3、Πεθαμένος
x、断片
今日も同じ夢を見た。
仄暗い空間。眼前には吸い込まれそうな深い闇。
塗り潰したような漆黒の向こうに、無数の光の点がちらつき瞬いている。
闇への恐れはない。
すぐ隣にいる誰かが、安心感を与えてくれる。
彼は誰だろうか。いつか会ったことがあるのだろうか。
「もし、この に を るなら」
青年が呟いた。
やはり聞き取れない。
仰ぎ見れば、静かな眼差しがこちらを向くところだった。
すらりとした長身。仄暗い空間に溶け込む暗色の服。吸い込まれそうな深い碧眼。
「 」
私は答えた。唇が動くのを感じた。
自分の声なのに、言葉を発した筈なのに、何も聞こえはしなかった。
3、Πεθαμένος
夜空を一筋の閃光が駆けた。
『アトモスペラ』の空に浮かぶ二つの月の間を縫って、紫色の光が流れていく。
籠いっぱいの光る茸を放り捨て、アルトは走り出す。
煌めく星の落下地点を目指して。
「これが流れ星ですか!?」
リクが前のめりになって麻袋の中を覗き込んだ。琥珀色の目に、流れ星の紫の光が反射してぴかぴかと瞬く。
同じく袋を覗いたノインが驚きも露わに。
「大物じゃないか。何年振りだい?」
「取ったのは一年振り。こんなに大きいのは三年振りくらいじゃないかな」
「これは大きいんですか?」
「今までで一、二を争うね」
袋の中には、林檎ほどの大きさの光り輝く石が一つ。
『アトモスペラ』での流れ星は、大気との摩擦で燃える岩石ではなく、金平糖のような鉱石だ。子供の頃に想像していたお星さまみたいな、とも形容される。
まさに一獲千金を狙うコメットハンターたちの夢とロマンが詰まったファンタジーな形状と言えよう。
多くは指先や硬貨ほどのサイズだが、ときにはこぶし大、熟れた果実大のものが現れる。コメットハンター界の伝説では人の頭ほどの星を見つけた者もいるという。
流れ星の評価はほぼその大きさに依るため、このサイズなら色や光の強さや効力に関わらず高値がつくだろう。
経験値だってたんまりと入る筈だ。アルトは頭の中で上げられるレベルと取れそうなスキルを数え始める。
「一年、いや二年は遊んで暮らせるじゃないか」
感嘆の溜息を吐くノイン。
リクも顔を上げ、同様にほうっと息を漏らす。
「きれいですね。売っちゃうのが勿体ないです」
「売るまでが仕事だからね。きれいだけど、置いといても照明くらいにしかならないし、持ち歩くには重いし、加工する技術も持ってないし」
「……そうですね……」
「まあ、今回はこれでお金いっぱい入るし、次に小さいの取れたらインテリアとして置いといても良いかもね」
「お、余裕じゃない? アルトは一足先に貧乏脱出ってことかー」
からかうノインにアルトは自慢気に胸を張る。
「そんなケチじゃないので、ちゃんとパーティの共通金庫にも入れまーす」
「よっしゃー今夜は奢りかなー」
「おお? そういうことばっかりしてたら私に逆らえなくなっちゃうぞ?」
「ふっふっふ、あたしだってそろそろ研究本が校了するからね。揃える標本が残り三つ! こっちも売れたら印税生活よ」
「ワタシも大口の護衛依頼を捕まえましたから、二人には負けません!」
ノインがにやりと笑い、リクが身を乗り出してぶんぶんと手を振った。他二人も近いうち大きな収入があるのは間違いないようだ。貧乏脱出からのレベルアップ、設備拡充も夢ではない。
ひとしきり、次の仕事についての話題に花が咲く。
「ほんと、ゲームの中でも生活するのにお金かかるってのもリアルっちゃリアルだよね。まあリアルさが売りなんだし、お金や食べ物がなくて餓え死にしちゃう、みたいなバランスではないけど」
「ゲームでもお腹が減るなんて嫌ですよ。痛いのとか疲れるのとかはもうあるので充分です」
『アトモスペラ』では主に体力面における『警告』である痛覚や疲労感が実装されているが、空腹については特に無い。単純に、空腹に相当するステータスが存在しないからである。逆に食事を楽しむための味覚や満腹感は存在している。
アルトは足をぶらぶらさせる。
「といってもさ、そもそも私たちそんなに現実でお金に苦労してなくない?」
「まあね」
三人とも多様な施設を完備した全寮制の学園の学生だ。当然と言えば当然である。
「お金はさ、ゲームとはいっても、あるに越したことはないでしょ。やっぱり道具とか、いろんなもののグレードは上げたいし」
「『拠点』にもオプション付けられるよね。『帰還』したときの回復ボーナスとか」
「あったねー。今まで縁遠かったけど、見ておく?」
「カタログみたいなの無かったっけ?」
「スキルもお金で買えるものありましたよね。そっちも見ておきませんか?」
またひとしきり盛り上がり、再び視線は取れたての流れ星に向く。
紫の光を放つ鉱石は、日が傾き暗くなり始めた部屋をランプのように照らしている。
「今日だけでも置いておかない?」
リクがまだ少し未練の残る口調で言う。
「そうだねえ」
「売らない、ってのは出来ないけど、売るまでは良いかな、インテリアにしといても」
と、そこでコメットハンターの少女はぽんと手を打った。
「ああでも、こういうのならあるよ」
ポケットから一枚の布を取り出す。透けるように薄く、しかしけっして光を通さない黒い布。
安物の麻袋から取り出した星をその布で包む。
暫し待ち、興味津々のリクが見つめる前で、そっと取り外して広げて見せた。
「わあ!」
翼人の若者が思わず歓声を上げる。
漆黒の布の中央に、紫の星が光り輝いていた。ただ形を写し取っただけでなく、表面には繊細な模様が浮かび、呼吸するようにゆっくりと明滅している。
「コメットハンター専用のアイテムでね。魚拓ならぬ星拓用の布なんだ」
「すごいですね! 前に取ったのもあるんですか?」
「小さいのなら。前に大きいの売ったときのお金で買ったから、その前のは無くてさ」
「そうなんですか」
星の写し布をしげしげと眺めるリク。
「流れ星を捕まえるのも、やっぱり面白そうですね。現実には出来ませんしロマンがあります」
「現実の流れ星はもっとごついからね。なに? 転職する?」
「うーん、いえ、こっちはこっちで楽しいですから!」
剣を構える仕草をしてからガッツポーズをするリク。
それに気付いたのは、彼を眺めていたノインの方だった。
「?」
怪訝な顔で長身を屈め、床から何かを拾い上げる。
「これ、アルトの? 布出すとき落ちたみたいだけど」
「私の?」
疑問符を浮かべて受け取る。
しゃらり、と微かな金属音と共に少女の手のひらに落ちたのは、細い鎖のペンダントだった。
「……」
確かにアルトのものである。いつも首に掛けている、ロケットのように蓋の開く銀色の。
だがそれは、現実でだ。
(なんで? ここはゲームの中なのに)
ぎしり、と。
何かが大きく軋んだ気がした。
ログアウトした少女は、胸元を確かめる。
僅かな重み。暗い部屋で指先に触れるひんやりとした感触。表面に刻まれた直線のざらざらした手触り。
(ちゃんとある、確かに)
月光とディスプレイの光が差し込む中、銀色のペンダントヘッドを摘み、目の前に掲げた。
指先で弄ると、蓋がずれる。
この蓋を開けたことはあっただろうか。
いや、そもそも、このペンダントはいつ手に入れたものだろう。いつも身に着けているけれど、買ったのか、貰ったのか、思い出せない。
急に動悸が激しくなる。
ずれた蓋を、ゆっくりと指で押し開ける。
銀色のペンダントヘッド、硬貨ほどの大きさの空間には、暗闇が広がっていた。
(……違う)
ただの闇ではない。
塗り潰したような漆黒の向こうに、無数の光の点がちらつき瞬いている。
知っている。アルトはこの暗闇を知っている。何度も見る夢の中で『彼』と見ていた闇だ。
(どうして、ここに)
息を殺し、震える指を闇に伸ばす。何故そうしようと思ったのかは分からない。
しかしそれは、途中で阻まれた。
指先がこつんと何かに当たる。
ペンダントの表面、暗闇を覆う硬いガラスに。
「これってラメ? それともそういう模様の石?」
ペンダントの中の暗闇を覗き込み、ノインが問う。
『アトモスペラ』に現実のペンダントが現れ、現実でその蓋を開いた翌日の放課後のことだ。どうやらガラスの向こうの小さな暗闇はアルト以外にも認識できるらしい。
つまり夢でも幻でもない。
「分かんない。いつもの夢に出てきたのに似てるけど」
「夢の中でも着けてるの、これ?」
「ううん、夢で……窓みたいなところ見てるんだけど、その向こう側がこんな感じ」
「へー」
「ワタシにも見せて下さい」
リクが興味津々といった様子で身を乗り出す。
ノインが返したペンダントを渡すと、矯めつ眇めつしながら。
「きれいですね。黒いのに、きらきらしてて。あと、すごく奥行きがあるように見えます」
「錯視効果でもあるのかね? あたしはそういうの詳しくないけど」
「ワタシもです。……あ」
ペンダントをかなり傾けたところで、赤毛の少女が呟いて手を止めた。
「どした?」
「何か見えます」
リクの言葉につられ、ほとんど水平にした状態の小さな円盤を皆で覗き込む。
どこを見ても変わらないように見えた暗闇の端、ぎりぎり見えるか見えないかの部分の色が違って見える。ほんのりと明るく、青白い。
「……色ムラか何かじゃない?」
目を離したノインが言った。
「そうでしょうか?」
「ちょっと色が違うくらいにしか見えないし。うんと傾けたときだけ見えるってのは不思議だけど」
「それは……そうですね」
「あたしとしては、コレがゲームの中にあったって方が不思議だよ」
確かにその件は謎のままだ。
「こっちの物をそのまんま、あっちに持ち込めるようなアイテム、なんてあったっけ?」
「そんなの聞いたことないよ」
「ワタシも知りません」
「だよねえ」
そんなものがあるなら、もっと話題になっている筈だ。
見た目を似せたアイテムを作り出す裏技なら何度か広まっている。端末もどきを作り出した冒険者や、パソコンもどきでプログラミング的なことをやってのける職人もいて、確かに凄い技術なのだが、大抵はそんなの使うのは現実で良いじゃんという話に落ち着いていく。
「そもそもコレってどこで買ったの? それとも貰い物? いつも着けてるから、大事なものなのかなーとは思ってたけど」
三つ編みの少女が訊ねる。昨夜アルトが自問したばかりの疑問を。
そうだ、確かにずっと着けている。少なくともノインと出逢った第一学年のときから持っていたのは間違いない。
(それより前は? ……どうだったっけ?)
思い出せない。
「これは……この模様は、『亡星学』の……『金の円盤』にあった模様で……」
「うん? じゃあ、こう……グッズみたいなもの?」
「『亡星学』グッズなんてあるんですか?」
「いや、知らないけど。でも音楽の音符マークとか、化学式のやつとか、たまにあるじゃん」
それをグッズと言って良いのかは分からないが、なるほど見たことはある。『亡星学』を志す少女の手元に『亡星学』に関連する物品があるのはおかしなことではない、が。
「アルト、箱とか残ってませんか? 作ったところが書いてあるかも」
リクが赤毛を揺らしてこちらを見た。
「箱……探してみるけど、残ってなさそう」
「まあ、いつ手に入れたか分かんない物の箱だからねえ……」
ひとしきり話したが、結局これ以上の進展は無かった。
「害が無いなら良いんじゃないかい? ヒントがあるとしたらゲームの中かも知れないし」
ノインは途中で考察に飽きたらしく、そう言って眠そうに欠伸をし始めた。リクも手掛かりの無さに疲れた様子を隠せない。
「そうだね……」
恐らくはアルトの中にだけ、拭いきれない不安が残っていた。
『アトモスペラ』に入っても、ペンダントはペンダントだった。
ステータスに変化はなく、魔法や新しいスキルを覚えた様子もない。試しにリクが木の枝を振り回したり、拠点のツリーハウスから飛び降りたり、近くの川に飛び込んだりもしてみたが、防護壁や落下軽減、水中呼吸といった加護も特に現れなかった。
太陽や二つの月に翳しても、まだ売りに出す前の流れ星に近付けても、何もない。
レベルアップやスキル取得にあと少し足りない、というとき用の消費型経験値アイテムでもなさそうだ。
思いつく限りの試験をやり尽くし、三人は疲れ果てて床やソファに寝転んだ。
「ほんとにただのペンダントっぽいね……」
「実は誰かのサプライズで入ってただけとかないかい? ねえリク?」
「ワタシはやってないですよ……やってたとしてもこんなに引っ張らないです」
「だよねー……」
長い足を伸ばしてひっくり返っていたノインが、そう言ってから、あー、と手を挙げた。
「いっこだけ、ありそうな効果、思いついたんだけど」
「何?」
「『ロスト』回避の身代わりトーテム」
『ロスト』は条件を満たした際に適用される『アトモスペラ』内での死だ。
それを回避できる、蘇生や身代わりといった効果のアイテムは、希少だが確かに存在する。大抵は一回きりの使い捨てで、入手難易度の高さゆえ、アルトたちのような一般の冒険者が目にする機会はまずない。
「……そんなのが私のポケットから出てくると思う?」
「そりゃないわなー」
「正解だとしても試したくないですよ」
「それも同意」
危険地帯にも遺跡にも行かず魔物にも挑まないスタイルでやってきたのに、そんな危ない橋を渡る理由も必要もない。しかも見知らぬアイテムの不明な効能を調べるためだけになど。
違ったなら『ロスト』し損だし、本当にそんな代物だとしたら勿体ないことこの上ない。
「はー、結局何も分かんないままかー」
「まあ、害が無いなら良いってことで」
「ノインはあっちでも同じこと言ってたぞ?」
「だって他にどうしようもないし、何もないのに捨てるのもちょっとアレじゃないかい?」
「そうですね。捨てるのは勿体ないです」
「逆に捨てたら呪われる系のアイテムかもよ」
「うわ何それ嫌がらせ?」
「可能性の一つだって。流石にないでしょ」
ゲームの中でも、やはり新しい発見は無かった。
一つ不思議なことがあっただけで他に何も変化が無いのなら、謎は謎のまま日常に埋もれていく。良いことも悪いことも呼び寄せられた気配は無く、日々はただ過ぎていくばかり。
暫くは、そうだった。
再び図書館でヒューネに会ったのは、ペンダント事件から数日後のことだ。
車椅子の少年は書棚から少し離れた広い読書スペースの片隅で、膝の上に本を広げている。
今度もお互いに気付いたのは同時だった。
「お久しぶりです」
「久しぶり。今日は何の本読んでるの?」
「『大気圏外観測史~天動説から地動説へ~』」
「『亡星学』の、そのあたりの話が好きなんだ?」
前回の本『中世の星々―不毛の惑星に於ける天文学のリレー』も、『不毛の惑星』に於ける『中世』から『近世』の天文学の範囲だった筈だ。母星を中心に星々が回っているという天動説から、母星も他を中心として回る星々の一つだという地動説への過渡期の話。
アルトたちの星にもそういった時代があったという。『亡星学』を学んで当該の歴史を知ったときは、広大な宇宙空間を隔てても、人の歴史には似たような流れがあるのかと感慨に耽ったものだ。
「変化の過程を見るのは興味深いです。僕たちは自分たちの住む星が動くことを知っているから、どちらが正解か分かっている。でも渦中の、この時代を生きていた彼らには、どちらも主張する自説こそが真実だった」
静かに語りながら、ヒューネは紙面の文字列に指を滑らせる。
「こういったものを、神の視点というのかも知れませんね。天の星々は神が作り給うた大地を中心に回っている、という説が覆されるのを知っている神、というのも不思議な話ですが」
「そうだね。でも私たちは神さまじゃなくて人だから……神さまの基準は分からないけど」
「この世界を作り上げた存在がそういうものだと、多くの神話はそうだったと思います。ものによっては、この世界は一柱の神が見ている夢、ということもありますね」
「そうだね。夢の中ではみんな、自分の夢の神さまみたいなものかも」
人に救済や試練を与えたり、裁きを下したり、見守っているだけだったり、そもそも『人』が誕生する以前にいなくなっていたり、神話の『神』には様々なバリエーションがある。だが多くの神話でまず最初に語られる事柄は『神』による『天地創造』だ。
ビッグバン理論どころか宇宙空間の存在すら知らなかった時代、世界のプロローグには無から世界を作る存在が必要とされ、それが『神』だったのだろう。
ということを、歴史の授業でやった覚えがある。
眠って夢を見始めれば夢の世界が出来上がる。それは頭の中に世界を創造することと言える、かも知れない。
などと考えていると、視線に気付く。
ヒューネがこちらを見ていた。
「それはあなたの考えですか?」
静かに、けれど少し驚いたように。
「自身の夢の中では、誰もが神であると」
「? いや、まあ、そうも考えられるじゃん?ってちょっと思っただけ」
「……そうですか」
呟くような返事は、どこか残念そうにも聞こえた。
それを誤魔化すように車椅子の転校生は小さく笑う。
「僕ばかり話していますね。こういった話をする機会が、あまり無いもので」
「私もそんなしないよ。ヒューネも普段はしないの?」
「ゲームの話が主ですよ。皆プレイしていますから、共通の話題に最適です」
「あ、そっか。私も……いや、ノインたちとは、共通の話題が他に無いからじゃなくて、日々の出来事みたいな感じで話してるんだけど。パーティの共有財産の使い道とか、スキルの取り方とかも相談するし」
ノインやリクとは、お互い目指す将来の話をそれほどしない。興味がないというより、敢えて話す必要を感じないからだ。
話さなくても行きたい道は知っている。できることがあるならば手伝いや応援は惜しまないつもりである。それぞれの興味のあることで多くを語りたいときには大いに語るし、聞く方は専門的なことは分からないながらも耳を傾ける。
将来のことは大事だけれど、今のことを語り合うのも無駄話をすることも、三人にとっては楽しくて大事な時間なのだ。
「あなた方のことは遠くから見ているだけですが、とても仲が良さそうで。……僕にはまだ、そこまで親しい相手がいませんから」
アルトの話を聞いて静かに言う笑顔は、少し寂しげに見えた。
(そっか、ヒューネは転校生だった)
思えば少年が転校してきてからまだ三十日も経っていない。常々感じていた見えない壁のようなものは、彼が抱える孤独感が原因だったのだろうか。
周りに人は集まっていても、心の内を明かせるような相手は、まだ、彼には。
「えっと……私は、ノインたちと話してるのは楽しいけど、それとは別に、ヒューネと話してると自分が頭良くなった気がするよ」
「不思議な感想ですね」
「ちゃんと話してて楽しいって意味もあるんだからね? さっきも言ったけど『亡星学』の話は、みんなとはそんなにしないから」
「それは、有難うございます」
一瞬途切れた会話を埋めるようにチャイムが響く。最終下校時刻を報せる予鈴だ。
「もうこんな時間……寮まで送って行こうか?」
「大丈夫ですよ。ほら」
ヒューネが図書館の入口をちらりと見る。二人のいる読書スペースからは死角になっているが、人影が幾つか佇んでいるのが分かった。
「気にしないで帰って下さいと、言ったんですが」
呟くように言って、左手で膝の上の本を閉じる。
そこでふと気付いた。前回は分からなかったが、彼は右腕も動かないようだ。
「じゃあ本だけでも返しておくよ。それとも借りてく?」
「いえ……戻しておいて下さると。有難うございます」
何冊かの分厚い本を受け取り、アルトは車椅子のモーター音を背に『亡星学』の書棚へ向かう。
近寄りがたく感じていた転校生との会話はとても充実した気分になる。友人二人といるのが楽しいことに偽りは無いが、自分の目指す専門の話を深く語れるのも別の満足感がある。
(次はノインとリクも一緒に……いや、でも『亡星学』の話だから、こっちだけで盛り上がっちゃうの悪いし、ヒューネに遠慮させちゃうのもな)
けれど、話したこと自体を秘密にしておくことは無いだろう。
ノインからはまた、例の羊獣人とどっちが好みなのか?とからかわれそうだが、それはそれだ。
軽い足取りで自室に戻り、デスクトップ型の端末を立ち上げ『アトモスペラ』を起動する。
今日は二人とも志望専攻の課題は無いから、先に入っている筈だ。
ふと、画面端に見慣れぬアラートが出ていることに気付く。
警告を示す赤色に、心臓が跳ねる。
一呼吸置いて、アラートに触れ、詳細を表示した。
広がった表示が画面の一部を占有する。
見間違いようの無い警告色。
普段見るゲーム内の装飾フォントとは明らかに違う無機質な文字が、パーティメンバーの『ロスト』を告げていた。
世界にまた、大きく軋んだようなノイズが走った。
朝を待たず、アルトは彼女の部屋へ向かう。
ドアフォンを鳴らし、主の入室許可の出るまでを、こんなに長く感じたことは無い。
拍子抜けするほどに明るい室内に、人影は二つ。
既にもう一人は先に着いて、『ロスト』したプレイヤーの手を握っていた。
「アルト……」
ノインが気付いて、泣き腫らした目でこちらを向く。
『アトモスペラ』用の椅子に座ったままのリクは、対照的に落ち着いた、というより少し困ったような顔でアルトを見上げた。
「アルト、ノインを慰めて下さい。ずっと泣いてしまってて」
「だって……」
普段は気の強さが勝っているノインの目に、瞬く間に涙が溜まっていく。
アルトは近寄って、小柄な三つ編みの少女の肩をぽんぽんと叩いた。
「……リクは、大丈夫? 何ともない?」
「大丈夫ですよ。……死んだのは、ゲームの中のワタシですから」
口調は明るいが、少し、言い淀む。
落ち着いているように見えるが、先に泣いたり怒ったりしている者がいると冷静になる、という状態なのだろうか。
いや、意外と当人は取り乱さないものなのかも知れないと、アルトはつい先日、魔物に攻撃を受けて『帰還』したときのことを思い返す。
とにかくリクは事態に比べて落ち着いた、むしろ少しおどけた様子で手をぱたぱたさせた。
「こういうことは、初めてで……いきなりだったので、ちょっとびっくりしています」
「……何があったの?」
「大きな依頼が入ったと、この間言ったと思うんですが、それです」
しくじってしまいました、と赤毛の少女は言う。
「報酬の多い仕事は危険も大きかったですね。もっと気を付けて行くべきでした」
「でも、危険なら危険って、もっとちゃんと……」
「ノイン、気持ちは分かりますけど、請けたのもしくじったのもワタシですよ」
窘められて、ノインは大人しくしゅんと俯く。
普段と違って珍しいことだが、それほど気持ちが乱れているのだろう。アルトもあまり冷静でない自覚はある。パーティを組む前でも後でも、身の周りで『ロスト』者が出るのは初めてのことだったから。
(そもそも、危険地域でも遺跡でもないところで、『ロスト』なんてそうそう起こらないんじゃなかったの)
「でも、これであの噂は嘘だって分かりましたね」
アルトの懸念をよそに、リクは一人でうんうんと頷いている。
「噂って?」
「『ロスト』したら、現実でも死んでしまうという話です。ワタシはほら、元気ですから」
椅子に座ったまま大きく腕を振って見せる。
そういえばそんなオカルトめいた噂の話をしたような気がする。『アトモスペラ』にはそういった七不思議のような噂が七つどころでなくあるが、やはり大半がただの噂なのだろう。
「『リク』はいなくなってしまいましたけど、新しくキャラメイクします。そしたらまたパーティに入れてくれますか?」
友人はそう言って、にこにこしながら二人を見上げた。
「そりゃ、勿論」
「断る理由は無いからね」
「よかったです! アルトの流れ星の星拓、また見に行けます!」
嬉しそうに赤毛の少女は足をばたつかせた。
仕方ないやつだな、とノインが涙目のまま彼女の頭を小突く。
いつもと変わらない様子に戻りつつある二人を眺めながら、アルトは内心でほっと息を吐いた。
数日後、新しく『拠点』に現れた『リク』は、大柄な翼人の姿をしていた。
ふわふわしていた金色の羽毛は青い光沢を浮かべた藍色に、背の翼も手足も一回り大きく逞しくなり、以前よりパワータイプといった出で立ちである。
ノインとアルトはぽかんとした顔で、精悍になった友人を見上げた。
「……こりゃまた随分とマッチョになったもんだね」
「今度はもっと戦える感じにしようと思いました」
変わらぬ口調で、けれど以前より低い声で、翼人の若者は言う。
「まあ分からんでもないけど……暫く違和感すごそう」
「うん。誰!?ってなる」
「中身はおんなじですから、邪険にしないで下さいよ!」
羽毛を膨らますリク。
その様子は以前の姿と変わらず、二人は少し笑った。
同じ日、リクが『ロスト』した仕事の依頼人と、同行していたパーティのリーダーが訪ねてきた。
「リクさんとパーティの皆さんにはとても申し訳ないことをしました」
依頼人だという汎人の商人が泣きそうな顔で頭を下げる。
ゲームとはいえ『ロスト』は重大事だ。彼も心臓が縮む思いをしたことだろう。
「険しいけれどよく通る街道だったので安心していたんです。リクさんにもよく、護衛を引き受けてもらっていて……」
「俺もよくリクさんとは仕事をしてました。今回も一緒させてもらって、なのに、カバーできなくてすみません」
パーティリーダーだという虎獣人の軽戦士が辛そうに言った。同業の彼のことは何度かリクから聞いたことがある。
「いえ、気にしないで下さい。『ロスト』したのはワタシのしくじりですから」
大柄な翼人が前に出て二人に声を掛ける。
商人たちは驚き顔で彼を見つめた。
(ああ、まあ……うん。わかるよ、その気持ち)
アルトは心の中で大いに頷く。
「ええと……もしかして、リクさん、ですか?」
「はい。姿はこう、変わりましたが」
「そ、そうなんですか。随分と逞しくなられましたね」
商人は戸惑いを隠せないままだが、虎獣人の方はすぐに順応したのか、笑みを浮かべて大きくなったリクの肩をぱんと叩いた。
「今度は随分と強そうじゃないか。次一緒になったら頼りにしてもいいかい?」
「はい。レベルもスキルもまだ初期値ですが、また鍛えます」
「頼もしいね」
そして、複雑そうな表情で目を細めて言った。
「君が守った子は無事だよ。安心するといい」
「守った?」
アルトとノインは思わず同時に声を上げる。
虎獣人は不思議そうに二人を見た。
「あれ、リクさんから聞いてないんですか?」
「詳しいことは全然」
「守った子って、初耳だよ。何があったのさ」
首を振るアルトと、リクに訊ねるノイン。
曰く、彼ら一行が魔物に襲われたのは見通しの悪い山道だったという。普段なら相手取るのは難しくない種類だったが、運悪く、複数の群れが一度に出現し、ひどい乱戦状態になり分断されたのだと。
そしてリクが護衛に向かった馬車の中にいたのが、その子、だったそうだ。
「私の『妹』に設定しているNPCだったんです」
商人がますます申し訳なさそうに顔を伏せる。
NPCは現実に動かすプレイヤーがいないキャラクターのことだ。敵として出現する街道の獣や盗賊、魔物もこれに含むという者もいる。
味方なら、プレイヤーのいるキャラクター同士ではやりづらい、ペットや騎獣、家族や従者やメイドなどの関係を組む対象としてポピュラーな存在である。動かしているのは現実の人間ではなく『アトモスペラ』を管理しているのと同じプログラムだが、学園にいる自律型の警備AIよりよほど繊細で複雑な反応をすると評判だ。
とは言え、NPCはNPCである。
雑な言い方をすれば、同じようにプログラムで動いている獣や魔物と変わらない。
商人の落ち込みはそういった部分にもあるのだろう。
「まさかNPCを守って『ロスト』されてしまうとは思わず……」
「リクは知ってたの?」
「勿論、最初に説明があったさ」
知っていて、NPCの少女を助けるために単身、離れた馬車へ向かったのだという。
人によっては愚かしいとしか映らない無謀さだが、ロマンを求めるリクらしいと言えばらしい行動だ。彼女は現実で出来ないことをするために、自身とはかけ離れた、翼人の若者、というキャラクターを作ったくらいなのだから。
「それならそれで、守り切った上に生き残る方がよっぽどロマンがあると思うけどね?」
ノインがじとりとリクを睨む。
魔女は『それは無謀な行動』派らしい。『ロスト』のアラートに心臓が縮む思いをしたアルトも気持ちはよく分かる。
だが狩人の少女の胸にはそれ以上の違和感が湧いていた。
(どうして最初にそのことを言わなかったんだろう)
リク自身の美学に沿った行動である。結果が結果だし、号泣したノインに遠慮したのかも知れないが、誇らしげに語らないまでも、理由を述べる筈だ。
少なくとも、しくじった、の一言で済ますとは思えない。
芽生えた不審を隠して翼人の若者を見遣る。
まだ見慣れない顔に、一瞬、何の表情も浮かんでいないように見えた。
(は?)
見間違いかと疑問符を浮かべるより早く、精悍な顔にはいつも通りの笑みが現れる。
「よかったです、身体を張った甲斐がありました」
にこにこしているリクにノインが食って掛かった。
「良くない。こっちの人には悪いけど、NPC相手に身体を張るんじゃない」
商人もおろおろしながら同意する。
「そ、そうですよ。流石に『ロスト』は申し訳なさの方が……」
「えー、でも、ロマンのあるやつじゃないですか!」
「だから『ロスト』しないの前提ね! こっちの気持ちも考えなさい」
やり取りは確かに、アルトの知っているリクのものだ。
(でも、じゃあさっきのは……見間違い……?)
言い表せない不安だけが、少女の中でむくむくと膨らんでいく。
現実に戻ったのはいつも通り、夜だった。
(最近、変なことが多いな)
いつからだろう。
知っている日常が少しずつ、知っていた筈のものからずれていっているような。
『カロス・アイドス』で羊角の若者を見た頃からだろうか。それとも、ゲームの中に現実のペンダントが現れてからだろうか。
(普通のままで良いのに)
不安と違和感は胸の中で膨らむばかりで、誰に急かされている訳でもないのに、焦りが生まれる。
『亡星学』のペンダントの鎖を指に絡め、手のひらの中に握り込んだ。
変わらぬ白い月光とディスプレイが、変わらず少女の部屋を青白く照らす。
いつもと、何も変わらずに。
翌日、アルトは二人に嘘を吐いた。
二人と話を合わせられる気がしなくて、『亡星学』の追加の課題があると言い、図書館へ足を向ける。
唯一の小さな窓から茜色の光が漏れる夕暮れの読書スペースで、車椅子の少年はその日も本を読んでいた。
「どうかしたんですか」
落ち着いた口調で問う彼は、何故かひどく疲れているように見える。
気になったが、僕で良ければ話してください、と促されるまま、アルトは口を開いた。
「……リクが」
その後は堰を切ったように言葉が溢れ出る。友人のキャラクターの『ロスト』と、それに伴う拭い切れない違和感。
「リクには話せない。ノインにも話せない。そしたら、話して良いって思える人が他にいなくて……こんなの、告げ口みたいだけど」
「……あなたと話すのは今日が三度目です。それなのに、僕に?」
ヒューネの問いに、アルトは戸惑いながら頷く。
理由は分からない。この学園には五年いる。他に話せる人がいる筈だ。なのに頭に浮かんだのは、つい先日、外から来たばかりの転校生のことだった。
確かに彼は大人っぽくて落ち着いている。きっと頭も良い。
しかしたった二度の邂逅で、どうして頼れると思ったのだろう。
どうして、彼しかいないと思ったのだろう。
「ごめん、変なこと言ってるね。私ちょっとおかしいのかも」
「いえ、分かりました」
笑ってごまかそうとするアルトの言葉を遮り、考えるように俯いていたヒューネが思い切ったように顔を上げた。
細く差し込む夕日に照らされ、元々薄い色の双眸の、右だけが更に薄く濁って見える。
「あなたに話すことがあります。他にタイミングがあったのかも知れませんが、今が良いと判断しました」
「え?」
困惑する少女の前で、少年はポケットから小さな銀色の物体を取り出す。
掲げられたそれは、見覚えのある、とても見覚えのあるペンダント。
「お願いがあります、アルト。これを目印に『ティコ』を見つけて下さい。『アトモスペラ』の『艇の塔』の街にいます」
彼の手にあるもののためか。
久方ぶりに耳にした名前のためか。
それともそう告げた彼の表情のためか。
胸の奥がざわざわと大きく騒いだ。
後編は5/19(金)投稿予定です。