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クロエはアビゲイルに淑女としての教育を習っていた。
礼儀作法や言葉遣い、歩き方や動き方。
そして一般常識など…。
幼い頃から使用人として働いていたクロエには知らないことばかりだった。
こんな事までしなくてもいいと恐縮するクロエだったが、
「この屋敷で過ごしていたのですから、クロエ様が外に出て何もできなければマルティネス公爵家が馬鹿にされてしまいます」
そう言われてしまえば素直に従うしかない。
背筋もすっと伸び、踵のある靴を穿いても転ばなくなった頃、アビゲイルは満面の笑みでクロエに伝える。
「次はダンスの練習をしましょう」
「え…?でも、ダンスって使用人には必要ないですよね…?」
「クロエ様、言葉遣い」
「あ…、ごめんなさい…」
アビゲイルは厳しい教官だった。
「とにかく、ダンスは淑女に必要なものです。オルフェウス様に相手をお願いしましょう」
「お忙しいオルフェウス様にそんな事を頼めないわ…」
大丈夫だと背中を押され、クロエは怖ず怖ずとオルフェウスのいる執務室へ向かった。
「どうした?」
「あ、あの…。今アビゲイルにダンスを習っているんです。一緒に練習をしていただけないでしょうか…?」
「………」
何も答えないオルフェウスにバツが悪くなってクロエは謝る。
「お忙しいのに申し訳ございません…。トーマスに頼むので大丈夫です」
この場から離れたいクロエは踵を返してアビゲイルの元に戻ろうとしたのだが、後ろからオルフェウスの声が追ってきた。
「明日なら!今日は無理だが明日からは時間を作ろう」
「ありがとうございます!楽しみにしていますね!」
一人で戻って来たクロエを複雑な気持ちで見ていたアビゲイルだったが、明日からオルフェウスが来ると聞いて喜んでいた。
「明日の為に少しでも覚えましょう」
「はい!よろしくお願いします!」
言葉遣いが元に戻っているクロエだったが、アビゲイルは何も言わずに男性パートを踊ってクロエにダンス初歩を教える。
翌日、練習の場に訪れたオルフェウスはマントを羽織っていなかったが、代わりに顔全体を覆う仮面を被っていた。
クロエに顔を見られたくないのだろう。
昨日の練習の成果か、オルフェウスの足を踏むことなく無事に踊ることのできたクロエ。
始めたばかりのクロエでもわかるほど、オルフェウスのリードは上手だった。
それから毎日二人で練習をして、アビゲイルからようやく合格が貰えた。
「一度ドレスを着て踊ってみましょう」
「それは良い案ですね」
オルフェウスが止める間もなく何処からか現れたトーマスに押し切られ、二人は着飾って踊ることになってしまう。
「今から準備を始めないと間に合わないですね」
混乱するクロエはアビゲイルに連れられて、湯浴みにマッサージ、着替えに化粧にと何時間もかけて磨き上げられる。
「オルフェウス様、クロエ様は初めてですからね。しっかりとリードしてあげてくださいね」
「な、何を言っているんだ!」
動揺するオルフェウスにトーマスは含み笑いで答える。
「何って…。クロエ様は初めてドレスを着て踊るのです。動きにくいところもあるでしょうし、楽しんで踊れるようにリードをするのが紳士の務めでございます」
「あ、あぁ。ドレスがな…」
その後は仕事に集中できず、オルフェウスは湯浴みをさっと済ませてタキシードを着る。髪を整えて仮面を被り、ダンスホールでクロエを待った。
ドキドキしながら待っていると、扉が開いてクロエが入ってくる。
オルフェウスは時が止まったような気がした。
「アビゲイルが着せてくれたのですが…、似合っていますか?」
少し俯いて自分を見上げるクロエに見惚れてしまい、オルフェウスは言葉がつまる。
「あ、あぁ」
それしか言えなかった。
( もっと気の利いた言葉を言って欲しかったんですけどね… )
トーマスは不甲斐ないオルフェウスにため息を吐き、音楽を流した。
差し出された手を取りクロエはオルフェウスとホールの中央に歩いていき、踊り始める。あんなに緊張していたのが嘘のように楽しくて、何度も二人で踊った。
一区切り付いて、二人はバルコニーに出た。
夢中で踊り火照った身体を心地よい風が冷やしてくれる。
「ありがとうございます。こんなに楽しく踊れるのはオルフェウス様のお陰です」
「いや、私も楽しく思っているよ」
クロエはオルフェウスをじっと見つめた。
「その仮面を取って頂けませんか?」
「それは…」
クロエをエスコートしていたオルフェウスの腕が離れる。
「素顔のオルフェウス様と踊ってみたいのです」
自分を見つめるクロエの眼差しにオルフェウスは困惑した。
もしクロエに叫ばれたら?
また怯えた顔をされたら?
自分は立ち直れるだろうか…。
仮面を抑えるオルフェウスの手にクロエの手が重なる。
「ごめんなさい。無理に取らなくても良いのです」
クロエはそう言ったのだが、オルフェウスはそっと仮面を外した。
キョロキョロと視線が彷徨い意を決してクロエを見ると、怯えた表情も嫌悪する雰囲気も感じられない。
「触っても…?」
頷いたオルフェウスの顔にクロエの手が触れると、オルフェウスの身体がビクッと強ばる。
「痛いのですか…?」
「いや、大丈夫だ」
自分の頬を優しく撫でるクロエにオルフェウスは尋ねる。
「気味が悪いと思わないのか?呪いが移るかもしれないと怖くないのか?」
クロエは追い出された時のことを思い出した。
そして、それ以前のことも。
「いえ、怖くなんてありません。オルフェウス様が優しい方だと知っていますから…」
「そうか…」
この日からオルフェウスは顔を隠さなくなった。
臆病な自分も、醜い自分も、クロエは受け入れてくれる。
クロエは毎日オルフェウスの顔を優しく撫で、オルフェウスを傷付ける呪いが無くなれば良いのにと願っていた。