1、Ατμόσφαιρα
x、断片
幾度も見る夢がある。
仄暗い空間。眼前には吸い込まれそうな深い闇。
闇はほんの数歩先にぽかりと口を開けていて、けれど恐ろしくはない。
すぐ隣に誰かがいて、共に眺めているからだろうか。
闇も、よく見ればただの闇ではない。
塗り潰したような漆黒の向こうに、無数の光の点がちらつき瞬いている。
「 に なら」
隣の誰かが呟いた。
聞き取れない。
そちらを向き、見上げても、背の高い姿は暗がりに紛れてよく見えない。
すぐ隣にいる筈なのに。
耳をそばだて、目を凝らし、そうしている間に夢は終わる。
いつも、いつも、そうやって。
1、Ατμόσφαιρα
「アルト、起きてください、アルト!」
薄闇の向こうから呼ぶ声がする。
色のない世界の底から、ゆっくりと少女の意識が浮かび上がる。
目を開けば、こちらを覗き込む顔が二つ。金色の髪の若者と長い黒髪の女性。
その片方、柔らかな金髪の方が、少女……アルトを見て嬉しそうに笑った。
「おはようございます!」
元気の良い、朗らかな声。
「……あー……おはよ、リク。ノインも」
もう一人にも顔を向け、まだぼんやりとしたまま呟く。
ノインと呼ばれた女性は長い黒髪を掻き上げ、口を開いた。
「頭が起きてないのかい? また夜更かし?」
「え? いや、あぁ……なんか……夢を見てて」
答える間にも夢の記憶は、明瞭になっていく意識と反比例するように薄れていく。
夢というのはそういうものだけれど、ノインは察したように眉を跳ね上げた。
「ああ、例の?」
「暗いところで誰かと話す夢、でしたっけ?」
続けてリクも気付いて大きく瞬きをする。
「うん」
アルトは曖昧に頷いた。
ここ数年のことだ。
夜な夜な、という頻度ではないが、繰り返し見る夢がある。
内容はいつも同じ。不思議な暗闇を前にして、背の高い誰かと話している。それだけ。
それだけ、なのだが、内容の変わらない夢を数年に渡り何度も何度も見るという現象は、彼らの間の小さなミステリーだった。
「しかし、何度も見るなんて飽きないねえ」
「見たくて見てるんじゃないし」
「知らないどこかで知らない誰かと話す夢……やっぱり運命の相手とか前世の因縁とか、そういうのだったりしませんか?」
リクがいつものように鼻息を荒くした。
それをノインが笑って、はいはい、と宥める。
「あんたはそういうの好きねー。ま、あたしも運命の相手とかなら応援するけど?」
「だーかーらー、顔も分かんないのにそんなの無理でしょ。他人事だと思って」
「他人事だから楽しいんだって」
唇を尖らせたアルトの愚痴をノインが快活に笑い飛ばす。
そうですよ、応援しますよ、と、リクがこぶしを握ってにこにこ笑う。
仕方ないなーとアルトも笑って、ぐるりと辺りを見回した。
丸木の壁と天井、板張りの床、所狭しと置かれた家具や道具たち。壁の隙間と窓からは穏やかな日差しが差し込んでいる。
ここは先日建てたばかりの『拠点』である町外れのツリーハウス。
目の前にいるのは、翼人の軽戦士であるリクと、汎人の魔法使いであるノイン。
(それで私は、アルト。狩人……コメットハンターのアルト)
コメットハンター。夜空を走る流れ星を追い、採集する仕事のことだ。
さて、とノインが話題を変える。
「今日どうして集まったかもちゃんと思い出せたかい?」
魔女は主にアルトの方を見てにやりと笑う。
アルトは足をぶらぶらさせながら返した。
「うん、面白いことがあるって、ノインが呼び出した」
「よしよし、ちゃんと頭も起きたみたいだね」
ぱん、と魔女が膝を打つ。
「町に旅芸人の大一座が来る。三日後だ」
汎人のアルト。
同じく汎人のノイン。
翼人のリク。
三人は町外れのツリーハウスを拠点とする少人数パーティの冒険者だ。
パーティを組んでいるとはいっても、全員で何かするということはあまりない。魔法使いのノインは山野の薬草や特殊な鉱石の研究をし、軽戦士のリクは翼人の機動力を活かして運び屋や行商人の護衛をしている。
そして汎人のアルトは、流れ星を探すコメットハンターである。
夜空を流れ落ちてきた星には御守りのような力があり、そのまま持っていても良いし、加工して武器や防具、ペンダントなどのアクセサリに組み込んでも使える。地上や地下で採れる鉱石とは違った能力を持つため、小さな星でもなかなかの値段がつく。
元々夜空を、星を眺めるのが好きなアルトにとっては適職と言えるだろう。
ただし、発見も採集も難易度が高い。
当たれば一攫千金ということは、裏を返せば、現実はそんなに甘くないということだ。実際、夜に咲く薬花や夜に開く茸の採集の方が稼ぎになっている。
ロマンを追い求めるがモットーのリクからは、早くその希少な流れ星を見せて欲しいとせがまれているが、そんなこんなで今のところ応えられてはいない。正直、本人が転職すれば良いのでは?とも思っているが、リクはリクで、そしてノインはノインで今の仕事が気に入っているらしく、変える予定は無いらしい。
碌に稼げていない現状。
実はこれが三人共通の悩みである。
ノインは、研究をまとめた本を出せば金になると宣っているが、いつかいつかと言いつつ未だ実を結んでおらず研究費用ばかりが嵩んでいる。
リクが請け負う護衛の仕事はと言えば、この近辺には高報酬の、危険で難易度の高い案件は少なく、従って実入りも少ないらしい。
そんな職も技能もバラバラの低収入冒険者たちがパーティを組み、一件のツリーハウスを拠点としているのは、それぞれ別々に拠点を持つより安上がりだからだ。大家のいない家屋にも維持費はかかるし、そもそも建築技能のない三人では小屋ですら自力で建てられはしない。
「初期費用も以後の諸々も折半できるのは大きいと思うんだよ」
拠点はパーティ一つにつき一件、割り当てられるものである。元々気の合う三人ではあったし、ノインのこの一言で、パーティを組むことに決めたのだった。
それぞれの稼ぎを持ち寄って、腕利きの職人たちにより拠点が建ったのはつい先日。
自分の拠点を持つというのは何とも誇らしく安心感がある。荷物や収穫物も置いておけるし、よそで注文した物品の届け先や手紙の宛先としても使える。
これからは貸部屋の家賃を滞納して追い出されることを心配したり、洞窟や木の上で夜を明かすこともない。
アルトたちは丁度、冒険者としての新たな一歩を踏み出したところなのである。
「旅芸人の大一座……ワタシは初めて見ます」
丸太の椅子にしゃがみ自分の膝に頬杖を突きながら、リクがわくわくと目を輝かせた。
翼人である彼の背からは大きな翼、腰からは扇のような尾羽、豊かな金髪の間からは柔らかな羽角が生えており、うきうきと身体を揺らす彼の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。
「あたしだって本物はまだないよ。記録でならあるけどさ」
向かいの椅子に座るのはノイン。上等の絹のように艶やかな黒髪をさらりと流し、緩やかなローブを動きやすいようにたくしあげて帯に挟み、その下から革のレギンスを履いた足がすらりと伸びる。
「私も。旅の詩人や芸人はたまに来るけど、一座でってのはないよね」
古ぼけたソファの上で胡坐をかいたアルトは、転寝でくしゃくしゃになった綿のチュニックの皴を伸ばしながら頷いた。窓や壁の隙間から差し込む陽光が、肩より短く切った彼女の栗色の髪を明るく照らす。
採取用と護身用の二本のナイフをいつも通り帯に挟み直し、ようやく落ち着く。
三人が拠点を置く町は小さく、長閑で、旅人の訪問も少ない。やって来るのは多くて三人か四人組の楽団や芸人。大人数の一座が訪れたという話は今まで聞いたことが無い。
「うちを通るのは興行ルートの関係らしいんだけど、どうやら『艇の塔』の麓の街を目指してるらしい」
三人の中で最も情報を握っているノインが、とっておきの道具を抽斗から取り出すときの顔で言う。
「『艇の塔』って、今一番攻略が熱いって言われてる遺跡ですよね? 旅芸人が、どうしてでしょう?」
リクが首を傾げて訊いた。アルトも同意の心持ちでノインに目を向ける。
『艇の塔』は町から数日歩いた先にある巨大遺跡だ。天を衝く塔のような形をしているが、内部の構造が船舶のようだから『艇の塔』と名付けられたと言われている。徒歩数日の距離にあるにも拘らず、その威容は町からは勿論、今いるツリーハウスからも拝むことができる。
巨大な構造物ゆえ昔から攻略に挑戦する者が絶えず、とうに調べ尽くされたと思われていたが、最近になって新たな区画が発見されたとかで、再び冒険者たちが集まっているという。
「集まってる人相手に公演するんだって。各地の冒険者が集まってるなら、ネタもいろいろ仕入れられそうだし」
ノインの見解に、二人は成程と頷いた。
冒険者が集まれば彼ら相手に商売をする者たちも集まってくる。人が集まるところには物も集まり、様々な仕事が生まれる。実際、一度寂れた麓の街はかつての賑わいを取り戻しているらしく、この町からも出稼ぎに行く冒険者や職人が増えていた。
「あたしも『艇の塔』に興味がない訳じゃないけど、遺跡には強い魔物が出るじゃない? あたしたちそういうのと戦うのって全然でしょ」
「そうですねー」
リクが自分の腰に差した剣にちらりと目を遣る。
三人の中で戦士職なのはこのふわふわした翼人だけだが、整備された街道に出る獣や盗賊は退けられても、遺跡に棲息する強力で狂暴な魔物を相手に出来るほどではない。アルトも戦うより夜闇に紛れて逃げ隠れする方が得意だし、ノインに至っては目くらましの術が唯一と言って良い攻撃手段だ。
職業的にも、アルトとしては磨きたいのは戦いより、採集の技術だ。
「それよか旅芸人の方だよ。二人とも、見たいだろ?」
話題を戻すためにか、魔女がぱちんと膝を叩いた。
「見たいです!」
「私も見たい、けど、この町でも公演あるのかな?」
「そりゃ、小さいけど一応町なんだから」
ノインの返答にやや勢いがないのは、流石に自信が無いからだろう。町の広場は小さく、大一座と聞いて想像する大きなテントを張るスペースがあるか疑問だ。
「でも、何もしない訳じゃないと思うんだよ。通り道でも稼げるだけ稼ぎたいだろうし……まぁ、何も無くても連れてる珍しい生き物が見られるかも知れない」
「珍しい生き物って何でしょう?」
「それはやっぱり大一座だから、一角獣とか鷲獅子とか、竜とか?」
「竜!」
リクが羽毛を膨らませて素っ頓狂な声を上げた。
「いいですね、竜、見てみたいです!」
「いや、まだいるかどうか分かんないよ?」
「じゃあ、いたらいいですね! ロマンがあります!」
アルトの忠告も空しく、翼人の若者の頭は早くも、まだ見ぬ竜のことでいっぱいになってしまったようだった。
狩人の少女と魔女は顔を見合わせて思わず笑う。
「まぁ確かに、いたらいいね。ロマンがある」
「そうだね。わかるわかる」
希少な流れ星を探して毎夜空を眺める生業の者としては本当によく分かる。
きっと今、『艇の塔』の新しい区画を目指している冒険者たちも似たような気持ちだろう。
冒険者たるもの、それぞれ形は違っても、夢とロマンは追い求めるものなのだ。
その日は三人ともどこへ出掛けることもなく、旅芸人の大一座と彼らの公演、連れているだろう幻の生き物たちについての話に花を咲かせて過ごした。
一座が町へやってきたのは、魔女の情報通り三日後のことである。
まず聞こえてきたのは、美しい笛の音。
広場に現れた狐の耳と尾を持った少年が銀の横笛を吹き鳴らし、周囲を飛び回る鮮やかな色の鳥たちを巧みに操る。
傍らには羊の耳と角を生やした細身の若者が立ち、指先で炎の輪を描く。鳥たちは囀りながらその輪を潜っていく。
それはすぐさま人々の耳目を集めた。
大きな花の模様をあしらった鮮やかな衣装の先触れは、興味津々の群衆へ声高らかに呼びかける。
「皆様ようこそお集まり下さいました! わたくしは旅する万華鏡、翼ある虹……『カロス・アイドス』、仔狐のパンセ! そしてこちらは火の輪のティコ!」
歌うように言葉を紡ぎながら、狐獣人の少年は、自分と傍らの若者を優雅な手つきで順繰りに示す。
「今宵、こちらへわたくしどもの一座が参ります! どうぞ皆様の一夜の、けれど鮮やかなる眩い夢となれれば何よりの幸い! では今暫しのお待ちを!」
ひらひらした袖を振って大仰に一礼する獣人の少年と若者の姿は、口上が終わると同時に無数の羽根となって飛び散った。
色とりどりの羽根が舞う誰もいなくなった空間へ、人々がわっと歓声と拍手を浴びせる。
その光景に、どうしてか、胸がざわざわした。
「すごいですね、アルト」
溜息交じりのリクの声に、アルトははっと我に返った。
「まるで鳥と話してるみたいです」
「う、うん、音楽と鳥の声のどっちも入ってる感じ?」
動揺を悟られぬよう、興奮を装って返す。
(今の……何?)
「あれは魔法の類じゃなく、純粋な演奏の技術だ。凄いな、あれが獣鳥使いの技か」
逆隣に立った魔女がぶつぶつと呟く。リクとは違う観点だが、感銘を受けたことには変わりないようだ。
どうやら他の二人には、アルトが感じた胸のざわめきのようなものは無かったらしい。
(私だけ……?)
広場を見回す。去り始めた人々は皆、先程の演舞への感想と夜の公演への期待に興奮するばかりで、違和感を覚えるような表情をしている者は誰もいない。
同じく周囲を見渡し、ノインが訊く。
「公演は夜みたいだけど、どうする? こっちで待つ? それとも一旦戻る?」
「ん? えっと……」
アルトは動揺を隠して話を合わせた。
「こっちでいいんじゃない? 戻ってまた来るの面倒だし」
「賛成です! 久々に町のごはん食べましょう!」
「お、いいねぇ」
上手く誤魔化せたようだ。
どこの店にしようかと相談を始めた二人を横目に、アルトは胸騒ぎについて考える。
(あれ、何だったんだろう)
鳥使いたちの妙技に心躍ったのとは違う、心の奥が波立つような気持ち。
何か忘れているような、喉につっかえているような。
あれほど沸き立ち、笑顔と感動が飛び交っていた最中。
狩人の少女の胸を過った感情に一番近いものは、ぼんやりとした不安だったのだ。
黄昏が小さな町を茜色に染め上げる。
夜間採集者兼コメットハンターのアルトにとっては普段ならこれからが仕事の時間だが、今日は別だ。
石畳に影を長く伸ばしながら、人々が三々五々、町外れの草原へ向かう。彼らの向かう先、草の海に囲まれたそこには、いつの間にやら町の教会より高く巨大なテントが建っていた。
入口では数人の道化が、にこにこと笑顔を振りまきながら風船を配りチケットを売っている。
早めの夕食を終えた三人は、並んで中ほどの席に着く。
「とっても広いですね……!」
リクがきょろきょろと天幕の中を見回す。忙しない頭の動きに合わせて羽角がぴょこぴょこと揺れた。
ノインも同じく見渡して。
「でもこれじゃ、町の全員で入っても半分埋まらないんじゃないかい?」
「そうかも。なんか勿体ないな」
「急に人が増える訳でもないからねえ」
「じゃあ代わりに大きい拍手をしましょう!」
翼人の若者が無邪気に手をひらひらさせる。
魔女は苦笑し、狩人の少女はくすくす笑って、翼人の金髪をぽんぽんと叩いた。
そうしている間に、ぱ、と辺りが暗くなる。
急な暗転に目が慣れずにいる人々の耳に、澄んだ鈴の音が届く。
しゃん、しゃんと鳴る鈴が五つを数えたのと同時に、前方のステージに光が灯る。
「皆様ようこそ、『カロス・アイドス』のステージへ!」
張りのある声で口上を述べたのはすらりと背の高い帽子の男だ。
「わたくしどもは遥か遠く、極東山脈の麓より、太陽の都、月の運河、水晶の砂漠、黄金の森を越え、この地へやって参りました! これからご覧いただきますのは、わたくしどもが旅路で集めた数々の夢幻を、現に映したものにございます!」
流れるような台詞は耳に心地よい声色と合わさり、まるで魔法の呪文のように、観客の心を魅了する。
「今宵はどうぞ、わたくしどもの見せる異国の夢をご堪能くださいませ!」
ぴったりとした衣装の彼は観客席を見渡して悪戯っぽい笑みを浮かべると、被っていた帽子を脱いでぱっと天へ投げ上げた。
人々の視線が追う中、帽子は一気に膨らみ爆ぜて、中から無数の光の鳩が飛び出す。
鳩たちは天幕の下を円を描いて飛びながらみるみる大きく膨らみ、一周したステージの上で弾け、光の雨となってきらきらと降り注いだ。
ときを同じく高らかに響くファンファーレ。
それが大一座『カロス・アイドス』のステージの始まりを告げる合図だった。
まず現れたのは、花のように膨らむスカートを履いた翼人の少女たち。
くるくると円を描き、愛らしくステップを踏む彼女たちの真ん中へ大きな球に乗った太い腕の若者が現れ、カラフルなリングやクラブを投げ上げては受け止める。そして次々と球へ飛び上がる小柄な踊り子を抱えては、勢いよく宙へと放り投げた。
踊り子たちはその細い翼を翻し、今度は空中で輪舞を始める。
全ての少女たちが宙で円を描く頃、玉乗りの若者の代わりに現れたのは日に焼けた逞しい身体の男たち。手に手に燃え盛る松明と煌めく剣を持って荒々しく舞い踊る。
天井からは絢爛豪華な布がするりと垂れ下がり、やはり日に焼けた、艶やかな衣装の男女が伝って降りてきた。ステージの上から吊り下がった布を手足や胴に巻きつけながら、彼らは遠い異郷の踊りを艶めかしく披露する。
万華鏡と呼ばれるに相応しい、めくるめく演目の数々。
やがて松明の炎が高く高く燃え上がってステージを包み、それが消えると中央に、二つの人影が現れた。
「昼に見た人たちですね」
リクが小声で囁き、ノインが頷く。
(……)
アルトは黙って、ステージの二人を見つめた。
銀の笛を吹く狐の少年。その斜め後ろに控えた羊の若者が、昼と同じように指先で炎を描き出す。赤い炎は広がって、宙へ複雑な形状の陣を浮かび上がらせた。
どこからともなく現れた鳥たちがその炎の迷路に沿って飛び回り、羽根の一枚も焦がすことなく、またどこへともなく去って行く。最初は小鳥、次は鳩、そして鷲、更に小さな飛竜が、笛の音に合わせて迷路を辿る。
狐の少年は愛想よく、羊の若者は穏やかに、笑みを浮かべながらそれぞれの技を披露する。
目が、合った気がした。
心臓が一拍大きく跳ねる。
(なに)
騒ぎ始めた胸を押さえてアルトはステージを凝視する。
二人の出番は間もなく終わり、流れるように次の演目へと移った。
けれど動悸は治まらない。
宙に浮いた水球の中での舞も、獅子鷲に乗った娘の芸も、栗鼠の獣人たちによる空中ブランコも、少女の目に映ってはいても、頭には入って来なかった。奏でられている音楽も、鼓動が煩くて聞こえない。
嵐のような拍手と歓声の中、アルトは一人、世界を隔てる薄膜の向こうにいた。
「凄かったですね!」
興奮冷めやらぬリクが翼を震わせる。
文字通り地に足がつかないほど興奮して、ぴょんぴょんと跳ねながら土の道を下っていく。
入場前は赤々としていた空が今はすっかり暗い。黒く塗り潰したような天に二つの月、金の恒月と青の矮月が並び、地上を照らしている。
走ると転ぶぞー、と前方に声を掛けたノインは、少し間を開けてちらりとアルトを見遣った。
「どうしたんだい、アルト」
呼ばれて少女ははっと顔を上げた。
「え? 何?」
「何?じゃないよ。ぼけーっとして。感動して声も出ないって感じ?」
「うーん……」
アルトは眉を顰める。
この胸騒ぎを、どうしたら説明できるものか。
「どうしたんだい。……気分が悪いとか、楽しくなかった、って訳じゃないんだろ?」
「うん……」
後ろの雰囲気を察して、翼人の若者がぱたぱたと戻って来る。
「どうしたんですか?」
魔女は肩を竦めてみせる。
二人の訝し気な視線を受けたアルトは更に眉間の皴を深くした。
流石にもう誤魔化しは効かないだろう。
意を決して口を開く。
「あのさ……最初の二人、いたじゃない?」
「最初の? 開演の挨拶は一人だったし……昼の二人のことかい?」
「そう。小鳥の火の輪くぐりの」
「あれも凄かったですね! 公演では竜もいて」
「で、その二人が?」
興奮が戻ってきた翼人を遮って魔女が促す。
「……何ていうか……あの二人見てると、なんか、すっごい胸がざわざわする、っていうか、騒ぐっていうか」
「ざわざわ、ですか?」
きょとんとするリク。
暫し間があり、ノインが神妙に口を開く。
「……それって、一目惚れ?」
アルトはぽかんと長身の魔女を見上げた。
更に暫しの間。
「はあぁっ!?」
思わず上げた声に横を通る人々の視線が集まり、慌てて道の脇に避けて声を潜める。
「ひ、ひと、ひとめぼれって、ちょっと」
顔が火照っているのは、言われたことのせいか大声で衆目を集めてしまったせいか、その両方か。
ノインはしれっとした顔で。
「だってあの子たち見るとドキドキするんだろ?」
「ドキドキじゃないよざわざわだよ」
「似たようなもんじゃないか。心臓の鼓動がいつもと違う感じになるってのは」
「似て非なるものだってば」
「でも気になるんだろ?」
「それはそうだけど」
アルトが返答に困ってノインから視線を逸らすと、興味津々の顔でこちらを覗き込むリクと目が合った。
「恋をしたということですか?」
直球の質問に、ますますむず痒いような気分になる。
「分かんない……今までこんな感じなったことないから」
「成程、初恋か」
「成程、じゃないよ! もっともらしい顔で頷かないで納得しないでっ!」
「うんうん、確かに技も凄かったしイイ感じだったし」
「だ、だからぁっ!」
勝手に話が進んでいく。
(恋? 一目惚れ? そうなの? これが?)
自問したとて経験もないのに答えなど出よう筈もない。
確かに恋というものは胸が高鳴り、居ても立ってもいられなくなるというけれど。
「それで、アルト」
悪戯っぽく探るような目と、好奇心で輝く目、二組の双眸が少女を見つめた。
「お目当てはどっちだい?」
晴れた空から燦々と陽光が降り注ぎ、爽やかな風が草原を渡る。
午後の配達と採集を終えた時間。日は傾いているが、夕暮れにはまだ早い。
「ね、ねえ、本当に行くの……?」
大テントへ向かう道を登りながら、アルトは控えめな口調で訊いた。
前を歩くノインが振り向いてにやにやと笑う。
「恋か恋じゃないか、近くで会って話したら分かるかもって言ったのはアルトだよ」
「それは、それくらいしか確かめようがないっていうか! いやそれでも確かめられないかも知れないけど」
「まあまあ、分かんないなら分かんないで、会えたらラッキーじゃないの」
「そうですね、ワタシも楽しみです!」
リクはにこにこ笑っているが、本当に今の事態を理解しているのだろうか。
ふつふつと疑問を沸かせる少女を尻目に、二人は先にテントの入り口へ辿り着く。
開場時間にはまだ早く、周囲に人気はない。
「勝手に中に入っちゃう……のは、駄目ですよね」
「裏の方に回ったら専用の入り口だとか控室だとかがあるかも知れない。ちょっと見てみよう」
魔女の提案で、三人は大きなテントの周りをぐるりと半周する。
見えてきたのは小さな、といっても家ほどもあるサイズのテントの群れ。こちらには人の気配や獣の鳴き声もする。
どうやらノインの予測した通り、一座の団員たちのスペースのようだ。
「ごめんくださーい!」
気後れした様子もなく魔女が大声で呼び掛ける。
ややあって、布の陰から何名かの団員らしき人々が顔を出した。目的の人物を告げると彼らは嫌な顔一つせず、立ち並ぶテントの奥を指さす。
示された方へ行くと、そこに彼がいた。
小振りなテントの入り口脇の木箱に腰掛けた若者。
年の頃は二十歳を少し過ぎた程度だろうか。蜘蛛糸のような白銀の髪から生える、鉛の如く鈍く光る曲がった角。細く長い手足を持て余し気味に折り畳み、足下に群がる小鳥たちに黍を撒いている。
近寄ると、部外者の人影に驚いた小鳥たちが一斉に飛び立ち、遅れて気付いた若者と目が合った。
双眸に浮かんだ訝しげな色は瞬時に、客人相手の穏やかな笑顔に上書きされる。
「こんにちは。この町の方でしょうか。どなたかにご用が?」
立ち上がり歩み寄る痩躯の獣人は、一番上背のある魔女が見上げるほどの長身だった。
「ええっと、こんにちは」
「こんにちは」
「急に押しかけてすみません」
三人もそれぞれ挨拶をして軽く頭を下げる。
そしてノインがいそいそとアルトの背中を押し出した。
「この子が、あなたのファンになっちゃって!」
「……私の?」
深い青色の双眸が狩人の少女を見下ろす。
その顔に視線が吸い寄せられる。
昨日感じたざわつきとは違う感覚が胸を満たしていく。
次の瞬間。
ぼろぼろと涙が溢れた。
「え」
呆けた声を出したのは誰だったのか。
皆が驚き見つめる中、アルト自身も慌てて目元を拭う。
(ちょっと、何? なんで?)
「大丈夫ですか?」
困惑の色を滲ませながらも、獣人の若者が腰を屈めて尋ねる。
とても気まずい。
(どうにかしないと)
「あ、だ、だいじょうぶ、です」
アルトは思わず後退り、まだ濡れた頬で笑顔、のようなものを作った。
「きょ、今日は、これで」
どうにかしてそれだけ言うと、くるりと踵を返して走り出す。背後でリクとノインが彼に何かを言って、こちらを追う足音が聞こえる。
急に泣きだした上、弁解も無くただ逃げ出すなど更に誤解を生みそうな行動だが、咄嗟に動き出した足は止まらない。
巨大な天幕を横目に通り過ぎ、町とは逆方向の草原を突っ切っていく。
青々とした草原の先は鬱蒼とした森だ。
「アルト、アルト、危ないですよ!」
木々の間へ入る直前、声と共にリクがアルトの横へ舞い降りた。
大きく広げた翼が少女の行く手と視線を遮る。
アルトは足を緩め、枝葉の落とす影の中で立ち止まった。
「どうしたんですか、アルト……」
おろおろと泣きそうになりながら翼人の若者が狩人の少女を覗き込む。
遅れて魔女が息を切らせて追いついてきた。
「アルト、ごめん、無理強いして悪かった……泣かせるつもりじゃなかったんだ」
申し訳なさそうに頭を下げる。
少女は自らの息を整えてから、もう一度熱くなり始めた目元を拭って振り返った。
「いや、会って話したらって話、したのは私だし」
「うん……」
「ていうか、泣いちゃったのは自分でもびっくりだし?」
大げさな身振りでおどけて見せるが、二人には強がりに映るのか、心配そうな、そして申し訳なさそうな表情は消えない。
(ま、参ったな……)
押し付けられたのが嫌だったのでも、あの場の空気が辛かったのでもない。それしきで泣くような性格はしていない。
(いや、だからこそ深刻な受け取り方されてるのかも知れないけど)
「あの、ほんとに、悲しいとか辛いとかの感情で泣いたんじゃないんだよ。だからそんな顔しないで、ね?」
「……本当に?」
「ほんとのほんとだって。どっちかっていうと……」
その後に口をついて出た表現に、アルト自身も困惑した。
「なんだか、懐かしくて」
リクも、ノインも、言った張本人のアルトも、全員が疑問符を浮かべた顔を見合わせる。
「……知り合い、に似てるとか?」
「いや、いないと思うんだけど……たぶん……」
「じゃあ……前世の因縁とかですか?」
「夢の話じゃあるまいし……」
「えーじゃあ、何」
「分かんないよー」
肩を落とす。実際何も分からないのだ。
不意に、リクが何かに気付いて周囲を見回す。
「とりあえず一旦、ここを離れましょう」
声に滲むのは緊張感。
「夜が来ます。魔物のテリトリーに入ってます」
翼人の軽戦士の言葉に、二人もはっとして身構える。
町や街道に出るのは盗賊や獣だが、離れた場所には魔物が出る。このあたりでいうなら、その境界線は森だ。
そして三人は今、その森に足を踏み入れていた。
夜は魔物の刻である。日が落ちてからの時間帯、彼らには昼より行動範囲が広がったり、狂暴になるものも多い。
いつの間にか差し込む陽射しが赤味を帯びている。
急に、足下に落ちる木の影が濃くなったような気がする。
「行こ」
草原はすぐそこ、ほんの数歩先だ。
一歩踏み出した瞬間、木漏れ日が消えた。
「走って!」
リクが叫んで翼を広げて細剣を抜く。
同時にノインが目くらましの術を唱えた。三人の上に薄い霧の幕が広がる。
しかし、草原の赤い陽光を目指して駆けだしたアルトたちの前を塞ぐように影が降りてくる。
蝙蝠のような薄い皮膜の翼を持つ黒い猪。
名前は知らない。
足を止めないままアルトは護身用のナイフを抜いた。足は止まらない。横を抜けるしかない。
黒猪が唸り、首を下げる。
「牙と突進!」
背後から飛ぶリクの警告。あちらはあちらで別の黒猪と向き合っている。
(一頭じゃない。何頭いる?)
横をすり抜けようとした少女の前に、三頭目の魔物が降り立った。
と、それを横から飛んできた炎の塊が吹き飛ばす。
目の前が開けた。
(よし、行ける!)
思ったとき、背中が熱くなる。
「アルト!!」
ノインの悲鳴のような声。
視界の端、牙を鮮血に濡らしたもう一頭の黒猪。
(ああ、しくじった)
世界にノイズが走り、暗転する。
暗い部屋でアルトは目を開いた。
ヘッドセットを外せば、狭い空間を淡く照らすディスプレイが目に入る。
『帰還』コマンドが実行されていることを確認し、少女はほっと息を吐く。
画面に触れ、青白い空間に浮かんだ『アルト』のステータスを表示させた。体力表示が黒猪の攻撃で真っ赤になっている。すぐに『帰還』して正解だったようだ。
うんと伸びをして、幾つものコードを繋げた席を立つ。
ディスプレイの明かりしかない暗い部屋に比べて、外は夜だが明るい。見上げれば白い月が皓々と無機質な街並みを照らしている。
首から下げたペンダントが、その光を反射して窓ガラスをちらちらと光らせる。
しばらくそれを眺めてから画面の前へ戻った。
幾つか開いたウィンドウの中、見れば体力が半分ほど回復している。アルトは何もしていないから、誰かがアイテムを使ってくれたということだろう。使用者を見ると『ノイン』の名があった。
パーティチャットのウィンドウを呼び出し、ごめん、しくじった、と入力し、続けてゴメンとありがとうのスタンプを送信する。すぐに二人から、気にしないで、のスタンプが送られてきた。
スタンプの飛び交う画面を見て少し笑い、おやすみ、のスタンプを送ってからアルトはホーム画面へ戻る。
木漏れ日差し込む森、巨大な遺跡、人々の行き交う市場、遥かな山脈、広大な砂漠。
次々と浮かんでは消える景色の中央に表示された、流麗な飾り文字。
『アトモスぺラ』。
それが、『アルト』たちがいたゲームの名だ。