その三
百瀬晋太郎は目を覚まし、驚いたように跳ね起きた。フルマラソンを走ったみたいに呼吸が乱れて、暑くて死んでしまいそうだ。額に触れるとじっとりと汗が手を濡らし、体には鳥肌が立った。ここはどこだ?百瀬晋太郎は疑心暗鬼な目で周りを見渡した。濃い群青色の闇に遠い記憶の中、見覚えのある風景が浮かんでいる。闇の中に様々なものが白い線で見えてくる。
どうして?
晋太郎は何が何だか分からなかった。
あぁ、悪い夢を見ている。
ここは俺の家だ。だがしかし、俺は病院にいたはずなのに?体なんてろくに動かせなかったし、それに俺の癌は治る見込みなんてなかったじゃないか。癌で倒れてからの一年間、一度も病院を出られなかったではないか。
晋太郎は暗がりの中に誰かが眠っているのを察知して、身構えた。おぼろげな人影を一人分、確かにそこに感じる。そして晋太郎は気がついた。顔を布団の中に埋めながら眠る、そんな癖を持つ人間を知っている。晋太郎はそっと布団をめくった。暗がりの中でもよく分かる。自信が愛した人、守れなかった人、会いたかった人、何年も前に死んだ妻の里菜だった。
だがふいに悪い妄想がよぎった。本当に里菜なのか?里菜は交通事故で死んだ。もう何年も前の話だ。最近では最愛の人の顔を忘れてしまわないかと恐ろしく思ったものだ(いや、忘れてなるものか)。では隣で寝ているのは誰だ?
突然妻が飛び起き、ピエロの人形みたいに自分に笑いかけてくるイメージが浮かんだ。顔は交通事故で半分が吹き飛んでいて口の端から口紅よりももっと赤い血が流れ出している。手足は折れ曲がり、晋太郎に体を預けるようにしてもたれ掛かると、上目遣いで言うのだ。
「あなたのせいじゃないのよ、私たちはマネキンみたいに吹き飛んで死んじゃったけれどね、ふふふっ」
その恐ろしさに晋太郎は眠る妻を見られずにいた。顔は青ざめて、下が喉へと張り付き、ギラギラした自分への憎悪が込み上げてくる。しかし震える晋太郎の耳に妻の安らかな吐息が聞こえてきた。晋太郎は目を見開いて妻に目をやる。眠る里菜は体をむず痒そうに捩って、少しだけ動くと、また同じように安らかな吐息を立てた。
晋太郎はもう一度汗を拭った。それから音を立てないようになるべくそっとベッドから降りると、洗面所へ行った。足取りが軽い。もうしばらくの間忘れていた感覚だ。二度と自由に歩けはしないと思っていたのに。最初はぎこちなさそうに足を引きずったが、洗面所へ着く頃には晋太郎の歩きはベテランのそれだった。
「これは驚いた」晋太郎は大声を上げないように、押し殺して言うと、洗面台に手をついて長い息を吐いた。
鏡の中の自分とにらめっこをした。体が完治しただけではない。鏡の中の自分は六・七十に見えた灰色の自分ではなく、遙かに若返っていて、そこにいるのは三十前半の、一番生きる力があった自分だった。捲り上げて腕を見ると点滴のやり過ぎで麻薬中毒者みたいになった注射針の痕がさっぱり消えてなくなっている。白髪交じりだった髪は黒々としていたし、目の下の中華料理の取り皿みたいなクマもなかった。晋太郎は顔を洗って、水と汗とで濡れた髪を後ろへと撫でつける。
晋太郎がまだ高校生のときの話だが、同級生の女の子に告白されたことがある。そのときはクリスマスのちょうど一ヶ月前で、その女の子はいかにも今すぐ彼氏が欲しそうだった(女の子のグループでは彼氏がいることがステータスだった。ちょうど男子が何人とやったかを自慢しあったり、彼女のバストのサイズを自慢しあったりするように)。晋太郎は何も考えずオーケーして、晴れてカップルが成立した。そこで晋太郎は女の子との初めてを経験した。同級生の林秋房は、セックスは世界観を変える、と豪語していたが、晋太郎の世界は思ったよりも変わらなかった。結局それから年が明け二ヶ月ほど付き合ってみたが、最後にはお互いに興味がなくなり、自然消滅してしまった(彼女はいつの間にか新しい彼氏を作っていて、周りには自分はフリーだと言い張っていたらしい)。
そのとき同じ高校の二年後輩にいたのが妻の里菜だ。大学を卒業して就職してから知り合い、そして結婚へと至った。
今思い出せば奇妙なことだと晋太郎は考える。もしかしたら里菜は自分がその女と付き合っているとき、自分の姿を見ていたかも知れない。他の女と寝たことを自分は何とも思いもしなかったが、よくよく考えれば妻の目の前を、仲良く手を繋いでクリスマスへ向けて互いの心を最高潮に高めあおうとしていたことは奇妙なことだ。まぁそのときは妻のことは何も知らなかった。
それら一切の光景を頭の中に巡らして、晋太郎は里菜と初めて寝た女の子、それに病室のベッドにあった空のネームプレートを思い出していた。
「私たち永遠に愛し合えるよね」初めての女の子は言った。彼女は猫のような仕草で晋太郎の首に手を回している。
「まぁね」晋太郎は素っ気なく答えた。
「意地悪なこと言うね」女の子は眉を細めて言った。それから手をほどいて付け加えた。「あまり怒らせないでね」
「まぁね」晋太郎は少し微笑んで返した。
まぁいいわ、とでも言うように視線をそらした女の子は少し考えたあと、晋太郎に向き直って言った。「私たちっていつか結婚するのかな?晋ちゃんとなら私はいいよ」
晋太郎は呆れた顔をして彼女を見た。それから何も言わずに目を瞑って、狸寝入りをして過ごした。彼女の目が真剣だったからだ。どうしてあんなことが言えるのか、信じられなくて、声を出して笑いたかったのを覚えている。
「ずっとあなたを愛してるからね」
似たような台詞を里菜にも言われた。晋太郎はうなずいて彼女を抱きしめ、同じように何も言わなかった。
―― ハラハラしてるか?んっ?そこで堪えるのがコツだ ――
今置かれている現状が、不可思議なことであろうとなかろうと、鏡の中に映った男は中々どうして、イカした面をしていた。自分が若返っていることは確かだ。入院中は出来なかったことも、きっと今はできるだろう。車の運転をして遠くまで行けるだろうし、好きなものを食べられる。だがどうしてこんな状況に置かれているのかは全く分からない。それを理解するのは、ひょっとしたら無理なのかも知れない。
晋太郎は洗面所の磨りガラスの窓を見た。外が僅かに白んできており、静かな朝を告げている。もう一度辺りを見渡した。脱衣カゴの中にまだ洗濯されていない衣類が押し込まれている。そこで晋太郎はどきっとした。鼓動が早くなって、またあの苦しみの発作がやってくるのではないかと心配になった(同時にそれが来ないことも知っていた。何せ自分は若返っているのだから)。
心臓を早めた原因となったのは、脱衣カゴから垂れ下がった小さなTシャツによるものだった。胸の所にディズニー映画のトイ・ストーリーのキャラクター、バズ・ライトイヤーがプリントされた紺色のTシャツは、息子の晋輔のものだ。
「そんな、どうか・・・」晋太郎は震えながら言った。
今や自分は体が若返り、死んだ妻と息子が戻って来るという奇跡を体験している。
「夢ならば、どうか、神様・・・」
外では朝の静けさの中、小鳥たちがフルートをかき鳴らすことで、その様子を一層荘厳なものに変えていた。
現実に背いて、それが信じられるかどうか何てことは必要なことじゃない。それだけの生気と力が晋太郎には備わっていた。
晋太郎は寝室へと戻り妻の里菜の眠るベッドを、何も言わずに眺めていた。戸口に手を当てて恐ろしく長い時間そこに立ったまま見ていたような気がする。感情は不安と安堵が奇妙なバランスで入り交じったもので、濃い紺青色をしていた。晋太郎はベッドへ戻ると里菜を抱きしめて、少しだけ泣いてから、もう一度眠った。