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その五





 家族は十時前には三人ともワゴンRへ乗り込んで、遊園地へと向かった。車内では最初ビートルズの「ヘイ・ジュード」が流れていたが、晋輔の希望でSMAPのCDと変えた。晋輔は後部座席で窓を半分ほど開け、ドライブ中ずっと歌を歌い続けている。

 たいしたもんだ。このまま無事に成長したら大物歌手にだって、何にだってなれる。きっと、何にだって、望むものに。

 そのためになら俺はどんなことだって・・・

 実際本気の構えだった。

 一生を賭してやる仕事だ。

「ねぇ一番速いのはどれ?一番スリルがあって速いやつだよ!」

 遊園地に着くなり晋輔は二人の手を馬みたいにぐいぐい引いて、忙しくはしゃぎまわった。晋太郎と里菜は苦笑いを浮かべながら晋輔をなだめた。ジェットコースターに三回連続で乗った頃には晋輔は、ゆっくりしたのに乗りたい、と言うようになっていた(里菜は一回目以降の旅をパスした)。

 それから遊園地の中に設置されたパラソルの下で早めの昼食をとった。晋輔が勢いよく卵焼きやおにぎりを頬張るのを、晋太郎はジンジャーエールを飲みながらたっぷり眺めた。食事のあと三人はボートに乗って水の中を突き進む乗り物や、手元のレバーを引くと上下する飛行機の乗り物、観覧車へも乗った。

「どうしてこんなにゆっくりなの?」観覧車が最も高いところへ達した辺りで、晋輔は静かに言った。

「靴を脱いで座席へ上がったら、ほら、外を覗いてみな」晋太郎は答えた。

 晋輔は乗り出して下を見ると、目を見開いて座席横のバーをきつく握った。人や木々がレゴブロックの人形のように小さく見える。

「ここが遊園地の中で一番高いところだ。多分九十か百メートルくらいはあるんじゃないかな。ほら顔を上げて遠くを見て。あっちの方角に家があるんだ。太陽も同じ方角から昇ってくる。向こうの方の街がだな、見て、空とくっついて見えるだろう?地球が丸いってことの証明だよ。観覧車がゆっくりなのは、こうやって景色をのんびりと眺めるためさ」

「もし速かったら何も見れないものね。すぐに終わっちゃう」里菜が挟んだ。

「あぁ、そういうこと」晋太郎は同意した。

「僕はもう少しスリルがあった方がいいな」晋輔は未だバーを握りしめたまま遠くを見ている。「でも景色は綺麗だね」

「私は好きよ」

 晋太郎はうなずいた。それから晋輔の隣ににじり寄って、晋輔の肩を掴むと同じように遠くを眺めた。遠くが白んでいて世界に順番に夜がやってくると、そう考えると何だか変な気持ちになった。

 里菜と晋輔はメリーゴーラウンドに乗った。晋太郎は乗らなかった。さも幸せな家族の群像のように、二人が乗るのを周りを囲む鉄柵に寄りかかりながら見守った。晋輔は緑色の鞍の少し黄ばんだ毛色をした馬を選んだ。里菜はすぐ後ろの馬を選んだ。馬たちの目は異様なほどにリアルに出来ていて、競走馬のように血走って見える。回転木馬はゆったりと優雅に、オルゴールの音色に乗せて走った。

 笑う二人に手を振り、二人はまた去っていく。ふいにこの二人に形容しがたい思いが込み上げてきた。熱くてとても澄んだ、この二人に対する愛情が込み上げてきて晋太郎を包み込み・・・次いで二人が死んでしまったもう一つの現実が浮かんだ。

 名を付けがたい恐怖が晋太郎に覆い被さる。鈍い、トタン板を無理矢理引っぺがしたような鉄の音が頭の中を駆け巡った。瞼が痙攣を起こし、意識の中に恐怖が水溜まりのように溜まって反射しているように思われた。

 数歩後じさりした彼は周りを見渡すと、一目散にトイレへ駆け込んだ。蛇口の水を目一杯出して顔を勢いよく洗う。喉の奥に絡んだタンを吐き出して、長い間一度も呼吸をしていなかったかのように思い切り息を吸い込んだ。顔を上げて晋太郎は青ざめた。鏡を覗き込むとそこには自分が映っているのだ。しかしそれは活力みなぎる自分ではなく、病室のベッドで廃人と化し、死をただひたすらに待つ自分だった。白い髪は乱れて、痩せこけ、頬にあてた指先の爪は黄ばんでひび割れている。

 反射的に恐怖の悲鳴を上げて体をびくんと強ばらせた晋太郎は、酸素をなくしつつある自分の肺に、どうにか酸素を流し入れようと必死だった。はっと気配を感じて振り返ると、そこに鏡の中の自分が立っていた(後々に晋太郎は考えたが、こうして自分自身に出会うというのは、過去のビデオテープを引っ張り出してきて見たとき、テレビの中の自分と予期せぬ所で目があって、ニヤリと笑われるのに似ているのではないだろうか)。

 晋太郎は絶叫しながら振り払った。その声は怒りから来たもので、晋太郎は自分を睨みつけると、その姿に突進した。しかし晋太郎は雲に突っ込むかのようにすり抜けて、態勢を崩し、トイレの壁に激突するとその場に倒れた。右肩が痺れ、足が疼く。もう一人の自分はゆっくりと近づいてきて目の前で座り込んだ。そして彼の眼の中を覗くと、無表情のまま、両手でシャツの襟を掴んだ。

「人はみな後悔することを恐れる」男は言った。

 晋太郎は身を捩りながら首を振った。男の手をふりほどこうとしたが、恐ろしいほどの力が加わっていてほどくことが出来ない。しかも男の手は氷のように冷たかった。氷に皮膚を被せただけのような・・・もしくは、まるで、そう、死人のようだ。

「何が悪い・・・」晋太郎は絞り出すようにして言った。

 だが男は何も言わず、感情のない顔で見ている。

「公平じゃない」晋太郎は声を荒げた。「二人は、里菜も晋輔も何も悪くなかったんだ。あの二人は死ぬ理由なんてなかった。俺は二人を愛しているんだ。その二人が今、生き返って、あんなに幸せそうに笑っているのに、それが続くことを望んで何が悪い」

 彼は今や泣き出していた。顔をクシャクシャに歪め、肩を震わせて泣いた。

「人はみな後悔することを恐れる」男は全く同じ調子で同じことを言った。

「頼むから、家族を連れ去らないでくれ、俺は死ぬまでの全て・・・一切を・・・二人に、二人に捧げる、きっと。だから、二人にどうか幸せな人生を、あんなに短いものじゃなくて・・・どうか・・・神様・・・」

 声がトイレの中に響いていた。涙と嗚咽で聞き取ることさえ困難な叫びを上げて晋太郎は泣いて懇願した。唐突に二人の笑顔が頭の中に浮かんで、春の風のように突き抜けた。すると目の前の男は突然消えていなくなった。晋太郎はうな垂れて膝の間に頭を落とした。そして視線を足下に落ち着かせ、次第に正常になるまで、しばらくそこに座っていた。

 トイレから戻ると、二人はメリーゴーランドの横のベンチに座っていた。晋輔が声を上げて父親を指さし、里菜は心配そうな顔をしながら、晋太郎に駆けよった。平静を装いながら、晋太郎は里奈の目が潤んでいることをいち早く察知した。優しく肩を抱いて謝ると、肩をさすりながら晋輔のいるベンチへ戻った。

「どこに行ってたのさ」晋輔は見上げて言った。手にしたソフトクリームが溶けかかっていて、表面を滴が光りながら流れている。

「ごめんごめん、急に腹が痛くなってな、トイレに走っていったんだ」晋太郎は息子の頭をクシャクシャに撫でた。「早く食べないと、それ、溶けてしまうぞ」

「うん」晋輔は笑顔でそう言い、ソフトクリームを食べた。晋太郎も一口食べ、里菜も一口食べた。

 ベンチに二人を座らせて、晋太郎はその前にひざまずいた。まるで罪人が神に懺悔するように。二人はきょとんとした顔で晋太郎を見つめ、彼は一拍おいたあと、顔を上げてその目を見つめた。

「よく聞いて欲しい」晋太郎は始めた。彼は思ったのだ。これまでもう一つの時間の中で彼がしてきたことを洗い清めることが出来るのではないか、と。およそもっとよい方法があるのかも知れないが、彼にとっては精一杯の懺悔と決意の方法だったのだ。「可笑しいと思うかも知れないし、本気にはしないかも知れない。何しろこれは俺が体験してきたことだから、きっと、二人には辛いことかも知れない。だから・・・」

「えぇ、いいわ、話して」里菜は晋太郎の手を取って言った。「大丈夫だから」

 晋太郎は里菜にうなずくと、息子の目を見た。少しだけ怯えているが強い目だった。それを見て彼は安心した。

「もう一つ、今とは違う未来があった。時間があった。その世界では・・・二人は、死んでいる。もう二十二年も前のことだ。トラックとの・・・その、交通事故で、今日、この日に死んだんだ」

 視線を落とした。二人の顔が正面から見られなかったからだ。だがしかし、彼は持ち直して話を続けることが出来た。里菜が晋太郎の手を強く握ってくれたからだ。晋輔も手を取って強く握りしめた。

「二人は死んだ。その記憶は俺の中に鮮明に残っている。忘れることなんて出来ないし、どれだけ昔のことだとしても、過去を忘れるなんて無意味だ。お前たちは、俺のせいで死んでしまったんだ。俺が殺したも同然なんだ。ずっと謝りたいと思っていた」晋太郎はすっと涙を流して震えながら言った。多分息子の前で涙したのはこれが初めてだろう、と慎太郎は思った。しかも最後になるだろう。

「謝る必要なんてないよ」晋輔が恐る恐る言った。眉根を下げて心配そうに父親を見ている。

「そう、謝る必要なんてないわ」里菜が続いた。「それって、多分、あなたの責任じゃあないもの。えぇ、何となくだけど、分かるわ。それに私たち死んでないのよ。こんなに元気で、今日なんてとっても楽しかったわ。そうでしょ、晋ちゃん」

 晋輔は笑顔でうなずいた。

 居ても立ってもいられず、晋太郎は二人に抱きついた。そして一際声を上げて泣いた。通り過ぎる人が幾人か、嫌悪する目で見て去っていったが、三人とも誰も何も思わなかった。

「きっと悪い夢でも見たのよ、きっと」里菜が聞き取れないほどの声で囁いた。声は遊園地内を流れる楽しい鼓笛隊の音楽に乗って、さっと空へ消えてなくなった。


「生きるっていうのが空白みたいなことにならないように、幾つもサンプルがあってそれを選んででも目標を持てたらっていう、変なやつがあったら面白いなぁ」

 何年も前に、もう一つの世界の担当看護師の田中はそう言った。毎日、晋太郎は眠る前にその言葉を思い出してから眠る。儀式やおまじない、願掛けの類に過ぎないが、そうすることで目が覚めたとき、二人を愛するという決意が漲り、自分という人間を賭けるだけの大いなる目標が持てる。

 晋太郎にとっては一日を終えて眠る前の時間、その毎日が恐怖との戦いだった。もしかしたら全てが夢で、目が覚めるとそこはまた病院のベッドの上なのかも知れない。しかし目が覚めればそこには最愛の家族、里菜と晋輔がいた。

 五十四歳で癌のために早い死を迎えるまで晋太郎は家族を想い、守り続けた。

 四十六のとき、晋輔の七歳の誕生日に飼い始めた柴犬のラインが息を引き取った。まだ十歳だったが病気だった。晋輔は「生まれ変わったらまたどこかで会おうね」と涙して、庭のプラタナスの木の下に墓を作った。

 四十九のとき、晋輔は恋人を晋太郎に紹介した。敬子という名前で、看護士を目指している二十歳の女性だった。医者を目指している晋輔は、研修中に知り合ったこと、いつかは結婚を考えていること、子供の名前を決めて欲しいということなど、ビールグラスを交わしながら嬉しそうに言った。

 五十二のとき、晋太郎は人間ドッグで早期の癌を見つけた。それを告げると里菜は悔しそうに泣いた。その後、医者の思惑とはそれて癌は体中へ転移し、肺を七割も摘出したが十分ではなかった。

 早い内に晋輔は父親の死を悟っていた。職業柄仕方のないことだった。里菜は晋太郎に、「奇跡を信じるよりも精一杯生きましょう」そう涙を浮かべて話しかけ、最後の瞬間まで看病を続けた。

 五十四歳の春、百瀬晋太郎は家族と大勢の人たちに看取られながら息を引き取った。

 少しだけ開いた窓から吹き込む風は暖かく爽やかなものだった。太陽が何よりも高く昇って、全てのものを光で照らしている。

 死の間際、見えなくなった目で家族の姿を追いかけながら晋太郎は思った。過去は必ず付きまとう亡霊だが、進むためにはそいつと付き合っていかなければならない。だが夢を見ることは消して悪いことじゃあない。その素晴らしい想像は希望へと繋がっているかも知れないし、それこそが救いなのだ。彼は叫んだ。最後まで、その瞬間まで。






     その六



 中畑敬子と間宮章子の二人が病室へ着くと、すでに医師の泉はベッドの横に立っていて、一歩下がったところに田中がいた。田中は小さな声で二人に指示を出し、章子は手早く指示された薬を用意して、敬子は点滴を変えにかかった。百瀬晋太郎は酸素マスクをしたまま動かず、目を瞑ってただただ眠っていた。まるで糸を切られた操り人形のように横たわっている。糸を切られ自由を手に入れ、死の記憶の付きまとう人生から解放されたかのように。少しだけ笑っているようにも見えた。きっといい夢を見ているのだろう。

 百瀬晋太郎はそれから命が尽きるまでの間の四日間、一度も目を開けることはなかった。だが一度も苦しんでいる様子もなかった。泉はこれ以上の延命措置が意味をなさないものだと首を振った。田中は、残念だ、と頻りに漏らしており、最後の最後まで晋太郎に話しかけていた。

 彼の五十四年間の最後は実に静かだった。亡くなったのは午後二時の一番暑い時間だったが、吹く風は涼しくて、木々はサラサラと歌った。

「やっぱりあの瞬間に立ち会っちゃったわね」トイレで髪を結い直しながら章子は言った。「でも私、今度のはそんなにひどくなかったわね。どうしてだろう」

「私もです。百瀬さんが亡くなったっていうのに不謹慎かも知れないけれど、でも百瀬さん、幸せそうだったっていうか。そう見えませんでした?」敬子は衝動的に、誰もが同じ思いをしているのだと悟った。

「私には分からないけれどね」章子はきっぱり言った。

 敬子は同意した。

「でも死ぬ間際なんだから、向こうで家族に会えたんじゃない?」

「そうだといいですね」

「それよりさ、あなた今晩どう?」章子が囁いた。「あなたも男作らないと駄目よ」

「はい・・・でも私今晩は当直なんです」敬子は答えた。

「あら、そうなの、残念ね」章子は弱い調子で言った。

 その後病室のベッドのシーツを変えながら、中畑敬子は百瀬晋太郎のことを考えてみた。この部屋にもすぐにまた新しい患者さんが入る。でも少し前までは百瀬晋太郎という一人の男が生きていた。私は家族の代わりになれはしないが、孤独のままではなく、最期を見届ける一人の人間になれただろうか。また少しだけ泣きたくなったが、敬子はそれを飲み込んだ。

 不意に強い風がボーボーと音を立てて吹いた。まるで大きな梟の鳴き声のようだ。敬子は少しだけの幸せが彼にも訪れたことを祈って、病室の窓を閉めた。






「ある男の二十二年」終了です。

誰もが日々、もしもああだったらいいな、だとか、こうしたいな、など様々な願望を持って生活しています。

晋太郎にとってそれは家族と過ごす時間だったのでしょう。それが夢になって・・・いや、彼が死の間際に過ごした二十二年間、もしかしたらあちらの方が本物の時間だったのかも知れませんね。

間違って六話を削除してしまったので、五話を改正して、その下に再度六話を入れさせていただきました。読みにくくなってすいません。

感想を聞かせてもらえたら嬉しいな。

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