろっていうのよ。ねえ、じゃあ、みんなも……ノインやリクも夢の存在ってこと?」
「……いいえ。彼女たちは現実に存在しています。現実で眠っていて、あなたと同じ夢を見ています。あなたたちは皆、夢を共有し、現実のような生活をしているのです」
「そんなこと、言われても……信じられない」
ヒューネはじっと少女を見つめる。
「……では、少なくとも今が現実ではないという証拠があれば、信じてくれますか」
「証拠って……何があるの」
「アルト、夜空を見上げたことはありますか?」
少女は頷く。ゲームを終えて寝る前の間、習慣のように窓から空を見上げていた。
「月が、きれいだった。いつも」
(いつも丸くて、白くて)
そこまで考えて、寒気が走る。
(月が……いつも丸いなんて、有り得ない)
呆然とヒューネに目を遣った。
少年は淡々と言葉を紡ぐ。
「ええ、常識です。本来なら誰でも気付ける筈です。この学園には個室でも図書館でも、どんなに小さくても窓がありますから。……でも、星を見るのが好きで天文学を志したあなたですら、そんな簡単なことに気付けなかった」
欠けない月。存在しない外の世界。普通ならすぐに気付ける筈の齟齬。
世界が音もなく軋んでいく。
車椅子の少年は、ガラス玉のような目をして語る。
「夢が夢であると気付かせるため、この世界には幾つかの明らかな違いが設定されています。誰もがプレイするゲームの中では『現実』と違って月が二つあり、流れ星は子供の空想のような形をしている。そんな風に」
「……」
「けれど誰もここが夢の中だと気付けない。月が欠けず、外の世界を思い出せなくても。今はそういう状態なのです」
「……それも、さっき言ってた、事故のせいだって言うの」
「恐らくは」
説明を聞けば聞くほど頭の中は混乱していく。
彼の語る何もかもが現実離れしている。いや、現実ではないと彼は言っているのだけど。
そんな混乱の中で疑問が浮かぶ。
「……待ってよ、夢が夢で分かるように設定されてるって、何? 夢を見てるって言ってたけど、皆が同じ学園だなんて、夢の内容の設定なんてできるの? というか」
一瞬、息を詰まらせて。
「どうしてそんなことさせられてるの。私たちみんな眠らされて……同じ夢なんか見せられて」
脳裏をよぎるのは『亡星学』で学んだ遠い『不毛の惑星』のこと。
いつか読んだことがある。プログラムに支配され、人間は皆、資源を得るための生きた缶詰のように扱われていた。似たような話はこちらでも物語として存在したが、遠い星には現実にそんな時代があったのかと、当時は怖気を揮ったものだが。
アルトは思わず、車椅子の少年から一歩離れる。
「……どうして、ヒューネはそんなこと知ってるの。あんたも眠ってるんだよね? ……人間なんだよね?」
仮面のように表情の薄い彼を見た。
「ここが夢の中だということは、理解していただけましたか」
「……」
警戒心を露わに黙り込む少女に、少年はこともなげに語る。
「何故皆が同じ夢を見ているのか。内容が共通である方が管理し易いからです。何故知っているのか。僕が夢を見せる側……『管理者』側の人間だからです。とはいっても、皆の、共通の夢に取り込まれかけて、先日まで忘れていたのですが」
言いながら、自嘲のような、苦い笑みのようなものがちらと浮かぶ。
かつて読んだ幾つもの『亡星学』の資料がアルトの頭の中を廻る。完全管理された社会、確かディストピアだとか何とか呼ばれていた筈の世界構造。多くはフィクションとされてきたが、真であると断定されたものも幾つもあった。
「夢を見せる……管理する側? ここが夢なのが本当なら私たちを夢に閉じ込めてる側ってこと? あんたが人間だっていうのなら、人間の中でも偉いんだ?」
「そうでもありません。僕に与えられた権限は多くない。それに、何か勘違いがあるようですが、夢に閉じ込められている現状は、あくまで事故によるものです」
皮肉を込めた言葉を、相手は淡々と受け流す。
「事故……」
「そうです。現状は誰の本意でもありません。だから、お願いがあります、と言いました」
どこまでも静かな物言いに、アルトはやや冷静さを取り戻す。
一体何を頼むというのか。
先程の『艇の塔』の街にいる『ティコ』を探せという話だろうか。
「……私はただの学生なんだけど……」
「……そうですね。けれど、僕にはあなたの力が必要です。詳しいことを今は話せませんが……身近に『ロスト』者を出してしまったあなたには、協力する理由があると思います」
感情の読めない、薄い色の瞳がアルトを見る。
心臓を握られたような感覚。次の言葉を聞きたくなかった。
だが声は続いた。
「言いにくいことですが、リクさんは、既に現実では亡くなっています」
信じたくない、けれど、どこかで覚悟していたような。
激しくなる動悸を抑えるように、胸の前でぎゅっと両手を握り込む。
声が上擦る。
「リクが『ロスト』したのはゲームの中、死んだのはゲームのキャラクターだよ。それでどうやったら、その、現実のリクがどうにかなるっていうの? 第一本当に、死んでるなら、今ここやゲームにいるリクは?」
「アルト、ここは現実ではありません」
動揺に構わず、ヒューネが改めて釘を刺す。
「現実と区別のつかない夢の中では、居ない人間も存在できます。今あなたに見えているリクさんは、あなたやノインさんの主観を映した写し身です。あなたの前では、あなたの知っている行動しかとらない、NPCのようなもの。思い当たることがある筈です」
NPCはプログラムで動くキャラクターだ。見た目は変わらずとも、動かしている人間がいない存在。
狼狽しながら思い返す。
あのとき、アラートを受け部屋に行ったとき、最初、リクは『ロスト』したそのときの話をしなかった。
リクは単独で依頼を受け、アルトとノインは別の場所にいた。事が起こってから『ロスト』の通知だけを受け取ったのだ。状況を知っていたのは、後日拠点を訪れた依頼人と仕事仲間。
「だから……」
翼人の若者がNPCの少女を助けようとした話は、彼らに会ってから聞けたものだ。
二の句を継げずに沈黙したアルトに痛ましそうな視線を向け、しかし冷然とした口調でヒューネは続ける。
「本来なら夢の中で死んだとしても現実で死ぬことはありません。けれど今は、そうなっています」
「……どういう……?」
「現実で亡くなった場合、管理から外され、生命維持が解除されます。同じことが夢の中の死でも行われています」
「……?」
理解が追い付かない。
夢を見ている人間は、生身の筈だ。実は不老不死だなんて、そんなファンタジーな存在ではないだろう。
だから、死ぬ。
死んでしまった人間を生かし続けることは出来ない。それはアルトにも分かる。
「待ってよ……今いるこの学園は、夢、なんだよね?」
「そうです」
「夢の中で死んだら、現実でも死ぬって……ゲームの中で死んだら現実でも死ぬってくらい、訳が分かんないんだけど」
声を震わせる少女に、少年は説明する。
「現状、夢の中の死が、全て現実の死として認識されています。ゲームも夢の中に存在するシステムのため、ゲームも夢の中という扱いです」
ヒューネの言葉を理解するのには、少し時間が掛かった。
「つまり夢で……この学園で、事故とかで死んだり、『アトモスペラ』で『ロスト』……死んだだけでも、現実の誰かが、現実で死んだと思って、生命維持装置を外しちゃう、ってこと?」
「そうです」
頭の芯が痺れていく。
ディスプレイに広がった『ロスト』の表示を思い出す。あの時点ではまだ、彼の言う生命維持装置は機能していた筈だ。つまりあのときなら現実のリクは、生きていたのかも。
考えるより先に手が出ていた。
車椅子に座った少年の肩を掴み、力の限り揺さぶる。
「それじゃあ、リクは、そいつらに殺されたようなものじゃない!」
『現実では亡くなっている』だなんて、他人事のような言い方で。
「あんた『管理者』側の人間なんでしょ? 見殺しにしたの? ゲームで死んだら、本当に死んじゃうって、あの噂だって、本当なのも知ってて?」
背もたれに強く押し付けられ、けれど彼は堪えた様子も無く、変わらぬ口調と表情で。
「認識はしていました」
「どうして放っておいたの!?」
「ゲームでの死は『現実』の死より軽いものです。出所の怪しい噂でも、信じる者は『ロスト』を忌避するでしょう。噂を止めるより広めた方が、結果として『ロスト』者を減らす方向に繋がります」
「……それじゃ、あんたが広めた噂?」
「いいえ。噂自体は自然発生したものです。現実でもフィクションでも、『不毛の惑星』にも前例がありますから」
そんな物語が確かにあったような気がする。フィクションでなら楽しめるスリルのある設定。
(でも……)
車椅子の少年がこちらを見上げる。
既に西日は光を失い、微かな月光が、青白く、狭い窓から差し込んでいる。
覗いて見上げるまでもなく、丸く輝く満月の光が。
「全ては事故が原因です。現実の人々が眠ったまま夢を見続けていることも、夢を夢として認識できなくなっているのも、夢と、夢の中でプレイしているゲームの中で死ぬことが、現実での死に繋がってしまうことも」
「……」
アルトは沈思する。
ヒューネが語ったことに筋は通っている、と思う。
指摘された矛盾に、空白に、心当たりもある。
けれど、まだ信じられない。信じたくない。
彼の言葉が本当ならこの学園生活は全て夢で、それに、リクは本当に死んでいることになる。
そんな現実は堪え難い。
(でも、もし本当なら)
『アトモスペラ』で『ロスト』したのはリクだけではない。これまでも、今この瞬間にも、何も知らずに危険な魔物や遺跡に挑んでいる冒険者たちが大勢いるのだ。
その中にはノインもいる。敢えて危険に挑まなくても『ロスト』の可能性があることは、リクが証明してしまった。
自分たちが実際どんな状態なのか、ただ眠っているだけなのか、そもそも何が夢なのか、本当のところは分からない。理解しきれていない。
けれどゲームで死んだだけで本当に死んでしまうなんて事態が続いて良い筈がない。
「……皆を起こします」
考えを巡らせるアルトに、ヒューネは肩を掴まれたまま静かに言った。
「現状、外から起こせる者はいません。そして夢を見、共有する全員が夢を夢として認識できていません。あなたのように」
少年のガラス玉のような目が月光を弾いて光る。
「だから、現状を認識している者が実行しなければならない。僕はそのために来ました」
ひどく事務的に、けれどはっきりと。
それが『管理者』側の責務だと。
薄暗い図書館。微かな光が差し込む薄闇の中。
あまりに淡々とした決意の表明の後、彼は続けた。
「実行にはあなたの協力が必要です、アルト」
『艇の塔』の麓の街へ向かう乗合馬車の中で、転寝の振りをしながら、アルトは思い返す。
自分たちが眠っているということすら信じ難いというのに、学園にいる全ての学生を起こすというのだ。恐らく数千人いるだろう人々を、全員。
ヒューネが語ったことも、しようとしていることも、あまりにも荒唐無稽だ。
(……やっぱり全部嘘とかじゃないの?)
やはり信じたくない気持ちの方が強い。
『亡星学』でも読んだ『ゲームの中で死ぬと現実でも死亡する』タイプの話はフィクションだ。人々の頭の中で創造された架空の世界。自分たちの星でも物語として親しまれてきた、現実とは遠い悪夢のような。
そう、現実では有り得ないからこそ楽しめる、そんなものだった筈だ。
突っ伏した腕の間から、パーティメンバーを覗き見る。
購入したばかりの魔導書を読み耽るノインの隣で、リクが景色を眺めている。戦士として新たに装備した長剣を大事そうに抱え持ち、高い空を行く小さな飛竜の群れを見上げて目を輝かせている。
本当は死んでしまっているだなんて、とてもそうは思えない。
「もし必要なときがあったら、リクさんのことをイメージしながら、強く念じてみてください」
図書館を出る前、半信半疑のままのアルトにヒューネが告げた言葉。
「たとえば、一人で逃げて欲しい、というようなときにです。今のリクさんはあなたを含めた『誰か』の主観の存在ですから、あなたが強く思えば、元々のリクさんの意に反するようなことでも行わせることが可能な筈です」
どんな状況を想定したのか分からないが、友人をNPCとして扱えだなんて、酷い助言だ。
(好き勝手言いやがって)
アルトは小さくこぶしを握る。
(リクはリクだよ。例え夢だってのが本当だとしても、リクは……)
浮かびかけた、ヒューネの言っていた『現実』を心の中の消しゴムでごしごしと削り取る。
アルトとしては彼の言を、全てではないが信じても良いとは思う。
これ以上『ロスト』で死ぬ人を出さないこと、そのために皆を起こすことにならば、アルトとしては賛同できる。月のことといい外のことといい、アルトたちが過ごしている学園が夢かどうかは分からないが、どう考えても『普通の』現実ではない。
きっと良い状況ではない。
ヒューネも言っていた。誰も望んでいない状況だと。
(あなたの協力が必要、か)
告げられた言葉を思い出す。
少年は自身を『管理者』側の人間だと言っていた。アルトたちに夢を見せ『現実』に存在する生身の身体を管理している側だと。持っている知識も、できることも、アルトとは比べ物にならないほど多い筈だ。
理由は訊ねた。そんな大事にどうして一介の学生である自分の協力なんかが必要なのかと。
返答は『今は答えられない』だったが。
(協力して欲しい側が理由を答えらんないって……怪しさ大爆発なんだけど)
もし彼の言葉が一から十まで本当だったとしても、この一点だけで信用度は地に落ちる。
(……でも……やろうとしていることには協力したいし)
胸元のペンダントを握る。
彼も同じ型のものを持っていた。
これを目印にティコを探せ、との言葉が気に掛かる。姿でも変わっているのだろうか。
そもそも二人の関係は何なのだろう。知人か、そうでないならば。
(……そういえば、これの詳しいことは聞き忘れたな)
「お客さん方、そこの丘を越えればすぐ街だよ。そろそろ支度しといてな」
乗合馬車の御者が肩越しに大声を出す。
「アルト、アルト、起きて下さい。もうすぐですよ」
うきうきした口調でリクが肩を揺すった。
「ええ、もう? 意外と早いね?」
考えを止め、寝起きの振りをしながらアルトは伸びをした。
ノインが脇に詰んだ本を革のリュックに入れながら笑う。
「あんたは寝こけてたからでしょ。ほら、あたしは魔導書こんだけ読めたし」
魔女が手にした数冊の魔導書は、彼女がつい先日完成させた研究本の報酬で買ったものだ。読めば新たな魔法のスキルが得られる。
リクはわくわくしながら身を乗り出す。
「え、じゃあすごい魔法いっぱい使えるようになった?」
「んーまあ、レベルなりに?」
「ノインのレベルの魔法って何ですか? 強いですか?」
「使ったことないからねー」
他愛のない会話をしている間に、馬車はがたがたと揺れながら丘を越えた。
広大な街並みと、ホームの町から見たときとは比べ物にならないほど迫力のある『艇の塔』が目に飛び込んでくる。
三人が圧倒されて言葉を失う中、同乗の冒険者たちが歓声を上げる。
目的地はもうすぐそこだった。
大一座『カロス・アイドス』の宿営地の場所はすぐに分かった。
一足どころか二足三足は早くこの街に着き、公演を続けているのだ。既に街の誰もが存在を知っており、三人に一人は公演を観ていて、十人に一人は常連だという。
アルトたちのホームの町がすっぽり収まりそうなほど大きな広場に、見覚えのある大テントと団員用のテント群が並んでいる光景は、家の数や面積の広さだけでない、集落としての規模の違いをまざまざと見せつけていた。
それでも小さな町から来た三人が気後れしなかったのは、街中にいる人々があまりに多様だったからだろう。旅慣れたベテランから一旗揚げようとやってきた新米、奇抜な格好の曲芸師がいると思えば堅実で頑固そうな職人がおり、儚げな花売りに得体の知れない生物を連れた魔物使い等々、雑多な者が集まる中では、田舎者冒険者三人組などは珍しくもない組み合わせであった。
雑多過ぎて、そのいちいちを認識していたら目が回りそうではあったけれど。
とにかくそんな人々を横目に、アルトたちは広場を横切り団員用のテントへ向かった。
以前、別れ際に聞いた『火の輪のティコ』の名前を出すと、確かに通じた。
だが。
「ティコならいないよ」
現れたのは、大一座が町に来た際の先触れのもう一人、狐獣人の少年だった。
「いない……?」
「ちょっと前にさ、急に辞めたんだよ。みんな驚いてたし引き止めたけど駄目だった」
おれ結構あいつとは上手く組めてたと思うんだけどな、とぼやく。
「辞めてからどこへ行くって聞いてませんか?」
「どうだったかな。行かなきゃいけないとこがあるってのは、言ってた気がするけど」
「それってどこ?」
「いや、だから、おれは聞いてないって」
「アルト落ち着いて。追っかけたい気持ちは分かるけど」
「そうですよ。他でも聞いてみましょう」
詰め寄るアルトを二人が押さえて宥める。
少女の剣幕に引き気味の狐獣人は、困惑と好奇心の混ざった表情で冒険者たちを見回した。
「あんたたち、ティコの何? ただのファンって感じじゃないけど?」
「用があるんです。すごく重要な」
「そうそう、この子の気持ち的にね、会わないといけなくてね」
「だからヒントだけでも、何かありませんか? 行き先知ってそうな人でもいいですから」
口々に述べられる言葉に彼は何かを察したらしく、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「まあ、おれは別に損がないからな。推測くらいなら」
「何?」
「慌てなさんなって。この街に来てからわざわざ用があるって離れるんだ。そしたら行き先はほとんど一つだろ?」
細い指が、ほとんど壁のように街の空の一方を塞ぐ巨大遺跡を示す。
「出てく前に護符やら薬草やら買い込んだって話を聞いたし、まず間違いないと思うね」
少年の言葉を聞いて、アルトも『艇の塔』を見上げた。
(『アトモスペラ』の、『艇の塔』の街にいます……て、言ってたのに)
何故、彼は街に居らず遺跡に入ったのだろうか。
疑問をよそに少年は続ける。
「でも、お姉さんたちじゃあそこ登るの厳しいんじゃないかな。浅いところなら何とかなるかも知れないけど。一番戦えそうなそっちのお兄さんは一番レベルが足りてなさそうだし」
三人は黙り込んだ。
確かに『艇の塔』の中層以降は、今まで耳にした範囲でもアルトたちのパーティが行けるような場所ではない。リクは戦士になったが、キャラメイク直後でアルトたちよりレベルが低いしスキルも揃っていない。レベルは基礎の体力や筋力や魔力に関係し、スキルは基礎身体能力とは別の特殊な技が身につく。どちらも上げるには冒険や討伐によって得られる経験値が必要だ。
つまりこのままでは『艇の塔』には登れない。『ロスト』しに行くようなものである。
沈黙してしまった三人に、狐獣人は居心地が悪そうに声を掛けた。
「まあ、お姉さんたちだけじゃ無理でも、護衛の人を雇うってのはできるでしょ? あと、反則っぽいけど経験値アイテムでレベルとスキル上げるとかもさ。どっちもお金はかかるけど、どうしても行きたいんなら手だと思うよ」
「護衛か……」
「あなたは強いですか?」
「強いけど嫌だよ、おれは危ないことしないで芸で稼ぎたいもん」
さらりと申し出を断られしゅんとするリクの横で、アルトは考えを巡らせる。
(お金か……お金なら、ある)
顔を上げると、こちらを向いたノインと目が合った。どうやら考えていることは同じらしい。
「分かりました。いろいろ有難うございます」
「いいっていいって」
頭を下げる冒険者たちに狐獣人はぱたぱたと手を振り、それから何か思いついたように立ち上がった。
三人が疑問符を浮かべる間に彼は短く笛を吹き、一羽の赤い鳥を手元に呼び寄せる。
「こいつを持ってきなよ。あいつには餞別とか渡せなかったからさ、代わりに」
「何ですか、この鳥」
「身代わりトーテムってやつ。『ロスト』回避用、一回こっきりの使い捨てね」
「み、みがわり!?」
ノインが素っ頓狂な声を上げた。リクも目を丸くしている。アルトはぽかんと、少年の周りをくるくると飛ぶ小鳥を見上げた。
(すっごい希少品じゃん……)
三人の反応に少年は愉しそうに笑って。
「おれも芸歴長いからね、いろいろとファンがくれることもあるのよ」
「はあ……」
確かにアルトたちは、ティコは高レベルのベテラン冒険者、だと予測していた。
それが事実なら、長く組んでいたというこの少年もやはりベテランなのだろう。身代わりトーテムを所持するほどとは思っていなかったけれど。
「ティコはおれより戦えるけど、『艇の塔』の上層まで行ってるならソロじゃ危ないと思うから。万一の時は使ってやってよ」
最後にそう告げて、狐獣人の少年は軽やかに去って行った。
その声色には、一人で消えた長年の相棒への心配と恨み節のようなものが、少しずつ入っているような気がした。
三人の冒険者はテントを離れたその足で、街中の商店を回った。
目的はレベルとスキル上げ用の経験値アイテムである。本来は目標の段階にあと少し手が届かないときなどに使用するもので、一度に大量に使用するようなものではない。『アトモスペラ』では経験値を得るための冒険、成長の過程を楽しみにする者も多い。アイテムで一気に上げたところで達成感も無く、報酬で手に入れても売ってしまう冒険者の方が多いという。
「こういうのあると、ほんと、ゲームって感じするねえ」
宿屋の一室、冒険者向け商店で買い集めたバッグいっぱいの経験値アイテムを覗き、ノインがひきつった笑いを浮かべる。
一度に大量に使用するものではない、という仕様上、小瓶に入ったドリンク状のそれは、誰かに訊ねるまでもなく飲んで効果があるタイプのものだ。
なお、資金源は先日アルトが取った特大流れ星を売り払った代金である。
「……飲むの? これ全部?」
「中層まで行く冒険者の平均まで届かせるにはちょっと足りないくらいだって話だけど……あ、リクは私たちよりちょっと多め」
「お腹ぱんぱんになりそうですね……」
流石のリクも目を白黒させている。
ゲーム内でも食を楽しむために設定された味覚や満腹感が、こんなところでマイナスに作用するとは、誰が予想しただろう。
既にうんざり顔のノインが恐る恐る、既に一本目を手にしたアルトを見る。
「ねえ、今からでも護衛雇う方にしない? お金ならまだあるでしょ?」
「中広いんだよ? 護衛の人とはぐれたらどうするの? 遺跡に行くなら自分の身は自分で守れるようにした方が良いって言うし」
「言われるけどさ……」
「……私が行きたいんだし、二人には付き合ってもらってるから、悪いんだけど」
「悪いとは言ってませんよ……ただちょっと、量的に覚悟がいるだけで」
「あたしだって、まさか遺跡に行くとは思ってなかっただけだよ」
そんなに本気とはね、とノインが呟き、腹を括ったように小瓶を手に取った。
二人の勘違いをそのままにしている申し訳なさを飲み込むように、アルトは手にしたアイテムの中身を呷る。
体が熱くなり、頭の中がしゅわしゅわとくすぐったい。
「これ、酔いそう」
途中でリクがそう呟いた以外は黙りこくって、三人はバッグいっぱいのアイテムを消費した。
終わる頃には『アトモスペラ』の日は落ち、急速なレベル上げに伴う体の怠さもあり、『艇の塔』へ挑むのは次回、ということにしてパーティは一旦解散した。
充分な休息を挟んだ翌日。
「こう、身体がすっごく軽くなったような感じがします」
腕を振り、その場でジャンプしながら、リクが報告する。
「遺跡のてっぺんまで飛べちゃいそうなくらいです」
「それやると撃ち落されるって話だけどね」
「ものの例えですよ!」
高い塔のようなものなのだから途中まで飛んで行こう、という考えは、翼人や飛べる騎獣乗りなら誰でも持つものだが、当然その対策は為されているらしい。
二人と言葉を交わしている間も、アルトには全身に何か、見えない力のようなものが漲っている感覚があった。
リクが言うように、空が飛べそうという程ではないけれど。
(すごい、けど……使っちゃいけない薬使ったときってこんな感じなのかな)
ノインが買い込んだアイテムを分配し、それぞれ装備を確認する。
身代わりトーテムの赤い小鳥は、アルトの鞄の中に入れておくことにした。
「護符も回復アイテムも揃えたし、地図も入力した。リクもアルトも『艇の塔』情報は確認しただろうね?」
「ばっちりですよ!」
「攻略情報、別ウィンドウで開いて置いてあるから、いつでも呼び出せるよ」
「それ、視界塞がるから立て込んでるときは絶対やっちゃ駄目なやつだからね」
「分かってる分かってる」
「それじゃ、出発! ですね!」
意気揚々と羽を膨らませるリクを先頭に、一行は歩き出した。
遺跡という場所に入るのは、三人とも初めてという訳ではない。
リクは依頼で、ノインは採集で、アルトはコメットハンターになる前の冒険で、それぞれ簡単な遺跡を攻略したことがある。勿論『艇の塔』とは比べ物にならないくらい浅い、初心者向けの場所である。
『艇の塔』は『アトモスペラ』有数の巨大遺跡だ。天を衝く塔のような形をしているが、内部の構造が船舶のようだから『艇の塔』と名付けられたと言われている。
「すごい……」
広々とした遺跡の中を眺め回し、アルトは思わず溜息を漏らす。
『カロス・アイドス』がテントを張っていた街の広場が、更にすっぽりと入りそうな広大な空間。屋内とは思えない、教会の塔の倍以上はありそうな高さの天井。床も壁も幾何学図形の白いブロックを組み合わせたような形をしており、見たこともない蔦や草花が繁茂している。
アルトたちは現実でも『アトモスペラ』でも船に乗ったことがないため内部を見てもぴんと来ないが、船というのはこのような内装なのだろうか。
「これ、どうやって登るんだっけ?」
呆気にとられた状態からいちはやく我を取り戻したノインが口を開く。
「えっと……階層で分かれてて、特定の場所にあるパネルを操作してジャンプする、じゃなかったでしょうか」
「二十階層くらいまでは地図にパネルの位置が載ってたと思う。そこまでが下層で、そっからが未探索エリアがあるっていう中層だよね」
「ああ、あの、みんなが向かってる方かな」
一度攻略が完了したと言われていた遺跡だけあって、事前に得られる情報は多い。
広い空間に冒険者の数は少ないが、殆どが入り口から入って真っ直ぐに、一方へと向かっている。広場にばらばらと散らばってあちこちを見ているのは、いかにも初めてここに入ったという様子の新米冒険者たちばかりだ。
「じゃあ、ついていけば良い、のかな」
「いやその前に目的地を決めないと」
歩き出そうとしたアルトの腕を、ノインが掴んで引き止める。
「例の人が何処にいるって分かってから動かないと時間の無駄になっちゃうでしょ」
「そうですよ。中は広いって、アルトが言ったんですよ」
「あ……ああ、そっか、そうだっけね」
そのことに漸く気付いた、という口振りのアルトに、ノインが怪訝な顔をする。
「あんたまさか、勘で行こうってつもりじゃなかっただろうね?」
「いやいや、流石にそれは無いって」
「じゃあどういうつもり?」
「それは……」
(ペンダントが目印、って、あいつは言ってたけど)
遺跡に入ってから、胸元のペンダントに変化がないかと頻りに触っていたが、特にそういった様子はない。
ヒューネが語ったことは二人に話していない。きっと話さない方が良い。内容がややこしくて難しいし、第一、自分でさえ信じ切れていない話を納得できるように説明できるとも思えない。いたずらに混乱させるだけだ。
それにどうしてか、話してはいけない気がした。
話すな、とまでは言われてなかった筈なのに。
「……えーと、やっぱさ、下層とかならすぐ戻れるし、新しい区画は無いっていうし、その辺に行くなら一座を辞めてまで来ないんじゃないかって思って」
「あー、確かにそこらで済む用事ならそんな辞め方はしない、か」
「『行かなきゃいけないとこがある』でしたっけ。どこでしょうね」
リクが神妙な顔をして頭を捻る。
(あいつが言うには、このリクは、私やノインが知っていることしか知らないリク……なら、考えは当てにできないってことかな)
「とりあえず聞けそうな奴に聞きながら中層近くまで行ってみるかい? そこまでならそんなに危険じゃないらしいし」
狩人の少女の思いをよそに、考えに耽っていた魔女が顔を上げて言った。
リクもアルトも頷いて同意する。
(……見つけて欲しいならもっと分かりやすい場所にいてよね)
アルトは心の中で文句を言った。
宿屋で休んでいる間に『アトモスペラ』を出てヒューネに会いに行ったが、彼は教室にも図書館にもいなかった。部屋を聞いて訪ねても不在で、講師も彼の居場所を知らないようだった。
もしかしたら転校生の存在すら無かったことに、とも考えたが、クラスメイトや講師は彼の存在を認識していたから、そうではないようだ。
(協力して欲しい理由も言えないしヒントも不十分で姿も見せないような奴の言う通りにしてて、本当に大丈夫なのかな)
やはり彼の言ったことは丸っきり嘘なのではないのかと、不信感がこみあげてくる。
時間が経つにつれ、どうも彼の語った話、というか、図書館で彼と語ったことそのものが夢のように思えてくる。
しかし、リクやノインへも、もういいよとは言い辛い。『艇の塔』は下層までなら概ね安全な場所だから構わないだろう。ついでに言えばここまで来て引き返すのも癪である。
アルトも一端の冒険者として、一応、遺跡探索への憧れはあるのだ。
ヒューネの考えは不明だが、もしアルトを利用するような悪事を策謀しているにしても、レベルの低い一般冒険者かつ普通の学生を呼び出して何に利用できるというのだろう。
ティコの方なら、高レベルの冒険者のようだから、幾らでも使いどころはあるだろうけれど。
「アルト、心配ですか?」
考えるうちに難しい顔になっていたのか、いつの間にか隣に来ていたリクがこちらを覗き込むようにして訊いた。角ばった強面の中の眉が心配そうに八の字に下がり、逞しい身体とのギャップが激しい。
「ティコさん、折角追いかけてきたのに、行方知れずで」
「あ、ああ……まあね」
「どうしてこんなところに来たのか分からないですけど、怪我とかしてないと良いですね」
「……そうだね」
良い子だ。優しい子だ。
リクもノインも『旅人と行きずりの恋をした友人』のために、『アトモスペラ』有数の巨大遺跡に一緒に挑んでくれている。
結果的に嘘を吐いて騙しているのは心苦しいが。
ここが夢なら、目覚めたら謝れるだろうか。
そう、ここがもしも夢ならば。
「おーい、そろそろ中層だぞー」
幾度目かのジャンプをこなした後、地図を見ながらノインが警戒を促すように大声を出す。
ここまでは地図の情報通り、魔物にも遭遇することなく真っ直ぐに来られた。流石は大勢により攻略済みの下層である。
途中で行き合った冒険者に『火の輪のティコ』について訊ね、そういった風貌の冒険者が上へ向かったという証言を得られたのも収穫だ。幾つかのパーティからは、劣勢の戦闘で助けてもらった、とも。
ただ、その目撃情報がどれも何日も前で、下に向かったという証言は一つも無いのが気がかりだったが。
遺跡内でほぼほぼ安全、と言えるのはこの下層域までだったが、他の二人から引き返そうという声は上がらなかった。
「こっからが本命。気を引き締めないとね」
呟くノインの顔は緊張でやや強張っていたが。
安全地帯で今一度装備を確認し、気休め程度と言われる安い魔物除けの護符を身に着け、三人は中層へと向かった。
ジャンプした先は、下層より一層緑が濃かった。
金属の管が壁を這い、その隙間をびっしりと苔や草花が覆っている。通路は狭いが天井は低いところも高いところもあり、不意に広い空間に出たと思えば、その中央には正体不明の金属塊が鎮座ましましていたりと、複雑な構造をしていた。
「こりゃ未探査区画もできるわ……」
躓いた足下の凹凸が、恐らくは蹴破られた扉の一部だと気付いたノインがぼやく。
「でも逆に、こんなに狭いと大きな魔物はいないんじゃないですか?」
「小さいのがうじゃうじゃ出てくるのもそれはそれで面倒じゃない」
「それはまず視覚的にきついかな……」
「ああ、確かに……」
実際、大きな魔物には遭遇していないが、大きな虫のような魔物は何度か目撃していた。どれもこちらに危害を加えるつもりは無さそうなのが幸いだったが、正直群れで現れるのは勘弁願いたいビジュアルのものばかりである。
ともあれどんな魔物であろうと遭遇は極力避けたい。ここは既に初級の冒険者が挑むような場所ではないのだから。
耳を聳て、息を潜めて通路を進む。
絨毯のように広がった苔や壁を埋め尽くす植物のお陰で、足音などの音が響かないのが幸いだ。
それでも時折遠くから、何かの唸り声や、重量のあるものが移動する地鳴り、他の冒険者の魔法や剣戟の音が聞こえて足が竦む。
魔物除けの護符が効いているのか、一つ二つ階層を登る間も魔物に遭遇することは無く、途中で出会った冒険者からは、やはり、数日前に彼が上に行ったという情報しか得られなかった。
それの出現は、階層を更に二つ三つ上がったときのこと。
三人は変わり映えのしない金属と緑の通路を、足音を殺しながら歩いていた。
初めに耳に届いたのは湿り気を帯びた地鳴り。
これまでと同じように、アルトたちはそれぞれ素早く物陰へ身を潜めた。これまでと違ったのは、同じ事態が訪れたときより通路の天井が高く開けていたことである。
不気味な音と緩慢な地響きと共に、通路の奥から魔物が姿を現した。
蛇のように細長い体躯。黒光りする金属質の鎧のような殻を持つ節と、その節一つにつき十本は生えているだろう硬い指のような脚。隙間から覗く緑色の筋肉は、不気味に伸縮しながらぬらぬらと滑りを帯び、濡れたように艶がある。
頭部らしき部分から生えた細長い触角を揺らしながら、それは鈍重な動きで三人が隠れた方へ向けて這って来る。
(何あれ……)
アルトは自分の顔が引きつるのを感じた。
見れば、通路の反対側に隠れたリクとノインの顔も蒼白になっている。
その不気味な威容に圧倒され、用意していた筈の『艇の塔』の魔物の攻略情報など、頭から消えていた。
通路の高さは身長の三倍ほどあり、件の魔物の長さは更にその倍はあるだろう。巨体もさることながら、見るからに硬そうな殻は、アルトのナイフではとても傷を付けられそうにない。弱点は節の間の筋肉部分だろうが、狙うのは難しそうだ。
こんなもの、戦わずに済むならそれに越したことは無い。
三人は息を殺し、身を縮め、巨大な長虫の魔物が通り過ぎることを願う。
(さっさと行っちゃってよ)
しかし冒険者たちの近くで、それは動きを止めた。
細い触角が左右にゆっくりと振れる。
そしてずるりと、頭部が、こちらを向いた。
硬い殻に並んだ無数の小さな、泡のような目が狩人の少女を凝視する。
背筋に寒気が走る。
次の瞬間。
「わああー!!」
雄叫びを上げながら、長剣を振りかざした翼人の若者が飛び出した。
そちらを向いた頭部めがけて、長く重い金属が振り下ろされる。
ぎいん、と鈍い音を立て、案の定、リクの剣は硬い殻に弾かれた。勢いで仰け反った翼人の若者は、次に来るだろう攻撃を想定して素早く飛び退る。
読み通り、一瞬前まで翼人がいた場所を触角が薙ぎ払う。
流石は戦士職だ。勘が冴えている。
感心しながら、アルトもナイフを抜いた。
「たぶん、節の間ですよね、弱点」
長虫と睨み合いを続けながらリクが言う。分かってはいたらしい。つまり彼の先程の動きは無駄な攻撃ではなく陽動だったということだ。
(……私のことを、助けようとした)
きっとそうだろう。それがアルトの知っているリクだから。強くはないがパーティ唯一の戦士職として、二人の盾になろうとする。
考えないようにしていた棘が胸を刺す。
(だめだめ、今はそんなこと考えてるときじゃない)
「これ勝てると思う?」
「難しいと思います。弱点は分かっても、狙えるかどうかは別ですし」
「虫系には火が効くっていうけど、体力も多そうだし、削り切れないんじゃないかい?」
通路の向こうからノインの声。彼女はまだ見つかっていないようだ。
リクが長虫の気を引き、牽制しているお陰だろう。
「じゃあ、来た道を逃げよう。先に行くにはこいつが邪魔だし、押し潰しに来たら避けられない」
「そうですね、じゃあワタシが囮に」
言いかけた台詞を遮るように、長虫が突進する。
無数の足を波のようにうねらせ、翼人の若者の方へと細長い身を伸ばす。
リクは翼を翻し、逞しくなった体躯とは裏腹に素早くそれを回避した。
が、ぱっと僅かに羽が散る。
「リク!」
思わず、ノインが叫ぶ。
触角が動き、翼人が止める間もなく長虫は体を折り曲げ、物陰に潜んだままの魔女を発見した。
「こっの!」
アルトが渾身の力を込め、こちらへ背を向けた魔物の節の間へ向けてナイフを突き出す。
ねち、とした感触と共に刃が柔らかいものにめり込み、同時に甲高い声と共に長虫が身を捻った。急な素早い動きに反応できなかった三人をそれぞれ別の部位が弾く。
だんっ、と激しい衝撃。
通路の壁にぶつかり、一瞬息が止まった。
追ってじわじわと鈍い痛みが、アルトの背中を這い上る。
(い、った……)
頭を振りながら立ち上がる。少し遠くに長虫と、ふらふらと飛びながら剣を構えたリクが見える。
(ノイン?)
視線を走らせると、アルトより魔物に近い床の上、長い髪を振り乱して膝をついた魔女の姿があった。パーティ共有のステータス表示に目を遣ると、ノインの体力が半分ほどにまで削られている。
アルトとリクはそこまで減っていないので、恐らくクリティカルが発生したのだろう。
駆け寄りながら、ノインに回復アイテムを使用する。魔女が気付いてこちらを向いた。
「逃げよう」
腕を引きながら言うと、ノインは首を振って。
「あたしたちだけ行ったらリクが逃げられない」
天井近くで羽ばたき長虫と睨み合う翼人は、じわじわと角の方へ追い詰められているように見える。
脳裏を、あの日の赤いアラートが過る。
(ノインには逃げてもらって、私が気を引けば)
覚悟を決めてナイフを握り直した、次の瞬間。
金属を削るような轟音と共に、鋭い氷の塊が魔物の身体を包んだ。
続いて一つの影が近くの通路から飛び出し、氷を足場に駆け上がって長虫の後頭部、と思しき部分に勢いよく槍を突き立てた。
殻の硬度を無視した鋭い刺突に、魔物は甲高い鳴き声を上げて身を震わせ、どうと崩れ落ちる。
倒れる巨体から獲物の槍を引き抜きながら、乱入者は身軽に飛び降りた。
「横取りになったならすまん、ピンチみたいに見えたから」
アルトたち三人の顔を見回し、申し訳なさそうに言う冒険者の顔は、見覚えのないものだ。
「いや、実際ピンチだったので、助かりました」
ノインが立ち上がり、礼を述べる。
槍使いの表情がほっとしたように緩んだ。
「よかった。あんたたち、ここらは初めてか?」
「はい」
「そうか。どうもレベルの割に危なっかしい戦い方だったから、上に行くのはお勧めできない……というのは、余計なお世話かも知れないが、気を付けてくれよ。付け焼刃じゃ遺跡の攻略は難しい」
苦笑を浮かべて彼が言う。
どうやら経験値アイテムで嵩上げしたレベルは、見る者が見ればすぐに分かるらしい。それはそうだ。魔物とのまともな実戦経験というものがあるのはリクだけだし、リクだって戦士職というだけでエキスパートには程遠い。
「俺たちもパーティに負傷者が出てな。アイテムも尽きかけてたし、撤退している途中なんだ」
冒険者が指し示す通路の奥には幾つかの人影。そのうちの一人は背負われ、一人は肩から腕にかけてを回復用の護符で覆っている。
「あんたたちも一緒に下るか? 帰り道にも魔物は出るし、いつも運が良いとは限らない。『拠点』に帰るまでが冒険だ。……とはいうものの、実は俺たちも別の冒険者に助けられたから、偉そうなことは言えないが」
「そうなんですか」
「ああ、ソロで登ってる奴らしくてな。やたらと強い炎使いで、そうそう、ナントカって有名な一座の芸人に似てるってうちのが言っててたんだ。ここは自分に任せて先に行け、なんてリアルでされるとは思わなかったよ」
「炎使い!?」
アルトは目を瞠り、槍使いを見上げた。
「その人、羊の獣人じゃなかったですか!?」
「は? ああ、そうだったが、知り合いかい?」
「あたしたち、その人を探しに来たんですよ。どうしても会わなきゃいけないんです」
ノインが前に出て強く言う。冒険者たちは驚いたように顔を見合わせた。
アルトも少し驚いて彼女を見る。
「それはまた随分と……勇敢だな。パーティメンバーじゃあないのか?」
「違います。でも、あたしたちは行かなきゃいけないので」
「……そうか」
何を察したのか、彼らは頷く。
「上は厳しいだろうが、事情があるなら止めるのは野暮だな。あんたたちは恩人の知り合いだ。『ロスト』しないよう祈ってる。会えたら俺たちが礼を言ってたと伝えてくれ」
それから短く挨拶を交わし、アルトたちの持っているものより高価で強力な魔物除けの護符を渡して、ティコらしき炎使いに助けられた場所を告げてから、槍使いたちのパーティは去って行った。
「……ノイン、本当にいいの?」
彼らと別れた後で、アルトはそっとノインに囁く。
「何が?」
「だって、さっき危なかったじゃん。それなのにこの先」
「大体の目的地も分かったんだし、ここまでにぶつかったのはさっきの奴だけだし、行けるよ」
狩人の少女の不安を遮り、魔女はにやりと笑って胸を張る。
「一体どこから出てくるの、その自信」
「勿論この胸だけど? 危なくなったらちゃんと『帰還』すれば良いんだから、大丈夫だって」
ねえ、とリクの方を向く。
翼人の若者は真面目な顔で頷いた。
「大丈夫です。折角もうすぐ再会なんですから、二人を危ない目には遭わせません。アルトも心配でしょう?」
二人に背中を押されては、反論してぐずぐずもできない。
それに嫌な予感もしている。
付け焼刃とはいえ、アルトたちはレベルを上げてきた。けれど先程の魔物にはまるで歯が立たず、撤退中の冒険者に助けられた。
彼らは強い筈だ。前衛で割って入ったのは槍使い一人で、氷の魔法は別の者が使ったとしても、戦いに参加したのは二人。不意を突いたとはいえたった二人で、一瞬にしてあの長虫を斃したのだから。
そんな彼らパーティが撤退を余儀なくされた魔物の強さは、アルトたちには計り知れない。
ティコの強さは不明だ。
しかしそれほどの強力な魔物を、一人で相手取って無事で済むものだろうか。
アルトの胸が騒ぐ。
今までのように曖昧なものではなく、明らかな不安で。
階層を一つ上がり、アルトたちは槍使いのパーティに教わったキャンプ用の小部屋に潜り込んだ。
プレイヤーがログアウトしている間、キャラクターは休眠状態になる。当然、無防備だ。そのため大規模な遺跡には、こういった休息用の安全地帯が存在する。
朝から『艇の塔』を登り、気を張り、強敵と戦い、キャラクターは勿論『アトモスペラ』の外にいる現実のアルトたちの体力も集中力も限界である。胸騒ぎは治まらないが、船を漕ぎながらゲームを続ける訳にはいかない。集中を切らして『ロスト』する訳にはいかないのだ。
暗い部屋、壁を覆う植物の中、ところどころ咲く光る花が小さな照明の役割をしていた。
外では見たことのない珍しい植生に心奪われる余裕も無く、三人は一夜を明かす準備を整える。
眠る前、アルトは別ウィンドウの攻略情報を呼び出した。パーティ全員に見えるよう空中に表示して、三人で覗き込む。
「まだ中層の半分も行ってない、って感じかな」
「今いるのが二十八番ですよね。ここの休憩所」
「聞いたところは、ここだね、もう少し登ったところ」
教えられた戦いの場所は、更に四つほど階層を上がった広間だ。
今日と同じように進めばすぐに着けるだろう。炎使いは更に先に行っているだろうから、追いつけるかどうかまでは分からないけれど。
小声でぼそぼそと翌日の確認をし、なるべく早く集まろうということにして、それぞれ眠りに就き『アトモスペラ』を離れた。
(……)
最後に、アルトは一人、ペンダントを握る。
やはり変化は無いように思えた。
寝静まった二人を確認し、寝袋代わりの布に包まり銀の蓋を開く。中に何か表示されているかも知れないと、ふと思ったからだ。
変化が表れていた。
思わず息を呑む。
以前見たとき、そこには暗闇があった。アルトがよく夢に見る、微細な光の粒子が舞う漆黒。
今、少女が覗き込むガラスの向こうでは、その空間が浸食されていた。
水に白い液体を溶いたような、ぼんやりと靄がかかったような空間。縁は僅かにぼやけているが、右側の三分の一ほどがそのような状態に変わっていたのだ。
(どうなってるの)
前にリクが覗いたとき、端の方がやや明るいと言っていた。それが広がったのだろうか。同じように水平にして覗き込んでみるが、白の面積が少し変わる程度の変化しか見られない。
(全部白くなったら、何かが起こる、とか……?)
何かとは何なのか。同じものを持っているのはヒューネだ。訊けば分かるのだろうか。教えてくれるのだろうか。
恐ろしくなり蓋を閉じた。
そこで更に気付く。
銀の表面、刻まれた線がうっすらと光を帯びている。
はっとして頭から布をかぶり、ペンダントを両手で包む。
光を遮り生まれた小さな暗闇の中で、放射状の線は明確に一方向を指し示していた。
雷に打たれたように思い出す。
この線は『金の円盤』に刻まれた、星の『座標』を表すものだったと。
翌日早朝に目覚めた二人に変化を告げ、三人でペンダントの光を見た。
地図とも照らし合わせ、指し示す方向が、恐らくは昨日教わった場所の近くだろうということも、すぐに確認できた。
「大発見だよ、アルト!」
我がことのように喜んで、魔女が狩人の少女の背中をばんばんと叩いた。
すぐに翼人の若者にしーっという身振りで窘められ小声になったが、表情からは喜びと達成感が滲み出ている。
あとは保証付きになった目的地を目指すだけだ。
前日と同じように慎重に、魔物除けの護符を重ね貼りして道を急ぐ。
光が明らかに強くなったのは、階層を四つほど登った頃だ。ペンダントを水平にすると、放射状の線は真っ直ぐに強い光を一方に放った。ほぼ間違いなく聞いた通りのところだ。
そう、聞いた通り、そのままの位置。
彼はその場所から動いていない。
動悸が激しくなる。
誰もが無言で、先へ向かう。
苔を踏む音が柔らかく通路に響く。
細い管を敷き詰め曲がりくねった隘路を抜けると、急に視界が開けた。
吹き抜けの部屋。
高い天井は暗く闇に沈み、苔と光る花が点々と壁を装飾しているのはこれまでの部屋と変わらない。違うのは、そのあちこちが大きく凹み、焼け焦げ、剥ぎ取られているところだ。床面は平たい部分が見えないほど大小の瓦礫に覆われ、その瓦礫にも破壊の痕跡が見られる。
間違いなく、激しい戦いの跡地だ。
荒れ果てた広間は、今はただただ静かで、何の気配も感じられない。
「……ここに?」
震える声でリクが囁く。
アルトはペンダントを見下ろした。光の線が指し示しているのは間違いなくこの近くだ。
足が竦んだ二人を横目に、意を決してノインが荒れた部屋に踏み込む。不安定な瓦礫を踏んだり崩したりしないように、その下を覗き込んで回る。
それを見て、リクが翼を広げて飛び立った。天井が高いため大柄な翼人でも比較的自由に動けるようだ。
アルトはもう一度ペンダントを掴み、部屋の中に向けて翳した。
近距離でどこまで変化が現れるか分からないが、目安になるかも知れない。
先に声を上げたのはノインだった。
「こっち!」
硬い声に呼ばれ、そちらへ集合する。
駆け寄る前、床やがれきに点々と血の痕が目に入る。
胸がざわつく。
息を切らせて辿り着いた瓦礫の陰に隠れるように、彼は倒れていた。
乾きかけた血溜まりが、火の輪使いの羊を乗せた祭壇のように、大きく周囲に広がっていた。