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参戦編

 ポーランドが消滅した後問題になったのはポーランドに存在するフィアットの工場を始めとする資産の損失補填であった。


 ドイツはポーランド国内のディーゼルエンジンの製造ラインを引き渡し、DB601のライセンス料を一部返還。


 ソ連は損害額相当のニッケルを提供する事で決着した。


 11月、イタリア初の四発機P.108が初飛行。


 優秀さが認められ、生産が急がれた。


 同月ポーランド戦役から支援戦車の必要性を認めたムッソリーニは重戦車及び自走砲の開発を指示。


 最初期の案は多砲塔戦車だったが時代遅れと一蹴され、翌年に1906年に採用した27口径75㍉砲を搭載した20〜25t級戦車として開発を進められた。


 エンジンは日本の統制型エンジンが過給器付きで300馬力を発揮した為、これ以上伸び代はないが使用する事に決定。


 自走砲はM11の車体に山砲を榴弾砲に改造した18口径75㍉砲を搭載する事で解決を図った。


 M11は採用されたばかりのAB39装甲車に主砲の32口径47㍉砲を搭載して首無し状態になっていた為、自走砲に用いるには好都合だったのである。


 機械室前面も取り払い榴弾砲を一枚の45㍉装甲の戦闘室を設けて車載。


 砲弾を40発搭載しセモヴェンテM35と名付けられた。


 そんな中ドイツが西方電撃作戦を発動。


 ドイツは皇帝の隠遁しているオランダや、夫婦仲は良好ではないとはいえ友邦王室の結婚相手の実家が治めるベルギーを無視してアルデンヌの森から侵入したが、ベネルクス三国内からの英仏による攻撃を理由に侵攻。


 ファシズムに批判的でベルギーからイタリアに嫁いできたマリーア王妃は戦争阻止に奔走したが、ミュンヘン会談や開戦直前の交渉が無に帰した事からイタリアの動きは鈍く、反独感情という点では濃淡こそあれ一致していたムッソリーニが対仏参戦を決めた後は断絶は不可避だった。


 6月10日イタリアがフランスに宣戦布告。


 参戦時イタリアは過半数を超えるM11を中心に二千両以上の戦車を保有していた。


 他に上記のM35自走砲が25両戦力化されておりトラックに車載した簡易自走砲も1800両あったが、スペイン内戦の戦訓から後方支援に充てられた。


 ただフランスも戦訓を反映していたようで、H38以降の戦車は53口径の47㍉砲を搭載していた。


 それ以前の物は前大戦に登場したFT軽戦車と同じ37㍉砲搭載型を除き、火力が同等だが鋳鋼製で圧延鋼より防御力が劣り、無線機の搭載や適切な運用がされていなかった事。


 全般的に戦意、練度、速度が低かった為38以降の新型とシャールB1、ソミュアS35以外には主力のM11でも有利に戦う事が出来た。


 夏、ドイツからマチルダ、フィンランドからSMK重戦車とT-28増加装甲型の情報を得たイタリアはとりあえず10月を目標に試作一号車を完成させた。


 完成した一号車は45㍉装甲、溶接を全面的に取り入れた事で鋲接と比較して15%軽くなり19.6tと軽く纏まったが、32口径75㍉野砲を搭載した二号車以降は50㍉、45°の傾斜をもつ優秀な防護性能を持ちながら完成は翌年に持ち越された。


 直近の脅威であるマチルダをアウトレンジする為、量産された中で最大の車格を持つM15に90㍉高射砲を搭載する試験に人手を取られたのである。

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