その四
目が覚めることを晋太郎は恐れていた。昨日のあの夢が終わってしまっていて、隣に目を移せば、またあの真白なシーツのベッドがあるのではないかと思ったのだ。覚悟はあったがそれでも恐ろしいものだった。どうして何度も家族を失う苦しみを与えられなければならないのだ?という感情があったからだ。
布団の中に手を伸ばすと隣には誰もいなかった。しかしまだ暖かかったし、布団にシャンプーの香りが残っている。晋太郎は体を起こして窓へと歩み寄り、開かれたカーテンから差し込む光に身を投じた。
「やっぱり、ここは俺の家だ」晋太郎はぽつりと言って、それから息を飲んだ。確かに自分の家だ。入院してから一度も帰っていない家。看護師の田中に頼んで家の整理などはしてもらっていたが、二人の遺影は持ってきてもらわなかった。死んだ二人を横に眠ることは、そんな勇気は持ち合わせていなかったからだ。
窓を開けてから一階へ下りていくと、リビングから香ばしくて香しい香りが漂ってきた。
「あら、今日は早いのね」
カウンターキッチンの向こう側とテーブルとを行ったり来たりしながら、里菜は料理の最中だった。晋太郎は信じられないという呆然とした顔で眺め、自失した状態で里菜の手元をじっと見ているばかりだった。そんな彼を引き戻したのは里菜の疑るような笑いと、その声だった。
「どうしたの?今日は休みでしょ?そんなところに立ったままで」里菜はそう言うと、チキンナゲットをひょいとつまんで口の中へ放り込んだ。「寝ぼけてるのね、きっと」
晋太郎は罰の悪そうな顔を横に振った。
「煙草は?吸わないの?」と里菜。
「煙草?俺が吸うのかい?」晋太郎は真剣に言った。
里菜は手を止め、一体何を言ってるの?と言わんばかりの目を晋太郎に向けた。それから手に持ったスプーンとマスタードソースの入ったビンをテーブルに置いて言った。「晋ちゃんが起きてくる前に外に吸いに行くのがあなたの日課でしょ?子供の前では吸わないって。それからとびっきりに濃いコーヒーを飲むんじゃないの?」
「そうだったな・・・でも煙草はもう二十年以上も前に止めたよ」少し考えて晋太郎は答えた。
「本当に?」里菜は笑いながら言った。「私の記憶が正しかったら夕べ吸いに出かけるあなたを見たけれど・・・あれはきっと夜風に当たりに出かけたのね?」
「いや、ごめん。煙草は昨日でやめだよ。もう吸わない」晋太郎は微笑んで言った。
「止められるの?」
「簡単さ・・・何度でも止めればいい」
「そうね」
言い終わって二人して声を上げて笑った。
晋太郎は平静を装ってリビングへ入ると、ソファーにどしんと腰を降ろした。それからテーブルの上の新聞を手に取り一面を広げた。表紙では、首相の電撃交代がありそうだ、という記事と、新型のウイルスが世界中に蔓延している、という記事の二つが、その覇権を争っているばかりだったが、晋太郎はそれ自体が面白かった。結局首相は替わらなかったし、新型のウイルスの話はいつの間にか聞かなくなり、気付いた頃には翌年の花粉症の季節だった。どちらももう二十年以上前の話だ。晋太郎は新聞の上で視線をウロウロさせて、あることに気がついた。日付は二十二年前の五月十七日となっている。それは忘れもしない憎むべき数字だった。愛する二人の家族が奪い去られた、その日だったのだ。
「あぁ、何てことだ・・・」晋太郎は目を見開いて口に手をあてがった。
もう一度新聞の日付を見て、それから記憶の中にある家族が死んだ記憶を思い起こしてみる。
―― 五月十七日 ――
間違いない。里菜と晋輔が死んだのは今日この日だ。
突然置き電話の横にある携帯電話が鳴り出した。里菜はどうということもなしに一瞥をくれてよこしたが、晋太郎は驚きのあまり悲鳴を上げそうになった。だが悲鳴はぎりぎりのところで飲み込んだので、聞こえてはこなかった。
「電話よ、あなたの携帯ね」里菜が声を掛ける。
しかし晋太郎は動かなかった。代わりに時計に目をやると、時間は午前六時三十分を少し回ったところを指している。「この電話は」と心の中で呟いてゆっくりと立ち上がった。それから電話へ歩み寄って手に取る。折りたたみの携帯を開くとそこには「株式会社スタック」と映し出されている。この電話の内容を知っている。派遣のスタッフが一人仕事場へ行っていなくて、代わりをよこせというものだ。晋太郎は携帯電話をゆっくりと閉じた。だがまだ鳴り続けている。もし電話に出れば自分は仕事へ向かい、そして愛する家族を再び殺してしまうことになるのだろう。
携帯電話を手にしたままソファーへ戻ると、晋太郎は電話を両手で包んで、両膝の間に頭を落としながら祈った。今や呼吸が荒くなっていて、発作が始まってもおかしくはなさそうだった。体中が暑くなり汗が噴き出した。脳が心臓に取って代わったように頭の中で鼓動が聞こえだし、ふと音が遠のいた。このまま意識を失ってしまえば一体どれだけ楽になれるだろうか、と考えたが、意識は逆にはっきりとしている。
誰もがヘロインという薬を知っていると思う。言わずもがな麻薬の一つで、静脈に打てば究極の快感であるラッシュがやってくる。人間の経験しうる全ての快感の中で勝るものはなく、最高の状態なのだという。全身から射精をするようなその快感は、約束された安堵などとも呼ばれる。その麻薬と治療に使われる鎮痛剤モルヒネが、原料を辿れば同じものだと知っているだろうか。晋太郎はそのモルヒネを、体中を走る疼痛を防ぐために長い間投与し続けてきた。打てば体の痛みは取れ、楽になり、苦しみから解放される。
晋太郎は今まさに苦しみが絶頂に達しようとしていることを理解していた。しかしモルヒネで逃げようなどとは思わなかった。モルヒネはギリシア神話の夢の神様モルペウスがその由来だが、夢の中へ逃げ混んでしまおうとは思わなかった。
いや・・・今置かれている奇妙な現実こそが夢なのかも知れない。電話に出てはいけない、出てはいけない、出てはいけない、出ては・・・(これは夢なんだ・・・言葉が、全てが現実じみてる。だからこそ、もしかしたらそうなのかも。だが、もしも夢ならわざわざ目覚める必要などないではないか。目が覚めて、窓から逃げだそうとしている二人の死の記憶を捕まえているよりも、夢の中の方がずっといい。二人を死なせた原因は自分であると胸に刻んだのだ。その二人をもう一度救えるのであれば、その機会があるのならこのままでもきっといいはずだ)
しばらくすると気分がゆっくりと治まってきた。呼吸が正常に戻り、鳴り続けていた電話が鳴りやむ。晋太郎は里菜を見上げた。里菜は驚いたように晋太郎を見ていたが、すぐにほっとして肩の力を抜いた。里菜の耳元で星形の小さなピアスが光っていた。
「仕事の電話じゃなかったの?」と里菜。
「いや・・・いいんだ」晋太郎は伏し目がちに言った。「それよりも今日はみんなで遊園地に行く日じゃあなかったっけ?」
「えぇそうよ。晋ちゃんは楽しみにしててね、昨日は十一時まで起きてたんだから」里菜は嬉しそうに言った。「寝れないんだって」
新聞の上に携帯電話を置いて里菜のいるキッチンへ二・三歩近づきながら、そこでテレビの隣に置いてある、水をやらなくても二・三年は枯れないという花が目に入った。薄いピンクと水色をしたラムネ菓子のような花は向こうの世界ではもう枯れてしまったやつだ。
里菜がコーヒーを手早く入れ、差し出すようにテーブルの端へ置いた。深くて香ばしい香りが立ち上り、表面が幾らか揺れている。
「あなた?」里奈の声は少し笑っている。「仕事を置いておくなんて、どうしちゃったの?」
「どうしてって、当然のことだよ。晋輔との約束が優先だ」
「そうね」
「二ヶ月も待たせたんだ」晋太郎はミニトマトを一つ食べた。甘くて美味しかった。
香りだけを吸い込みながらカップを口に付けると、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。里菜は隣でサラダとドレッシングとを器用に混ぜている。晋太郎はぐるりとテーブル上の料理に目を走らせ、豪華だ、と言った。
時計が七時を回ると、晋太郎は最早この現状に疑問すら持っていない気分でテレビを見ていた。十年も前に終わった朝のニュース番組には今は亡きキャスターや、不倫騒動などで消えてしまった女子アナも映っている。それに何年か前に自殺した芸能人がこれでもかと言わんばかりの笑顔で笑っているのを見ると、妙な気分になると同時に笑い出したい滑稽なものに見えた(その笑顔がB級映画や三文芝居で見られるようなブラックジョークでしかないのだ)。
里菜は料理をあらかた終えて片付けにかかっていた。しきりに時間を気にしている様子だったが、まだ余裕があるのか何やら歌を歌っている。
リビングのドアが音を立てて開いたとき、晋太郎はソファーにたっぷりともたれてくつろいでいた。開いたドアへ顔を向ける際、途中で時計を見ると、七時五分ちょうどを確認する。そして晋太郎はドアから現れたものを見て、背筋がピンと伸び、足の先から何かが這い登ってきて、それが熱を帯びたものとなって顔中から吹き出すような感覚に襲われた。上手く言葉が出なかった。
ドアの向こうから現れたのは、鼠色で腹にブルドッグの刺繍の入ったパジャマを着た晋輔だった。少し茶けた髪はうねっていて、頭の先にピンと寝癖を立てている少年は、眠たそうに目を半分だけ開いて、片手はドアを、もう片方は力なくだらんと下げている。
寝起きの少年はリビングを見渡し、キッチンの方から香ってくる料理のにおいに鼻をくんくんとくゆらせたあと、ドアを閉めた。晋輔はまだ眠たそうに欠伸をして見せたが、ソファーにいる父親の姿を見ると、その目を全開にして見開き、足早に父親にしがみついた。夢の中にいた晋輔は父親の姿を見ることで現実に戻り、同時に今日この日、待ちに待った遊園地へ行けるという事実を再確認したようであった。
「お父さん、おはよう」晋輔は言った。
自分の体をよじ登るようにして目を輝かせる晋輔を前に、中々次の言葉が出てこない。それよりも晋輔のことをもっと見ていたかった。晋太郎は晋輔を抱き上げると膝の上へ座らせて顔を覗き込み、それから震える声で言った。
「もっと顔を見せてくれ、キャプテン。クルーにその顔を」
晋輔は怪訝そうな目で父親を見やった。それから脱出するように父親から逃れると、前に立ち、まだ袖口を掴んで離さない父親に向かって言った。
「ネモ船長の話はこの間終わったよ。今日は遊園地に行くんだ。そうでしょ?」
「あぁ、そうだ」晋太郎は言った。
晋太郎は晋輔を側へ寄せて両手で顔を捕まえると、その目や鼻、口、眉毛、顎、至るところをまじまじと見た。晋輔は勘弁した様子でされるがままになって体を左右に振っていた。
「何、あなた息子の顔を忘れちゃったみたいね」キッチンからやって来た里菜は言った。
「そんなことはないさ」晋太郎は首を振った。「忘れたくないよ。一番近くで見ててやる」
やめてよ、と言いかけて晋輔は口を閉じた。
「二人とも先に顔を洗ってきてね。それから服を着替えちゃってね」
晋太郎と晋輔は一度顔を見合わせると、競争をするように洗面所へと急いだ。晋輔は小さな子供特有の甲高い声を上げて喜び、晋太郎は追いかけるようにして笑った。
服を着替えるときにはパジャマを丸め、バスケのシュートをするように脱衣カゴに放り込んだ。晋輔も同じようにして、三回目にしてようやく入った。二人して並んで歯を磨いたときには、どちらが先に終わるかで短い議論があったが、磨きはじめは晋輔の方が早かったという理由で晋太郎は先を譲った。二人ともトーストに目玉焼きを乗せて食べた。同じ量の砂糖を入れて紅茶を飲んだ。遙か昔の懐かしい全てのことが、どれも新鮮に思える。遠い昔に忘れてしまったことを、晋太郎は人生で今初めてやっているのだった。
ふと自分の顔がにやついていることに気がついたが、晋太郎はその顔を隠さないことにした。
「何?どうしたの?笑っちゃって」ティーカップを口に付けながらりながら問いかけた。
「いや、どうもしないさ」晋太郎は答えた。
その様子を、晋輔はソファーに座り、普段はテレビの横に飾ってあるフェラーリのミニカーをいじくりながら見ている。父親を囲む空気を見ながらにやにや笑いを送りつけている。晋太郎が視線に気づいて息子を見ると、晋輔は、とっても楽しいんだね、と笑った。
食後に談笑している妻と息子をのこして車を準備しようと外へ出ると、向かいの家の奥さんがにこやかな会釈をよこした。奥さんは玄関の掃き掃除をしていて、全て一まとめにされた長い髪が色っぽく肩にかかっている。
三軒向こうの佐藤家のおじいさんが外へ出ていて、自分の家を見上げて何やらぶつぶつと言っている。右手の指で組んだ左手をトントンと叩き、少しイライラした様子で自分の家を睨みつけている。
道路を年代物のホンダ・シビックが走っていった。朱色の古いシビックには不釣り合いなほど若い男が乗っていて、晋太郎のことを、まるで女性が男性を値踏みするかのような油断ならない目で見ていった。シビックは次のカーブで止まると、ゆっくり左折して消えた。
こういうのは絵になるな、と思いながら晋太郎はガレージに入った。晋太郎はワゴンRに手を添えながら、もう少し大きな車だったら二人は死ななかったかも知れない、と思った。そして自分の残酷な妄想に嫌悪する。自分の口から傷ついたようなため息が漏れたことに驚いて、口をつぐんだ。
道路の向こう側では向かいの奥さんがようやく掃除を終えて中へ入っていくところだった。佐藤老人の元へはその奥さんが参戦しており、今や佐藤夫妻となった二人は難しい表情を浮かべながらそろって家を見上げている。さては何か悪戯されたんだな、と晋太郎は考えたが、後にそれは間違っていると知った。二回の屋根の縁の下に鳥が巣を作っていたらしいのだ。奥さんはそれが屋根を汚すからという理由で旦那にすぐ壊すよう迫っていて、その巣は二日後に撤去された。
雲は少し出ていたが雨が降るような心配は感じられなかった。時折強い風が吹いて、何かをなじるようにウーウーと喚いた。晋太郎が家へ入ったときには里菜は出来上がった弁当を包んでいて、傍らで覗き込んでいる晋輔の頭を撫でていた。
「車、どこか悪いの?」里菜は言った。
「いや大丈夫」晋太郎はさらっと答えた。「ガソリンも満タンさ」
「私お化粧するわね」
「あぁ、晋輔と遊びながら待ってるよ」
里菜が去るのを確認すると、晋輔は父親の元へ這い寄り、聞き取れないほどの小さな声で言った。「ねぇ早く行かない?」
晋太郎はテーブルの上のお茶を一口飲んでから、しゃがんで晋輔の目をまじまじと見た。その目は興奮と期待がにじみ出ていて、見間違いでなければキラキラと雪の結晶のように輝いていた。晋太郎は晋輔を抱き上げて「早く行こうな、すぐにでも」と言った。