その二
田中が去ったあと、晋太郎はいつもと変わらない様子でベッドに入っていた。最近のベッドはボタン一つでベッドが持ち上がる。何と親切なことか、と晋太郎は思う。田中は病院が出て行く場所だと言ったが、案外入りたがっている人間は多いものだ。晋太郎は体を半分起こして、田中の持ってきた小説の続きを読んだ。
「ハラハラしたことは我慢して溜めておいて・・・」
晋太郎は同じ文章を何度か目で追って、それから繰り返した。
晋太郎の家族、妻の里菜と息子の晋輔が死んだのは晋太郎が三十二歳のときで、自動車事故により二人は死んだ。もうすぐそこまで冬がやってきていて、前座の秋がステージ上で舞っているのを、舞台袖で主役の冬が眺めている、季節はそんな感じだった。風は冷たくなり日も短くなったそんな日のことで、二人の乗る軽自動車がトラックと正面衝突して二人は即死した、とそう聞いたとき、晋太郎は最初何も考えられなく立ちつくした。そして次に気持ちが悪くなった。警察からの連絡だったが、何を言われたのか理解しようとすると胸が気持ち悪くなって吐き出してしまったのだ。何故警察なんだ?病院ではなく・・・つまり、死んだ。家族が死んで初めて泣いたのは、葬式から一週間経って、息子のサッカーボールを蹴ったときだった。
夜になっても晋太郎はベッドから動かなかった。だが女性の看護師が夕食を丁寧に運び込むと、晋太郎はそれをしっかりと食べた。どうしてかは分からないが全て食べた。白米にイカの照り焼き、みそ汁、里芋とゴボウと人参の煮物、野菜サラダ。煮物の味付けが里菜の味付けと似ていたのかもしれない。いや、そうではなかったのかも知れない。
雲が出ていて少し肌寒い夜だった。どこか、すぐ側で烏が鳴いているが、別段奇妙ではなかった。それよりも街灯が柔らかく当たりを照らしているのが奇妙に思えた。夜の闇の中に色々な色が溶け合って見える。抽象画の巨匠パウル・クレーはバッハやモーツァルトを尊敬し、クラシック音楽を色彩に変換して表したらしいが、ならば逆にこの入り交じった夜の色もまた、何らかの感情を意味しているのだろう。沈んだ感情を沈没船のように浮上させるにはとてもいい夜だ。
消灯後も座ったままで晋太郎は昔のことを思い起こした。
「僕はいいんだ、さぁお父さん、頑張ってね」
耳にした最後の息子の言葉だ。息子とハイタッチをし、そして玄関口で優しい笑みで手を振る妻の姿が最後の家族の姿だった。自分が家族に向けてそのとき何と言ったのかは覚えていない。
その日、突然の仕事が入った。短期派遣の斡旋会社で働いていた晋太郎は朝早くから電話を受けて飛び起きた。聞くところによると、派遣していたスタッフが職場に行っていないのだとか。派遣先の主任は怒り狂っていて「今すぐに新しいスタッフをよこせ」と「今回の依頼料は払わない」の二言しか言わない。晋太郎はすぐに仕事を休んだスタッフに電話を掛けたが相手は出るはずもなく、代わりも見つからなかった。こういうときには担当者が代わりに行かなければならないのが会社の決まりだったので晋太郎は行くことにしたのだ。スーツに着替えるまで、その日息子と遊園地に行くことを忘れていた。洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、あっ、と晋太郎は声を漏らしたが、結局は晋太郎は仕事へ行った。どんな形であれ、それは家族のためなのだ。そう言い聞かせた。
主任に頭を下げた後、スーツのままで仕事に入った。汗だくになりながらも冷蔵庫の部品の仕分けをした。
「本当は晋輔と遊園地に行くつもりだったのにな、すまん、晋輔」呟きながら部品に向かって謝ると、大きく息を吐いた。
事故の連絡が入ったのは昼過ぎのことだ。朝の仕事が終わってスタッフが休憩に入る。晋太郎も同じように休憩に入り、主任にもう一度頭を下げながら缶コーヒーを二本買った、その直後のこと・・・
病院へ行くと二人はベッドに寝かされていて、映画とかドラマで見たように顔に白い布をかぶせてあった。二人とも胸を強く打ったことによる圧死だと聞いた。トラック事故にしては外傷は少なく、横たわる二人はあまりにも綺麗で、晋太郎は普段通りに話しかけた。そんな自分が何と間抜けな姿か、自身で理解しながらも晋太郎は狂の仕事が終わる時間を妻に伝え、夕飯は一緒に食べられそうだと、そう伝えた。
里菜は三十歳、晋輔は六歳だった。
その後晋太郎は職場を辞めて新しい広告会社へ勤めた。冷蔵庫の仕分けのせいだとは思わなかったが、もうこれ以上は続けられる自信がなかったのだ。家族が死んだ死の記憶が胸の中に絡みついて離れることはなかった。
不公平な話だ。それに惨めで、可笑しくて、失笑さえ誘いかねない人生話ではないかと。
さて、どこまでが自分の責任なのか、家族の死の責任はどこにあるのか、その思いは晋太郎を苦しめる。自分には全てが自分の責任だ、とそう言い聞かせていた。そうすることで自分の金庫の中に一切合切をしまっておけるのだ。自分しか鍵は持っていないのだから、確かに重いがそれでも目に見える場所にあるよりはずっとよく、他人に触れられるよりもいいと思った。だがしかし、周りの人間たちは晋太郎の責任ではないと言う。そう言われる度に本当に自分に責任がないのでは、と思うようになり、外へ飛び出した死の記憶が耳元に付きまとうのだ。
―― 喉が渇いて死にそうだ、晋太郎、お前の責任ではなく、家族はお前という人間の外で死んでいったぞ。ぺしゃんこになり、カエルのように鳴き、目を縦に見開いて、あっという間に死んじまった ――
振り払って晋太郎は虚空を睨みつけた。死の記憶はせせら笑いながらのんびりと漂っている。
「行くな!お前はしまわれていろ!」晋太郎は死の記憶を追いながら吐き出した。すると突然胸が苦しみだした。体中に激痛が走り呼吸がしにくくなる。体が震え、どっと汗が漏れだした。晋太郎は看護師を呼ぶボタンに手を伸ばしたが、咄嗟に押さずに手を引っ込めた。家族の所へ行けるかも知れない、と考えたのだ。死の記憶が窓から外へ出て行き、夜の色の中に新しい色を付ける。
晋太郎は体を無理矢理起こして、窓際へ引きずった。顔が発火したみたいに熱くなり、目からは意図しない涙が流れ出す。喉の奥からは死に瀕した人間の奇妙な叫び声が漏れだしている。窓枠に腕を絡め体を起こし、外を必死に見ると、死の記憶は今や街灯の下のベンチへと至っている。
どこへ行くんだ?お前がいなくなったら俺は責任をとれない、里菜、晋輔、お前たちのところへ行けるのか?そんな、俺は、ただの理想でしかないのか?どこへ行く・・・
晋太郎はその場に音を立てて倒れ、意識が次第に遠ざかり、身体のどこか深いところに鈍いハム音が鳴りだした。それから古いブラウン管のテレビを消したときのようにブウンと音がなって、そして消えた。
*
「百瀬さん、どうしたんですか?」看護士の中畑敬子は言った。彼女は看護学校を卒業して五年目の看護師だったが、まだ学生と見間違えるほどに幼く見えた(実際高校生にさえも見える)。敬子は少し茶けたボブの髪を頭の真後ろで一つに括っていた。先輩看護師の間宮章子は、髪を括るほどじゃない、と言ったが、敬子はこれ以上幼く見えるのが嫌で括っていた(彼女自身目指すべきナースはドラマで見た松下由樹なのだ)。
「昨日の夜倒れていたらしくてね、意識が戻らないままなんだって」と章子。
章子は鏡の中に映る自分を熱心に見やるのを怠らず、しばらくすると頷いて手を洗った(彼女は休日ともなれば大勢で連れ立って飲み屋で愚痴を言いやったり、合コンを積極的に組んで豹のような目をぎらつかせる、いわゆる“最近の若者は”と言われて逆上するタイプの人間だった)。
「そう、割と元気そうに見えましたけど」
「分からないものよ、泉先生もあまりよくないって言ってらしたからね・・・」
「そう、ですか・・・」渋い顔で敬子は同意した。
「それよりさ、百瀬さんの担当って田中君でしょ?」章子は目を輝かせた。
「えぇ」
「彼さ、彼女いるのかな・・・ねぇ知らない?」
「田中さんは、結婚していますよ。確か」
「何だ、そうなの・・・じゃあいいや」章子は敬子に向き直ると、まるで釈迦が人々を諭すように言った。「私ね、結婚している人には手を出さないの。後々面倒だし・・・それにほら、相手の奥さんのこととかお子さんのことを考えるとね。どんなにお金落ちでも同じよ。その当たりはちゃんとわきまえてるんだから。いちいち男に手を出すような軽い女じゃないわ」
敬子は章子を半ば驚いたような目で見たかったが、悟られないように隠した。それからお付き合いスマイルを章子に送り、頭の中では倒れた百瀬晋太郎のことを考えていた。百瀬は幼い子供と妻を、昔に交通事故で同時に亡くしたのだと田中から聞いていた。息子はもしも生きていれば自分より四つ年上、田中とは同じ年齢なのだという。
章子と敬子は連れだって百瀬晋太郎の病室へ向かった。医者の泉に呼ばれており、手伝うためだ。銀色のカートにはモルヒネやらフェンタニルの貼り薬やら点滴の換えやら、その他にもタオルやガーゼなどが乗せられていて、忙しなくカチャカチャと音を立てている。
「もしかしたら、今から私たち、人が死ぬところに立ち会うのかもね」
突然で、敬子は危うく前を行く章子にぶつかりそうになった。それほどに章子は急停止して言ったのだ。
「私たちの仕事ってさ、ある意味恐ろしいことよ。白衣の天使なんて言われるけれど、誰かが死んだあとにそのシーツをとっかえるのが私たちじゃない。それにそのシーツをクリーニングして、また同じように使って、変な話よね、死ぬ瞬間の人って何を考えるのかしら?私なんてこの前ね、三○二号の吉田さんが亡くなるとき、もう昔の退屈なほら話を聞かなくて済むんだって、心の中じゃ笑ってたのよ。最低じゃない?」
敬子は何も言い返せなかった。それよりもどうして突然そんな話を始めたのかと思うと、何だか悲しくなった。
「吉田さん身寄りがいなくて一人きりだったでしょう?だから最後に立ち会ったのはごく数人だけ・・・今度もそうよ。百瀬さんも身内が誰もいないんだもの。何だか可哀想ね。一人きりで最後だなんて・・・神様がいれば一人くらい救ってあげても、神様自身罰なんて当たらないでしょうけどね」章子は含み笑いをしてまた先へ進んでいった。
遅れてカートを押す敬子は、章子の、人が死ぬ瞬間をまた見るかも、と言う言葉を心で反芻していた。私は人が死ぬ瞬間が怖い、と敬子は思っている。五年看護師をやっていてもその瞬間はやはり怖い。親、妻や息子や娘、孫、友人、多くに囲まれて死ねるのは、奇妙な話だが、死ぬことへの幸せな道なのかも知れない。だがもし誰もいなかったなら、だからこそ自分たちが見送ってやらなければいけない。敬子は死の淵に立ち会ったとき、決して涙を見せず、その後で一人トイレで涙を流した。