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ドンドンドンドン
「早く朝食の支度をしなさい!」
けたたましい音で目が覚めたクロエが目を擦りながら起き上がると、再び壁を叩く音がした。力が強いのか、パラパラと上から埃や木屑が降ってくる。
「返事をしなさい!」
耳を劈くような声にうんざりしながら「今行きます」
クロエが声を張って答えると、相手は満足したのか遠ざかる足音が聞こえた。
天井からぶら下がっている薄汚れた紐を引っ張って明かりを付け、まだ覚醒していない体を無理やり動かして側に置いてある服に着替える。
ドンドンドンドン
「遅い!いつまでかかってるの!」
小さなドアを潜ってクロエが外に出ると、鬼の形相をした女中のマチルダが仁王立ちしている。
「急いで旦那様たちの朝食を作りなさい!」
まったく…、時間に遅れて叱られるのは私なのよ?
ぶつくさ言いながらマチルダは厨房とは逆の方向に歩いていった。
まるで太鼓を叩くような大きな音で起こされて、マチルダに小言を言われる。
これがクロエの一日の始まりだった。
クロエは自分の背丈よりも低い扉を閉めて、急いで厨房に向かった。
「おいおい、なに呑気に歩いてるんだよ。早く朝食の準備をしろよ」
マチルダのように怒鳴ったりはしないが、その口調から苛立っているのが目に取れる。
料理長のダンテはクロエを急かした。
手際良く朝食を作るクロエを横目で見ながら、丸椅子に腰掛けて新聞を読むダンテ。
( 美味しくなりますように )
クロエは習慣になってしまった言葉を頭の中で唱えながら、野菜のスープに生クリームたっぷりのオムレツを作り、焼いたベーコンを温めたパンに乗せていく。
出来上がった朝食を確認したダンテは、それを食堂に運んでいった。
クロエが余ったクズ野菜の残るスープを食べていると、マチルダが呼びに来る。
「いつまでも食べていないで、早く次の仕事をしなさい!」
「かしこまりました」
食器を洗ったクロエは、屋敷の主人とその家族の部屋の掃除、窓拭き、庭の落ち葉掃き…。
次から次へと場所を移動して、屋敷中のありとあらゆる場所を綺麗にしていく。
( 綺麗になりますように )
これも幼い頃からの習慣で、クロエは頭の中でそう唱えながら掃除をしていた。
夕方になると再び厨房に入って夕食の支度をして、ダンテがそれを運んでいく。
それから肉の切れ端や形の崩れた野菜を食べて、最後に厨房と食堂の掃除をしてからようやくクロエの一日が終わる。
「明日は早く起きなさいよ」
マチルダに念を押されて、クロエは自分の部屋へと戻った。
階段下の小さな物置き。
布団一枚を敷いて、脇には小さな本棚と数枚の使用人の服が置かれている。
小柄なクロエがなんとか体を伸ばして寝られるような、そんな小さな場所がクロエの部屋だった。
クロエはガルシア男爵家の庶子として育てられた。
現男爵家当主のカイロスが若かりし頃、使用人に手を出して生まれたらしい。
というのも、幼い頃の記憶はあまり無く、母親が誰なのかも覚えていない。
物心付いた時からマチルダやダンテから仕事を教わって、朝から晩まで働いている。
初めの頃は優しく教えてくれていた二人だったが段々と厳しく接するようになり、気付けば全ての仕事をクロエが請け負うようになっていた。
そんなある日、カイロスがクロエを呼び出した。
「旦那様、お呼びでしょうか?」
親子なのに『父』と呼ぶことを許されていないクロエ。
若い頃はそれなりに人気のあったカイロスだが、今は見るに堪えない姿に激変してしまった。いつまでも着ているサイズの合わないシャツが、お腹ではち切れそうに悲鳴をあげている。
「喜べ。お前の嫁ぎ先が決まったぞ」
相手は不気味な屋敷に住んでいる気味の悪いマルティネス公爵家の年若い当主。
公爵家の血を引く者は爛れた顔をしており、嫁いだ者も含めて皆若くして亡くなってしまうという。
人々は呪いだの祟りだのと言って、誰も近づく者はいなかった。
「まぁ、公爵家だなんて羨ましいわね」
嫌味ったらしく笑う男爵夫人のヘラ。
どれだけ食べても太らないことが自慢のヘラは細身で若い頃からの体型を維持しているが、性格の悪さが滲み出る表情をしている。
「穀潰しが貴族家に嫁げるだけでも感謝して欲しいよね。まったく、こんなのが血の繋がった姉だなんて本当に嫌だよ」
忌々しい物でも見るかのようにクロエを見下す嫡子のアドニス。
両親の嫌なところを受け継いでしまったのか、憎たらしい顔つきに丸々としたお腹。指までもがパンパンに膨らんでいる。
カイロスはクロエを睨みつけて告げる。
「とにかく、お前でも我がガルシア男爵家の役に立つ時が来たんだ。ここまで育ててやった恩に報いるべきだろう?明日の朝、お前のために馬車を借りてやった。時間に遅れる事のないように」
「かしこまりました」
可愛げのないクロエの態度は癪に障るが、公爵家に嫁げば支度金がたんまりと手に入る。
捨てずに残しておいて良かったと浮かれるカイロスは仕事に戻るように指示してクロエを部屋から追い出した。
持っていく私物も持たされる荷物も無いクロエは、その翌日におんぼろの借り馬車に揺られて公爵家へと向かうのだった。