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その一




「私の一生を捧げるべき仕事は終わった」

 病院のベッドに横たわった百瀬晋太郎は、少しだけ開いた窓から外へ向かって呟いた。誰も聞いているはずもない。私は一人きりで何故生きているのだろう?くだらない疑問は嫌いじゃあない。病院食は何故あんなに固く感じるのだろう?時間もきっちりしすぎじゃあないか?ご希望通りの時間にお持ちします・・・というのはないか。

「私はこのまま消えていくんだ」

 窓からは暖かな風が吹き込んでいて、高いところまで昇った太陽の光が僅かに差し込んでいた。窓に掛かった白いレースのカーテンが揺れる度に、憎たらしいほど爽やかに青い空が見える。聞くところによると空には色がないのだとか。空は透明で、太陽からの光が、大気中の酸素、窒素、水蒸気などの分子や、光の波長よりも小さい微粒子にぶつかり散乱すると、青のように波長の短い光が強く散乱され青く見えるのだそうだ。夕方は太陽光が斜めに通過するので、大気の厚みが増し、赤や黄などの光が散乱するのだと。何を馬鹿なことを。晋太郎は思った。小さな子供たちに教えるとんだ高等教育じゃあないか。だが、もう私に、そんな機会もありはしないな。

「空の中に消えてしまえば、誰も、何も知らないところで」晋太郎は心の中でぽつりと漏らした。

 五十四歳の晋太郎はいつからこうしてベッドに伏しているのか自分でも分からなかった。ある日突然胸が苦しくなり、世界がコーヒーに浮かべたミルクのように回り出すと、自分は死ぬんだと覚悟をした。嫌な気分ではなかった。死が恐ろしいと感じていたのは三十二のときまでで、それ以来は怖いと思ったことはなかった。だから苦しみ倒れたとき、自分はあのまま死んでいくのだと、こうして消えていくのだと思ったのだ。だが目を覚ました晋太郎は病院のベッドに寝かされており、看護師の男性が窓を開けているところだった。

 そのときの空も青く澄んでいた。

 病室は晋太郎一人ではなく、同じような病気の入院患者と二人での部屋だったが、大抵相方は老人で、長いこと近所付き合いをすることは出来なかった。つまりそれほど早くに亡くなってしまうということだ。ましてや好きな野球チームを言い合ったり、孫の自慢話を聞く仲になったものなどいない。ただ一人、将棋が好きだ、と言った老人といつか勝負しようという話を付けたが、ついこの間亡くなった。晋太郎は亡くなったことを知らなかった。亡くなる数時間前には、一人着替えて散歩に出かけていったからだ。老人が見つかったのは太陽が一番高いところに昇る午後二時のこと、屋上に植えられたプラントの隅で、朱色と黄色のチューリップの花壇に頭を突っ込んだ老人はすでに死んでいたそうだ。というわけで今も隣のベッドは開いている。

 楽しみはなかったが(ほとんど毎日同じ時間の繰り返し、退屈すぎてノイローゼになるというのは案外本気の話だ、と晋太郎は思った)、晋太郎にとってのあえての楽しみというのなら、いつ来るやも知れない小説を読むことだった。この小説は担当の看護師の田中浩二が教えてくれたもので、本当にいつ続きが読めるのか分からない、そんな小説だった。一回につき大体原稿用紙二十枚くらいでまとめられている小説を田中が印刷して持ってくる。インターネットで配布されているものらしく、登録者に突然に送られてくるのだと田中は言った。それをA4の用紙に印刷して晋太郎に渡しているのだ。次の原稿まで一週間空くこともあれば、次の日に配られることもあった。つまりは作者の気まぐれということなのだ。はたして次があるのかどうかすら分からない。

「全く持って身勝手だ」晋太郎はそんな風に愚痴った。「続きを見たくなるのが性だな」

「まぁ色々と忙しいんでしょう」田中はなだめるように言った。

 小説の内容は小人と一人の男の話で、ピグミーと呼ばれる小人族の家族と男との友情の話だった。男は乱暴な性格だが、博識で勇敢なピグミーの父親スーノに色々な話を聞いたり、母親のフローロと息子のベントを大切にするスーノの姿を見て改心していくという話だ。晋太郎はスーノの話す冒険譚が面白いと思った。ネズミにまたがって巨大な山猫から逃げたり、鷹の卵をさらって、それを羽化させて育てた話、自分たちのような小人族は世界に何億といるという話、不思議だが優しく暖かい童話のような話だと晋太郎は思った。そして息子にもこんな話を聞かせてやりたかったと胸を熱くした。

「ハラハラしてるか?んっ?そこで堪えるのがコツだ。その我慢こそが次に起こることを最高に盛り上げてくれるんだ。我慢しきれず手を出したらそこまでさ。最高潮とはならないんだな。最高潮を記せ!残せ!」

 小説の中でスーノは男に言った。ソファーの端に座り、木の実の密酒を小さな木製のカップに入れて飲みながら言ったのだ。

 ムーミンのパパも同じことを言っていたな。彼は最高の父親だ。そう思った晋太郎には目を閉じて苦笑いを浮かべるしかない。

 晋太郎は、生きることにはもう目標がない、と田中に漏らしており、それを聞いた田中はこの気まぐれ小説を薦めたのだ。晋太郎は、お節介なやつだ、となじりながらも田中に感謝してみせた。しかしそれだけで、本当の気持ちは変わらず、死ぬことに何の恐怖もなかったし、むしろ未来の暗さに恐れていた。

 そんな晋太郎は実際よりも遙かに年老いて見えた。白髪交じりの頭はボサボサで、痩せこけた目下の窪み、空ろな目、晋太郎は一見したところでは六十から七十くらいに見えた。食事はあまりとらず、散歩に出ることもない晋太郎は音楽すらも聴かない。煙草も酒も三十二のときに止めた。小説が来ない内はただ窓から外の景色と天井を見る毎日でしかないのだ。

「最後にはうってつけの場所だ」隣の開いたベッドを眺めながら晋太郎は言った。

 シーツが綺麗に張り替えてあり、そこにあるはずの死臭が上手くカモフラージュされている。ベッドの頭の所にある名前の入っていないプレートは、次から次へと新しいパンが焼かれ、プレートに「焼きたて」とか「人気商品」などと張り替えられるパン屋の姿を晋太郎に連想させた。

「えぇ、元気になってここを出なくてはね」田中は答えた。それから隣のベッドに腰掛けて言った。「病院なんかに入ってちゃあ駄目ですよ。本当にこのまま最後までいるなんて思いませんよ。だって百瀬さんまだ五十四なんですから」

 晋太郎は何も言わず天井を見ていたが、はっとすると田中に向き直り、半ば強い調子で言った。「そこから降りろ!さぁ座るな!」

 田中はびくりと体を強ばらせると、親に怒られた子供のように素早い動きで立ち上がった(でなければ猫のようだ)。

「そこは死んでいく人間たちの死臭がある。お前はまだ若いんだし、そんなものまで背中に付きまとわせる必要なんてない」晋太郎はそう言うと小さく首を振り、自分のベッドの真白なシーツをじっと見た。

「その死臭っていうのは?」田中は言った。少し笑っている。

「死臭だと?」

「そう、死臭、きっと見た目にもおかしな姿をして脅かそうとするんでしょうね」

「ふん、好きにしろ」

 声を出して田中は笑った。「おかしいったらないですよ。きっと。その死臭ってやつは行き場所を亡くしてウロウロしているんでしょうが、残念ながら病院は死ぬところなくて治すところですからね。それに入る所じゃなく出るところですよ。死臭君は、なんて言うか、場違いなんですよ」田中はポンポンと綺麗に敷かれたシーツを叩いた。「それに僕は二十九歳、百瀬さんは五十四歳なんだから・・・」ピタリと続きを言うのを止め、何か目に見えないものに気付いたように止まった。

「まだやることが山ほどあって、それをするために早く病院から出ないと駄目だと?」シーツに目を落としたまま、年老いた五十四歳は言った。

「そうです。それをやらなきゃ駄目ですよ」若い看護師は言った。「どこかに人生目標キットみたいな商品ないですかね。国がそういうのを作ったらいいんですよ。生きるっていうのが空白みたいなことにならないように、幾つもサンプルがあってそれを選んででも目標を持てたらっていう、変なやつがあったら面白いなぁ」

「お前の人生は目標と希望に満ちあふれ、美しい花が咲き誇っていると、そういうことだな」晋太郎は言った。

「えっ?」

「生きていて何になる?」

「何にって・・・楽しいことはありますよ、きっと」田中は無理矢理答えた。

「楽しいことね・・・私は家族を殺した」晋太郎は震えながら言った。「直接的にではないにしろ、いや、同じことだ。殺したも同然だ」

「・・・きっと亡くなった皆さんはそんな風に思っていませんよ」田中が首を振る。

「どうして?」

「どうしてって・・・それは、家族だから・・・」

 晋太郎は吐き出すように笑い飛ばして田中を睨みつけた。田中はその窪んだ奇妙な瞳から逃れるように目線をそらした。

「もう一度言おう。お前の未来の中には希望やら夢やらが金銀財宝のように詰まっているんだよ」慎太郎は言い、それから外に目を向け続けた。「私はそれらを亡くしてしまったんでね。夢を持たないものは屍と同じだ。私はあんたらの力でこうやって生きながらえているだけだ。屍なんだ。夢を亡くして、家族を亡くして」

 田中は何も答えることが出来ず、哀れな目の前の病人を見つめた。どうすることが自分にとっての一番の方法なのか、田中には分からなかった。

「私が息子と遊園地に行く約束をしたのは息子が死ぬ二ヶ月も前のことだ。しかも予定を引き延ばしたのは二回目だった。だが息子は、晋輔は一言も文句を言わなかった。文句を言うような子ではなかったんだ。実際自分の息子にしては出来すぎだと、そう思うこともあった。それは妻のお陰さ。可哀想に、息子は遊園地に、あんなに楽しい場所に一度も行くことなくこの世を去ったんだ。七歳の誕生日はあと三ヶ月後に迫っていた」晋太郎は田中の目を見た。それから何も言わずじっと見続け、ぽつんと言った。「まだ六歳だった」

 目をぱちくりさせながら田中は言うべき言葉を模索しているようだった。

 強い風が吹いてシーツが勢いよく舞い上がった。二人はその様子を見て、その向こうに見える空を眺めた。二人は沈黙した。

「僕には何も言えません」田中が始めた。

「いや、結構。これは私の責任なんだから、すまないな」

「家族を愛しているんですね」

「当たり前だ。家族は私にとっての全てだった。私の生涯を賭しての仕事は家族を守ること・・・だった」

「きっと幸せでしたよ」田中はにこりと笑った。「奥さんも、息子さんも」

「言わんでくれ、そんな風には、逆に辛くなる。誰が何と言おうと、殺したのは、私だ。私は家族を愛していいるのに・・・だが、もういないんだ」晋太郎は静かに言った。






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